Polizei räumt Favelabesetzung auf dem Messeplatz

第44回アート・バーゼルにおいて展示された川俣正のインスタレーションの占拠と、その排除の模様。川俣正のインスタレーションは南米の貧民街のバラックをコンセプトとした作品であったらしい。この作品への批判として自分たちでバラックを建てて、占拠を行っていた若者達が暴力で排除されていく。他の作品ならまだしも、この状況自体がよく出来た皮肉になっている。現代美術における社会性の限界が露呈した一例として記憶されていいだろう。

アート・バーゼル、川俣正の作品が刺激
Occupied VOIDCHICKEN(現場で見ておられた方のブログ。)
Video: Gewaltsame Polizeiräumung am Messeplatz

不毛なメモ

ネットをさまよいながらジム・オルーク 6Daysのレビューや感想を読みあさり、ライブの模様を想像するという不毛な時間をおくる。以下、ツイッターやフェイスブックのいろんな情報の断片を統合した自分用メモ。

2日目
・一曲目、『水のない海』。ドローンが流れるなか、演奏者たちが客席を移動しながら鈴などを鳴らす。演奏に合わせて飛行機が着陸(?)する映像がループで流される。(←多分ジム・オルーク本人制作の映像作品だと思う)
・二曲目、『エスター叔母』。粗い網点のおばさんの写真をOHPで投影。その網点を図形楽譜として演奏者が読み解く。
・三曲目、初演作品。PCからドローンを出力し、そのサウンドをベースとして、ストリングスの演奏を重ねる。

3日目
・一曲目、ミニマルに繰り返されるカントリーブルースっぽいアコギに、各楽器の演奏が加わってゆき、長い時間をかけてバンド演奏になってゆく。(←『Bad Timing』!)
・二曲目、ドローンのトラックに重ね合わせたアコギの演奏。最後にもとに戻る。(←『Happy Days』!)

4日目
・新プロジェクト、ビッグバンドとテープ。PCからあらかじめ用意されたトラックを出力し、そのサウンドの上で指示を出して演奏(即興?)をコントロールする。第二セットは熱いフリージャス。

5日目
・ジャズトリオ、オルークがギターを担当。Gatewayの「Back-Woods Song」をカバーしたらしい。ジャムバンドっぽかったらしい。(←想像しやすい)
・カフカ鼾、オルークがEMSを担当。ジャーマンロック寄りのインプロ。(←これも想像しやすい)

6日目
・『ユリイカ』『インシグニフィカンス』を中心としたの歌もの。(←締めはポップス路線)

ここまで自分用メモを書いて、自分がいまやってる行為の空しさを認識して泣けてきたね。全部空想です。しかし、様々なレビューや感想を読んでいると、この6Daysにおいてジム・オルークは、自分が取り組んできた音楽形式を全て披露したという印象を受ける。インプロ/電子音楽・テープ音楽/ドローン/カントリーブルース/フリージャズ/歌もの…。これらは個々の優劣ではなくて、ジム・オルークが取り組んできた形式的テーマとして、並列化して、総体的に聴き取られるべきではないかと思う。だからこそ、これはやっぱり全日程DVDにしてリリースすべきだろう。10万円くらいまでならオーサリング+プレス費カンパするよ(本気)。

ジム・オルーク 6Days「80年代:カセットテープ時代」

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スーパーデラックスで6月17日に開催された、「ジム・オルーク6Days」初日を観に行った。仕事の関係もあって、私が観に行くことが出来たのはこの日のみである。この日の演目は「80年代:カセットテープ時代」ということで、第一セットが80年代テーブルトップギター(ソロ)、第二セットが80年代エレクトロニクス(ソロ)と告知されていた。これは即ち、カセットテープやレコードを通してしか聴けない最初期のジム・オルークの音楽を、この目と耳で確認できるということである。

また、6Daysは他の日の演目もかなり興味深いものである。特に2日目の「大学時代の作曲」と、3日目「Happy Bad Timing Days」が凄い。2日目の弦楽四重奏&発振器によるドローン作品の演奏なんて、この機会を逃したら観ることが出来ないだろう(私は見逃す訳だが…)。「ジム・オルーク6Days」の演目については以下に転載しておく。

1日目/80年代:カセットテープ時代
第一セット:80年代テーブルトップギター(ソロ)
第ニセット:80年代エレクトロニクス(ソロ)

2日目/大学時代の作曲
第一セット:弦楽四重奏&発振器【世界初演】メンバー:ジム・オルーク、波多野敦子 (バイオリン)、千葉広樹 (バイオリン)、手島絵里子(ヴィオラ)、関口将史(チェロ)
第二セット:エスター叔母 メンバー:ジム・オルーク、石橋英子、U-zhaan、山本達久、アンドモア
第三セット:水のない海 メンバー:ジム・オルーク、U-zhaan、山本達久、アンドモア

3日目/Happy Bad Timing Days 「バッド・タイミング」と「ハッピー・デイズ」の混合ライブ
メンバー:ジム・オルーク、石橋英子 (p)、須藤俊明 (b)、山本達久 (ds)

4日目/ビッグバンドとテープ
メンバー:ジム・オルーク、坂田明、梅津和時、類家心平、高岡大祐、高橋保行、勝井祐二、トッド・ニコルソン、山本達久

5日目/未来に向けて:その一
ジャズトリオ メンバー:ジム・オルーク、千葉広樹、山本達久
カフカ鼾 メンバー:ジム・オルーク、石橋英子、山本達久

6日目/未来に向けて:その二
新旧の曲演奏 メンバー:ジム・オルーク、アンドモア!

レビューを書く前に、自分のジム観を少しはっきりさせておきたい。15年前ならまだしも、今やジム・オルークのことを“シカゴ○○派”とか呼称する人もいないと思う。それはジム・オルークが1人の音楽家として捉え直されたことを意味する。ポップな歌ものや、美しいドローンやインプロを聴かせる音楽家として。これはもちろん良いことだし、本人もそう望んでいるのではないかと思う。だが、私はその一方でこう考えている——ジム・オルークとは、あらゆる音楽の形式が試され飽和状態になり、真に実験的な音楽が存在し得なくなった現在において、それでも過去にあった多様な音楽の形式と歴史を辿りながら、音楽の更新を模索し続ける音楽家なのではないかと。この模索とは、過去の音楽形式を反復するという意味において典型化されたミュージシャン像を演じながらも、密かにそこから逸脱する契機を探し続けるという、まるで寓話化された苦行のような試みであもる。しかし、この寓話的な模索の内にしか今日的な芸術の前衛が存在できないことを、彼は身を以て示している…などと、まあ他人の勝手な意味付けですが、そのように考えています。多くの音楽を知った上で、このような困難を抱えながら制作することそれ自体に耐え続ける音楽家は滅多にいない。単純に綺麗な音楽を作る音楽家を持ち上げているのではない訳だ。そんな風にジム・オルークを勝手に捉えている私にとって、80年代のジム・オルークがその活動のなかでどのような音楽の形式を辿っていたのか——そして、そこからの逸脱をどのようにして試みていたのか——を確認することが出来るこの日の演目は、とても興味深いものであった。

まずは第一セットとして、テーブルトップギターのソロ演奏が行われた。テーブルの上には4〜5台のエフェクターとミキサー、そしてテーブルトップギターと様々な音具が置かれている。話によると、23年間触っていなかったテーブルトップギターをわざわざリメイクして、ライブで演奏できるように準備したらしい。これは初期のギターインプロヴィゼーション作品(『Some Kind Of Pagan』(1989)など)において使用された楽器を再び使うことによる、初期のコンセプトの再演である。この演奏を観ることよって、私は『Some Kind Of Pagan』がどのようにして制作されたのか、ある程度想像することが出来た。

テーブルトップギターはネックに弦が張られて、複数のピックアップが取り付けられたボディのない簡素なもの。ここからの出力がループ機能を持ったエフェクターに送られ、これをベースとしながら即興的にサウンドが構築される。まず、オルークは弦を軽く指でタッチし、その点描的な残響音をループさせる。そこにリモコンの赤外線をピックアップに当てることによって発生させた電子的パルス音や、弦を弓で弾くことによって発生させたドローンを積み重ねてゆく(リモコンはメーカーの異なるものが3種類も使用されていた)。このようにして形成されたサウンドのレイヤーは、細やかな変化を内包しながらゆっくりと移り変わってゆく。しばらくして、オルークは発振器(?)を持ち出して、これをピックアップに近づけ、激しい電子的なノイズを発生させる。ここでテーブルトップギターは伝統的な楽器としてのギターではなく、あらゆる振動を拾うピックアップとして、純化されたかたちで捉え直される。もちろん、これをキース・ロウなどの影響下にある試みだと述べることは簡単だが、初期のオルークにとって重要な要素の一つであったヨーロッパのフリーインプロを80年代の彼がどのように咀嚼していたのか、そこがまず問われるべきだろう。そうなってくると、やはり即興のなかにある構築性というか、循環と切断を内包した編集性といったものが彼の特質のひとつとして浮かび上がる。

様々な発信器や音具によって生じた振動をピックアップによって拾い上げ、それを即興的にレイヤー化して構築する彼の手腕は見事なものであった。しかし、彼の特質であるはずの編集性は、演奏の現場において生成されたサウンドのピースしかマテリアルとして使用できないため、または即応的なエフェクト操作しか行えないために、窮屈な状態におかれているようにも見えた。そのような編集性はやはり、テープ音楽——映画のような場面転換を取ることが可能な、編集による音楽——によって十全に発揮されるといえる。

第二セットは「80年代エレクトロニクス」と題されているが、恐らく電子音を使用して制作されたテープ作品の上演であったと思われる。「あったと思われる」などと曖昧に書いてしまっているのは、その上演のあいだずっとオルークがフロアの片隅に張られたテントの中に籠っていて、何をしていたのか目視できなかったためである。会場内は暗転しており、灯りといえばオルークのテント内のライトの光のみだった。現代音楽における電子音楽・テープ音楽の上演は、薄暗い空間のなかで、観客が誰もいないステージに向き合いながらスピーカーから出てくるサウンドに聴覚を集中させるというスタイルで行われることが多いが、状況的にはこれと同じである。ただ、現代音楽における電子音楽・テープ音楽の上演では、客席の真ん中に作曲家やエンジニアがいて微妙なミキシングを行ったりするのだが、オルークはそのような状況に耐えられなかったためか、会場片隅のテントに隠って何らかの操作を行っていたようだ。

第一セットのような音楽であれば、聴取できるサウンドと、そのサウンドを発生させる行為が視覚的に結びついているので説明もしやすいが、このようなスタイルの上演では、なかなか説明がしにくい。なので、随分いい加減な説明になってしまうが、水の落ちる音や、金属容器をコンクリートに擦りつける音のような具体性を持ったサウンドと、激しい電子音や地鳴りのようなドローンが巧みに構成され、彼らしい循環と切断を内包した編集が行われていた、と述べておくに止める。また近年の現代音楽のテープ作品にみられる電子音は、音源そのままの残念なケースも散見されるのだが、さすがはノイズミュージックに対する造詣の深いオルークだけあって、その音の感触はフェティシズムを抱くようなものであったことも付け加えておきたい。初期のテープ作品である『The Ground Above Below Our Heads』(1991)の作中で使用されたマテリアルも含まれていた気がする。全体の印象としては、水の音が多用されていたために、『Disengage』(1992)を強く想起した。

この日のイベントは、若き日のオルークが取り組んでいた二つの重要なテーマ——フリーインプロヴィゼーションと電子音楽・テープ音楽——の再現を観ることができる、実に有意義なものであった。ミニマルミュージックやカントリーブルースなど、彼の音楽における重要な形式的テーマは他にも存在するが、それらは別の日に上演されるのだろう。観ることが出来なくて本当に、本当に悔しい。

「音楽やめようと思った、でも皆さんのおかげで続けています」という旨の発言をしていたオルークの困難な模索を、これからも見守りたいと思う。このレヴューを書くにあたっては、以下のインタビューを参照した。
http://www.timeout.jp/ja/tokyo/feature/7388

表象文化論学会第8回大会

恐ろしいことに、リピット水田堯氏や水戸芸の竹久侑氏といった方々とご一緒に、表象文化論学会第8回大会にて「映像のポストメディウム的条件」と題されたシンポジウムを行うことになった。このところ酸っぱい匂いのするプリントや、ノイズだらけのビデオや、ボロボロになったガリ版刷りのメモなどの資料に逃避し、耽溺していたところを叩き起こされたような感じで…。まあ自分に出来ることは、シンポジウムのテーマに供することができる映像資料を(少しばかりの歴史的注釈を付けたうえで)提示して、それを今回のテーマとなっているクラウス以降の文脈において検討してもらうことくらいだろう。このシンポジウムを機会に、実験映画やビデオアートといった実験映像に対しての、表象文化論的なポジションからの批判を拝聴できればと思います。

リピット氏は実験映画にもお詳しいので、狭い意味でのガチな実験映画談義もしたいけど、テーマと関係なくなりそうなので、それはまたの機会にとっておきます。次のプログラムの「研究発表2:ディスプレイという意識――表現の場の概念をめぐって」も、とても楽しみ。

第8回大会プログラム
日時:2013年6月29日(土)/6月30日(日)
場所:関西大学千里山キャンパス 第1学舎
参加費:会員=無料/非会員=1000円(2日間通し)
http://www.repre.org/conventions/8/

6月29日(土) 第1学舎1号館
13:00-15:30 第1学舎1号館A504教室
シンポジウム「映像のポストメディウム的条件」
パネリスト:
阪本裕文(稚内北星学園大学)
竹久侑(水戸芸術館現代美術センター)
リピット水田堯(南カリフォルニア大学)
司会:
門林岳史(関西大学)

16:00-18:00 研究発表(1日目)
研究発表1:フォネーとロゴスのあいだ――古代から近代にいたる祝祭と「声」
・personale/per-sonareの詩学――ギリシア悲劇における「声」の出現をめぐって/佐藤真理恵(京都大学)
・不在を運ぶ「声」と聖なる表象――聖史劇における異言、命名、喚問/杉山博昭(京都教育大学)
・舞台上演と典礼の間で――マラルメによる「声」の祝祭/熊谷謙介(神奈川大学)
【コメンテーター】内野儀(東京大学)
【司会】杉山博昭(京都教育大学)

研究発表2:ディスプレイという意識――表現の場の概念をめぐって
・展覧会という作品――「Fluorescent Chrysanthemum」展のディスプレイ/馬定延(東京藝術大学)
・「サイケデリック・ショー」――アンダーグラウンドの映像ディスプレイ/ジュリアン・ロス(英国リーズ大学芸術学科/明治学院大学特別研究員)
・対話するビデオ――「ビデオコミュニケーション/Do It Yourself Kit」展と日本の映像表現/齋藤理恵(早稲田大学)
【コメンテーター】松井茂(東京藝術大学)
【司会】齋藤理恵(早稲田大学)

研究発表3:Post-Medium Condition of Moving Image 1: Narratives (16:00-18:00, June 29)
・Voicing the Other: Post-medium Articulations of Sound and Image in The Arbor / Laura Sava (Xi’an Jiaotong-Liverpool University)
・Style-based Commentary on Narrative Levels in Anime / Eija Niskanen (University of Helsinki)
On Moving Grounds: Urban Space and Spiritual Materialism in Chrome Shelled Regios / Christophe Thouny (The University of Tokyo)

6月30日(日) 第1学舎3号館
10:00-12:00 研究発表(2日目午前)

研究発表4:人間とその「他者」
・ジルベール・シモンドンにおける動物と人間/宇佐美達朗(京都大学)
・庭と惑星を混同する――ジル・クレマン《地中海性気候区の庭》をめぐって/山内朋樹(関西大学)
・カント美学は異星人の夢を見るか?――サンディにおける美学的他者論について/吉松覚(日本学術振興会)
【コメンテーター】大橋完太郎(神戸女学院大学)
【司会】山内朋樹(関西大学)

研究発表5:Post-Medium Condition of Moving Image 2: Mediums (10:00-12:00, June 30)
・Intericonicity and Post-Medium Image Practices: On the Self-Invention of Online Video Art / Nina Gerlach (University of Basel)
・Pre-recorded Conversations with the Earth / James Jack (Tokyo University of the Arts)
Moving Portraits / Adam Wiseman

14:00-16:00 研究発表(2日目午後)
研究発表6:ミュージアム的世界としてのアメリカ合衆国
・ポートレートによる国家の歴史:ナショナル・ポートレート・ギャラリーの諸問題/横山佐紀(国立西洋美術館)
・展示と保存と戦争の技術的連関:第一次大戦下のアメリカ自然史博物館を例として/丸山雄生(一橋大学)
・創造論は科学か?:米国Creation Museumにおける展示の政治学と「戦術的博物館」言説/小森真樹(東京大学)
【コメンテーター】江崎聡子(青山学院女子短期大学)
【司会】小林剛(関西大学)

企画パネル:加藤有子『ブルーノ・シュルツ 目から手へ』(第4回学会賞受賞作)を読む
・阿部賢一(立教大学)
・加藤有子(東京大学)
・西成彦(立命館大学)
【司会】松浦寿夫(東京外国語大学)

16:30-18:00 第1学舎3号館AV-B教室
パフォーマンス&アーティスト・トーク
小泉明郎《Autopsychobabble #4》

Final process -movie-

Film processing from Shinkan Tamaki on Vimeo.

http://shinkantamaki.blog75.fc2.com/blog-entry-200.html
田巻真寛の新作フィルムの制作工程を記録したムービーが公開されている。どうやらカメラを使用せず、現像所におけるタイミング作業によって制作された作品のようだ。このような透き通るように滑らかな色彩変化を得るためには、偶発性が強く現れる自家現像プロセスではなくて、ラボでの制作プロセスが必要だったのだろう。これをスクリーンに映し出すとどのようなイメージが立ち現れるのか、興味深いところだ。
それにしても、このフィルムは映写機にかけてスクリーンに映し出される以前に、鮮やかな色彩の帯それ自体が、まるでひとつの完成された造形作品のようにも見える。映画とはアセテートベースのフィルムに焼き付けられた色彩の帯であるという事実を思い出す。

Hamburg Short Film Award

2013-06-10
http://festival.shortfilm.com/index.php?id=3935&L=1

牧野貴の新作『2012』が第29回ハンブルグ国際短編映画祭で審査員賞を獲得したとのこと。世界各国の映画祭を荒していくような勢いだ。

ナムジュン・パイクと電子の亡霊(ゴースト): 阿部修也さんとパイク・アベ・シンセサイザーの夕べ

日時:5 月28 日(火)18:15 – 20:30 (17:30 開場、ビデオシンセサイザーの公開チューニング)
場所:早稲田大学大隈小講堂
入場無料
主催:早稲田大学総合人文科学研究センター「イメージ文化史」部門
共催:早稲田大学文化構想学部表象・メディア論系、早稲田大学川口芸術学校
http://hyosho-media.com/news/2013/0509_post-29.php

17:30 – 開場 〈パイク・アベ・シンセサイザー〉公開チューニング 阿部修也

18:15 – 第一部 〈パイク・アベ・シンセサイザー〉を語る
「心霊写真 WS/レクチャーシリーズについて」橋本一径
「ゴーストの系譜:ファンタスマゴリアからヴァーチャルリアリティまで」草原真知子
「ナムジュン・パイクとビデオアートの身体性」齋藤理恵
「ナムジュン・パイクについて」 阿部修也 (聞き手:瀧健太郎、草原真知子)

19:30 – 第二部: 〈パイク・アベ・シンセサイザー〉実演
パイク・アベ・シンセサイザー デモンストレーション 阿部修也
パイク・アベ・シンセサイザーと現代音楽によるパフォーマンス
阿部修也+瀧健太郎(ビデオシンセサイザー) 、寒川晶子(ピアノ):ジョン・ケージ作曲「ある風景の中で」ほか

早稲田大学で行われた「ナムジュン・パイクと電子の亡霊(ゴースト)」というイベントを観に行った。これはパイク・アベ・シンセサイザーの製作者として知られるエンジニア、阿部修也氏を招いた催しである。この日はプログラムの前に、パイク・アベ・シンセサイザーの公開チューニングも行われるということだったので、そんなに混むことはないだろうと思いながらも、開場前に会場に到着するようにした。ホールに入ると、壇上では阿部氏がテレビモニターを見ながら、パイク・アベ・シンセサイザーをチューニングしていた。その脇にはビデオカメラが設置された撮影ブースが組み上げられている。このブースでリアルタイムに撮影したビデオ信号をパイク・アベ・シンセサイザーに送ることで映像に電子的変調を加えて、テレビモニターに映し出すということらしい。また、テレビモニターと同一の映像が正面の巨大スクリーンにもプロジェクションされていた。

しばらく阿部氏のチューニングの様子を見ていると、なんと観客も自由にシンセサイザーを操作してもいいとのアナウンス。観客がわらわらとステージ前に集まる。さっそく私も列に並んでシンセサイザーを触らせてもらった。コントロールパネルはDIY的な雰囲気で、ツマミの名称がハングル文字で表記されていたりもする。カタログなどで見た写真から想像していた通り、シンプルな機構を持った手作りの電子機械という印象だった。このマシンは阿部氏が再現した機体のようだが、同型のマシンは過去に複数台製作されており、韓国のナムジュン・パイク・アートセンターにも納められているそうだ。また、隣のテーブルには、生前のパイクと構想を話し合っていたが、しばらく実現されないままだったという「コスモTV」シリーズの一作、『皆既日食』が展示されていた。(古い型のブラウン管テレビモニター上に、電子的に光輪を発生させた作品。)

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定時になって、プログラムは橋本一径、草原真知子、齋藤理恵の各氏による短いレクチャーから始まった。
・橋本は、「心霊写真 WS/レクチャーシリーズについて」と題した、このレクチャーシリーズを通してのテーマについての説明をおこなう。
・草原は、「ゴーストの系譜:ファンタスマゴリアからヴァーチャルリアリティまで」と題した、映画以前の幻灯からデジタルメディアに至るまでの、メディア史的な連続性についてのレクチャーをおこなった。草原はそのなかで、映画以前において存在していたが、産業としての映画が成立するなかで失われていった要素としてインタラクティブ性を挙げる。その延長線上で、60年代に試みられた拡張映画やマルチメディアイベントのインタラクティブ性について言及し、そのような試みの当事者たちが、後のコンピュータ・グラフィック創世記に関わっていたことを指摘する。
・齋藤は「ナムジュン・パイクとビデオアートの身体性」と題した、テクノロジーと身体性についてのレクチャーをおこなった。齋藤はそのなかで、自身のパイクについての研究を紹介しながら、パイクがテクノロジーの固定化に対抗して身体性を導入していたことを指摘し、高く評価していた。

ここで草原と齋藤が指摘しているインタラクティブ性や身体性といったものは、結局のところ身体的な次元での不確定性という枠組みにおいて共通するコンセプトであるといえる。これは今回のイベントに関わっている瀧健太郎周辺の作家らの取り組みにも共振するものである。それは、私たちを包囲し、高度化してゆくコントロールされたテクノロジーのなかで、芸術家あるいはユーザーが、如何にしてコントロールを乗り越えてテクノロジーにアクセスし、それを自治的に再編してゆくのかという問題であると思う。
(ただ、私見として述べておくと、近年の初期ビデオアートへの再評価は、「フィルム(実験映画・拡張映画)→ビデオアート→メディアアート」という映像メディア史的な視座から行われているといえるが、それ(メディア史的要因)はパラメータの一つに過ぎないという気もしている。その視座では浮かび上がってこない問題も一方で存在している。)

続いては、瀧・草原を聞き手とした阿部氏のトークが行われ、パイクと出会って、当時エンジニアとして勤めていたTBSを辞めて、シンセサイザーを製作した時期の苦労話などが語られた。このトークのなかでは様々な面白いエピソードが出てきたのだが、「TBSではノイズのない映像を作る仕事をしていたのに、なぜ逆といえる方向に進んだのか?」という草原の質問に対して、「予算のかかる割には成果の上がらない技術の仕事に飽きてきたから」と返す阿部氏のユーモラスな応答が印象的だった。

その後、阿部氏による解説を交えたパイク・アベ・シンセサイザーのデモンストレーションとなった。はっきりとその機構を理解することはできなかったのだが、パイク・アベ・シンセサイザーは、モノクロのビデオ信号にR/G/Bのカラーをつけて、各チャンネルの信号を重ね合わせることによって映像を変調するという仕組みのようである。チャンネル数は7つあり、発振器の周波数を変えることで画面上に生成されるパターンは変化するのだが、「このようなパターンを生み出す周波数は非常にシビアである。デジタルの発振器は細かい周波数を正確に出すことができるが、周波数を滑らかに変化させることが出来ないので、やっぱり自分で改造しないといけない」という主旨の阿部氏の説明が興味深かった。また、変調された信号は出力レベルが極端に高いので、昔パイクがそれをテレビで放映した際に、テレビ局の送信機を故障させたこともあったそうだ。なので、パイク・アベ・シンセサイザーの現物を見ることによってしか、モニター上のその強烈な発色を体験することはできないという。

この日は最後に、瀧によるパフォーマンス(パイクの顔写真をコラージュする)の映像を、阿部氏が操るシンセサイザーによってリアルタイムで加工し、それに合わせて寒川晶子がケージの楽曲などをピアノ演奏するという演目が上演された。大変有意義なイベントであったと思うので、今後もこのレクチャーシリーズには期待している。