伊丹万作「戦争責任者の問題」

青空文庫で、伊丹万作「戦争責任者の問題」を読む。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000231/files/43873_23111.html

戦後の復興期においては、映画のみならず美術・文学などの芸術・文化領域で、戦争協力者の批判と追放が比較的早い段階において行われた。しかしその過程で、戦争と個人との関係を、批判者一人一人が自分自身の問題として捉えていたかどうかは疑問も残る。そのなかで、この伊丹万作の文章は確かに厳しい批判を自分自身に差し向けるものであったといえるが、戦後数年をおいて、いわゆる逆コースが始まる状況を事後的に踏まえると、このような批判意識は広く人々に共有されることなく、責任の所在が曖昧という、いかにも日本的な「無責任の体系」に希釈され、回収されてしまったように見える。
(文学の領域において、そのような戦争責任の問題——正確には戦後の戦争責任の問題——が再び持ち上がるのは、1956年の「文学者の戦争責任」を待つ必要がある。そして、それを受けて、記録映画の領域において松本俊夫が1957年に「作家の主体ということ—総会によせて、作家の魂によびかける」を発表することになる。)

いま読み返しても、その厳しい批判性は価値あるものだと思う。長くなるが、重要な部分を引用して貼っておく。

 つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
 このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
 それは少なくとも個人の尊厳の冒涜ぼうとく、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
 我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
 一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱せいじやくな自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。

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