生きねば、という反復

宮崎駿の『風立ちぬ』を観てきた。二郎の夢における飛行シークエンスや、軽井沢での紙飛行機のやり取りのシークエンスにおける映像表現を手がかりとして、宮崎作品における飛行というテーマを読み取ったり、あるいは絵コンテ版ラストシーンと映画版ラストシーンにおける菜穂子のセリフの反転に、宮崎作品における超越的な女性性というテーマを読み取ることは、他でもされていると思うので、ここでは原発事故以降の日本においてこの映画が作られたことの意味を、敗戦の日に思いつくままメモしておこう。

この映画を観たうえで、ずっと不思議な違和感を覚えていたのが、堀辰雄の「風立ちぬ」をベースにしたストーリーに、零戦の設計者である堀越二郎を配置したことの意味だった。ある種の昭和史として、昭和という時代を真摯に生きた人々の典型を描こうとしたというのは、解説としては明快であり納得しやすい。国家が危険な方向に舵を切り、統制が締め付けられてゆくという「行き止まりの時代」において、だからこそ人生を精一杯生きた「普通の人々」。そのような過去の人々の姿に、原発事故以降の矛盾の中で改憲案が持ち上がりつつある現代に生きる我々の姿を重ねあわせる。そして再来する「行き止まりの時代」において、我々に精一杯生きることを薦める。一見すると、これはとても教育的なメッセージである。しかし、精一杯生きた人々の姿を描くだけならば、堀辰雄というモチーフだけでも良かったはずだ。堀越二郎というモチーフは、どのような意味を持たされてここに存在しているのか。

ひとまず、堀越二郎というモチーフによって技術者の(10年間という短い)青春の熱狂が表現されていたと解釈することができる。二郎というキャラクターは、世俗的な要素が希薄な、純真な設計士として描かれている。空を飛ぶことを人類の夢とするならば、設計士である二郎はその夢を美しいものとして形にすることに奉仕する。しかし、結果的にその夢に対する純粋な熱狂が、時代の巡り合わせのなかでテクノロジーの負の側面に加担してしまうこともある。ここで零戦は、東海発電所を作り上げた技術者の、テクノロジーに対する純粋で美しい熱狂と結びつくだろう。このような、加担についての葛藤がキャラクター描写のなかに存在すればまだいいが、そのような葛藤は作中では描かれない(宮崎作品のキャラクターは、基本的に葛藤とは無縁の人間として描かれることも多いのだが)。

こうなってくると、半藤一利との対談のなかで、作家が「堀越二郎のことを描かないと、かつてのこの国のおかしさは出てこない」(半藤一利・宮崎駿『腰ぬけ愛国談義』、p164)と語るその言葉は、二郎というキャラクターに典型化された我々国民のおかしさに跳ね返ってくるように思えてくる。技術者も一般人も、人生を賭けて打ち込むべき対象が異なっているだけで、その社会に対するスタンスは基本的に同質である。自分の小さな人生を精一杯生きる中で、結果的に社会的リスクを増大させることに加担しているが、無意識に社会と自分を切り離して無謬であろうとする我々のおかしさ。「生きねば」と唱えることによる加担は、原発事故以降に生きる私たちの問題に還元される。そして恐らく私が感じた違和感の正体は、「生きねば」という言葉に含意されたこのような加担の問題について、作家がどこまで自覚的な意図を持っているのか分からないということに帰結する。戦前と原発事故以降の日本は、「生きねば」という言葉において反復しつつある。戦争という悲惨な事態に加担したものは、この国に生きた無数の小さな人生たちの、無謬な「生きねば」という思いであった。もしかすると、これは作家の意図を越えて相当に批判的な意味を持たされた映画なのかもしれない。

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