福島映像祭2013『“BETWEEN YESTERDAY & TOMORROW” Omnibus 2011-2012 for FUKUSHIMA』@ ポレポレ東中野

9月14日から20日にかけてポレポレ東中野で開催された「福島映像祭2013」を観に行った。この映像祭はNPO法人OurPlanetTVの主催、ポレポレ東中野/早稲田大学大学院政治学研究科ジャーナリズムコースの共催によるものであり、映像祭のコンセプト説明によると、その目的は「映画、テレビ番組、そして一般市民による日々の記録まで、多様な映像を通して事故以降の福島の姿、そして「福島の今」を映し出すこと」にあるとされている。

ここでは、“作家性が前面に出たドキュメンタリー作品”に特化した映画祭であることよりも、市民生活レベルでの運動として制作された作品や、マスメディアの自己検証的な作品に対して開かれた映像祭であることが目指されている。もちろん“作家性が前面に出たドキュメンタリー作品”が排除されている訳ではないが、映像祭のコンセプトは明確に市民運動的な方向、あるいは福島に関わる当事者の発言を促す方向に向けられているといえるだろう。

今回私が観た作品は、福島中央テレビも参加した国際共同制作ドキュメンタリー『Fukushima Reporters ~Keep the Cameras Rolling~』(国内未放映)と、福島中央テレビの自己検証番組としてテレビ放送された『原発水素爆発 わたしたちはどう伝えたのかⅡ』。そして前田真二郎が中心となって企画されたオムニバス映画『“BETWEEN YESTERDAY & TOMORROW” Omnibus 2011-2012 for FUKUSHIMA』である。前二者は純粋に内容的関心から観に行った訳だが、後者については、観に行った動機がやや異なる。

後者は言わば“作家性が前面に出たドキュメンタリー作品”の範疇にある作品だといえる。私は、自分が震災・原発事故以降において抱えるようになった疑問について考えるために本作を観に行った。非常時のやや雑な思考だと思うが、この疑問(作家性や芸術そのものへの懐疑)に関する思考は、今も2011年4月5日に書いたエントリーから大きく変わっていない。これを解決する思考は今も見出せていない。仮定の話、もしも自分が報道性の強いドキュメンタリーを対象にしていたならば、こんな面倒な疑問を持つこともなかっただろう。しかし作家性の強いドキュメンタリーや、一見して社会性を含まない映像に関わっている人間ならば、程度の差はあれ、二年半前にこのような作家性や芸術そのものへの懐疑に直面したはずだ。もしも全く直面していなかったとしたら、私はその精神を羨ましく思う。

これは何も「あらゆる作家は、作品のなかで震災と原発事故について何らかのスタンスを表明すべきだ」というような単純な主張ではない。いや、むしろ考えもなく飛びつくようにして震災と原発事故を題材にする作家の方が浅ましいとすら思う。作品のなかで震災と原発事故がどのようにして反映されるかは、作家それぞれの問題である。人によっては、そのようなものを作品の表層に全く存在させないケースもあるだろう。この問題においては、作家のなかで外部の圧倒的な現実がどのように意味付けられたのか、その葛藤の深さが問われているのだ。

「BETWEEN YESTERDAY & TOMORROW」そのものは、震災以前から前田が継続して取り組んでいたコンセプチュアルで即興的な映画である。それが震災後の2011年4月から、同一の指示によって多数の作家に制作を依頼するという形で展開されているらしい。特に今回の上映は、福島というテーマに合わせて、12作品がセレクトされていた。詳細は作品についての公式ウェブサイトを読んでもらいたいが、指示については以下に転載しておく。

・下記のプロセスで映像と音声を収録してください
 1日目 明日撮影する場所とそこに行く理由について話す(録音)
 2日目 現地で撮影する
 3日目 昨日の出来事について話す(録音) 
・1日目と3日目に録音した音声を順番に並べてサウンドトラックを作成し、それをベースに2日目に撮影した映像を編集してください
・撮影時に同時録音された音声は自由に使用してよいですが、新たな音声は加えないでください
・作品の長さは、オープニング・クレジット5秒、エンディング・クレジット10秒を含めて
 トータル5分にしてください (クレジットは無音/クレジット以外の本編は4分45秒)
・1日目と3日目に録音する音声の長さは、無音部分を含めて4分45秒以内にしてください

このような指示のもとで各作家が短い作品を制作し、オムニバス映画として上映される訳である。これは二日目に撮影されることになる現実を基軸として、作家の内部で生起した変化のプロセスを記録する試みであるといえる。このような試みが多数の作家との共同制作として展開されることで、ある時代・ある社会における個人の多様な内面を反映させたオムニバス作品が成立する。このコンセプトはよく錬られたものであると思うし、作品総体として評価している。

ただ個々の作品となると、私のなかで震災・原発事故以降に生じた疑問(作家性や芸術そのものへの懐疑)に答えてくれるような作品はなかった。全体の傾向としては、個人の生活における小さな日常性の擁護に傾いた作風が多かったのだが、それは私が抱えている疑問への回答にはなり得ず、前提がそもそも異なっていると思えた。そんな中で強く印象に残った作品があるとすれば、それは池田泰教の二つの作品だった。この二つの作品では、日常性の擁護よりも先に、答えの出ない異様な現実に直面した際の困惑が、そのまま記録されている。池田はこの二つの作品のなかで、ある種の失語状態に陥っている。ネットで公開されているので、実際に作品を観てもらえばいいだろう。「A Quiet Day」では結果として自分で語ることなく機械にテキストを読み上げさせ、「Hanging in mid-air」においてもカメラは現実を凝視するのみで、作家はそれについて多くを語ろうとはしない。ここには、ある種の困難がそのままで存在している。

池田泰教「A Quiet Day」
池田泰教「Hanging in mid-air」

上映後のトークでもこの辺りの疑問について質問してみたのだが、いろいろなことを考える切っ掛けを貰ったように思うので、観に行って良かったと思う。また、トークの中で前田は震災後の社会の空気の変化について触れていたが、それを顕在化させるためにも、この試みを継続して行って欲しいと思う。

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