『柄谷行人蓮實重彦全対話』を読む

私の周囲には蓮實重彦を評価する方が何人かおられるのだが、蓮實重彦を中心としたある時期以降の映画言説を通ることなく、美術の側から実験映画にのめり込むことになった自分は、今まで彼の著作をちゃんと読んでおらず、いまいちその重要性が理解できないでいた。そこで本人が自分について語っている言葉を読めば齟齬なく理解できるだろうとの思惑から、蓮實と柄谷行人の対談集『柄谷行人蓮實重彦全対話』を読んでみた(文学については不勉強なので、何が話されているのか正直よく分からなかったが)。本書は過去に行われた柄谷との対談集で、初出は「現代思想」1977年5月号および1979年3月号、「現代詩手帖」1986年6月号、『闘争のエチカ』(1988年)、「群像」1995年1月号とのこと。すべて初めて読んだ。以下、適当な読書メモ。そのままの引用のみ括弧で括った。

・編集とは結合関係を加えたり変えたりすること。編集者が結合関係の操作を意識するようになった。これはモダンに過ぎない。しかし、読み手も書き手も編集者もポストモダンな状況にいるかのように錯覚した。(pp.119-122)
・絶対的な差異に出会うことによる思考の枠組みの変化。思考の視座が奪われたことによって運動を始める思考の契機が批評。(p.196)
・「均質的な共同体のなかでの差異というやつは、いずれにせよ相対的なものにすぎないから、ある前提をもってすれば誰もが納得する程度の違いしか生み落とさない。」(p.197)
・自分は魂の唯物論的な擁護を行ってきた。(p.235)※魂=言葉、記号、作品
・魂が露呈され、それと遭遇するのは表層(交通空間)である。イメージ化されない差異、無根拠な根拠。〈唯物論的〉とわざわざ言うのはイメージに回収されることを拒むため。(pp.254-255)
・『物語批判序説』は物語にとらわれた者を馬鹿にしているのではない。一種の擁護。共同体の内部で物語がいかに機能してきたかを批評的に再構築し、その再構築された物語をフィクションとして提示する。(p.250)
・事実や資料に基づいた19世紀フランス文学史、アメリカ映画史を書けるが、あえてそれを括弧に入れているのは、そういったものを括弧に入れることで可能となる読解の方が魅力的であるから。(pp.363-366)
・「『監督 小津安二郎』は、構造分析の実践ではないけれど、(略)他愛もない神話から小津を解放する試み」(pp.392-393)
・構造主義によって抑圧された物語を解放し、構造主義的な思考を支えている物語を批判する。物語の擁護。イメージに回収できない魂の唯物論的な顕揚。(pp.408-411)
・「流通しない記号」「イメージに翻訳されない記号」=「露呈された記号」。「反復されえないものの反復」。魂の唯物論的な擁護を反復の側から行う者としてのゴダール。(p.498)

この辺りが、彼が自身の批評について述べた部分だと言えるだろう。「魂」という言葉のセンスは脇に置いて、基本的な批評スタンスは明晰で納得できるものだと思う。p.250の発言について、柄谷は「蓮實さんにおいては、いわば審美的な態度と倫理的な態度が区別できないようにしてある」(p.251)と述べている。ここでの〈審美的な態度〉とは共同体内部の物語への審美であり、〈倫理的な態度〉とは、外部を見通す態度だといえるだろう。このように、蓮實のスタンスには複雑な含意がある。それはpp.363-366の発言からも伺える。それは単なるテーマ批評ではなくて、事実や資料に基づく視点を括弧に入れて、言葉や作品の唯物論的な擁護として、敢えて表層にとどまることだった。これは言葉や作品を安易に流通させたり翻訳させたりすることを拒み、その先で始まる思考の運動を促そうとする実践であったといえる。だからこそシネフィルとしての蓮實は、膨大な量の映画に向き合うのだろう。ここまでは何の問題もない。

しかし、このような含意が蓮實以降の映画言説にどのように受け継がれたのだろうか。蓮實が映画において行った魂(=作品)の唯物論的な擁護とは、ある種の劇映画を対象としたものに過ぎず、それは映画全体を包括的に対象とするようなものではなかった。その狭義の映画に対する唯物論的な擁護の方法は、それ以外の映画――実験映画や個人映画――には合わなかったのだといえる。それによって時代の変化とともに、1960年代の実験映画や個人映画に関わる映画運動は、日本国内においては切断されるに至る。そして、1980年代後半辺りから新しい映画雑誌が刊行されてゆくなかで、蓮實の含意を極めて薄く希釈するか、忘却したような形で、フランス映画批評を基盤とするシネフィル的教養が形成されていったのだと思う。

この対談集を読むことで、私は蓮實重彦の批評スタンスや、その後の影響をいろいろと考えることができたと思う。しかしながら、「要約というのは、共同体が容認する物語への翻訳」(p.267)という言葉によって、この読書メモも先回りして批判される訳だが…。

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