REPRE 第8回大会報告「シンポジウム:映像のポストメディウム的条件」

6月に表象文化論学会第8回大会に呼んで頂いて、門林岳史氏の司会のもと、リピット水田堯氏・竹久侑氏と、映像のポストメディウム的条件についてのシンポジウムを行ったが、その報告が表象文化論学会のニューズレター「REPRE」に掲載されていた。

とてもクリアな報告で、自分のなかで曖昧になっていた部分が整理されたように思います。下記のリンクから読めます。

第8回大会報告 シンポジウム:映像のポストメディウム的条件

追記:
とてもクリアな報告ですが、一つだけ自分の発言について冗長な説明を加えておきます。以下の部分について。

阪本氏には、このような記録性批判を含めた議論のなかにいた松本俊夫らの実践を踏まえた場合に、竹久氏が扱った現代美術における映像における記録性への回帰とも見えかねない動向はどのように映るのかが問われた。これに、阪本氏は、松本がメディアアートによる映像の使用を記録映画批判以前への回帰として批判していたことを確認した上で、他方では、現代の記録性への関心においては問題の所在が変わってきているのではないかと応答した。

このなかでの私の発言、「松本がメディアアートによる映像の使用を記録映画批判以前への回帰として批判していた」というのは、具体的には〈ビデオひろば〉やゲリラテレビジョンの運動に関わった作家たちが、社会的な出来事をそのままビデオで撮影していたことを、松本が批判していたことを指しています(「初期ビデオアート再考」カタログ所収の松本へのインタビューを参照)。松本は戦後の政治的条件のなかで、社会主義リアリズム的な文化映画や記録映画を批判することでその活動を開始しています。よって、松本にとっては、初期ビデオアーテストの記録性への自覚といったものが、自分が乗り越えてきたものと比較して、現実を既存の認識において疑いなく記録するような点において、稚拙なものとして映ったのだといえます。

しかし、私が「問題の所在が変わってきている」と言ったのは、〈ビデオひろば〉やゲリラテレビジョンの運動に関わった作家たち、そして現代の美術家たちにとっては、記録性の問題の前提が変化しているように思えたからです。彼らにとっての映像(ビデオ)の記録性とは、50−60年代の松本が取り組んできたような、社会に対峙して何かを表すような芸術のレベルにおいては捉えられておらず、社会内部で直接性を媒介する行為のレベルにおいて捉えられているのではないか、という意味です。

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