未来への弔い

参議院で特定秘密保護法案が通過した翌日、映像論に関する講義の一環として学生らと映画館に行った。今年のテーマは「映画と社会」であり、たまたま『風立ちぬ』がまだ稚内では上映していたので、ちょうど良いと考えての事である。『風立ちぬ』を題材として、戦前と震災以降の日本社会の類型性を読むことは、この講義の締めくくりとしても適当だと思った。『風立ちぬ』については、夏にこのブログでも思う事を書いた。しかし、現政権の方針により、この国の先行きが見えてきたということもあって、私のなかでも心境の変化があったのだろう、改めて観た『風立ちぬ』の印象は、夏に観たときのそれとは異なるものだった。今回は観ている途中あたりから、無性に悲しくなった——「この国は、なんて悲しい国なんだろう」と。そして、この映画はいわば避けられない次の災いに捧げられた、未来への弔いなのだと思えた(震災前に構想されていた作者の意図とは異なるだろうが)。日本人は結局、根底の部分で変わることはできなかった。次の災いは避けられないのだから、それまでの限られた時間を(二郎と菜穂子の最後の日々のように)大切に生きなさい——特定秘密保護法案採決の翌日にこの映画を観た私は、この映画をそのように意味付けた。

思えば昔、漫画版ナウシカのラストを読んだときに、私はそのストーリーの帰結に納得しながらも、すんなり受け入れる事のできないものをそこに感じていた。漫画版ナウシカの終盤のストーリーとは、世界が浄化されたときに不可避なものとして訪れる人類の滅びを、人類自らが選択するというものである。私はその絶望的な帰結に、どうして作者はそこまで諦観した地点に立てるのだろうと、恐ろしいものを感じた。希望や可能性といったものがまるでない暗黒の世界に向かって歩み出しながら、「生きねば」と唱えること。それは、まるで自殺すら許されないまま生きろという、絶望的な宣告のように聞こえて恐ろしかった。しかし、今ならその恐ろしさも少しは理解できる。

全体主義的な傾向に対する親和性。これは多分、歴史的要因とも深く結びついた日本人の精神的な特性なのだろう。震災以降の社会の動きを見ていれば、それはあまりに明白だ。なぜ日本が太平洋戦争になだれ込んでいったのか、その時代の空気感を今ならリアリティをもって想像できる。戦後はおそらく東日本大震災・原発事故によって終わらされていたのであり、新しい戦前はその時すでに始まっていたのだろう。この二年半という期間は、それを戦前として認識できなかっただけなのだ。5年後か、10年後かは知らないが、災いは形を変えてまたやってくるだろう。それは、個よりも全体性に惹き付けられてしまう日本人にとって、避けられない災いなのだと思う。そういえば劇中にて、「小さくても亀として生きられないのかな」という台詞があったが、結局日本人はそのようには生きられなかった(原発すら捨てられなかった)。だから私は「なんて悲しい国なんだろう」と感じたのである。近い将来、アジア圏における自由主義・民主主義国が実質的に一つ消え去ること(それも自分から進んで)。それはアジア圏の外側の国々から見て、どのような意味を持つだろうか。あまり悲観するつもりもないが、楽観するつもりもない。それでも私たちは、諦観を受け入れたうえで「生きねば」と呟くしかないのだろう。

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