フルクサス・イン・ジャパン2014 #1 小杉武久

フルクサス・イン・ジャパン2014 #1 小杉武久
東京都現代美術館 4月13日

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1:小杉武久 / Micro1 (1961)
大判の紙を持ったパフォーマー(浜崎健)が、観客の前に立てられた一本のマイクを紙で覆う。その後、紙がゆっくりと開いてゆく音をマイクによって拾い、それを大音量で聴くという作品。パフォーマーが思いのほか力一杯紙を押し固めているため、固められた紙はほとんど音を立てず、静寂が演奏時間の大半を占める。これによって、観客は微細な音を聞き取ろうとして、聴取に集中することになる。

2:刀根康尚 / Smooth Event (1963)
音を発する機器の上でワイシャツにアイロンをかけるという刀根の作品。今回は何故かパフォーマーが湯浅学だったため、機器としてエレキギターが選択されていた。そのため、ガサゴソとした物音とギターのフィードバック音が入り交じり、奇妙にロック的な印象の再演となっていてユニークだった。

3:小杉武久 / South e. v. #2 (1962/2014)
サウスという発音を解体的なイントネーションで発声し、その音声を録音したテープに物理的操作と電子的変調を加えることで、さらなる変形を行うという作品。アシスタントはいつも通り和泉希洋志。まず小杉が発声を担当し、録音された音声を小杉と和泉が二人掛かりで変調する。小杉は椅子に座ってエフェクター類を操作するだけでなく、読み取りヘッドにかけたオープンリールの磁気テープを両手で持ち、それをスライドさせ、音声を奇妙に歪めるなどのアクションも行った。音声詩的な変調プロセスのライブ実演といえる。

4:小杉武久 / Organic Music (1962)
一定時間のあいだに、決められた回数の呼吸を行うという作品。呼吸を模した楽器によって演奏することも出来るので、今回はアコーディオンが選択されていた。小杉は、ゆっくりと、時には素早くアコーディオンの蛇腹を伸縮させる。呼吸の回数をコントロールすることによって、無意識の生理的行為が意識化されていた。

5:小杉武久 / Catch Wave (1967/1969)
度々演奏される、小杉のキャッチウェイブ。今回は和泉と浜崎を加えた三人での演奏となる。発信器とラジオ受信器のあいだで、干渉によって発声するノイズを聴き取るというコンセプトの作品だが、その激しい電子ノイズゆえに、ノイズ音楽好きにも古くから聴かれている作品である。まず、二人は釣り竿を手にする。この竿に結ばれた糸の先に発信器が取り付けられており、小杉と和泉はそれを揺らしながら床に置かれた受信器に接近させる。すると激しい電子ノイズがランダムに発生する。さらに、机上にはターンテーブルに乗せられた発信器も準備されており、その回転による距離の変化によって発生した電子ノイズも加えられてゆく。重層化された激しいノイズがひとしきり続いたところで、次に会場前方のドアが開けられ、自転車に乗った浜崎が会場に突入してきて、場内を走り回る。この自転車の荷台には受信器、車輪には発信器が取り付けられており、走行することによって電子ノイズを発生させる仕掛けになっている(スピーカーは自転車の前かごに放り込まれている)。視覚的にも音響的にも混沌としてきたところで、浜崎は自転車で再び場外に走り去り、音量が絞られて演奏は終了する。

6:小杉武久 / Chamber Music (1962)
演奏者が袋の中に入って、身体の一部を袋の外に出したり、袋のなかで演奏を行う作品。小さな打楽器を持った高橋悠治が黒い袋に入り込んで、身体をくねらせながら、手などの体の一部位を袋の外に出したり、時折、楽器の音を立てたりする。オブジェ化された身体そのものを再認する作品であるといえる。5分ほどして袋から出てきた高橋悠治が、袋を軽く蹴飛ばしていたのが可笑しかった。

7:ジョージ・ブレクト / Incidental Music (1961)
グランドピアノに対して、演奏技術とは無関係な日常的行為が指示されるという作品。高橋悠治は鍵盤をテープで止めたり、椅子の足をピアノ本体に引っ掛けたり、ピアノ内部に小さなブロックを積んで崩したり、これらの様子をポラロイドカメラで撮影したりする。

8:小杉武久 / Film & Film #4 (1965)
今回のプログラムのなかで唯一の「映画」作品。まず、大きな木枠に貼られた白い紙がステージに設置される。そこに16mm映写機からフィルムをかけない状態のランプ光が投影され、白い紙は何も映されていないスヌケのスクリーンとなり、一種の映画的空間が生み出される。次に小杉はスクリーンの背後からはさみを突き刺し、スクリーンを貫通する穴を中央に開く。そして、そのまま四角いフレームとしての穴を切り広げてゆく。その作業は一辺ずつ徐々に進められてゆき、観客の意識のなかでスクリーンであった対象は、小杉の身体的行為に並行しながら、ただの紙に変貌してゆく。このような、映画に身体を介在させるコンセプトは拡張映画ではよく見られるもので、そこに大きな驚きはないが、映画的空間と日常空間の接続を、漸進的なひとつの連続のなかで見せる例はあまり思い出せないので、その点において興味深い。時間のなかで演奏行為を展開させる音楽家ならではの発想だといえる。最終的に木枠を残して紙が全て切り取られて、パフォーマンスは終了する。

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