フルクサス・イン・ジャパン2014 #6 Viva! フルクサス

フルクサス・イン・ジャパン2014 #6 Viva! フルクサス
東京都現代美術館 4月20日

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この日は、塩見允枝子、エリック・アンダーセン、ベン・パターソン、靉嘔が参加して、多数の作品が演奏された。作品タイトルを明示しない、総体的なイヴェントとして構成されていたように思えたので、ここでも総体的にレヴューしておこうと思う。プログラムによると、この日の作品の上演は以下の通り。

・トーマス・シュミット / Zyklus
・靉嘔 / O7 (1976)
・靉嘔 / モーニング・グローリー Morning Glory (1976)
・エメット・ウィリアムス / 5人のパフォーマーのための10のアレンジ 10 Arrangements for 5 Performers (1963)
・ジョージ・マチューナス / アドリアーノ・オリベッティに捧ぐ In Memoriam to Adriano Olivetti (1962)
・ロバート・ワッツ / C/S Trace
・ベン・ヴォーティエ / 10分 Ten Minutes (1963)
・ベン・ヴォーティエ / オーディエンス・ピース No.10 Audience Piece No.10 (1965)
・アリソン・ノールズ / ニュースペーパー・ミュージック Newspaper Music (1963)
・ラ・モンテ・ヤング / ヘンリー・フリントのための566 566 for Henty Flynt (1960) + ラ・モンテ・ヤング / コンポジション 1961 Composition 1961 (1961) + ジョージ・ブレクト / 2つの持続 Two Durations (1961)
・ディック・ヒギンズ / ベン・パターソンのためのゴング・ソング Gong Song for Ben Patterson (1963)
・塩見允枝子 / Viva! フルクサス Viva! Fluxus (2014)

会場に入ると、靉嘔の「O7」のための段ボール製の大きな仕切りが設置されており、その傍らのスペースでは、客入れの段階から、ひとりのパフォーマーが円周状に並べられた瓶の中央で、瓶に水を注いでは、次の瓶に水を移すという反復的な作業を繰り返している(「Zyklus」)。そして会場は暗転し、段ボール製の仕切りの穴から様々なものを出し入れする靉嘔のイヴェント「O7」がスタートする。煙、傘のおもちゃ、風船、チューブから出された絵の具のようなもの等々が使用された。やけにのんびりしたパフォーマンスの後、エリック・アンダーセン、ベン・パターソン、靉嘔の三人が、バケツやタオルが乗せられたテーブル前に並んで立ち、歯磨きをおこなう(「モーニング・グローリー」)。普通に歯磨きを終えて、ここまでで靉嘔の作品が終了。

続いては、エリック・アンダーセン、ベン・パターソンを含む五人のパフォーマーがステージをうろうろと徘徊し出して、各人が本を読んだり、ゴムボールで遊ぶなどの動作を、歩きながら繰り返す。そして、塩見の鳴らす鈴を合図に、一時的に動作を止めてひと言だけ言葉を発する。何度か停止と進行が繰り返されて終了(「5人のパフォーマーのための10のアレンジ」)。次に、エリック・アンダーセン、ベン・パターソン、靉嘔を含む多数のパフォーマーが横一列に並んで、長細い指示書を手にもって立つ。そしてメトロノームが鳴らされる。このメトロノームの音に合わせて、全員がタイミングを読みながら、機械的に所定の動作(帽子を上げる、足を踏み鳴らす等)を行う(「アドリアーノ・オリベッティに捧ぐ」)。

次に、ベン・パターソンとシンバルを手に持ったパフォーマーがステージに立つ。ベン・パターソンが「この作品は、本当は大砲を使うのだが、今日はおもちゃの銃を使う」という説明を行ってから、空気式のおもちゃの銃で小さなボールを打ち出す。そのボールを、シンバルを持ったパフォーマーが受け止めようと試みる(「C/S Trace」)。次に、エリック・アンダーセンがイーゼルと黒いパネルを持ってくる。そのパネルには「10分で戻ります Ben」と書かれている(「Ten Minutes」)。ここまでで、第一部が終了。そして、観客に紙飛行機を折るようにとのアナウンスがなされる。ちなみに、第一部のあいだ、ずっと続けられていた瓶に水を注ぐパフォーマンスも、ひっそりと終了。

休憩時間の途中から、観客の動作を観察して口述するアナウンスが開始される(「オーディエンス・ピース」)。そして、アナウンスが終わると同時に第二部が始まる。ステージにはエリック・アンダーセン、ベン・パターソンに、何故かクリストフ・シャルルを含んだ5人のパフォーマーが立つ。彼らは一様に新聞を手にしており、指揮台に立つ塩見の指示に従って、様々なイントネーションで新聞を読み上げる。多言語が入り交じることで、クリストフ・シャルルが参加していたことを理解する。

続いては、三つの作品の同時演奏となる。クリストフ・シャルルら4人のピアノ奏者が二人一組となって交替しつつ、組んだ腕の両肘でピアノの鍵盤を叩く演奏を反復する(「ヘンリー・フリントのための566」)。その一方で、一人のパフォーマーがステージ床に白いテープをゆっくりと引き延ばして貼付ける。そして貼付け終わった長いテープをカメラで黙々と撮影する(「コンポジション 1961」)。また、客席側では二人のパフォーマーが赤と緑のテープを引き延ばしながら、それを客席通路の肘掛けに張り巡らせる(「2つの持続」)。分散と引き延ばされた持続の併置——本日のハイライトがこの同時演奏にあったことは間違いない。

そして、今度は観客全員にステージに降りるように、とのアナウンスがなされる。そして「一方の足を出して、それに体重を移し、一方の足を出して、それに体重を移し、一方の足を出して、それに体重を移し…」とのアナウンスが繰り返され、観客全員の参加でステージを歩き回るイヴェントが行われる。かなり高い人口密度のなか、体重の移動を意識したぎこちない歩行が展開される。しばらくして、観客にその歩き方のまま客席に戻るようにとのアナウンスが行われ、このイヴェントは終了する(恐らく「ベン・パターソンのためのゴング・ソング」)。最後に、ステージに並んだ、作家やパフォーマー達に向かって、観客たちが「Viva! フルクサス」と言葉を発しながら紙飛行機を投げることで、今回のプログラムは全て終了する。


今回、目の前で多数のイヴェントを観てきて実感したことだが、塩見やベン・パターソンをはじめ多くのフルクサス作家のイヴェントにおいては、プロセスや、ある技術自体を前景化させるような方向ではなく、演劇的あるいはオペラ的な総合化の方向においてパフォーマンスを展開させる傾向があるように思えた。そこでは音楽や美術は、演劇(演出)の一部としてパフォーマンスのなかに組み込まれる(特に塩見はこの方向が強いように思う)。では、それとは反対に、非演劇的なかたちで、プロセスや、ある技術自体を摘出して、その機能を読み替えるような方向にあるのはどの作品なのかというと、小杉武久の作品などは、その全てがプロセスや技術の前景化であるといえるだろう。エリック・アンダーセンの一部作品(「Opus 1961」)や、ラ・モンテ・ヤングの「ヘンリー・フリントのための566」や「コンポジション 1961」も同様である。フルクサスのイヴェントは実に多様だが、このような方向の差異が何となく見えてきたことは、連日フルクサスのイヴェントを見続けたことの収穫のひとつといえるかもしれない。個別のイヴェントのなかにある潜在的な可能性を拾い上げることなく、一部の作品、または回顧的な場の雰囲気だけをもって、一連のプログラムを大雑把に否定的な言い方で形容するのは勿体ないことだと思えるので、なるべくしつこく細部を記録しておいた。あくまで観客目線であり、全てのスコアの内容までは把握していないので、そのことに留意して読んでもらえれば幸いです。細部に勘違いがあればご容赦を。

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