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マルセイユ3日目の朝。かなり早く目が覚めてしまったので、少し薄暗いうちからレジデンスの中庭でノートパソコンを開いて事務仕事。そして定時に皆と朝食をとった後、この日も気の向くままマルセイユを歩いて回った。

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天気が良く、からっとした地中海らしい青空。まずは昨日と同じく旧港に出て市場の様子を眺めながら、昨日見る時間がなかったセント・マリー・マジョール教会に行き、一般的な観光を楽しむ。

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次に、教会と同じく埠頭周辺の文化ゾーンに位置するプロヴァンス視点美術館(Musée Regards de Provence)に行ってみることにした。小規模な美術館だったが、南仏にまつわる近代以降の作家の絵画が多数展示されていて、フランス国内における美術の地域性の厚さを実感した。

この日はマイケルさんと一緒に昼食をとりながら明日のプレゼンテーションの内容を話し合おうという約束になっていたので、昼前にフリッシュ・ラ・ベルドメに向かって引き返す。マルセイユの中心部は小さいので、徒歩で十分に回ることができるコンパクトさである。フリッシュ・ラ・ベルドメに戻って、会場の隣にあるレストランで昼食。酒に弱いくせに昼間から調子に乗ってワインを飲みつつ、マイケルさんとミーティングを行う。途中で瀧氏やキューバの作家も加わって雑談となる。ちなみに、全くビデオアートとは関係ないけど、キューバの作家に「Santiago Álvarezってキューバ国内では有名なのか?」と質問してみると「勿論」との返答。Santiago Álvarezについてはずっと気になっているんで、いつか調べたい。

午後2:00になって、「Terr(h)istories of video arts: Greece」と題されたギリシャのビデオアート特集上映が始まるので、会場に移動する。今回、ギリシャのプログラムを組んだというStamatis Schizakisは、よくよく考えるとマルセイユに着いたときに、空港から一緒に車で移動した彼だったりする。彼とは何かと縁があって、マルセイユを発つ際にも空港でも偶然鉢合わせて、しばらく雑談をすることになる。その時、彼からひとりの女性作家を紹介されることになるのだが、彼女こそがMarianne Strapatsakisであった。彼女は今回のギリシャ特集のなかで、最も興味深い作品を見せてくれた作家である。彼女の作品については、少し詳しくレビューする。

・Marianne Strapatsakis – Battements Vitaux (1984, 13’)
本作は3つのパートに分かれた作品であり、第1のパートはテレビモニターのうえにラインを描いて、ピントをやや外しながらそれを再撮影するというもの(モニター内のフッテージとして使用されているのは戦時中のニュース映像)。第2・第3のパートは金属の表面に反射する光沢を撮影し、抽象的なイメージを映し出すというもの。いずれも絵画や彫刻といった造形芸術の延長線上でビデオが用いられている。詳しく聞いたところ、彼女はもともと彫刻を制作しており、これらの映像はその作品表面を撮影したものだという。絵画や彫刻といった造形芸術に携わる作家がビデオを手にする例はよくあるが、そのような作家の多くは身体的パフォーマンスのなかにビデオを組み込む場合が多い。むしろ彼女のように、あくまで造形的なプロセスに立脚しながら抽象的なイメージを追求する作家は珍しいといえる。カラー/サウンド(アンビエント)。ギリシャ語はお手上げなのでネット上ではあまり彼女の仕事についての情報を得られないが、オフィシャルサイトはすぐに見つかった(http://www.mariannestrapatsakis.gr/)。

その他、近年の作品で興味深かったのは以下のふたつ。


・Phillipos Kappa – A-05 (2005, 0’43)
コーヒーショップでの自爆テロの映像を素材として、爆発の瞬間(2秒間)のみを残し、その前後をカットした作品。ループでの上映が想定されているようだ。モノクロ/サウンド(フィールドレコーディング)。


・Vouvoula Skoura – The Four Stages of Cruelty (2008, 13’38)
アルトーをモチーフとした詩的なビデオ作品。割と劇映画的な演出を使用していたので、目立っていた。モノクロ/サウンド。

そのまま午後3:30からは、「Terr(h)istories of video arts France」と題されたフランスのビデオアート特集上映となる。今回は意図的に80年代のシンプルなビデオエフェクト系の作品ばかりで固めているようだったが、もちろんフランスのビデオアートはそれだけに留まらない。以下、印象に残った作品のみ簡単にレヴューしておく。

Yann Minh - 3’12’’ avant la fin
・Yann Minh – 3’12’’ avant la fin (1979, 4’)
70年代後半から80年代にかけてのサブカルチャーを感じさせるSF・サイバーパンクっぽい意匠のなか、終末や死に関わるイメージが次々に合成されてゆく。今見ると、逆にキッチュな新鮮さもある。カラー/サウンド(不気味なアンビエント・ノイズ)。

Jean-Paul Fargier - Notes d’un magnétoscopeur (n°6)
・Jean-Paul Fargier – Notes d’un magnétoscopeur (n°6) (1979, 5’51)
ソ連のブレジネフに関わる政治論争のTV番組をフッテージとして、ズームしながらモニターを再撮影し、それを構成した作品。モノクロ/サウンド(テレビ番組の同録音声)。

Patrick Prado - Angela Digitale
・Patrick Prado – Angela Digitale (1982, 6’)
老婆のスチルが、様々なビデオエフェクトによって電子的に加工され、赤ん坊の映像と合成される。ビデオエフェクトの実験とでもいった感じのシンプルな作品。カラー/サウンド(民謡)。

・Ghislaine Gohard – Petite mort (1983, 6’20)
妖艶な美女が下着を身に着け、どこかに電話をかける。電話は通話中でつながらない。最後に男性が電話に出ると爆発音が響く。この一連の動作はポップな色使いのビデオエフェクトによって、電子的に加工されている。これもビデオエフェクトの実験といった感じの作品。カラー/サウンド(電話のコール音とアナログ電子音のパルス)。

・Alain Longuet – La mort en VHS (1983, 3’30)
ヒッチコックの映画のクライマックシーンを引用し、そのうえに、ビデオテープに絡まる男の映像をクロマキー合成したユーモラスな作品。カラー/サウンド。

Hervé Nisic - Le message sidéral
・Hervé Nisic – Le message sidéral (1983, 10’22)
ノイズ混じりの不鮮明な画像が、一秒ごとにスキャンされる。そしてナレーションにて、これは宇宙から受信された不可思議なイメージであること、そして今まで秘匿されていたことが淡々と述べられる(恐らくメタ的なフィクションとして)。意味と画像の関係をズラすような虚構性と、80年代のビデオアートにみられた電子的な映像実験を結びつけた作品であり、ちょっと興味深い。モノクロ/サウンド(ナレーション)。

・Pierre Lobstein and Térésa Wennberg – Nuit blanche (1983/84, 7’26)
チープなビデオエフェクトによって電子的に加工された様々なイメージのコラージュが、単語との対比のなかで繋げられてゆく。カラー/サウンド(チープな電子音楽)。

・Patrick Prado – Maman ça fait mal (short version) (1984, 5’30)
Jac Berrocalのライブ映像と、ビデオエフェクトによって電子的に加工された、ダンスする女性の映像を合成したミュージックビデオ。これもシンプルな作品だが、Jac Berrocalの音楽が格好良いので印象に残った。カラー/サウンド。

Dominique Belloir - Scénographie d’un paysage
・Dominique Belloir – Scénographie d’un paysage (1985, 5’20)
同一のフレーミングによってフィックス撮影された海岸の映像を、ディゾルブでつなぎ合わせる。様々な季節のランドスケープが、ひとつの連続性のなかで捉えられている。カラー/サウンド(静謐な器楽曲)。

このプログラム全体としての感想だが、80年代的なビデオアートにどっぷりと浸ったので少し胸焼けがした。ある時代の最新技術に依存して作品を制作すると、十年単位の時間経過のなかで、その技術が持つ意味も大きく変わる。ある作品が技術の新旧を超えて歴史的な連続のなかで批評性を保持し続けるかどうかは、なかなか難しい問題でもある。

午後5:00からは、「The Media man presents : Fred Forest」と題された、フランスのビデオアートの先駆者、フレッド・フォレストの特集上映+トークとなる。私もフォレストは名前しか知らず、実際に作品を観るのは初めてだった。この日、参考上映された作品は次の2つである。マイケルさんが大体の内容を訳してくれたおかげで、社会学的な関心からビデオを使用した彼の思考が、ある程度は理解できた。

・Fred Forest – La cabine téléphonique (1967)
初めて民生用のポーターパックを手に入れたフォレストは、それを自宅に持ち帰って、さっそく三階の窓から撮影を行ったという。被写体となるのは、自宅前の電話ボックスを利用する人々である。ここでは、社会学的な意図によって、電話ボックスという通信ネットワークの初期的な形態を利用する人々の姿が観察・記録されている。モノクロ/サウンド。

Fred Forest - Les Gestes Avec la Participation Theorique de Vilem Flusser
・Fred Forest – Les Gestes Avec la Participation Theorique de Vilem Flusser (1972)
ヴィレム・フルッサーにインタビューを行い、その会話とジェスチャーを撮影した作品。声と身振りによるコミュニケーションの生成を、ビデオによってそのまま観察・記録する試みだといえる。モノクロ/サウンド。

午後6:00過ぎからは、ホールにて、ゴダールの『全員が練り歩いた / On s’est tous défilé』(1987)を上映してから、Pascal Lièvreという作家の『Défilé philosophique # 4』というパフォーマンス(コンセプチュアルな半裸のファッションショー)が行われた。結構戸惑うパフォーマンスだったが、夕食会前のイベントとして捉えればいいのか…。

夕食会のあとは、午後8:45から「Terr(h)istories of video arts : Switzerland」と題された、スイスのビデオアート特集上映となる。印象に残った作品は以下のとおり。

Jean Otth - Portrait de René Berger
・Jean Otth – Portrait de René Berger (1975, 15’)
パフォーマーがビデオモニターを抱えて座っており、その姿が鏡に映っている。パフォーマーの傍らには、鏡に向けてビデオカメラが立てられている。次に別の人物が、鏡に映ったパフォーマーの像を、鏡に直接ペイントするかたちで塗りつぶしてゆく。ビデオアートの典型であるクローズド・サーキットの手法に鏡を持ち込んだといえる作品。モノクロ/サウンド。

Gérald Minkoff - Palindrome 1 and 2
・Gérald Minkoff – Palindrome 1 and 2 (1971-1977, 8’07)
二台のモニターが並べられている。右のモニターにはフィードバックが仕掛けられており、モニターのなかで、奥に向かって像が連鎖するようになっている。次に、このモニターに磁石を押し当てることで、連鎖する映像を変調させる。この一連のプロセスを俯瞰的に撮影し、左のモニターのなかで、全部纏めてフィードバックさせる。カラー/サイレント。

Muda Mathis and Pipilotti Rist - Japsen
・Muda Mathis and Pipilotti Rist – Japsen (1988, 14’)
2人の女性が戯れ合う映像に、自転車に乗るショットや周囲の風景の映像などが挿入される。作品全体が幸福でカラフルなイメージに満たされている。ジェンダーや性の問題をテーマにした映像作品で知られるリストの、比較的初期の作品。カラー/サウンド(ローファイな歌)。作家のサイトで全編が見られます(http://www.mathiszwick.ch/?m=1&show=14)。

Roman Signer - Hut
・Roman Signer – Hut (1997, 4’30)
窓の下の地面に、帽子をかぶせたバケツが置かれている。このバケツには仕掛けが施されており、内容物を爆発させて、帽子を上に飛ばす事が出来る。作家は二階の窓際にスタンバイしている。そして、何度もバケツを爆発させて、この帽子をキャッチしようと試みる。カラー/サイレント。ちなみに、作者の名を確認してニヤリとした人は、私と音楽の好みが合うだろう。このレコードのジャケットを手がけた人です。

・Max Philipp Schmid – Black Milk (2002, 4’)
激しく痙攣する、デジタル・ハードコア調のトラックに合わせたPV。10年程前のモードを再確認した感じか。カラー/サウンド。作家のサイトで全編が見られます(http://maxphilippschmid.ch/black-milk/?lang_pref=en)。

これらの作品のあとに上映されたRalph Kuhne『Halbdicheiten/Splitsonalities』(2007)や、Elodie『Ersatz』 (2011)は、どちらかというとショートムービー的な表現形式の作品で、かつてのビデオアートらしさ(メディアへの批評性や、ポストモダン的な混交性)が希薄だったので割愛するが、おかげで海外におけるビデオアートの定義が、初期ビデオアート的な歴史上の文脈から拡大して、単純にビデオによって制作された映像作品を指すという、極めて曖昧かつ広範な意味合いで捉え直されていることが実感できた。そこまでビデオアートの範疇を拡大することには、メリットとデメリットの両面があると思うが、そのような雑食的なビデオアートの定義が、「メディアアート」という言葉とは別個に流通していることは、再認識しなければなるまい。(ただ、そうなると例えばジェームズ・ベニングのような、実験映画の文脈によってデジタルシネマを制作するフィルムメーカーの作品まで「ビデオアート」の範疇に含むことになってしまいかねないので、若干違和感も覚えるが。)

この日は疲れがたまっていたので、スイスのビデオアート特集の終了後、すぐにレジデンスに戻って休んだ。

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