11/9

マルセイユ3日目の朝。かなり早く目が覚めてしまったので、少し薄暗いうちからレジデンスの中庭でノートパソコンを開いて事務仕事。そして定時に皆と朝食をとった後、この日も気の向くままマルセイユを歩いて回った。

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天気が良く、からっとした地中海らしい青空。まずは昨日と同じく旧港に出て市場の様子を眺めながら、昨日見る時間がなかったセント・マリー・マジョール教会に行き、一般的な観光を楽しむ。

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次に、教会と同じく埠頭周辺の文化ゾーンに位置するプロヴァンス視点美術館(Musée Regards de Provence)に行ってみることにした。小規模な美術館だったが、南仏にまつわる近代以降の作家の絵画が多数展示されていて、フランス国内における美術の地域性の厚さを実感した。

この日はマイケルさんと一緒に昼食をとりながら明日のプレゼンテーションの内容を話し合おうという約束になっていたので、昼前にフリッシュ・ラ・ベルドメに向かって引き返す。マルセイユの中心部は小さいので、徒歩で十分に回ることができるコンパクトさである。フリッシュ・ラ・ベルドメに戻って、会場の隣にあるレストランで昼食。酒に弱いくせに昼間から調子に乗ってワインを飲みつつ、マイケルさんとミーティングを行う。途中で瀧氏やキューバの作家も加わって雑談となる。ちなみに、全くビデオアートとは関係ないけど、キューバの作家に「Santiago Álvarezってキューバ国内では有名なのか?」と質問してみると「勿論」との返答。Santiago Álvarezについてはずっと気になっているんで、いつか調べたい。

午後2:00になって、「Terr(h)istories of video arts: Greece」と題されたギリシャのビデオアート特集上映が始まるので、会場に移動する。今回、ギリシャのプログラムを組んだというStamatis Schizakisは、よくよく考えるとマルセイユに着いたときに、空港から一緒に車で移動した彼だったりする。彼とは何かと縁があって、マルセイユを発つ際にも空港でも偶然鉢合わせて、しばらく雑談をすることになる。その時、彼からひとりの女性作家を紹介されることになるのだが、彼女こそがMarianne Strapatsakisであった。彼女は今回のギリシャ特集のなかで、最も興味深い作品を見せてくれた作家である。彼女の作品については、少し詳しくレビューする。

・Marianne Strapatsakis – Battements Vitaux (1984, 13’)
本作は3つのパートに分かれた作品であり、第1のパートはテレビモニターのうえにラインを描いて、ピントをやや外しながらそれを再撮影するというもの(モニター内のフッテージとして使用されているのは戦時中のニュース映像)。第2・第3のパートは金属の表面に反射する光沢を撮影し、抽象的なイメージを映し出すというもの。いずれも絵画や彫刻といった造形芸術の延長線上でビデオが用いられている。詳しく聞いたところ、彼女はもともと彫刻を制作しており、これらの映像はその作品表面を撮影したものだという。絵画や彫刻といった造形芸術に携わる作家がビデオを手にする例はよくあるが、そのような作家の多くは身体的パフォーマンスのなかにビデオを組み込む場合が多い。むしろ彼女のように、あくまで造形的なプロセスに立脚しながら抽象的なイメージを追求する作家は珍しいといえる。カラー/サウンド(アンビエント)。ギリシャ語はお手上げなのでネット上ではあまり彼女の仕事についての情報を得られないが、オフィシャルサイトはすぐに見つかった(http://www.mariannestrapatsakis.gr/)。

その他、近年の作品で興味深かったのは以下のふたつ。


・Phillipos Kappa – A-05 (2005, 0’43)
コーヒーショップでの自爆テロの映像を素材として、爆発の瞬間(2秒間)のみを残し、その前後をカットした作品。ループでの上映が想定されているようだ。モノクロ/サウンド(フィールドレコーディング)。


・Vouvoula Skoura – The Four Stages of Cruelty (2008, 13’38)
アルトーをモチーフとした詩的なビデオ作品。割と劇映画的な演出を使用していたので、目立っていた。モノクロ/サウンド。

そのまま午後3:30からは、「Terr(h)istories of video arts France」と題されたフランスのビデオアート特集上映となる。今回は意図的に80年代のシンプルなビデオエフェクト系の作品ばかりで固めているようだったが、もちろんフランスのビデオアートはそれだけに留まらない。以下、印象に残った作品のみ簡単にレヴューしておく。

Yann Minh - 3’12’’ avant la fin
・Yann Minh – 3’12’’ avant la fin (1979, 4’)
70年代後半から80年代にかけてのサブカルチャーを感じさせるSF・サイバーパンクっぽい意匠のなか、終末や死に関わるイメージが次々に合成されてゆく。今見ると、逆にキッチュな新鮮さもある。カラー/サウンド(不気味なアンビエント・ノイズ)。

Jean-Paul Fargier - Notes d’un magnétoscopeur (n°6)
・Jean-Paul Fargier – Notes d’un magnétoscopeur (n°6) (1979, 5’51)
ソ連のブレジネフに関わる政治論争のTV番組をフッテージとして、ズームしながらモニターを再撮影し、それを構成した作品。モノクロ/サウンド(テレビ番組の同録音声)。

Patrick Prado - Angela Digitale
・Patrick Prado – Angela Digitale (1982, 6’)
老婆のスチルが、様々なビデオエフェクトによって電子的に加工され、赤ん坊の映像と合成される。ビデオエフェクトの実験とでもいった感じのシンプルな作品。カラー/サウンド(民謡)。

・Ghislaine Gohard – Petite mort (1983, 6’20)
妖艶な美女が下着を身に着け、どこかに電話をかける。電話は通話中でつながらない。最後に男性が電話に出ると爆発音が響く。この一連の動作はポップな色使いのビデオエフェクトによって、電子的に加工されている。これもビデオエフェクトの実験といった感じの作品。カラー/サウンド(電話のコール音とアナログ電子音のパルス)。

・Alain Longuet – La mort en VHS (1983, 3’30)
ヒッチコックの映画のクライマックシーンを引用し、そのうえに、ビデオテープに絡まる男の映像をクロマキー合成したユーモラスな作品。カラー/サウンド。

Hervé Nisic - Le message sidéral
・Hervé Nisic – Le message sidéral (1983, 10’22)
ノイズ混じりの不鮮明な画像が、一秒ごとにスキャンされる。そしてナレーションにて、これは宇宙から受信された不可思議なイメージであること、そして今まで秘匿されていたことが淡々と述べられる(恐らくメタ的なフィクションとして)。意味と画像の関係をズラすような虚構性と、80年代のビデオアートにみられた電子的な映像実験を結びつけた作品であり、ちょっと興味深い。モノクロ/サウンド(ナレーション)。

・Pierre Lobstein and Térésa Wennberg – Nuit blanche (1983/84, 7’26)
チープなビデオエフェクトによって電子的に加工された様々なイメージのコラージュが、単語との対比のなかで繋げられてゆく。カラー/サウンド(チープな電子音楽)。

・Patrick Prado – Maman ça fait mal (short version) (1984, 5’30)
Jac Berrocalのライブ映像と、ビデオエフェクトによって電子的に加工された、ダンスする女性の映像を合成したミュージックビデオ。これもシンプルな作品だが、Jac Berrocalの音楽が格好良いので印象に残った。カラー/サウンド。

Dominique Belloir - Scénographie d’un paysage
・Dominique Belloir – Scénographie d’un paysage (1985, 5’20)
同一のフレーミングによってフィックス撮影された海岸の映像を、ディゾルブでつなぎ合わせる。様々な季節のランドスケープが、ひとつの連続性のなかで捉えられている。カラー/サウンド(静謐な器楽曲)。

このプログラム全体としての感想だが、80年代的なビデオアートにどっぷりと浸ったので少し胸焼けがした。ある時代の最新技術に依存して作品を制作すると、十年単位の時間経過のなかで、その技術が持つ意味も大きく変わる。ある作品が技術の新旧を超えて歴史的な連続のなかで批評性を保持し続けるかどうかは、なかなか難しい問題でもある。

午後5:00からは、「The Media man presents : Fred Forest」と題された、フランスのビデオアートの先駆者、フレッド・フォレストの特集上映+トークとなる。私もフォレストは名前しか知らず、実際に作品を観るのは初めてだった。この日、参考上映された作品は次の2つである。マイケルさんが大体の内容を訳してくれたおかげで、社会学的な関心からビデオを使用した彼の思考が、ある程度は理解できた。

・Fred Forest – La cabine téléphonique (1967)
初めて民生用のポーターパックを手に入れたフォレストは、それを自宅に持ち帰って、さっそく三階の窓から撮影を行ったという。被写体となるのは、自宅前の電話ボックスを利用する人々である。ここでは、社会学的な意図によって、電話ボックスという通信ネットワークの初期的な形態を利用する人々の姿が観察・記録されている。モノクロ/サウンド。

Fred Forest - Les Gestes Avec la Participation Theorique de Vilem Flusser
・Fred Forest – Les Gestes Avec la Participation Theorique de Vilem Flusser (1972)
ヴィレム・フルッサーにインタビューを行い、その会話とジェスチャーを撮影した作品。声と身振りによるコミュニケーションの生成を、ビデオによってそのまま観察・記録する試みだといえる。モノクロ/サウンド。

午後6:00過ぎからは、ホールにて、ゴダールの『全員が練り歩いた / On s’est tous défilé』(1987)を上映してから、Pascal Lièvreという作家の『Défilé philosophique # 4』というパフォーマンス(コンセプチュアルな半裸のファッションショー)が行われた。結構戸惑うパフォーマンスだったが、夕食会前のイベントとして捉えればいいのか…。

夕食会のあとは、午後8:45から「Terr(h)istories of video arts : Switzerland」と題された、スイスのビデオアート特集上映となる。印象に残った作品は以下のとおり。

Jean Otth - Portrait de René Berger
・Jean Otth – Portrait de René Berger (1975, 15’)
パフォーマーがビデオモニターを抱えて座っており、その姿が鏡に映っている。パフォーマーの傍らには、鏡に向けてビデオカメラが立てられている。次に別の人物が、鏡に映ったパフォーマーの像を、鏡に直接ペイントするかたちで塗りつぶしてゆく。ビデオアートの典型であるクローズド・サーキットの手法に鏡を持ち込んだといえる作品。モノクロ/サウンド。

Gérald Minkoff - Palindrome 1 and 2
・Gérald Minkoff – Palindrome 1 and 2 (1971-1977, 8’07)
二台のモニターが並べられている。右のモニターにはフィードバックが仕掛けられており、モニターのなかで、奥に向かって像が連鎖するようになっている。次に、このモニターに磁石を押し当てることで、連鎖する映像を変調させる。この一連のプロセスを俯瞰的に撮影し、左のモニターのなかで、全部纏めてフィードバックさせる。カラー/サイレント。

Muda Mathis and Pipilotti Rist - Japsen
・Muda Mathis and Pipilotti Rist – Japsen (1988, 14’)
2人の女性が戯れ合う映像に、自転車に乗るショットや周囲の風景の映像などが挿入される。作品全体が幸福でカラフルなイメージに満たされている。ジェンダーや性の問題をテーマにした映像作品で知られるリストの、比較的初期の作品。カラー/サウンド(ローファイな歌)。作家のサイトで全編が見られます(http://www.mathiszwick.ch/?m=1&show=14)。

Roman Signer - Hut
・Roman Signer – Hut (1997, 4’30)
窓の下の地面に、帽子をかぶせたバケツが置かれている。このバケツには仕掛けが施されており、内容物を爆発させて、帽子を上に飛ばす事が出来る。作家は二階の窓際にスタンバイしている。そして、何度もバケツを爆発させて、この帽子をキャッチしようと試みる。カラー/サイレント。ちなみに、作者の名を確認してニヤリとした人は、私と音楽の好みが合うだろう。このレコードのジャケットを手がけた人です。

・Max Philipp Schmid – Black Milk (2002, 4’)
激しく痙攣する、デジタル・ハードコア調のトラックに合わせたPV。10年程前のモードを再確認した感じか。カラー/サウンド。作家のサイトで全編が見られます(http://maxphilippschmid.ch/black-milk/?lang_pref=en)。

これらの作品のあとに上映されたRalph Kuhne『Halbdicheiten/Splitsonalities』(2007)や、Elodie『Ersatz』 (2011)は、どちらかというとショートムービー的な表現形式の作品で、かつてのビデオアートらしさ(メディアへの批評性や、ポストモダン的な混交性)が希薄だったので割愛するが、おかげで海外におけるビデオアートの定義が、初期ビデオアート的な歴史上の文脈から拡大して、単純にビデオによって制作された映像作品を指すという、極めて曖昧かつ広範な意味合いで捉え直されていることが実感できた。そこまでビデオアートの範疇を拡大することには、メリットとデメリットの両面があると思うが、そのような雑食的なビデオアートの定義が、「メディアアート」という言葉とは別個に流通していることは、再認識しなければなるまい。(ただ、そうなると例えばジェームズ・ベニングのような、実験映画の文脈によってデジタルシネマを制作するフィルムメーカーの作品まで「ビデオアート」の範疇に含むことになってしまいかねないので、若干違和感も覚えるが。)

この日は疲れがたまっていたので、スイスのビデオアート特集の終了後、すぐにレジデンスに戻って休んだ。

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11/8 – 3

午後6:00からは「Terr(h)istories of Belgian video arts : Vidéographies」と題された、ベルギーのビデオアートの上映となる。ベルギーではVideographieという番組が1976年から1986年まで放送されていたらしく、パイクやローリー・アンダーソンの作品などが取り上げられたらしい。そして、2003年にそれを受け継いで「Vidéogr@phie(s)」がスタートしたという。このプログラムは、その「Vidéogr@phie(s)」による2010年コンペティションのセレクトと、パイクおよびローリー・アンダーソンの代表的作品の上映という内容だった。パイクは『Global Groove』、ローリー・アンダーソンは『O superman』というよく知られた作品の上映だったので、ここでのレヴューは割愛して、コンペティションのセレクトから印象に残った作品について言及する。


・Julien Brunet – The swimming pool (Belgium 2004, 2’48)
ヴィオラとトニー・ヒルのコンセプトを組み合わせたような印象の作品。静かな空間のなかで水面の虚像が揺らめきながら、非現実的な空間を作り出す。カラー/サウンド。

Hee Won Navi Lee - Phone Tapping
・Hee Won Navi Lee – Phone Tapping (Korea/France 2009, 10’20)
ソウルの夜景と、それに重ねられる電話ノイズ混じりの音声。カメラはゆっくりと周回しながら夜景を映し続ける。最後にコンピュータグラフィックスによって、夜景のなかの無数の灯火はパーティクルとなって、闇の中に霧散してゆく。カラー/サウンド。

午後6:00からは「Quebec : history of video art」と題された、ケベックのビデオアート特集。近年のビデオアーティスト10名くらいの作品と、それぞれのプレゼンテーションという内容だったので、ここでは割愛。

その後、会場は夕食会となり、マイケル・ゴールドバーグ氏といろいろな話をしながら食事をとった。ここでは親しみを込めてマイケルさんと書かせてもらおう。マイケルさんに初めてお会いしてから、もう5年くらいになると思うが、今まで詳しい身の上の話や、仕事の話は聞いたことはなかった。近頃では、仕事としてヨーロッパのテレビ局から依頼されて、東北の震災被災地や、福島の避難指示区域などで取材活動を行っているそうだ。腰にはGPS記録機能付きのガイガーカウンターをぶら下げておられた。というわけで、会話はビデオアートのことよりも、むしろ原発事故に関わるご意見などをお聞きする流れになった…。

午後9:00頃からは「Terr(h)istories of video arts : Quebec 1」と題された、ケベックの近年のビデオアート特集だったが、これも印象的な作品があまりなかったので割愛。

このあたりになってくると集中力も切れてくるのだが、もう一踏ん張りということで、午後10:30頃から遅れて始まった「Master of time : Robert Cahen」と題された、ロベール・カエン特集に臨む。カエンはフランスの作曲家・ビデオアーティストであり、DVDボックス「Robert Cahen Film + Videos 1973-2007」もリリースされている。彼はシェフェールに師事していたことから、楽曲やサウンドトラックを自分で手がけることもある。この日のプログラムは、1980年代までの比較的初期の作品で固められていた。

Robert Cahen - Trompe l’oeil
・Robert Cahen – Trompe l’oeil (1979, 6’05)
フェリーニの映画に着想を得たという作品。暗闇から浮かび上がる水面、列車の描かれた幻灯、霧のなかの人影、チェス盤、幻想的なバレエなど、「騙し絵」と題される通り、奇妙な夢の中を漂うように非現実的なイメージが合成されてゆく。器楽曲の断片をつなぎ合わせたサウンドトラックもカエンによるもの。カラー/サウンド。

Robert Cahen - L’entr’aperçu
・Robert Cahen – L’entr’apercu (1980, 9’15)
線路を走る列車や、遊園地の光景、映画のファウンドフッテージ(?)などの映像素材に、格子模様のようなビデオエフェクトをかけて、色調を大きく加工する。現実を変形して、超現実的な世界を垣間見ようとした作品とでもいえばいいのだろうか。抽象的な楽曲もカエンによるもの。カラー/サウンド。

・Robert Cahen – Nuage noir (1982, 2’30)
遊園地のアトラクションの映像素材に『L’entr’aperçu』と同様のビデオエフェクトをかけて、イメージを加工する手法の作品。音楽には、シュトラウスのクラシック曲がそのまま使われている。カラー/サウンド。

Robert Cahen - Juste le temps
・Robert Cahen – Juste le temps (1983, 12’40)
列車の窓の外を流れてゆくランドスケープを撮影し、これにビデオエフェクトをかけたうえで、旅行客の様子を撮影したショットを織り交ぜながら構成する。ここで“旅行”、もしくは“移動”という行為は抽象的なイメージに還元され、ひとつの固まりとして観客に提示される。フィールドレコーディングと器楽曲が繊細に重ね合わされたサウンドトラックのコンセプトは、ミシェル・シオンによるもの。本作は特にサウンドトラックが秀逸だと思う。カラー/サウンド。

・Robert Cahen – La danse de l’épervier (1984, 13’50)
スローモーションでダンスを撮影し、これにビデオエフェクトをかけて構成した作品。エフェクトは若干控えめ。静謐な楽曲はミシェル・シオンによるもの。カラー/サウンド。

・Robert Cahen – Montenvers and mer de glace (1987, 8’50)
アルプスを観光する人々の様子を捉えた、ジャック・タチの映画のようなコミカルな旅行記。サウンドトラックはカエンによるもの。カラー/サウンド。

朝から映像に浸りすぎて、この日はとにかく疲れた。ふらふらになりながら零時前にレジデンスに戻リ、すぐに休む。

11/8 – 2

一時間ほどでFRACを見物し終わったので、フリッシュ・ラ・ベルドメへと急ぐ。しかし、やっぱり道に迷ってしまう。凱旋門周辺で方向が分からずに、しばらくうろうろする。この辺りはイスラム系の人たちでごった返しており、フランスに居るという気が全くしない。仕方なくタクシーを停めて移動。午後2:00をちょっと回ったあたりでフリッシュ・ラ・ベルドメに戻る。

会場では、「Electronic poets: Nam June Paik and Gianni Toti」と題されたプログラムが既に始まっており、ファルジエがパイクにインタビューした『Nam June’s Ark』、およびGianni Totiの遺作『Trionfo della morte et mort sans triomphe avec danses macabres』が上映されているところだった。

Jean-Paul Fargier - L'arche de Nam June
・Jean-Paul Fargier – L’arche de Nam June (1980, 22’)
パイクに様々なテーマを投げかけて、その思考を聞いてゆく。しかし、ただのインタビューではなくて、映像にはアナログ・ビデオアート的なエフェクトやワイプが過剰にかけられ、留まることなく変化してゆく。カラー/サウンド。

・Gianni Toti – Trionfo della morte et mort sans triomphe avec danses macabres (Italy, 2002, 23’)
不勉強で全く知らなかった、イタリアの政治的な詩人・ジャーナリスト・ビデオアーティストであるGianni Totiの遺作(2007年に逝去したとのこと)。チープなCGとポエトリー・リーディングの組み合わせ。カラー/サウンド。

このあたりで、フランス人の時間感覚がだいたい分かってくるのだが、基本的にプログラムとプログラムの間に休憩はなく、アナウンスも結構アバウトだ。こちらとしても休憩でダラダラしている時間がもったいないので、サクサク上映していくのには大賛成。

続けて午後3:00から、昨日、素晴らしいビデオ・パフォーマンスを見せてくれた、イタリアのミカエル・サンバンのシングルチャンネル・ビデオアート作品のスクリーニング「A pioneer in Italian video art」が始まる。サンバンの作品は、彼のウェブサイト、およびVimeoにて、そのほとんどが視聴できるので、レヴューにリンクを貼付けておく。

Michele Sambin - Spartito per cello
・Michele Sambin – Spartito per cello (1975, 4’33)
ズームやフォーカスの操作によって抽象化された小物(ピンなど)をモニターに映し出し、その映像を図形楽譜と見なして即興的に解釈し、チェロによる演奏を行う。ここでは、視覚と聴覚の関係性が問題とされている。その幾つかのバリエーション。モノクロ/サウンド。
http://vimeo.com/31967953

Michele Sambin - Oihcceps
・Michele Sambin – Oihcceps (1976, 1’18)
作家の顔が映し出されるが、波が立てられることで、それが水面に映し出された虚像であることが分かる。そして波が収まると、水面に映る作家の顔の位置が反転している。シンプルな方法で視覚と聴覚の欺瞞性を明示してみせる作品。モノクロ/サウンド(水の流れる音)。
http://vimeo.com/31367662

Michele Sambin - Un suono a testa
・Michele Sambin – Un suono a testa (1976, 4’12)
カメラは即興的に左右にパンし、七名の男女の顔がフレーム内にとらえる。これに反応するようにして、各人物に対応した楽器が即興的に演奏される。ここでも『Spartito per cello』のコンセプトと同じく、映像を楽譜と見なした即興的解釈が試みられている。ここでも、やはり視覚と聴覚の関係性が問題とされている。モノクロ/サウンド。
http://vimeo.com/31378557

Michele Sambin - 100” Per
・Michele Sambin – 100” Per (1976, 1’48)
同期のズレたモニターに映し出される縞模様のノイズを操作した映像のようにも見えるが、実はこれはオイルヒーターの接写である。サウンドもノイズのように聴こえるが、実は声によるドローンである。『Oihcceps』と同じく視覚と聴覚の欺瞞性を逆手に取った作品だといえる。モノクロ/サウンド。
http://vimeo.com/31384253

Michele Sambin - Ascolto
・Michele Sambin – Ascolto (1977, 4’11)
プリミティヴなアナログシンセサイザーの律動のなかで、カメラはゆっくりとサングラスをかけた男にズームインしてゆく。サングラスの向こうにかすかに見える眼と、サングラスに映り込むビデオカメラの輪郭。やがて、男が涙を流していることに観客は気がつく。パフォーマーの感情の動きを観客は洞察しようとするが、視覚と聴覚の乖離は、その洞察を複雑なものとする。かなり興味深い作品だと思えた。モノクロ/サウンド(電子音)。
http://vimeo.com/31539616

Michele Sambin - Il tempo consuma

・Michele Sambin – Il tempo consuma (1979, 5’13)
上下に積み重ねられたモニターの前にビデオカメラが置かれている。そのカメラから出力された映像は、下部のモニターにディレイ装置をかませる形で入力されている。一方、上部のモニターにはディレイ装置をかませない形で入力されている。このセットの中で、パフォーマー(作者)は、モニターを背にしてカメラに向かって座り、ゆっくりと左右に体を揺らし始める。下部のモニターでディレイがスタートすると、まるで合わせ鏡のようにして、揺れる身体に、それを追いかける虚像が連なってゆく。
このビデオパフォーマンスだけでもなかなか興味深いと言えるのだが、本作は独立したリニアな時間性を持った作品としても、コンセプチュアルに構成されている。ここまでのパフォーマンス全体の俯瞰を第1パートとするならば、次は第2パートである。そこで画面はディゾルブによって、ビデオカメラからの出力映像のみに切り替わる。それによって、揺れる身体を追いかける虚像のエコーという、ある種幻覚的なイメージだけが映し出される。ここでは、モニターのフレームを撮影しない(カメラのフレームの外側におく)ことによって、対象イメージへの没入が発生している。そして第3パートは、再びディゾルブによって、パフォーマンス全体の俯瞰的フィックスショットに戻る。しかし、そこにはもうパフォーマーはいない。無人の空間でモニター内の揺れる虚像だけが反復している。
ビデオアートにはフレームの存在を前景化させることによって、映像のメディア的な構造を批判的に取り扱う作品が数多く存在するが、一つの作品の中で「フレームの存在の前景化」と「イメージへの没入」を効果的に対比させることを試み、それに成功した作品は多くはない。例えば、飯村隆彦『カメラ/モニター/フレーム』や、ジョーン・ジョナス『ヴァーティカル・ロール』もその好例だ。本作も同様の傑作として記憶されてよいだろう。モノクロ/サウンド(テンポをカウントする声にエコーがかかってゆき、最後にはドローン化する)。
http://vimeo.com/31681446

Michele Sambin - Anche le mani invecchiano
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Michele Sambin – Anche le mani invecchiano (1979, 2’07)
実体としての腕と、モニター内部の虚像としての手が、ビデオの遅延とループによって、次々とフレーム内に現れて関係し合う。しかも、『Il tempo consuma』の第2パートと同じく、フレームそのものは映し出されないので、ある種のイメージへの没入が発生する。モノクロ/サイレント。
http://vimeo.com/31685888

Michele Sambin - Autointervista
・Michele Sambin – Autointervista (1980, 1’ 22)
実体としての身体と、モニター内部の虚像としての身体の対話。『Anche le mani invecchiano』のバリエーションといえる。モノクロ/サウンド(対話の音声)。
http://vimeo.com/31687906

Michele Sambin - Sax Soprano

・Michele Sambin – Sax Soprano (1980, 5’) (extract)
本作も『Anche le mani invecchiano』のバリエーション。ビデオの遅延とループによって、実体としてのサックスと、モニター内部の虚像としての無数のサックスが即応的に合奏する(ソプラノサックスの先端部分だけが撮影されており、演奏者の身体は映し出されない)。『Looking for listening』に見られたような、聴くことについて問題への着眼は流石である。モノクロ/サウンド。
http://vimeo.com/31688120

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Michele Sambin – From left to right (1981, 2’17) (of the video installation)
ビデオインスタレーションのドキュメント。カラー/サウンド。
http://vimeo.com/54111265

・Michele Sambin – Meditazioni (1994, 13’) (extract)
六人の男性パフォーマーによる、ユーモラスなビデオ・オペラ。カラー/サウンド。この作品以降は、初期ビデオアート的な批評性に代わって、メルチメディア的な方向でのビデオの使用が試みられるようになってゆく。
http://vimeo.com/37078579

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Michele Sambin – Tre Età (2003, 5’17)
モニターのなかの老人の映像と、その映像の光によって照らされる作家。そこに若者も加わる。世代の交代をテーマにしたと思われる、静謐なビデオ・パフォーマンス。カラー/サウンド。
http://vimeo.com/35623105

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Michele Sambin – Stupor Mundi (2004, 7’49)
マルチメディア的な、バンド演奏込みのパフォーマンスの記録映像。
http://vimeo.com/37467670


・Michele Sambin – Solo (2009, 5’) (of the video installation)
ビデオインスタレーションのドキュメント。暗闇のなかに、作家の身体が映し出され、その輪郭が白いラインによって描かれる。当時、インスタレーションを見た方のレビューによると、実際のインスタレーションでは、明るい部屋のなかでプロジェクションされたようだ。カラー/サウンド。
http://vimeo.com/37273711

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Michele Sambin – Videotello (2005, 5’ 57) (extract)
カメラに向き合った複数の男性の語りによるビデオ・オペラ。カラー/サウンド。
http://vimeo.com/35632668

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Michele Sambin – Deforma (2009, 6’ 07) (of the video performance)
四名の男女が、『Solo』における白い輪郭線のコンセプトを展開させた演出のなかでパフォーマンスを行う。上演のなかでは、『Il tempo consuma』の映像も引用されるなど、集大成的な感じもするビデオパフォーマンスのドキュメント。カラー/サウンド。
http://vimeo.com/35627379

ミカエル・サンバンの膨大な仕事を短時間で集中して観たため、かなり疲れた。日本ではほとんど知られていないが、世界にはまだまだ重要なビデオ・アーティストが存在しているということを再認識。続いて「Terr(h)istories of Belgian video arts : Vidéographies」と題された、ベルギーのビデオアートの上映となる。

つづく。

11/8 – 1

マルセイユ二日目も、規則正しく8時に朝食。フェスティバルの上映プログラムはだいたい14時からなので、マルセイユ滞在中は、午前中にとにかく街を歩いていろいろ見て回りたいと考える。朝食後、シレイラ氏に道を教えてもらってから出発。まず、旧港に向かって歩き出し、サン・シャルル駅の構内を抜けて大階段に出る。駅は高台にあるので街が一望できる。やっぱり、あまり大きな街だとは思えない。建物の色が似通っているのは使用している石が同じだからだと、昨日ケイトさんに教えてもらった。
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実は初めてのフランスどころか初めてのヨーロッパなので、街並のひとつひとつが新鮮でおもしろいと感じた。路地裏を30分ほど歩いて旧港に到着。付近のレストランを含めて観光客ばかり。旧港を右に回って、まずはサン・ジャン要塞に立ち寄って、ごく一般的な観光を楽しむ。網の目のような奇抜な外観の建物は、「マルセイユ=プロヴァンス2013」に合わせて今年オープンしたばかりの欧州地中海文明博物館(MuCEM)。空中にせり出した奇妙な外観の建物は、これも今年オープンしたばかりのヴィラ・メディテラネ(Villa Méditerranée)。この埠頭周辺には他にも、今年改修されたばかりだという視点美術館(Musée Regards de Provence)や、「マルセイユ=プロヴァンス2013」のメイン会場であるらしい、巨大倉庫を改装したJ1といった文化施設が集中しており、マルセイユ市が「マルセイユ=プロヴァンス2013」を通して、芸術・文化の振興に力を入れていることがよく現れている。
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さて、この日の目的は、隈研吾の設計によって4月に開館したばかりの、FRACことPACA地域圏現代美術基金センター(Fonds Régional d’Art Contemporain Provence-Alpes-Côte d’Azur/FRAC PACA)を見物しに行くこと。FRACは複雑に配置されたガラスパネルの外観が目を引く8階建ての建築で、裏手に隣接する年季の入ったアパートとの対比がユニークだった。
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この時はジョイスから引用された「Ulysses at the Face」というタイトルにて、フロアごとに異なる作家の展示を行っていた。そのなかでも特に目立っていたのが、地下一階と二階で展示を行っていたHans Op de Beeckの『Sea of Tranquillity』だった。以下はその抜粋。

彼らは映画を美術として上映展示しており、それは超大型客船の航海についての短編劇映画だった。とはいえ、明確なストーリがあるわけでもない。老齢の船長が指揮する超大型客船のなかでは、優雅なパーティーや、整形手術、マッサージ、ダンスショー、葬儀など、様々な文化の営みが行われている。この様子を台詞無しで、静かに観察するようにして映し出してゆく。表現としては(意図的にCGっぽさを残したような)コンピュータグラフィックスを多用しており、そのフラットで無菌室のような空間は、この作品のなかに漂う神話的な虚構性を際立たせる。最後は自宅にて夫(船長)の帰りを待つ家人のシークエンスによって、映画は閉じられる。また、薄暗い展示空間内には、博物館のように超大型客船の模型、航海を描いたドローイング、衣装、小道具などが並べられており、展示空間全体で虚構性をさらに増強していた。

これは、作品としてはマシュー・バーニーと同じく、映画を映画館というフォーマットから、美術館というフォーマットに移植するタイプの見せ方である。ここで、この作家を擁するギャラリーは、美術館やコレクター向けの美術品として映画を再設定している。そのコマーシャリズムや戦略にはあまり関心がないのだが、むしろこのような再設定によって、映画館における映画とは何であったのか、あるいは美術館における実験映画・ビデオアートとは何であったのかという、様々な文脈の混乱が引き起こされていることの方が興味深いと思えた。

二階では、模型のセットを次々に組み替えて、架空の風景を次々に作り出してゆく、過去の映像作品『Staging Silence』が上映展示されていた。これは全編がネットで公開されていたので、そちらを見てもらえばいいだろう。

他のフロアでは別の作家達によって制作されたインスタレーションなどが展示されていた。

つづく。

11/7

11月7日は快晴。あたりが明るくなってからレジデンスを見渡すと、昨日はよく分からなかったが、レジデンスオーナーのシレイラ氏の生活環境の良さに驚く(経済的な意味での豊かさとはちょっと違う)。このヴィラ47は工場跡地にオープンしたギャラリー+アーティスト向けレジデンス+オーナー住居であり、すべて彼の手作り建築。彼は、もともとインテリアデザイナーだったらしく、細かいところまでセンスがいい。ひろびろとしたギャラリー空間の壁には現在展示中の作品が掛けられていて、ここがキッチンやリビングも兼ねている。離れの三部屋が我々日本勢の宿となる。ひと言でいうと、作家のアトリエに泊めてもらっている感じだ。毎朝8時にはシレイラ氏がコーヒーとクロワッサンを準備してくれる。食卓には手作りのジャムなどが並んでおり、これをスキンヘッドで厳つい風貌の彼が作っているのかと思うと、少し面白かった。
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そして、午前中からフェスティバル会場であるフリッシュ・ラ・ベルドメに徒歩で向かう。徒歩で15分くらい。マルセイユは治安が良くないとい脅かされていたので若干ビビっていたが、それ程でもないかもしれないと思いながらタギングだらけの駅沿いの路地を歩いて行くと、車上荒らしに遭った車の残骸なんかがあったりする。…まあ、大丈夫だろう。ほどなくして目的地に到着。
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フリッシュ・ラ・ベルドメは元々はタバコ工場で、それが今では文化施設として活用されているらしい。〈ザンスタン・ビデオ〉の事務所を訪れてから、上映プログラムやパフォーマンスが行われるメインホールを下見。そしてパフォーマンスの準備に取りかかる河合氏と別れて、敷地内をうろうろと見て回る。巨大な敷地内には〈ザンスタン・ビデオ〉のような非営利組織の事務所、立派な展覧会場、ホール、レストラン等があり、グラフティだらけの敷地内は一種の文化的コミューンのような雰囲気。何故かボウルまで設置された本格的なスケーターエリアまであったりする。マルセイユ市は今年、「マルセイユ・プロヴァンス2013」という芸術・文化プログラムを実施する国際的イベントを開催している。そのために市内では、近年多くの文化施設がオープンしているそうだ(次のサイトを参照のこと:http://jp.rendezvousenfrance.com/ja/discover/50942)。
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そして、2フロアを使用したビデオインスタレーションの展覧会場にも行く。ここに瀧氏のインスタレーション『Bild : Muell series』と『Living in a box』が展示されている。特に『Bild : Muell series』は、PCケースや電子機器の筐体で構成されたオブジェに、マスクをかけた映像をプロジェクションする、大掛かりで力の入った作品だった。PCケースや筐体をオブジェとして見なす手法は、シュヴィッタースのメルツを参照するものであると同時に、パイクら第一世代の作家によるビデオ彫刻を参照するものであるといえる。この点において瀧氏のこのインスタレーションは(または河合氏のアナログビデオフィードバックの試みも)、それ自体がメディアアートに統合されるデジタルメディアの高度化・均質化に反抗する、アナログ・ビデオアート的なメディア批判としての性質を持っている。また、瀧氏と同じフロアには、Taysir Batniji (Palestine)、Nisrine Boukhari (Syria)、Robert Cahen (France)、Samar El Barawy (Egypt)、Mounir Fatmi (Morocco/France)、Fred Forest (France)、Catherine Ikam and Louis Fleri (France)、Haleh Jamali (Iran)、Fernando Lancellotti (Argentina)、Kacha Legrand (France)、Pierre Lobstein (France)、Raeda Sa’adeh (Palestine)、Bill Viola (US)といった作家の作品が展示されており、エントランスにはJean-François Guiton (France)の作品も展示されている。作家の出身国を見れば明らかだが、ここには欧米圏以外、特に中近東の文脈を積極的に取り込もうとする意図が読み取れる。これは地中海に面した港町である、マルセイユという街の立地も関係しているのだろう。よって、幾つかの作品はイスラム的なモチーフを使用していて、とても新鮮であった。もう一つのフロアには、Dominik Barbier (France)による『Sun is the next tv (the apocalypse of video art)』の全室を使用した作品が展示されていた。こちらは過去の映像作品の引用と宇宙っぽい映像によって構成された、とにかく大掛かりなインスタレーションだった。
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その後、展示会場の屋上に上がって、マルセイユの街の景色を眺める。街の規模はフランス第二の都市という割には大きくないように思った。屋上には錆び付いたコンテナを利用したインスタ作品が設置されており、控えめな音量で環境音が流されていたので居心地が良くて、しばらくここで時間を潰した。
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午後7:00からオープニングがあるというので、メインホールに移動。そのまま午後7:20からの上映プログラム「Intergener’actional tributes」を観る。このプログラムはビデオアートの50周年ということを強く意識した内容で、そのビデオアート史の端緒となる作品として、ヴォルフ・フォステルの「Sun in your head」(1963)と、ナムジュン・パイクの「ローマ法王パウロ六世のニューヨーク訪問」(1965)が参照されていた。いずれも引用ありきの作品であり、この連鎖性がまたビデオアートらしいといえる。それぞれ独立した作品として捉えるには、やや引用の側面が強すぎた気もするが、今回のフェスティバルの幕開けとしては意味のあるセレクトだったといえる。

・Gustavo Kortsarz – El sol en tu cabeza (Argentina 2008, 4’)
フォステルの「Sun in your head」を引用した作品であり、テレビモニターを16mmで撮影したフォステルのオリジナルを、再びビデオに取り込んで加工(ディゾルブによるスローモーション化)・編集している。また、サウンドトラックも付け加えられていた。モノクロ/サウンド。

・Roland Baladi – Nam June’s First Tape (France 1989, 20’)
パイクの、最初のシングルチャンネルビデオ作品である「ローマ法王パウロ六世のニューヨーク訪問」へのオマージュ的作品。パイクがビデオで撮影したであろうソーホー地区を乗用車でなぞって撮影しながら、パイクおよび関係者に電話をかけて、当時の話を詳しく聞こうとするのだが、なかなかパイクに電話が繋がらなくて、最後にようやく繋がるという内容。カラー/サウンド。次のサイトで観る事ができます。http://grandcanal.free.fr/video_89_01.html

午後8:30からはホールのフロアで、イタリアのビデオアートの先駆者、ミカエル・サンバンのビデオパフォーマンスの作品を上演するプログラム「Play it again, Michele」が行われた。

・Michele Sambin – Looking for listening (Italy 1977/2013)
本作は1977年のヴェネチア・ビエンナーレで上演されたパフォーマンスの再演である。三台のモニターのうち、あらかじめ撮影された映像を再生する二台は、プレーヤー(作家本人)の演奏行為を分節化して、その部分のみを拡大して映し出している(ちなみに、モニター内で再生されるのは、1977年のヴェネチア・ビエンナーレでパフォーマンスした際に使用された映像である)。三台目のモニターはリアルタイムで、観客の眼前で実際に行われる演奏行為を映し出す。この環境のなかで、プレーヤーはモニター内で再生される自分自身の演奏を参照しながら、演奏を行う。飯村隆彦的なビデオによる身体行為の文節化および再構造化を、楽曲演奏において展開させた興味深いパフォーマンスだといえる。また、基本的にパフォーマーはチェロやサックス、声によって即興演奏を行うのだが、ユニークなことに、彼は何度も演奏を中断させてビデオカメラの側に歩み寄り、カメラを揺すったり、ズームを操作したりして、カメラを「演奏」する(この時、三台目のモニターには無人の椅子のみが映される)。これによって、メタ的構造を持っているビデオパフォーマンス全体が、その瞬間、さらにもう一段メタ的にフレーム化される。本作は、実に複雑な構造によって形成されたビデオパフォーマンスであったといえる。それでも目を瞑って耳を澄ませるならば、ここで聞かれるビデオによって分節化された行為に伴うサウンドの断片、その重なりが、一つの全体性をもって「音楽」として知覚されてしまうことに気がつく。見ることと聞くことの差異のなかで、人間の知覚が対象=作品をどのようにして認知しているのかという問題に切り込む作品であったと言えるだろう。大変興味深かった。埋め込みができないのですが、次のリンクから3チャンネル・インスタレーション版を観る事ができます。http://vimeo.com/31977893
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その後、作家・スタッフ・観客が入り交じってバイキング形式で立食パーティー。こういうのを日本でやると、どうしてもバブル臭くなって嫌なのだが、この立食パーティーは余裕があっていい感じだった。ここで、通訳を担当してくださるケイトさんを紹介される。イギリス出身で、東京での生活を経て、現在はマルセイユに居を構えておられるという方。彼女の考え方に興味を持ったので、どうして生活の場所としてマルセイユを選んだのか聞いてみる。文化的な多様性、気候の良さ、のんびりとした街の空気など、彼女が挙げる例のひとつひとつに納得する。そうして、しばらくすると、Rochus Aust によるプログラム「Vide(ô muse)icale Performance」が始まった。

・Rochus Aust – Export cars to Mars. A world vision contest (Simutaneous visions) (Germany 2013)
Rochus Austは、彼のバンドと共に世界各地の路上や展覧会にて演奏を行っているのだが、そのライブパフォーマンスを撮影した記録映像が、今回のフェスティバルではビデオインスタレーションとして展示されている(黒いボックスに組み込まれたモニターが、会場内に10個ほど並べられている)。このインスタレーションのなかを移動しながら、Rochus Aust(トランペット)とバスクラ奏者、そしてアナログシンセ奏者が即興演奏を行う。しばらく前方に座って演奏を聴いていると、手招きされ、困った事にパフォーマンスに参加させられた。以下、ボックスの上に立って、自分の足元にある記録映像のサウンドを聞くよう指示される観客たちの図(右端が私)。
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その後、パイクから贈られたという韓国の民族衣装を着たジャン=ポール・ファルジェが登場し、スピーチを始める。そしてビデオアートの誕生50年を祝うケーキが会場内に配られて、皆でそれを食べる。何というか、経済的な豊かさとは違った意味での、文化的な豊かさというか、そんなものを痛感した。
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その後も上映などが行われていたが、時差ぼけで眠かったので零時前に一人で引き上げる。戻ってみるとレジデンスは明かりが消えて真っ暗。シレイラ氏は健康的な生活パターンを持っているようだ。そっと自室に戻って、早々に休んだ。

11/6

2013年の3月にアンスティチュ・フランセで開催された「ビデオ・アートの誕生50周年 レ・ザンスタン・ビデオ」は、マルセイユのビデオアート上映組織である〈ザンスタン・ビデオ〉による、世界各国を巡回するイベントの日本版だった。この巡回は、日本のほかにも非欧米圏を中心として回っている。そしてこの11月、その総決算となるフェスティバル本体「26e Instants Vidéo 50 ans d’arts vidéo internationaux (1963-2013) 」が、マルセイユにて開催された。今回、私はここに日本のビデオアート史についてのレクチャー+抜粋上映を行うため招聘された(マイケル・ゴールドバーグ氏と共同)。作家としては、ビデオアーティストの河合政之氏と瀧健太郎氏も日本から招聘されている。ザンスタン・ビデオのスタッフからは、3月に東京でのイベントで会ったときに依頼されていたのだが、なかなか渡航準備に時間をかけられなかったうえに、プログラムの選定にも紆余曲折あって、とにかく出発直前は慌ただしかったのだが、一部の上映許諾に関わる事務連絡を瀧氏と分担して行うことで、日本を発つ直前に上映用データをネット経由で先方に送ることができた。いろいろと得るものが多い旅だったので、忘れないように、見たもの、考えたことについてメモしておきたい。

11月6日の朝、慌ただしく荷物をまとめて羽田空港に向かう。搭乗口で同じ便に乗ることになっていた河合氏と会う。河合氏やビデオアートセンター東京の瀧氏とは、イベントなどで一緒になる機会が今までに何度かあったので、ある程度、彼らのコンセプトやアプローチは理解しているつもりだったが、それでも私のなかでの理解は表面的なレベルにとどまっていたと思う。なので、この旅行のなかで、彼らの考え方やアプローチをかなり突っ込んだ部分まで聞いたり、意見交換する事ができたのは幸いだった。彼らのコンセプトやアプローチを確認することで、逆説的に曖昧だった自分の思考や役割が明確化された部分が沢山あったので、本当に感謝している。ひとまずここで河合氏とは、アムステルダムまでの11時間のフライトがあっという間に感じられるほど多岐にわたる話をした。アムステルダムのスキポール空港では5時間ほどの乗り換えだったが、空港に設置されていた奇妙なデザインチェアコーナーですぐに寝落ちした。そこからマルセイユまでのフライトでもひたすら寝たので、トータルで20時間近い移動も、あまり疲れなかった。そして現地時間の23時頃、マルセイユ・プロヴァンス空港に到着。空港まで迎えにきてくれたザンスタン・ビデオのスタッフであるコンスタンス氏と再会。そして、たまたま同時刻に到着していたギリシャの方と一緒に、私たちは彼女のワイルドな運転でマルセイユ市内に移動した。宿泊場所はヴィラ47というアーティスト向けのレジデンスの様な場所で、合宿っぽいがすこぶる快適。一足先に渡仏してインスタ設置作業を行っていた瀧氏とも再会。ひと心地ついてから寝る前にネットをしようと思ったら、さっそく迎えにきてもらった車にノートPCを忘れてきたことに気がつく。最近どうも忘れっぽい。

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フルクサス・イン・ジャパン2014 レヴュー一覧

以下、フルクサス・イン・ジャパン2014についてのレヴューを一覧としてまとめておきます。ちなみに私がよかったなあと思うのは、一日目、四日目、および最終日のラモンテ同時演奏です。

フルクサス・イン・ジャパン2014 #1 小杉武久
フルクサス・イン・ジャパン2014 #2 ミラン・ニザック
フルクサス・イン・ジャパン2014 #3 ベン・パターソン
フルクサス・イン・ジャパン2014 #4 エリック・アンダーセン
フルクサス・イン・ジャパン2014 #5 塩見允枝子
フルクサス・イン・ジャパン2014 #6 Viva! フルクサス