「われわれは〈リアル〉である 1920s -1950s プロレタリア美術運動からルポルタージュ絵画運動まで」パネルトーク

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(池田龍雄 – 炭焼き窟 1953)


どうしても地味に見えるかもしれないが、武蔵野市立吉祥寺美術館では六月末まで大変興味深い展覧会が開かれている。それが「われわれは〈リアル〉である 1920s -1950s プロレタリア美術運動からルポルタージュ絵画運動まで:記録された民衆と労働」と題された企画展である。

プロレタリア美術、そしてルポルタージュ絵画(それは戦後アヴァンギャルド芸術の一部である)、さらにはその中間に位置する翼賛的な戦争美術も、すべて社会との深い対立関係・共犯関係のなかで制作されてきたものである。この展覧会は貴重な資料をふんだんに使用しながら、その歴史的な連続性と変化を、民衆と労働の側から捉えようとした大変意欲的な展覧会である。もし今日において本展が地味に見えるとすれば、それは芸術や文化が持っていた社会批評的な力が、現在のフラットな情報環境のなかで失効したということだろう。「いや、違う。それは違うかたちで継続している」と思われる方や、東近美の「実験場 1950s」に衝撃を受けた方は是非観に行って下さい。

ところで、何故、実験的な映像を研究している(らしい)私がこのような展覧会に並々ならぬ関心を持つのかと言えば、それはやっぱり松本俊夫を経由してである。松本も、学生時代には妙義山の山村工作隊に参加している。また1950年代から1960年代初頭にかけては、記録映画の領域において、まさにルポルタージュ絵画の映画的展開といえる運動—前衛記録映画の運動—を展開していた。その実践は『安保条約』や『西陣』といった映画のなかに結実している。断言してしまうが、後年の松本による実験映画やビデオアートは、1950年代の問題の延長線上においてしか存在し得ないのだ(この辺りの詳しいことは久万美術館のカタログの文章を参照のこと)。


さて、5月24日には、この展覧会の関連イベントとして「パネルトーク:民衆的〈リアル〉美術×漫画×文学×思想」が開催された。パネリストは大変豪華であり、その内容も大変興味深いものだったので、簡単にそれぞれのパネルの内容を書き留めておく。例によって、間違いや聞き漏らしを多く含む適当なメモなので、参考程度に流しておいて下さい。

パネリスト:
足立  元(美術史家)
片倉 義夫(漫画資料室MORI)
鳥羽 耕史(早稲田大学文学学術院教授)
池上 善彦(元『現代思想』編集長)

足立元:
最初のパネリストである足立は、はじめに「美術家とは労働者ではないのか?」という導入を置いて、日本美術史を明治期より再布置してゆく。そこでは、高橋由一のモチーフから読解される左官=画家のメタファーおよび国家へと奉仕する姿勢、浅井忠の風景画にみる日本的イメージの再編、文展初期の労働者像などが例として挙げられる。そして、この諸例から「画家の労働」と「国家のための美術」という文脈が導きだされる(「画家の労働」とは、言い換えるならば労働者としての画家だろう)。次に、高村光太郎の「緑色の太陽」を手がかりとして例示し、明治末期において芸術が個人的で自由なものへと変化したことに触れる。それを経て労働運動のなかで美術が再び捉え直され、1920年代にプロレタリア美術が展開したことを説明付ける。

そして、「芸術における意味や目的」という観点から、この展覧会における三つの時代区分に応じて補助線を引く。それは、簡単にまとめると以下のようになる。
・プロレタリア美術運動:芸術が意味や目的を取り戻す
・戦争美術:芸術が再び国家に奉仕する
・ルポルタージュ絵画運動:意味や目的のあるものでありつつ、新しい表現を目指す

これによって日本美術史における、社会的に意味の「ある」ものと「ない」ものが、大まかに腑分けされることになる。すなわち「意味のあるもの:プロレタリア美術、戦争美術、ルポルタージュ絵画」と「意味のないもの:大正期の芸術至上主義、戦後アヴァンギャルド芸術」である。ただし、この両極の対応関係は決して単純なものではなく、表現と評価の次元において、多くの矛盾を孕むものであったことも指摘される(ひとつの表現=作品のなかにも、意味のあるものとないものが混在しているということだ)。そして、それぞれの時代のリアリズムが求めてきた「リアル」それ自体が、ひとつの幻想であったことを指摘する。

また、最後にはタイムリーな問題となっていた「美味しんぼ」の描写にも触れて、これを現代におけるルポルタージュ作品として位置付ける。このように足立のパネルでは、政治的立場に関係なく「イメージと現実に関わろうとする美術家」の諸相が取り上げられていたといえる。その根底にある「美術と社会は同一の地平にある」という思考的基盤はとてもクリアなものであり、本展の意義を説明するうえでも、最適なものであったと思う。

片倉義夫:
続いてのパネリストである片倉は、漫画資料室MORIを主催されている方らしく、出品目録を見ると今回の展覧会資料の多くが同資料室から提供されたものであることが分かる。はっきりいって、見たこともないような貴重資料のオンパレードである。片倉は資料を手にしながら、ひとつひとつ丁寧な語り口で解説を進めてゆく。

その大まかな流れは次の通り。まず「日本プロレタリア美術集」などが、当時の弾圧のなかで発禁となり、美術家達が生活のために「東京パック」などで漫画を描いた。そして、戦争に向かう情勢のなかで、戦争協力の漫画が描かれていった。やがて、戦後になって職場サークルのなかで労働者の漫画が描かれて行くようになる。このような流れのなかで、漫画が常に大衆と深く結びついていたことが浮かび上がってくる。そして、最後に「いちえふ」が、そのような漫画の現代的な例として挙げられる。

「美味しんぼ」といい「いちえふ」といい、漫画と社会の結びつきの深さを痛感させられるが、ならば現代の美術家がどのように東日本大震災と原発事故に対応したのかが、個人的には少し気になった。もちろん例外的な美術家も存在するが、漫画に比べて、現代美術の反射神経や批評性は若干鈍いように思えてならない。

鳥羽耕史:
続いての鳥羽のパネルは、本展にも出品されていた岩波映画の『佐久間ダム』(1958)のような、ダム建設にかかる記録映画を主題としながら、このようなPR映画が逆方向から(国策や産業との共犯関係のなかで)現実を作り上げて行ったことを明らかにするものだった。その上で、ダムに対するリアクションとして、小河内村の山村工作隊*1によるアジビラや、サークル詩など、様々な諸例が取り上げられてゆく。(*1:共産党の五全協方針に沿って各地の村に派遣された大学生などからなる青年組織。特に小河内村には、島田澄也、山下菊二、尾藤豊、勅使河原宏、桂川寛などの美術家が派遣されたことで知られる。)

そして鳥羽は、数々のダム建設の記録が「次のダムを建設してゆく未来(言うまでもなく、この延長線上に原発がある)」や「牧歌的(エコロジー的?)な未来」など、それぞれの未来を準備したことを指摘する。このようなPR映画が、逆方向から現実を作り上げる役割を果たしたことは確かに指摘の通りであると言えるし、その影響範囲は小さくないだろう。

池上善彦:
「現代思想」の編集長でもあった池上のパネルは、戦後のサークル版画を主題に、1950年代の記録の問題を、労働者層の思想的な問題としてに明らかにするものだった。池上によると、このような木版画からは、サークルの労働者が「自分がどのように描かれたいと思っているか」、あるいは「自分や仲間をどのように把握しているか」という問題が浮かび上がってくるという。そのような運動としての版画は、1950年代には「版画運動協会」によって展開されるが、その遠い影響は、いまも学校の美術教育のなかに残っているそうだ(確かに自分も、授業では働く人をモチーフとするように指導された気がする)。さらに、私は不勉強でよく知らなかったのだが、ここには中国の版画運動の多大な影響もあるという。

このような木版画は労働者の即席記録メディアでもあると同時に、自分たちの階層のイメージを客観的に形成する役割を果たしていたといえるだろう。職場サークルの文化運動を理解するうえで、大変勉強になった。また、あの中西夏之が、当時サークル版画を制作していたことも初めて知って驚いた。

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artscapeレビュー

artscapeのフォーカスのコーナーにて、東京都国立近代美術館で4月22日から6月1日まで開催されている、「映画をめぐる美術──マルセル・ブロータースから始める」展についての、ちょっと長いレビューを書きました。

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・artscape フォーカス: 映画/映像のメディウムを読み直す(「映画をめぐる美術──マルセル・ブロータースから始める」展レビュー)

「映画をめぐる美術──マルセル・ブロータースから始める」は、映画と美術の中間領域に関心があるならば、必ず観るべき展覧会だと思います。テクノロジーの導入に主眼をおいたメディアアートでもない、かといって美術家の安直な映像インスタレーションでもない、極めて批評的な視点によって組まれた展覧会です。作品を一通り観るには四時間くらいかかるので、なるべく時間に余裕を持ってどうぞ(田中功起の作品を一部だけ観てスキップするなら三時間くらいです)。次の解説を読むと、さらに文脈が掴めると思います。参考まで。
・Artwords「ポストメディウム」(門林岳史)
・Artwords「メディウム・スペシフィシティ」(沢山遼)
・Artwords「スタンリー・カヴェル『眼に映る世界 映画の存在論についての考察』」(角井誠)
・Artwords「『ニューメディアの言語』レフ・マノヴィッチ」(堀潤之)

同じくartscapeにて、先月は東日本大震災をめぐる映像作品(「“BETWEEN YESTERDAY & TOMORROW” Omnibus 2011-2012 for FUKUSHIMA」と、東北記録映画三部作『なみのおと』『なみのこえ』『うたうひと』)についての文章も書かせてもらいました。こちらもよろしくお願いします。
・artscape フォーカス: 映像の交換性──3.11を契機として制作された映画・映像について

それでも、まだ

・首相会見「行使容認視野に与党協議へ」(NHK 5月15日)
安倍総理大臣は、有識者懇談会からの報告書の提出を受けて記者会見し「日本の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるとき、限定的に集団的自衛権を行使することは許されるという提言は従来の政府の基本的な立場を踏まえたものだ」として、憲法解釈の変更によって限定的に集団的自衛権の行使を容認することを視野に与党協議に入り、法整備を進めていく考えを表明しました。

引用元: 首相会見「行使容認視野に与党協議へ」 NHKニュース.

・首相、憲法解釈変更に意欲 集団的自衛権行使容認へ(朝日 5月15日)
安倍晋三首相は15日、首相官邸で記者会見し、密接な関係にある他国を守るために武力を使う集団的自衛権について、「与党協議の結果に基づき、憲法解釈の変更が必要と判断されれば、改正すべき法制の基本的方向性を閣議決定していく」と述べ、行使容認を目指す考えを表明した。

引用元: 首相、憲法解釈変更に意欲 集団的自衛権行使容認へ:朝日新聞デジタル.

これで立憲主義は事実上失われる。今後は、時の政権が恣意的な解釈を振るってゆくことだろう。日本人は自分の人生に災いが降り掛からなければ、あらゆる問題を自分の事として捉えられない。現内閣が憲法を空文化しても、それでもまだ内閣支持率が下がらないのであれば、もう望み通り、彼らの支持者たちにその先にあるものを体験してもらうしかないと思う。嫌だが。

本日の散財

・ハル・フォスター – アート建築複合態
・絓秀実 – 天皇制の隠語
・Hannes Schupbach – Instants / DVD
・Muslimgauze – Box of Silk and Dogs / File
・Muslimgauze – Your Mines in Kabul / File
・Muslimgauze – Abu-Dis / 2CD
・Muslimgauze – Observe with Sadiq Bey / CD
・Muslimgauze – Sufiq / CD
・Muslimgauze – Bagdad / CD

五月前半の散財。ハル・フォスター「アート建築複合態」は、アンソニー・マッコールについての分析があるようなので、読まないという選択はあり得ない。絓秀実「天皇制の隠語」は、もちろん表題論文に関心があったのだが、後半の万博に関する評論も面白そうだったので。Hannes Schupbach「Instants」は、ドースキーっぽいとされる未知の映像作家のDVD。試しに版元にオーダー。ムスリムについては、過去作品のダウンロード販売がBoomkatでも開始された。iTunesはボックス物が単純計算で高値になるのだが、9枚組だった「Box of Silk and Dogs」については¥14000もしており、かなり強気の値段設定になっていた。しかしBoomkatでは、同作は£18.99という良心的価格。と言う訳で、中古市場で高騰している上記2作品をダウンロード購入。あとの4作品はユニオンにて回収。

ところで、巷で評判のいいAlien Brains「It’s All History Now」については、先日のVODからのムスリムボックスのダメージが大きかったので諦めた。ポール・ヘガティ「ノイズ・ミュージック」については書店で小一時間立ち読みしたが、保留。言及するノイズ作家に偏りがあり、その多くは私の関心から外れたものを対象としているように思えた。また、ざっと読んだだけだが、TGを論じるのにバタイユを持ち出すのは分かるが、ジェネシスの批判を引いてパワーエレクトロニクスの極端な表現が、バタイユ的なタブーを陳腐化していると述べる箇所は若干疑問。加えて、ネオフォークについてはほとんど触れられておらず、その分析は薄い。だが、このような認識が、欧米圏でのこの辺りの音楽についての平均的評価であると、この著書自体をサンプル的に捉えるなら、それはそれで興味深いのかもしれない。

「闇をはらう呪文(A Spell to Ward off the Darkness)」補遺

「闇をはらう呪文(A Spell to Ward off the Darkness)」のレヴュー補遺として、ブラックメタルにおける自然の表象や異教的モチーフが、現代社会の価値観に対立するための手がかりであるという事を示す参照項をいくつか。

・ドイツのNargarothによる2013年のライヴ。Nargarothは初期のアルバムほどその傾向が強いように思うが、この日のライヴは初期の楽曲をやっていたためか、自然の風景や狼の映像を背景に演奏している。

・Burzumがアルバム「Filosofem」で使用していた、テオドール・キッテルセン(参考:キッテルセン美術館)の絵画。現代社会を否定する外部性や超越的なものを、国民的画家が描く自然やトロールのなかに見出しているといえる。彼の場合、その視線は民族主義的なものへと変移してゆく。
Kittelsen

・ブラックメタルの音楽的な幅広さを示す、IldjarnによるCD2枚組のアンビエント作品である「Landscapes」。自然をテーマとした静謐な音楽であるが、彼のなかでは、プリミティヴな激しい楽曲も、このようなアンビエントも、同じ動機によって結びついた地続きなものである。

イメージフォーラムフェスティバル 2014・Pプロ:闇をはらう呪文(A Spell to Ward off the Darkness)

A SPELL TO WARD OFF THE DARKNESS (TRAILER) from Ben Russell on Vimeo.

・Ben Rivers, Ben Russell – A Spell to Ward Off the Darkness
(98min, HD, 2013)
http://www.aspelltowardoffthedarkness.com/

この映画を論じるにあたっては、さすがに最低限の文脈だけは押さえておかないと、訳が分からないことになるだろう。前提として言えることは、この映画は実験映画であると同時に、フィクションとして構築された、ある種の文化人類学的な疑似ドキュメンタリーであるということだ。そのような社会的な映画について何かを論じる際に、映画のモチーフとなった文化的対象を無視することはできないだろう(その点で、今回のフェスティバルのカタログ内にある解説訳文は、残念なことに致命的な誤訳を掲載してしまっている)。では、文化人類学的なドキュメントとしての本作は、何を対象としているのか。それは、社会的な現象としての「ブラックメタル」である。

とはいえ、ここでブラックメタルについての歴史を逐一語っても仕方がない。この映画との関係において、最低限押さえる必要があるのは、ブラックメタルが単なる音楽スタイルにとどまらず、社会的な背景において展開してきた音楽であったということだ(この経緯についてはBlood Axisのマイケル・モイニハンの著書「Loads of the Chaos」に詳しい)。以下、簡単にその経緯を概説しておく。

サタニズムの典型的なイメージを取り入れ、それを広く定着させた1980年代のデスメタルや初期ブラックメタルに対して、1990年代前半にノルウェーを震源地として拡大したブラックメタルは、音楽上の表現に留まらず、現実の社会において多数の教会放火と、数件の殺人事件を引き起こしたことで広く知られている。これらの事件は宗教的な動機によるものであったというよりも、若年層グループが過激化するなかで、その反社会性を実行したものであったといえる。このような動きのなかで、規範化された社会から離脱してゆくブラックメタルは、その表現に用いるモチーフを、近代以前の自然の表象やペーガニズムに求め、その社会的な位相を変移させてゆく(特にペーガニズムに傾倒したバンドは、Pagan Black Metalと呼称される)。ペーガニズムとは一神教の立場から見た自然崇拝や多神教崇拝を指すものである。このような異教的モチーフや、人間の手が入っていない辺境の自然のなかに、ブラックメタルが、プロテスタント的な内的規範と現代社会に対立する手がかりを求めたことは必然であったといえる。この変移は、社会から離脱するものであると同時に、諸々の近代的価値観を否定する性質を持つものであった。(さらに、このようなブラックメタルの一部は、排外的な民族主義やレイシズムに接近することで、ナチズムを標榜する国家社会主義ブラックメタル: National Socialist Black Metal|NSBMに到達することになる。)

このように、バンドによって程度の差はあるがブラックメタルとは、ロック的カリカチュアによってサタニズムの記号を使用しただけのメタルのサブジャンルにとどまるものではなく、Crassをはじめとする政治的なパンク・ハードコアや、貧困層とヒップホップの関係と同様に、極めて社会的な背景を持った音楽なのだということを、まず理解してほしい。

さて、映画に話を戻すと、本作は三つのパートによって成り立っている。ベン・リバースは海外のインタビューのなかで、それらを、「共同体(COMMUNE)」「僻地(SOLITUDE)」「ブラックメタル(BLACK METAL)」という言葉で形容している。先述したように、社会的な現象としてのブラックメタルが辿った経路は、社会からの離脱から、異教的モチーフや近代以前の自然の表象の発見に至るというものである。その経路の先において、バタイユ的なエコノミー、すなわち規範的価値を一気に転落させる蕩尽を容易に連想させる、ブラックメタルとしての音楽表現が行われる。これがペーガニズムや自然との関係において典型化された、ブラックメタルの社会的実像である。このようなブラックメタルの実像は、映画を構成する各部の描写によって、複数の側面から明らかにされる。すなわち「1. COMMUNE:共同体への参入」、「2. SOLITUDE:自然のなかでの隠棲」、「3. BLACK METAL:ブラックメタルによる蕩尽」である。

第一部では、社会を離脱してエストニアの自然のなかでコミューンを形成し、自給自足の生活を送りながら、バックミンスター・フラーのジオデシック・ドームを思わせる建築物を自作し、音楽を奏でながら暮らす集団の姿が、ベン・ラッセルの得意とするステディカムによる追跡的なカメラワークを含みながら、ドキュメンタリー的に捉えられる。第二部では、ベン・リバースが得意とする博物図鑑的な描写によって、主人公である黒人男性が、フィンランドの自然のなかで、孤独に生活する様子が描かれる。ちなみに、第二部の最後では、男性は自分の暮らしていた小屋を焼くのだが、これはまさにバタイユ的な行為である(意味合いは違うが、ここでの燃え盛る小屋のイメージは、Burzumのヴァーグによる放火事件を連想させる。ヴァーグは、自分が燃やした教会の写真をアルバムのジャケットに使用した)。そして、最後の第三部では、ノルウェーの首都オスロのライヴハウスにおいて、主人公の男性が蕩尽の実践としてブラックメタルを演奏する。このライヴの模様は、30分近い長回しのステディカム・ショットによって捉えられる。

ベン・リバースの「湖畔の二年間(Two years at sea)」(2011, http://vimeo.com/40807188)は、資本主義社会を離脱して自然のなかに隠棲する、まるでヘンリー・デイヴィッド・ソローのような老人であるジェイクをモチーフとする映画であった。ベン・リバースの諸作品には、辺境や自然のなかに暮らしている社会を離脱した人々を描くことで、現代社会の周縁にあるものを明らかにしようとする関心が、明白に存在している。ただし彼にとっては、そのような社会を離脱した人々が実在するのかどうかはあまり問題ではない。彼の映画の目的は、そのような存在を映画において映し出すことにあるといえる。そのため、被写体の実在性については、フィクションとノンフィクションの狭間で揺らめく状態にある方が、映画の目的に合致する。このような、過去作から一貫して持っていた創作上の関心を、本作においてブラックメタル(の社会的背景)に結びつけた発想は、慧眼であったという他ない。

ベン・ラッセルについても、似たような事がいえる。彼の映画には、「彼ら一人一人、辿り着くであろう場所に行かせなさい(Let Each One Go Where He May)」(2009, http://vimeo.com/39846969)にみられるように、ジャン・ルーシュを思わせる文化人類学的関心が存在している。それはベン・リバースの関心に似た部分もあるが、彼の場合は、超越的越境(幻覚的経験としてのトリップ)の実像を探るために、文化人類学的モチーフに向かっているところがあるように思う。彼の映画には、高揚感のなかで展開するマルーンの村落における祭儀の模様を長回しのショットで撮影した「Trypps #6 (Malobi)」(2009, http://vimeo.com/6975261 ※この作品は、「Let Each One Go Where He May」の一部でもある)や、Lightning Boltのライヴにおける観客のトランスをドキュメントした「Black and White Trypps Number Three」(2007, http://vimeo.com/6975800)などの作品があるが、それらはベン・リバースよりも、直接的なかたちで日常の外側にあるものを召還しようとしているかのようだ。このような彼の関心は、この映画のなかでは第三部のライヴハウスの描写において顕著に表れる。この描写で面白いのは、被写体となるものがブラックメタルバンドだけではなく、観客をも含んだ、ライヴハウスの空間全体となっていることだ。そこでは、蕩尽が実践されるライヴハウスの祝祭的空間が、会場の様子を含めて全体的に捉えられる。

少し気になったので、ベン・ラッセルから貰ったプレヴューを参照してエンドクレジットを確認してみたが、この映画のスタッフクレジットは、次のようなものとなっていた。

第一パート Camera:Rivers, Russell(ロケーション:Vormsi Estonia)
第二パート Camera:Rivers, Russell(ロケーション:Hyeynsalmi Finland)
第三パート Sound Recordist:Rivers, Russell、Steadicam Operator:Chris Fawcett、Focus Puller:D.H. Mack(ロケーション:Oslo Norwey)

このクレジットによると、第三部は、どうやら専門の撮影クルーに依頼してステディカム撮影を行ったようだ。しかも作中での絶妙なソフトフォーカスによる表現は、フォーカス操作のための専属スタッフまで揃えて行われている。そして、ベン・ラッセルとベン・リバースの役割は録音となっている。バンドの演奏と観客のざわめきを等価に取り扱う第三部の特徴的なサウンド表現については、かなり二人の監督の意図が反映されているとみるべきだろう。ここでは、同時録音された各トラックごとの素材が、各楽器と客席のあいだ移動するカメラワークに合わせて繊細にミキシングされている(ちなみに、第一部と第二部も同時録音の素材のみを使用しており、音楽といえば撮影現場におけるコミューンの人々の実際の演奏だけである)。

さて、作中で演奏を行っているブラックメタルバンドのメンバーは以下のとおりである。

G. Vo. Hunter Hunt-Hendrix (Liturgy)
G. Vo. Robert Lowe (90 Day Men, White/Lichens)
B. Nick McMaster
Dr. Weasel Walter

音楽の話になってしまうが、このブラックメタルバンドは架空のバンドである。Hunter Hunt-Hendrixは、ポスト・ブラックメタルバンドとして知られるLiturgyのメンバーではある。しかし、Liturgyは先述したようなブラックメタルの社会的背景がかなり希薄なバンドである。全編を通しての主人公であるRobert Loweに至っては、ブラックメタルとは無縁のミュージシャンである。彼は90 Day Menのメンバーとして来日経験もあるほか、White/Lichensでドローンを演奏したり、本人名義でTypeから実験的なテクノをリリースしている。この二人の組み合わせは、音楽的にはLiturgyらしいトレモロリフと、曲間における、電子的に変調された声を素材とするドローンとして表れている。

ところで、何故、二人の監督はこの映画のなかでブラックメタルとは無縁の黒人ミュージシャンを主人公に据えたのか。そこに、私はベン・ラッセルとベン・リバースのバランス感覚と批評性を見出す。先述したとおり、ブラックメタルはBurzumがそうであったように、排外的な民族主義やレイシズムに接近する危うさを持っている。勿論、ベン・ラッセルとベン・リバースの目的は、既存の社会の外部にある存在を映画において映し出すことにある。そのためにはブラックメタルにおける、現代社会を批判するものとしての自然の表象を、排外的民族主義やレイシズムに接近する危うい傾向から慎重に分離しておかなければならない。そのためにとられた批評的な対応が、ブラックメタルとは無縁の黒人ミュージシャンを主人公にするという配役であったのだろう。アーリア人の男性を主人公としてブラックメタルを演奏させることは、映画の意図を曲解させてしまう危険性があったのだ。

今まで、ベン・ラッセルとベン・リバースが異なるアプローチで追求してきた、既存の社会の外部にある超越的なものを映画において映し出すという目的は、本作の「共同体・僻地・ブラックメタル」というテーマによって、見事に結実したといえる。たとえブラックメタルの社会的な側面についての知識を全く持たない観客がこの映画を観たとしても、社会の外側に向かう存在の姿を見つめ、最後のライヴ演奏が与える祝祭的な高揚感を受け取る事は充分に可能である。その、規範的価値を一気に転落させるバタイユ的な蕩尽に伴う祝祭の高揚こそが、“闇をはらう呪文”なのである。そして暗闇のなかでスクリーンに映し出された光としての「映画」もまた、“闇をはらう呪文”である。それは一瞬ではあるが、この世界の外部につながる亀裂をスクリーンの上に映し出すだろう。


余談だが、私はこの映画のトレーラーを観た時から、あるブラックメタルバンドのことを強く想起していた。現代社会を憎悪してそこから離脱し、自然のなかで暮らしてゆくと言い残して消えたバンド、Ildjarn(Vidar Vaaer)を——その現代文明への激しい憎悪と、自然への崇拝にも似た感情を抱えた音楽を。この映画のロールモデルに相当するバンドを探すとすれば、それはIldjarn以外にないだろう。

第七回爆音映画祭[Phantom Nebula]ライブ上映

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Bプロ「Phantom Nebula」生演奏付き上映
日時:5/9(金)21:00〜
会場:吉祥寺バウスシアター
http://www.bakuon-bb.net/b_program.pdf

牧野貴 – Phantom Nebula
65分/HD /日本・オーストリア・ノルウェー
監督:牧野貴
プロデュース:牧野貴
音楽:長谷川洋 (a.k.a Astro), Manuel Knapp, ROOM5, 牧野貴

[The Bridge][Ghost of Cinema][Phantom Nebula] という三部構成から成る、牧野貴初の長編作品。これまでの牧野作品で想起された星や細胞などのような粒子構造が、さらに幾重にも積み重なり折り重ねられ、その形を自由自在に変化させる星雲や生命体に近い様相を示し、淡い光をもって脈動を始める…。上映時にはオーストリア、ノルウェー、日本から届いた音楽と、牧野貴の生演奏の音をステージ上でライブで結合させていきます。