イメージフォーラムフェスティバル 2014・Pプロ:闇をはらう呪文(A Spell to Ward off the Darkness)

A SPELL TO WARD OFF THE DARKNESS (TRAILER) from Ben Russell on Vimeo.

・Ben Rivers, Ben Russell – A Spell to Ward Off the Darkness
(98min, HD, 2013)
http://www.aspelltowardoffthedarkness.com/

この映画を論じるにあたっては、さすがに最低限の文脈だけは押さえておかないと、訳が分からないことになるだろう。前提として言えることは、この映画は実験映画であると同時に、フィクションとして構築された、ある種の文化人類学的な疑似ドキュメンタリーであるということだ。そのような社会的な映画について何かを論じる際に、映画のモチーフとなった文化的対象を無視することはできないだろう(その点で、今回のフェスティバルのカタログ内にある解説訳文は、残念なことに致命的な誤訳を掲載してしまっている)。では、文化人類学的なドキュメントとしての本作は、何を対象としているのか。それは、社会的な現象としての「ブラックメタル」である。

とはいえ、ここでブラックメタルについての歴史を逐一語っても仕方がない。この映画との関係において、最低限押さえる必要があるのは、ブラックメタルが単なる音楽スタイルにとどまらず、社会的な背景において展開してきた音楽であったということだ(この経緯についてはBlood Axisのマイケル・モイニハンの著書「Loads of the Chaos」に詳しい)。以下、簡単にその経緯を概説しておく。

サタニズムの典型的なイメージを取り入れ、それを広く定着させた1980年代のデスメタルや初期ブラックメタルに対して、1990年代前半にノルウェーを震源地として拡大したブラックメタルは、音楽上の表現に留まらず、現実の社会において多数の教会放火と、数件の殺人事件を引き起こしたことで広く知られている。これらの事件は宗教的な動機によるものであったというよりも、若年層グループが過激化するなかで、その反社会性を実行したものであったといえる。このような動きのなかで、規範化された社会から離脱してゆくブラックメタルは、その表現に用いるモチーフを、近代以前の自然の表象やペーガニズムに求め、その社会的な位相を変移させてゆく(特にペーガニズムに傾倒したバンドは、Pagan Black Metalと呼称される)。ペーガニズムとは一神教の立場から見た自然崇拝や多神教崇拝を指すものである。このような異教的モチーフや、人間の手が入っていない辺境の自然のなかに、ブラックメタルが、プロテスタント的な内的規範と現代社会に対立する手がかりを求めたことは必然であったといえる。この変移は、社会から離脱するものであると同時に、諸々の近代的価値観を否定する性質を持つものであった。(さらに、このようなブラックメタルの一部は、排外的な民族主義やレイシズムに接近することで、ナチズムを標榜する国家社会主義ブラックメタル: National Socialist Black Metal|NSBMに到達することになる。)

このように、バンドによって程度の差はあるがブラックメタルとは、ロック的カリカチュアによってサタニズムの記号を使用しただけのメタルのサブジャンルにとどまるものではなく、Crassをはじめとする政治的なパンク・ハードコアや、貧困層とヒップホップの関係と同様に、極めて社会的な背景を持った音楽なのだということを、まず理解してほしい。

さて、映画に話を戻すと、本作は三つのパートによって成り立っている。ベン・リバースは海外のインタビューのなかで、それらを、「共同体(COMMUNE)」「僻地(SOLITUDE)」「ブラックメタル(BLACK METAL)」という言葉で形容している。先述したように、社会的な現象としてのブラックメタルが辿った経路は、社会からの離脱から、異教的モチーフや近代以前の自然の表象の発見に至るというものである。その経路の先において、バタイユ的なエコノミー、すなわち規範的価値を一気に転落させる蕩尽を容易に連想させる、ブラックメタルとしての音楽表現が行われる。これがペーガニズムや自然との関係において典型化された、ブラックメタルの社会的実像である。このようなブラックメタルの実像は、映画を構成する各部の描写によって、複数の側面から明らかにされる。すなわち「1. COMMUNE:共同体への参入」、「2. SOLITUDE:自然のなかでの隠棲」、「3. BLACK METAL:ブラックメタルによる蕩尽」である。

第一部では、社会を離脱してエストニアの自然のなかでコミューンを形成し、自給自足の生活を送りながら、バックミンスター・フラーのジオデシック・ドームを思わせる建築物を自作し、音楽を奏でながら暮らす集団の姿が、ベン・ラッセルの得意とするステディカムによる追跡的なカメラワークを含みながら、ドキュメンタリー的に捉えられる。第二部では、ベン・リバースが得意とする博物図鑑的な描写によって、主人公である黒人男性が、フィンランドの自然のなかで、孤独に生活する様子が描かれる。ちなみに、第二部の最後では、男性は自分の暮らしていた小屋を焼くのだが、これはまさにバタイユ的な行為である(意味合いは違うが、ここでの燃え盛る小屋のイメージは、Burzumのヴァーグによる放火事件を連想させる。ヴァーグは、自分が燃やした教会の写真をアルバムのジャケットに使用した)。そして、最後の第三部では、ノルウェーの首都オスロのライヴハウスにおいて、主人公の男性が蕩尽の実践としてブラックメタルを演奏する。このライヴの模様は、30分近い長回しのステディカム・ショットによって捉えられる。

ベン・リバースの「湖畔の二年間(Two years at sea)」(2011, http://vimeo.com/40807188)は、資本主義社会を離脱して自然のなかに隠棲する、まるでヘンリー・デイヴィッド・ソローのような老人であるジェイクをモチーフとする映画であった。ベン・リバースの諸作品には、辺境や自然のなかに暮らしている社会を離脱した人々を描くことで、現代社会の周縁にあるものを明らかにしようとする関心が、明白に存在している。ただし彼にとっては、そのような社会を離脱した人々が実在するのかどうかはあまり問題ではない。彼の映画の目的は、そのような存在を映画において映し出すことにあるといえる。そのため、被写体の実在性については、フィクションとノンフィクションの狭間で揺らめく状態にある方が、映画の目的に合致する。このような、過去作から一貫して持っていた創作上の関心を、本作においてブラックメタル(の社会的背景)に結びつけた発想は、慧眼であったという他ない。

ベン・ラッセルについても、似たような事がいえる。彼の映画には、「彼ら一人一人、辿り着くであろう場所に行かせなさい(Let Each One Go Where He May)」(2009, http://vimeo.com/39846969)にみられるように、ジャン・ルーシュを思わせる文化人類学的関心が存在している。それはベン・リバースの関心に似た部分もあるが、彼の場合は、超越的越境(幻覚的経験としてのトリップ)の実像を探るために、文化人類学的モチーフに向かっているところがあるように思う。彼の映画には、高揚感のなかで展開するマルーンの村落における祭儀の模様を長回しのショットで撮影した「Trypps #6 (Malobi)」(2009, http://vimeo.com/6975261 ※この作品は、「Let Each One Go Where He May」の一部でもある)や、Lightning Boltのライヴにおける観客のトランスをドキュメントした「Black and White Trypps Number Three」(2007, http://vimeo.com/6975800)などの作品があるが、それらはベン・リバースよりも、直接的なかたちで日常の外側にあるものを召還しようとしているかのようだ。このような彼の関心は、この映画のなかでは第三部のライヴハウスの描写において顕著に表れる。この描写で面白いのは、被写体となるものがブラックメタルバンドだけではなく、観客をも含んだ、ライヴハウスの空間全体となっていることだ。そこでは、蕩尽が実践されるライヴハウスの祝祭的空間が、会場の様子を含めて全体的に捉えられる。

少し気になったので、ベン・ラッセルから貰ったプレヴューを参照してエンドクレジットを確認してみたが、この映画のスタッフクレジットは、次のようなものとなっていた。

第一パート Camera:Rivers, Russell(ロケーション:Vormsi Estonia)
第二パート Camera:Rivers, Russell(ロケーション:Hyeynsalmi Finland)
第三パート Sound Recordist:Rivers, Russell、Steadicam Operator:Chris Fawcett、Focus Puller:D.H. Mack(ロケーション:Oslo Norwey)

このクレジットによると、第三部は、どうやら専門の撮影クルーに依頼してステディカム撮影を行ったようだ。しかも作中での絶妙なソフトフォーカスによる表現は、フォーカス操作のための専属スタッフまで揃えて行われている。そして、ベン・ラッセルとベン・リバースの役割は録音となっている。バンドの演奏と観客のざわめきを等価に取り扱う第三部の特徴的なサウンド表現については、かなり二人の監督の意図が反映されているとみるべきだろう。ここでは、同時録音された各トラックごとの素材が、各楽器と客席のあいだ移動するカメラワークに合わせて繊細にミキシングされている(ちなみに、第一部と第二部も同時録音の素材のみを使用しており、音楽といえば撮影現場におけるコミューンの人々の実際の演奏だけである)。

さて、作中で演奏を行っているブラックメタルバンドのメンバーは以下のとおりである。

G. Vo. Hunter Hunt-Hendrix (Liturgy)
G. Vo. Robert Lowe (90 Day Men, White/Lichens)
B. Nick McMaster
Dr. Weasel Walter

音楽の話になってしまうが、このブラックメタルバンドは架空のバンドである。Hunter Hunt-Hendrixは、ポスト・ブラックメタルバンドとして知られるLiturgyのメンバーではある。しかし、Liturgyは先述したようなブラックメタルの社会的背景がかなり希薄なバンドである。全編を通しての主人公であるRobert Loweに至っては、ブラックメタルとは無縁のミュージシャンである。彼は90 Day Menのメンバーとして来日経験もあるほか、White/Lichensでドローンを演奏したり、本人名義でTypeから実験的なテクノをリリースしている。この二人の組み合わせは、音楽的にはLiturgyらしいトレモロリフと、曲間における、電子的に変調された声を素材とするドローンとして表れている。

ところで、何故、二人の監督はこの映画のなかでブラックメタルとは無縁の黒人ミュージシャンを主人公に据えたのか。そこに、私はベン・ラッセルとベン・リバースのバランス感覚と批評性を見出す。先述したとおり、ブラックメタルはBurzumがそうであったように、排外的な民族主義やレイシズムに接近する危うさを持っている。勿論、ベン・ラッセルとベン・リバースの目的は、既存の社会の外部にある存在を映画において映し出すことにある。そのためにはブラックメタルにおける、現代社会を批判するものとしての自然の表象を、排外的民族主義やレイシズムに接近する危うい傾向から慎重に分離しておかなければならない。そのためにとられた批評的な対応が、ブラックメタルとは無縁の黒人ミュージシャンを主人公にするという配役であったのだろう。アーリア人の男性を主人公としてブラックメタルを演奏させることは、映画の意図を曲解させてしまう危険性があったのだ。

今まで、ベン・ラッセルとベン・リバースが異なるアプローチで追求してきた、既存の社会の外部にある超越的なものを映画において映し出すという目的は、本作の「共同体・僻地・ブラックメタル」というテーマによって、見事に結実したといえる。たとえブラックメタルの社会的な側面についての知識を全く持たない観客がこの映画を観たとしても、社会の外側に向かう存在の姿を見つめ、最後のライヴ演奏が与える祝祭的な高揚感を受け取る事は充分に可能である。その、規範的価値を一気に転落させるバタイユ的な蕩尽に伴う祝祭の高揚こそが、“闇をはらう呪文”なのである。そして暗闇のなかでスクリーンに映し出された光としての「映画」もまた、“闇をはらう呪文”である。それは一瞬ではあるが、この世界の外部につながる亀裂をスクリーンの上に映し出すだろう。


余談だが、私はこの映画のトレーラーを観た時から、あるブラックメタルバンドのことを強く想起していた。現代社会を憎悪してそこから離脱し、自然のなかで暮らしてゆくと言い残して消えたバンド、Ildjarn(Vidar Vaaer)を——その現代文明への激しい憎悪と、自然への崇拝にも似た感情を抱えた音楽を。この映画のロールモデルに相当するバンドを探すとすれば、それはIldjarn以外にないだろう。

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