本日の散財

・Genocide Organ – Archive IV / 10″
・Anenzephalia – Task Force Terrorist / LP
・Muslimgauze – Lazhareem Ul Leper / CD
・Muslimgauze – Jaagheed Zarb / CD
・V.A. – Gravity Spells: Bay Area New Music and Expanded Cinema Art / 2LP, 4DVD
・「フィオナ・タン まなざしの詩学」展覧会カタログ
・暮沢剛巳, 江藤光紀 – 大阪万博が演出した未来 前衛芸術の想像力とその時代
・リチャード・ウォーリン, 福岡愛子:訳 – 1968 パリに吹いた「東風」 フランス知識人と文化大革命

先月末より夏期休暇にはいったので、美術・実験映画・記録映画関係の古いテクストを美術館・図書館や古書店で渉猟する生活をおくる。そんな生活なので物欲を惹き起こされることもなく、ここひと月、散財はほとんどなし。一方で図書館の複写料はゆうに数万円を越えた。

札幌国際芸術祭2014|高谷史郎「CHROMA」

自分は京都の美大に通っていたので、あの小さな街に漂う空気は身にしみて理解している。そんな自分がダムタイプというグループ名から連想するものは、クラブメトロであり、メディアショップであり、ヴォイスギャラリーであったりする訳だが、恐らく京都の文化的な空気をよく知る方々にとっては、その空気感とダムタイプの表現が通底していることは自明なことだと思う。しかしながら自分は、その洗練された空気に憧れを抱きつつも結局ハマれなかった人間なので、ダムタイプに触れたのは京都で観た「OR」の公演が最初で最後だったりする(インスタとしてはICCで「Voyage」を観たのが最後だが)。なので、この日の「CHROMA」の公演は、自分にとっては久しぶりにダムタイプ的なものに、すなわちあの空気感に触れる絶好の機会になった。

今回の高谷史郎「CHROMA」の公演は、2012年のびわ湖ホールでの初演以来であり、札幌国際芸術祭のメインアクト的な位置付けにある。公演二日目の(7月27日)の札幌の天候は大雨ながら、客席はほぼ満員という盛況振りだった。本作はデレク・ジャーマンの色彩にまつわるエッセイ「クロマ」へのオマージュとされるが、エイズという病を背景とした色彩や光についての思考は、本作が成立するにあたっての基盤となっている。まず、あらすじと各シーンにおける演出とテクノロジーの活用について、客席から判別出来る範囲で記述しておく。これらのパフォーマンスに加えて、歴史上の哲学者や作家による記述が無数に引用され、読み上げられてゆく。


1:フリッカーのなかで、パフォーマーによるダンス。床面には水面がプロジェクションされる。

2:ステージに置かれた木枠。「頭に木が生えた」と話す苗木を持った女が登場。バトンに吊るされた家具が降りてくる。女はそれぞれの家具にシートを掛けてゆく。そして、舞台前のテーブルにて人形を作り始める。別の男女も現れ、無関係に何らかの行為を行う。やがて家具が吊り上げられて、ステージには木枠のみが残る。

3:製図を行う男。その手元の様子が壁面にプロジェクションされる。やがて映像はエフェクトによって抽象的なラインに還元される。男は退場し、女性パフォーマーがダンスを行う。映像は幾何学的なグラフィックや星々を思わせる無数の光点へと移り変わり、壁面と床面にプロジェクションされる。

4:舞台前のテーブルにてテクストを書く男。その手元の様子が、舞台中程に吊り下げられた紗幕にプロジェクションされる。舞台中央にはバトンに吊り下げられた二つの明滅する電燈がある。それを二人のパフォーマーが揺らす。

5:舞台にはハリボテによる石庭のセット。岩のあいだで掃除をする男。自然音の音響。舞台前のテーブルでは、女が砂をふるいにかけて、石庭のジオラマを作成している。壁面には手元の様子がプロジェクションされている。女はジオラマのなかのミニチュアの薪に火をつける。そしてこの男女はバケツを頭にかぶり、二人並んで単調なダンスを踊り続ける。そこに鹿の角を持った女が現れ、二人の様子を岩陰から伺う。やがてハリボテの岩が一つ一つ撤収されてゆく。壁面の映像が荒野の映像に変わる。最後には舞台から人がいなくなる。

6:壁面に、ノイジーなデジタルエフェクトの映像がプロジェクションされ、ローファイなビートが打ち鳴らされる。それが魚眼レンズで撮影された青空の映像に突如変わる。そしてバトンに吊られた四枚のパネルが降りてくる。木枠やパネルを持ったパフォーマーも登場してパフォーマンスを行う。次に床面にプロジェクションが行われる。床一面のグラフィックとは別に、四枚のパネルには個別のグラフィックが映し出されている(カラー・フィールド・ペインティングのように)。これらの色彩は豊穣な変化を見せてゆく。

7:バックライトに照らされた紗幕の向こう側を歩くパフォーマー。シルエットのみが紗幕に映し出される。パフォーマーはやがて紗幕の前面に回り、ゆっくりとしたダンスを行う。照明はバックライトのみなので、パフォーマーは真っ黒な人影のまま。フィードバック・ノイズ的な音響。やがて紗幕が上がり、霧が舞台を満たす。透明でも不透明でもない中間的な、半透明の空間。そして終演。


まとめると、映像については壁・床・紗幕という三種類のプロジェクションを駆使しながら空間性を強調するものであり、特に第3幕の女性パフォーマーの動きに随伴するインタラクティヴな表現は巧みなものであった。サイモン・フィッシャー・ターナーやSoftpadのメンバーによる音響もまた、高い完成度にあるといえる。技術的な詳細はサウンド&レコーディングマガジンのインタビューに詳しい(http://rittor-music.jp/sound/column/c/11533)。また、デレク・ジャーマンは「クロマ」のなかで半透明についての言及に一章を割いているが、第7幕における半透明の表現として人工霧の使用を選択したのも効果的だった。これは、高谷がコラボレーションを重ねている中谷芙二子の「霧の彫刻」の影響下にあるのはいうまでもない。(半透明とは、すなわち中間的なものの存在が可視化された状態である。最初期のビデオ・アーティストでもある中谷は、社会的媒介物としてのビデオに着目した活動を行っていたが、彼女がビデオに併行しながら、造形作品において霧というメディウムに取り組んで来たのも、中間的な媒介物=メディウムのあり方に関心を持ってのことだろう。)このように、札幌において「CHROMA」は完成された見事な舞台を観客の前に提供してくれた。


しかし、その一方で気になったこともある。本作におけるテクノロジーの導入は高い技術に支えられたものでありながら、総体的には演出の一部位に留まるものであったことは否めない。これは例えるならば、テクノロジーがパレット上の色数を増やす役割に留まっているということであり、作品全体がテクノロジーと調和したオペラ的な総合化の方向に向かっているということである。ダムタイプの舞台におけるテクノロジー導入の意義は、身体をスキャンするような無機的なテクノロジーと生身の脆い身体の対立にこそあったように思うが、その対立的な表現自体がインターネット普及直前の90年代的な文脈に帰属する意義なのであり、現在においてはテクノロジー導入の意味合いが変化してしまっている、ということなのかもしれない。その総合化が高度な形で達成されていればいる程に、そのように思えてしまう。