「反戦 来るべき戦争に抗うために」展@SNOW Contemporary

「反戦 来るべき戦争に抗うために」展
会期:2014年9月25日(木)- 29日(月)
会場:SNOW Contemporary
http://hansenten2014.tumblr.com/

作家の内部世界と外部世界の関わりや、政治と芸術の関係性といった1950年代の〈アヴァンギャルド芸術〉にて問われた設問。すなわち戦後復興期における作家主体のあり方を問うという枠組みは、記録とシュルレアリスム的表現を複合させたルポルタージュ絵画や、サークル詩を含む記録としての文学の領域において追求されていた。しかし、その枠組みは1968年の社会変化の中で、状況が内部世界と外部世界という二元論的において捉え切れなくなったために、政治的な文脈ごと無効化してしまったといってよい。その後の高度経済成長と80年代文化――ポストモダン的な、あるいは相対主義的なもの――の延長線上において、芸術と社会を同一の地平で捉えたうえで政治的・社会的テーマを扱うことは、制作の現場においては避けられるようになる(もちろん社会性の強い日本アンデパンダン展などの流れは続いていたが)。しかし、往々にして表面的な誤解を招きがちなので強調しておきたいが、芸術と社会を同一の地平で捉えるということは、作家が作品において短絡的に政治的メッセージを主張し、観客にそれを押し付けることを意味しない。そもそも、そのような短絡を乗り越えることこそが、花田清輝の文脈によって設定された1950年代の〈アヴァンギャルド芸術〉の目的であったはずだ。この歴史的な前提を確認したうえで、2011年の東日本大震災・原発事故を経て、抽象的な空気に流されるなかで、2012年の衆議院総選挙よって自民党に圧倒的権力を与え、秘密保護法成立から集団的自衛権の行使容認にまでやってきた、次の戦前を迎えつつある今日のこの国の状況において、土屋誠一の呼びかけによる「反戦 来るべき戦争に抗うために」展が持ちうる意義について考えてみよう。

私は9月28日、鈴木一琥のパフォーマンス『230万分の一』(2014)と元日本兵の谷口末廣氏のトークの最中に、道に迷いながらギャラリーにたどり着いた。倉庫を改装したと思われるギャラリーはあまり広くなく、そこに無審査のアンデパンダン方式で出品された54点の作品が、三つの壁面と床面を埋め尽くすようにして並んでいる。この日は16時から予約制のトークイベントもあるということで、実質一時間弱しか展示を観ることができなかったのだが、おおよその全体像は掴めたと思う(映像作品については、一部しか観ることができなかったので保留としたい)。アンデパンダン展であるが故に、作家のキャリアも、作品のコンセプチュアルなクオリティも様々である。しかし、ここで個別の作家・作品の優劣を問うても意味はないだろう。ここではふたつの意義を指摘したい。

まず一つ指摘出来るのが、自らの創作上の問題意識に基づく作品制作を貫きながら、せいぜいタイトルの操作のみで、敢えてこの「反戦展」の枠組みに自らの作品を持ち込むアプローチをとった作家がいることである。作家のキャリアを把握している訳ではないので先入観込みだが、リュ・スンウォン『come across』(2014)や池田剛介『Ice Plant Painting (川端龍子『爆弾散華』に基づく)』(2014)などのフォーマリスティックな平面作品は、このアプローチに含むことが出来るだろう。このアプローチによる作品は、一見すると“何故「反戦展」に含まれているのか分からない”という批判を呼ぶかもしれない。しかし、作品制作をその背後にある切迫した社会的な状況との関連において捉えるならば、制作という行為そのものが「抵抗」として立ち現れる。本展の第一の意義は、まずこのアプローチに見出せる。

それに対して、比較的ストレートに反戦というテーマに関わる作品を「反戦展」の枠組みに持ち込むというアプローチをとった作家も多数見られた。そのなかで、私にとって印象深かったのは次の作品である。ガードレールという物体そのものにメタ的テクストを貼付けて、ありふれた風景を変質させようと試みる前野智彦『ready-made』(2014)。「映画をめぐる美術」展と同じく会場にはURLのみを掲示して、ネット上のプロセス主体の映像作品へと観客を誘導する田中功起『一時的なスタディーズ#0』(http://kktnk.com/alter/antiwar, 2014)。1940年代の書籍と、現在販売されている書籍をその場で物々交換して、それを2080年まで保存する酒井貴史『70years』(2014)。「反戦展」への来場者カウント数それ自体を作品化する水谷一など。これらの作品は、反戦というテーマを踏まえたうえで、美術の外部を巻き込む重層性によって、作品と社会的な状況を関係付けようとする傾向を持っている。このような傾向は、本展の第二の意義として、日常をダイレクトに政治化することにも繋がってくる。

思えば、土屋による展覧会ステートメント自体が、作家に「反戦」というメッセージは求めないが、発表行為において名前を連ねることは求めるという、どこか宙吊り的な印象を観客に抱かせるものであった。しかし、本展のコンセプトである「反戦展」という枠組み自体がひとつの文脈の生成であり、その文脈操作によって非政治的なものとして認識されていた作家の制作行為や観客の鑑賞行為といった日常をダイレクトに政治化し、今日の社会的な状況と関係付けようとする試みであったと考えることはできないか。この第二の意義は、もちろん先述の第一の意義を包括するものである。ここでの文脈操作は、あらゆる文化的な営為を政治化し、それらを様々な、微細なレベルでの抵抗へと転化させる可能性を持つものである。今日のこの国の状況において「反戦展」が持ちうる意義。それはアリバイ作り的な意思表示などではない。それは一見すると非政治的な日常を、そのままの姿で、様々な、微細なレベルでの抵抗に転化させるという予行演習である。この展覧会の意義を美術業界の言語ゲームのみに回収してしまってはならないだろう。この予行演習を日常のなかで実践的に役立てる日は、そう遠くないはずだ。

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巻き直し

35/16mmの編集機材を調達したので、コア巻きの状態からリールにプリントを巻き直す作業をおこなう。この作品に関しては3回同じ作業をしなきゃいけないので面倒くさそうと思われるかもしれないが、カットの繋ぎを観察しながら巻くのが楽しかったりする。これはNPOの仕事。その一方で、全く別件の仕事でDVDオーサリングの発注書を書いたりする一日。論文を投稿し終わったから、こういう雑事を楽しむ余裕も出て来た。論文が通るかどうかは知らないが。

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本日の散財

・Bill Morrison – Collected Works (1996-2013) / BD, DVD
・Maurice Lemaitre – Poemes Et Musiques Lettristes Et Hyperphonie / LP
・John Duncan & Jim O’Rourke – Yeah / LP
・Pauline Oliveros – Accordion & Voice / CD
・Pauline Oliveros – The Wanderer / CD
・Akos Rozmann – Images of the Dream and Death / 3LP
・Organum – Submission / LP
・Organum – Horii / 12″

九月前半の散財。ちょっとレコに対する意欲が戻って来たか。まず、Alga Marghenがリリースしたレトリスムの詩人モーリス・ルメートルのLP。過去のレコードからの編集版だが、初出音源も含まれているようだ。ジョン・ダンカン+ジム・オルークのLPは、クリストフ・ヒーマンのスタジオで過去に録音されていた音源を収録。やっぱり私が最も関心を持てるオルークの仕事とは、このような電子音楽・テープ音楽の延長線上でノイズの領域に関わった作品である。あまり日本のショップに入荷していない気がするが、京都の新しいウェブショップにて発見。前回の再発を買いのがしたまま忘れていたポーリン・オリヴェロスの初期作品は、「The Wanderer」に収録されたチュードアによるバンドネオン演奏が目当て。あとは、ユニオンで見つけた中古レコ。Megoが最近リリースしたアコス・ロズマンの3LPと、オルガヌムの過去作品2枚。前者はノイズとして聴取することが可能な現代音楽の文脈にある電子音楽。後者は再発・編集版では持っていたが、比較的安価でオリジナルを発見したので押さえた。実験映画の方は、ビル・モリソンの作品集をプレオーダー。5枚組みなのにとても安い。

Sampling from the “Mona Lisa”

Merchandise – Little Killer

4ADに所属しているアメリカのバンドMerchandiseが、先日4thアルバム『After the End』をリリースした(日本盤は9/24リリース)。このアルバムには「Little Killer」という楽曲が収録されており、初期ビデオアート的なチープなエフェクトが詰め込まれたPVも以前から先行公開されていたのだが、実験映画やビデオアートに関心のある人は、楽曲の終盤に使用されている電子音に注意してみると面白いことに気が付くかもしれない。引用元については、次のサイト下部の例の作品を参照のこと。
Post “Matsumoto Toshio: Selected Works”

MerchandiseAfterTheEnd
Merchandise – After The End(4AD,Hostess)
ユニオンにはグリーンヴィニール盤も入っているみたいです。
http://diskunion.net/rock/ct/detail/AWY140606-MD2

バーバラ・ロンドン スペシャル・トーク「ヴィデオ幻視者たち:それってテクノロジーと何の関係があるの?」

8月8日、ICCにて、MoMAにおけるビデオアート・メディアアートのキュレーターを長年務めていたバーバラ・ロンドン氏を招いて、「ヴィデオ幻視者たち:それってテクノロジーと何の関係があるの?」と題されたイベントが行われた。しばらくロンドン氏は日本に滞在していて、札幌国際芸術祭でも高谷史郎『Chroma』についてのトークに参加したり、京都でも同様のプレゼンを行ったりしたらしい。この日の登壇者はロンドン氏、パイクのエンジニアであった阿部修也氏、ICC学芸員の畠中実氏というメンバーだった。基本的にイベントは、ロンドン氏による個人的経験に基づくビデオアート・メディアアート史のプレゼンとして進行し、要所要所で三人が話を拡げてゆくというスタイルだった。以下、発言を逐次追った自分のためのメモを箇条書きでまとめておきます。聞き逃しや間違いも多い、かなり適当な内容なので、あまり当てにしないで下さい。(ちなみに会場からの質問の最初の二つは私です。)


ICC OPEN SALON
バーバラ・ロンドン スペシャル・トーク
ゲスト:阿部修也
ヴィデオ幻視者たち:それってテクノロジーと何の関係があるの?
Video Visionaries: What’s Technology Got to Do with It?
http://www.ntticc.or.jp/Archive/2014/Opensalon67/index_j.html

プレゼンテーション
・(ロンドン)1930年代のMoMAが掲げた「Art in Our Time」について。
・(ロンドン)初期のパイク作品について(新しいメディアの使用について)。
・(ロンドン)1960年代の初期ビデオアートについて。ニューヨーク市長であったリンゼイや、マクルーハンの映像をマグネットで変形させた作品群について解説。そこには政治的なものも含まれている。
・(阿部)パイクのエピソードをいくつか。金がなくてビデオ機材を質に入れたりした(笑)。パイクはマグネット操作が上手かった。
・(ロンドン)1968年、MoMAの「マシーン 機械時代の終りに」にて、リンゼイ、マクルーハンの映像を変調させた作品を展示した。パイクはビデオをループで上演したが二日で壊れてしまった。
・(ロンドン)ウォーホルがパイクのスタジオに行って影響を受ける。そして、ウォーホルは『Inner & Other Space』(1965)を制作する。
・(ロンドン)アルド・タンベリーニの活動について。
・(ロンドン)ビリー・クルーヴァーのEATについて。ハイエンドなテクノロジーもあれば、一方では阿部+パイクのDIYなテクノロジーも併存していた。フランク・ジレットの作品が映るが特に触れず。
・(ロンドン)1970年代のヒッピーアーティストのビデオツール(ポーターパック)について。
・(ロンドン)1973年、MoMAの「オープンサーキット」について。ここには松本俊夫も参加して報告を行った。
・(ロンドン)ヴァスルカ夫妻が「キッチン」を創設。『ヴァイオリンパワー』(1970-1978)について解説。
・(ロンドン)ジョーン・ジョナスの『ヴァーティカルロール』(1972)について。ジョナスは、1970年に一度来日しているはずで、その後ビデオを入手した。自分自身のアイデンティティを探って、ジェンダーをテーマとする。スタジオにて一人でビデオの実験をおこなっていた。
・(ロンドン)ミュージックビデオ、ローリー・アンダーソンの作品について。
・(ロンドン)1979年、ビデオアートの展覧会であるMoMA「Video from Tokyo to Fukui and Kyoto」について。これは他の美術館も巡回した。
・(ロンドン)古橋悌二とダムタイプについて。古橋の『Lovers』(1994)を紹介。
・(ロンドン)キュレーターのリサーチについて。90年代に行ったインタヴューをネットにアップロードする活動について(http://www.moma.org/interactives/projects/1999/dotjp/)。
・(ロンドン)現代のアーティストのツールは、ポーターパックからスマホなどに変化した。アーティストのビデオは、いまやメインストリームになった。
・(ロンドン)2013年、サウンドアートの展覧会であるMoMA「Soundings」が最後の仕事となった。ヘッドホンを使用しない展示空間を意図した。
・(畠中)『ヴァーティカルロール』におけるテクノロジーの誤用。初期のビデオアートやメディアアートにおけるメディアの再発見について。
・(阿部)パイクは良い時代に活動できた。彼はテクノロジーを普通の使い方で用いなかった。
・(ロンドン)キャンパスのインタラクティヴ作品を紹介。アーティストはメディアの使用法の発見をアートの段階まで押し上げている。
・(畠中)ビデオからサウンドへという関心の移行が、ヴィオラに表れている。
・(ロンドン)ビル・ヴィオラとデイヴィッド・チュードアのサウンド面での繋がりについて。チュードアの『レインフォレスト』と、ヴィオラの『He Weeps for You』(1976)を解説。
・(阿部)パイクのエピソード再び。パイクは言うことが無茶苦茶で困らされた(笑)。金がなくて親の遺産を前倒しでつぎ込んだ話も。アートはショックを与えるのが価値であると。加えて、古いメディアを保存してゆく必要性について。
・(ロンドン)MoMAでもブラウン管のテレビを保管している。会場にアーティストの方がいるならお願いしたい。作家自身が作品を守らないといけない。(テクノロジーメディアを用いた)作品を売る時には仕様書・指示書を付けてほしい。MoMAはそこを大事にしている、といった呼びかけ。

会場からの質問
・(Q:私)MoMAは1970年代からテクノロジーメディアを用いた作品を積極的にコレクションしてきた。当時、美術館内部ではどんな苦労があったのでしょうか?
・(ロンドン)展示物を繋げたりする際のエンジニアリングなど、問題は常にあり、難しい。(←質問の意図が伝わらなかった…。)

・(Q:私)ビデオが普及してメインストリームになったと言われたが、その通りで、今や「ビデオやテクノロジーをどのように捉え直すか」というようなアーティストの動機は薄まっている。初期のビデオアーティストにはそういった動機があった。今ではビデオを当たり前のものとして使っている。「ビデオとは何か、メディアとは何か」というコンセプトは存在しない。そのようなメインストリームになった、現在の美術としての映像作品を、初期のビデオアートと同じ文脈で捉えられるか?
・(畠中)初期のビデオアートと、今の美術における映像作品は、ビデオというメディアとしては同じものを使っているけど、アーティストのモチベーションとしては違うのではないかということですね?
・(ロンドン)まず時代背景が違うというのが大きい。70年代は政治的な時代だった(ウーマンリブの運動、ドラッグカルチャー、「2001年宇宙の旅」のインナートリップ…)。私が日本に来た頃はJVCの「東京ビデオフェスティバル」などがあり、普通の市民もビデオにアクセスするようになった。そのなかでアーティストはビデオを普通じゃない使い方で用いることを追求していた。
・(ロンドン)今も、日本に来て若手のアーティストと会う機会がある。地震・原発事故の問題などを取り入れた若いアーティストもいる。彼らはそういった背景の中でアートをどう捉えるのかについて意識している。しかし現在では、昔のアーティストのようにテクノロジーを全面的に捉えるのではなく、複数のレイヤーの中の一つの要素としてテクノロジーを使っている印象を受ける。
・(畠中)70年代のテクノロジーには、未来を想像させるという役割もあったのではないかという気もする。

・(Q:風間正氏)そのようなテクノロジーやアーティストの違いを考えるなら、60年〜70年代と今で、人々の意識がどう変わったのかを考えないといけないのでは。
・(ロンドン)60年~70年代は政治的な挑戦が多かったと思う。その後、経済が発展しバブルは崩壊した。そして景気も悪くなり、今は実践主義的な、コレクティブな活動が戻ってきている気はする。

・(Q:瀧健太郎氏)ある批評家が言っていたが、初期のビデオアートと2000年代以降のビデオアートの違いは、観客を邪魔するというか、マスメディアへのアンチやカウンターといったところがあった。初期の方がビデオのマテリアル性への意識が強かったのではないか。しかし、2000年代は参加性やイリュージョナルな方向に進んでいるんじゃないかという意見がある。どう思うか?
・(ロンドン)サイクルがあると思う。二つに分けられないとは思うが、確かに綺麗な作品は増えたような気もする。音楽もそうで、美しさとともに、ノイズも存在するんじゃないかと思う。

・(畠中)初期のビデオを含むテクノロジーアートは手作業のものが多いように思われるが、当時は機械がやっているだけじゃないかとも批判されていた。現在では技術が一般化して、普通の人でも技術に触れる機会が多くなった。それにより、DIY的なアートは盛んに作られている。しかし、テクノロジーに頼っているだけだという誤解は今もあると思える。
・(ロンドン)興味深い指摘であり、今はPCなどのオブジェクトのなかにある実体とは何か、それをアーティストがどう具現化するか、というセオリーが出てきている。

その後、畠中氏が阿部氏にまとめを振るが、そこからまた話が拡がったりもしながら、この日のイベントは無事終了した。個人的にはロンドン氏が、現在の美術における映像作品の一般化をどう捉えているか、少しだけ見えた気がしたので満足した。

近年の日本国内でのビデオアートの捉え方は、クラウスのヴィデオ論の文脈に囚われ過ぎているところがあり、それによって必然的に立体作品やインスタレーションなどの造形美術を手がけている(もしくは手がけていた)美術家のビデオ作品のみが重要視されるという、ややバランスを欠いた現状があると思う。そういう現状を思うと、東近美や都現美のような国公立美術館ではなくICCでロンドン氏のプレゼンを聴くという状況も、また必然なのかもしれない。MoMAのビデオアート・メディアアートのキュレーターという立場から俯瞰したビデオアート・メディアアート史は、通史としても興味深いものであり、こういった通時的な前提があってこそビデオアートやメディアアートを批評的に、あるいは拡張的に読み替えることが可能なのではないか、と思えた。


さて、後日ネットをあさっていると、ロンドン氏の京都でのプレゼンテーションのレヴューを発見した。大変クリアなレポートであり、とても分かりやすい。
http://www.kcua.ac.jp/arc/2014/08/12/barbaralondon/
そして更にネットをあさっていると、浅田彰が、このプレゼンテーションの際に客席から行った質問の趣旨と、それに関わるレスポンスを述べているのを発見した。エントリー自体は札幌国際芸術祭についてのものですが、「*注2(後記)」の項目を参照のこと。なかなか興味深い…。
http://realkyoto.jp/blog/sapporo-internationalartfestival2014/

Makino Takashi Open Experimental vol.2

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渋谷アップリンクにおいて、牧野貴の近作をまとめて上映する「Makino Takashi Open Experimental vol.2」が、8月3日に開催された。珍しく会場に足を運ぶことが出来たので、全作まとめてレヴューしておく。プログラムは「短編映画上映プログラム」と、「『Space Noise』ライブ上映+『Phantom Nebula』」の二部構成となっていた。この作家が、ここ数年の映画制作において何を主題としていたかを確認する、とても良い機会になったと思う。


「短編映画上映プログラム」
・『Article left by the departed』(2013年/8分/日本)
音楽:牧野貴
比較的はっきりとしたフォルムを保った水泡と、抽象的な粒子の運動が重ね合わされた、牧野と青柳龍太の二人展のための作品。

・『wordless in woods』(2014年/3.5分/日本+アメリカ)
音楽:タラ・ジェイン・オニール

タラ・ジェイン・オニールの楽曲「wordless in woods」のミュージックビデオとして制作された作品。木漏れ日の映像を素材とする、シンプルな抽象映像となっている。Youtubeで試聴可能(1080pでの視聴推奨)。

・『Ghost of OT301』(2014年/9分/日本+EU)
音楽:Inconsolable Ghost


牧野が所属する即興演奏ユニット、Inconsolable Ghostのアムステルダムでのライブ音源を使用した作品であり、珍しく音楽が先行する作品である。フィルムのスクラッチノイズやドリッピングのような微細な粒子が画面を埋め尽くす。その粒子の奥に、判別が難しい半抽象化した状態で、複数の人影が垣間見える。これは作家の解説によると、ある劇映画から取られたファウンドフッテージらしい。引用による意味の変形という方法が、この作家の表現方法にどのような作用をもたらすのか、まだ模索は始まったばかりだと思うので期待したい。

・『Generator』(2011年/19分/日本)
制作:愛知芸術文化センター 音楽:ジム・オルーク

愛知芸術文化センターの2011年度制作助成作品。東日本大震災の前から、同タイトルにて制作が進められていた。原発事故以前の東京の昼景/夜景を素材としながら、抽象的な光の粒子が都市を融解させてゆく。構想段階から「イメージの生成装置(ジェネレーター)」という作家のコンセプトは存在していたと思われるが、原発事故によって本作が背負うイメージは、作家の意図とは異なるものになったといえる。しかし、ある種の芸術の社会性とは、このように作家の意図を越えたかたちで、作品と社会との関係性のなかに生まれるものである。音楽は、ジム・オルークの弦楽器によるドローン主体の楽曲「Despite The Water Supply」(Touch, 7″)を、マルチトラックから再構成し直したもの。ロッテルダム国際映画祭にてタイガーアワードを受賞しており、牧野の海外の映画祭での評価を決定づけた作品である。未見の方は、愛知芸術文化センターのフェスティバルなどで定期的に再上映が行われているので、機会をみつけて観てほしい。Youtubeで試聴可能(ただし、Youtubeの解像度が最低限必要なレベルに追いついていないので、現場での鑑賞を推奨)。

・『2012 3D』(2013年/30分/日本)
音楽:牧野貴

一年を掛けて一本の映画を制作し、その生成プロセスを定期的に上映により公開するというコンセプトによって、2012年を通して作家が取り組んだ作品。この作家はじめての立体映画であり、片目のグラスを掛けてスクリーンを観ることによって、プルフリッヒ効果を応用した立体感を得ることができる(ただし、グラスの使用は観客の自由である)。グラスを掛けて鑑賞した場合、この作家が得意とする画面を埋めつくす微細な光の運動が、立体的な奥行きを持った複数のレイヤーのなかで立ち上がってくる経験を得られる。それは、現行の商業映画における3D技術とは、可能性のひとつに過ぎないということを突きつけてくる。ケン・ジェイコブスのパラシネマのアイデアに繋がる、技術的集合としての[映画]を内部的欠如から問い直す試みといえるだろう。また、映像メディアの移行期に制作されたこともあり、前半はフィルムによって、後半はビデオによって制作されている。前半における横方向に走る鋭利なエマルジョン面への傷、そして、後半における沸き立つようなピクセルの運動と、この使用されるメディウムの違いによる生成結果の異同も興味深い(フィルムであることの意義を、映画史的執着においてしか見出せない人々には理解しにくいだろうが)。ごく一部のみYoutubeで試聴可能(1080pでの視聴推奨)。


「『Space Noise』ライブ上映+『Phantom Nebula』」
・『Space Noise 3D』(2014年/30分/日本)音楽:牧野貴
アクション・ペインティング的な飛沫を主体とする抽象的な粒子の運動が、2台のプロジェクターによってスクリーンに投影される(ひとつは通常の方式でスクリーンに、もうひとつはスクリーンを包み込むようにして壁面に)。それによって、溶け合うようにして重層化された上映空間は、観客個人の注意の向け方によって、全く異なった視覚的経験が生成される場となる。更に、本作も『2012』と同じ方式の立体映画なので、片目のグラスをかけて観ると、重層化されたレイヤーの内部において視覚が分解されるような経験を得ることが出来る。なお、音楽は作家によるライブ演奏で、直線的なドローン・ハーシュノイズが生成されていた。このように、本作は視覚・聴覚を通して、リアルタイムに生成されるものとしての[映画]を追求するという、この作家のコンセプトが特に明確に表れている。

・『Phantom Nebula』(2014年/63分/日本+ノルウェー+オーストリア)
音楽:牧野貴、ROOM5、長谷川洋&マヌエル・クナップ
この作家の作品のなかでも最も長尺であり、新たな試みが随所に見られる作品。「The Bridge」、「Ghost of Cinema」、「Phantom Nebula」の三部から構成される。第二パートではノルウェーのROOM5が、第三パートでは元C.C.C.C./Astroの長谷川洋と、マヌエル・クナップが楽曲を提供している。パートごとに分けてレヴューしておきたい。
・Bridge: 水面の映像を重ねて抽象化を行うが、その生成プロセスを極めて判別しやすい形で見せている。それによって、意識が具体的な対象物から離れて、抽象化の方向へと向かうプロセスを観客に自覚させている。サウンドは作家によるドローン・ハーシュノイズ。
・Ghost of Cinema: この作家の今までの仕事の中でも、最も実験的なサウンドトラックの使用がみられるパート。サウンドトラックは外国語の会話のコラージュからスタートする。このような明確な具象性を持ったサウンドに対して、スクリーン上には、グリーンの粒子の運動を主体とした完全抽象の映像が投影される。一見すると、それらはマッチングしない組み合わせのように思われる。しかし、ここには映画以外の媒体からは得られない、映画に固有の経験が立ち上がっている。それは、端的に述べるならば、映像をサウンドによって異化させること、あるいはサウンドを映像によって異化させること、そのものである。続いてサウンドは、不安定な演奏の無国籍風の楽曲へと移行する。このサウンドトラックの転換方法は、ジム・オルークによる作品「Rules of Reduction」(Metamkine, MCD)に通底する、編集による意味の切断そのものである。
・Phamtom Nebula: 人工的・工業的な風景を素材としたと思われる抽象的な映像に、シンセノイズの奔流が併せられる。本作は全編を通して中央に抽象化された運動が集中するように構成されているが、このパートは、特にその構造が明確に見て取れる形になっていたように思う(すなわち、上下左右の対称性が分かりやすい)。