「反戦 来るべき戦争に抗うために」展@SNOW Contemporary

「反戦 来るべき戦争に抗うために」展
会期:2014年9月25日(木)- 29日(月)
会場:SNOW Contemporary
http://hansenten2014.tumblr.com/

作家の内部世界と外部世界の関わりや、政治と芸術の関係性といった1950年代の〈アヴァンギャルド芸術〉にて問われた設問。すなわち戦後復興期における作家主体のあり方を問うという枠組みは、記録とシュルレアリスム的表現を複合させたルポルタージュ絵画や、サークル詩を含む記録としての文学の領域において追求されていた。しかし、その枠組みは1968年の社会変化の中で、状況が内部世界と外部世界という二元論的において捉え切れなくなったために、政治的な文脈ごと無効化してしまったといってよい。その後の高度経済成長と80年代文化――ポストモダン的な、あるいは相対主義的なもの――の延長線上において、芸術と社会を同一の地平で捉えたうえで政治的・社会的テーマを扱うことは、制作の現場においては避けられるようになる(もちろん社会性の強い日本アンデパンダン展などの流れは続いていたが)。しかし、往々にして表面的な誤解を招きがちなので強調しておきたいが、芸術と社会を同一の地平で捉えるということは、作家が作品において短絡的に政治的メッセージを主張し、観客にそれを押し付けることを意味しない。そもそも、そのような短絡を乗り越えることこそが、花田清輝の文脈によって設定された1950年代の〈アヴァンギャルド芸術〉の目的であったはずだ。この歴史的な前提を確認したうえで、2011年の東日本大震災・原発事故を経て、抽象的な空気に流されるなかで、2012年の衆議院総選挙よって自民党に圧倒的権力を与え、秘密保護法成立から集団的自衛権の行使容認にまでやってきた、次の戦前を迎えつつある今日のこの国の状況において、土屋誠一の呼びかけによる「反戦 来るべき戦争に抗うために」展が持ちうる意義について考えてみよう。

私は9月28日、鈴木一琥のパフォーマンス『230万分の一』(2014)と元日本兵の谷口末廣氏のトークの最中に、道に迷いながらギャラリーにたどり着いた。倉庫を改装したと思われるギャラリーはあまり広くなく、そこに無審査のアンデパンダン方式で出品された54点の作品が、三つの壁面と床面を埋め尽くすようにして並んでいる。この日は16時から予約制のトークイベントもあるということで、実質一時間弱しか展示を観ることができなかったのだが、おおよその全体像は掴めたと思う(映像作品については、一部しか観ることができなかったので保留としたい)。アンデパンダン展であるが故に、作家のキャリアも、作品のコンセプチュアルなクオリティも様々である。しかし、ここで個別の作家・作品の優劣を問うても意味はないだろう。ここではふたつの意義を指摘したい。

まず一つ指摘出来るのが、自らの創作上の問題意識に基づく作品制作を貫きながら、せいぜいタイトルの操作のみで、敢えてこの「反戦展」の枠組みに自らの作品を持ち込むアプローチをとった作家がいることである。作家のキャリアを把握している訳ではないので先入観込みだが、リュ・スンウォン『come across』(2014)や池田剛介『Ice Plant Painting (川端龍子『爆弾散華』に基づく)』(2014)などのフォーマリスティックな平面作品は、このアプローチに含むことが出来るだろう。このアプローチによる作品は、一見すると“何故「反戦展」に含まれているのか分からない”という批判を呼ぶかもしれない。しかし、作品制作をその背後にある切迫した社会的な状況との関連において捉えるならば、制作という行為そのものが「抵抗」として立ち現れる。本展の第一の意義は、まずこのアプローチに見出せる。

それに対して、比較的ストレートに反戦というテーマに関わる作品を「反戦展」の枠組みに持ち込むというアプローチをとった作家も多数見られた。そのなかで、私にとって印象深かったのは次の作品である。ガードレールという物体そのものにメタ的テクストを貼付けて、ありふれた風景を変質させようと試みる前野智彦『ready-made』(2014)。「映画をめぐる美術」展と同じく会場にはURLのみを掲示して、ネット上のプロセス主体の映像作品へと観客を誘導する田中功起『一時的なスタディーズ#0』(http://kktnk.com/alter/antiwar, 2014)。1940年代の書籍と、現在販売されている書籍をその場で物々交換して、それを2080年まで保存する酒井貴史『70years』(2014)。「反戦展」への来場者カウント数それ自体を作品化する水谷一など。これらの作品は、反戦というテーマを踏まえたうえで、美術の外部を巻き込む重層性によって、作品と社会的な状況を関係付けようとする傾向を持っている。このような傾向は、本展の第二の意義として、日常をダイレクトに政治化することにも繋がってくる。

思えば、土屋による展覧会ステートメント自体が、作家に「反戦」というメッセージは求めないが、発表行為において名前を連ねることは求めるという、どこか宙吊り的な印象を観客に抱かせるものであった。しかし、本展のコンセプトである「反戦展」という枠組み自体がひとつの文脈の生成であり、その文脈操作によって非政治的なものとして認識されていた作家の制作行為や観客の鑑賞行為といった日常をダイレクトに政治化し、今日の社会的な状況と関係付けようとする試みであったと考えることはできないか。この第二の意義は、もちろん先述の第一の意義を包括するものである。ここでの文脈操作は、あらゆる文化的な営為を政治化し、それらを様々な、微細なレベルでの抵抗へと転化させる可能性を持つものである。今日のこの国の状況において「反戦展」が持ちうる意義。それはアリバイ作り的な意思表示などではない。それは一見すると非政治的な日常を、そのままの姿で、様々な、微細なレベルでの抵抗に転化させるという予行演習である。この展覧会の意義を美術業界の言語ゲームのみに回収してしまってはならないだろう。この予行演習を日常のなかで実践的に役立てる日は、そう遠くないはずだ。

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