Vatican Shadow LIVE – Varvara Festival

そろそろ誰かVatican Shadowを日本に呼ぶべきだろう。Functionとの共作もリリースされたことだし。ノイズ文脈でもクラブ文脈でも、この際どっちでも良いからさ…。

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マイケル・スノウ、恩田晃、アラン・リクト スペシャル・トーク「音楽/サウンド/アートの向こう側」

ICC Open Salon
マイケル・スノウ、恩田晃、アラン・リクト スペシャル・トーク
音楽/サウンド/アートの向こう側
http://www.ntticc.or.jp/Archive/2014/Opensalon70/index_j.html
マイケル・スノウ、恩田晃、アラン・リクト
司会:畠中実(ICC)

11月3日には、ICCでサウンド・ライブ・トーキョーのために来日中のマイケル・スノウ、恩田晃、アラン・リクトのトークイベント「ICCオープンサロン サウンドアートの向こう側」が開催された。トークイベント全体の構成は、三者の活動についてのプレゼンテーションの後、「音楽/サウンド/アートの向こう側」というテーマについて意見交換と質疑が行われるという流れだった。テーマが音楽やサウンドアートに関わるものであるため、実験映画についての言及は控えめだったが、それゆえに諸メディウムに取り組む際のスノウのスタンスが問題化された、大変興味深いイベントとなっていた(実験映画については、急遽設定された、11月7日のイメージフォーラム上映会後の質疑のなかで中心的に語られることになる)。


恩田氏とリクトのプレゼンテーションの後、スノウのプレゼンテーションが行われたので、質疑も含めて、例によって走り書きのメモをまとめておきます。いつもながら大変適当なメモなので、あまり内容を信頼せずに、参考程度に読んで下さい。それにしても、フリージャズ/フリーインプロの活動とはまた異なる、スノウのサウンドアート寄りの作品についても、しっかり言及する畠中氏の目配りは実に素晴らしいものだった…。

マイケル・スノウ プレゼンテーション
・(スノウ)私にとって視覚芸術とサウンドは同時期にやってきた。高校の頃にジャズに感動した。ニューオリンズ・ジャズのインプロヴィゼーションに関心を持ち、バンドで演奏するようになる。同時に芸術の方で受賞もした。その流れでオンタリオ・カレッジ・オブ・アートで絵画を学んだ。ジャズも続けながら。そして次のメディウムに出会う。

・(スノウ)そして、絵画の個展を観に来た人物より、映画会社の仕事のオファーを受ける。「このような絵を描く人はフィルムに興味を持つに違いない」、「アニメーションの作り方を学ばないか」と言う。絵画を描いていた頃は映画に興味はなかったが、こんな魅力的なオファーには抵抗できない。この人物は後に『イエローサブマリン』を制作するアニメーター、ジョージ・ダニング(George Dunning)だった。

・(スノウ)しかし、ジャズの演奏は続けており、それで食べていくことにした。映画会社も辞めてしまう。ジャズの即興性に興味があり、前衛的な取り組みに向かう。徐々に、ひとつのテーマに基づく演奏ではない、フリーインプロの方向へ向かう。

・(スノウ)こうして私の手元には様々な媒体(絵画、彫刻、音楽、映画など)がある。そして、映画の中のイメージとサウンドの関係は無限にあることを発見する。

・(スノウ)『New York Eye and Ear Control』(1964, Film):映像とサウンドが個々に存在する試み。イメージに沿うようなサウンドではない。アルバート・アイラー、ドン・チェリーなどが演奏(註:このセッションは、Albert Ayler – New York Eye and Ear Control, 1965, ESP-Disk としてリリースされている)。静的であった所に、サウンドのモーションが持ち込まれる。サウンドとフィルムとの関係を実践した。

・(スノウ)『波長 / Wavelength』(1967, Film):低音から高音まで、サイン波が40分かけて変化し、それに合わせて映像が空間の中をズームして行く。

・(スノウ)『中央地帯 / Central Region』(1971, Film):長時間にわたって風景を表す映画。

・(スノウ)『ラモーの甥 / Rameau’s Nephew by Diderot (Thanx to Dennis Young) by Wilma Schoen』(1974, Film):4時間半にわたる、いろんな対話。30(註:実際には26)のチャプターに別れていて、それぞれ音と映像の関係を組織化。その一例を述べると、タイプライターやペンや本など、散らかったテーブルを撮影する定点カメラがある。そこに手が入って来て、整理分類を行う。そこに手の動作を説明する女性の声が入る。しかし、音声による動作の説明が、動作の前だったり、ずっと後だったりしてズレる。音声と動作の時間の長さは同じなのに、タイミングが前であったり、後であったり、同時であったりする。

・(スノウ)音楽の方では、CCMCとしてフリーインプロを続けてきた。今の音楽では様々な録音技術があるが、60年代に私は、レコーディング自体がドキュメンテーションであり、レコーディング自体がインストゥルメント=楽器としての役割を持つと気が付く。そして、フィルムとビデオの作り方には非常に異なる点があることが分かった。フィルムの場合は映像とサウンドを別個に扱う。サウンドを別個に操作してゆく事ができる。それにより様々なドキュメンテーションができる。Chatham Square Productionsからリリースした最初のレコード『Musics For Piano, Whistling, Microphone And Tape Recorder』でも、マイクの表面を利用して口笛を演奏した曲がある。Chatham Square Productionsは、Philip Glassのファーストをリリースしたレーベル。

・(スノウ)『Musics For Piano, Whistling, Microphone And Tape Recorder』(1975, LP):『W in D』(Whistling in the Dark)という、息切れするまで、なるべく長く口笛を吹くという楽曲。それぞれ別個の音を吹いてゆく(註:『ラモーの甥』にも、スノウがマイクの表面を利用して、手でマイクをコントロールしながら口笛を吹くパートがある)。(しばらく『W in D』を聴く)

・(畠中)『Last LP』のことも紹介して下さい。

・(スノウ)『The Last LP』(1987, LP):こうして様々な録音をするようになっていった。『The Last LP』は、LPがCDに置き換わる時に作られた。これは完全にスタジオで構築していくもの。過去の文化、歴史上の音楽を思い返す。エスノグラフィックな音楽。全て私が作った。アフリカ、エスキモーなどの文化を背景としたもの。ブックレットには、背景についての説明文が書かれている。そのなかの『Si Nopo Da』はニジェールの、儀式の際のお祭りが題材。(しばらく『Si Nopo Da』を聴く)

SI NOPPO DA from THE LAST LP by Michael Snow from Phil Solomon on Vimeo.

・(スノウ)これは全て私の声で、ピッチを変えてマルチトラックレコーディングで制作した。私の限られた知識内であるが、その地域の音楽を考察して録音した。『Si Nopo Da』のアイデアは、ホイットニー・ヒューストンから仕入れた(註:『恋は手さぐり』のこと)。『Raga Lalat』はインドのベナレスの音楽。悲しい事に、楽曲の最後で聴こえる爆発によって、若きミュージシャンのパラク・チャワルは亡くなった(笑)。インドから伝わったハーモニウムの歴史を思いながら聴いてほしい。(しばらく『Raga Lalat』を聴く)

・(畠中)このレコードは不思議な体裁で、ジャケットはいかにもフィールドレコーディングなんだけど、フェイク民族音楽といえる。こういった民族音楽が残らなくなった時に、このレコードが一つの記録として、捏造されたものが残っていくというのが、とても面白い。

・(畠中)三方は、音楽や映画、写真など、元々の表現から、ジャンルを乗り越える活動をされてきた。『波長』も音楽的な作品として聴くことも出来る。ズームとのシンクロによる構造映画。そして、『ラモーの甥』は構造の一致を撹乱するもの。映画でありながら音楽(サウンドワーク)であるともいえ、両義性があると思うが、どうですか?

・(スノウ)それぞれが固有なので、一般的にはいえない。『波長』について言うならば、さまざまな音が入っている。電子音のクレッシェンドに加えて、声、環境音、ラジオ、ガラスの壊れる音など。自然音と抽象音の組み合わせ。

・(畠中)構造映画は形式を重視するといわれるが、確かに『波長』は細部の作りこみがあると思う。音と映像の関わりについていうと、恩田さんはカメラが壊れて、カセットで音を録るようになったといわれた。写真には、そもそも証拠的なところがある。しかし、恩田さんのカセットの場合、演奏では匿名性を持ったサウンドスケープが立ち上がる。

・(恩田)カメラは静止画像で時間軸がない、しかしテープは時間軸があり、動画に近い。フィルムやビデオのように、時間軸を持った記録に近接した。メディアが変わることで、表現の性質が変わってしまう。スノウさんのやってる事もそうでは。画家というバックグラウンドから映画に入った。メディアを飛び越える事で、間違いや意図せぬものが入り込んで一つの形態となる。メディアの拘束性とそれを乗り越えること。それも可能性だと思う。

・(畠中)リクトさんの「サウンドアート」には二つの方向性がある。一つはメディアを乗り越える事で音が取り込まれるということ。もうひとつは、音だけに還元すること。サウンドアートは定義しづらく、メディア同士の関係のなかで出来る。そのなかで、音だけの還元も行われてきた。恩田さんのメディアを越えるという話も踏まえながら、リクトさんにサウンドアートについて話してもらいたい。

・(リクト)サウンドアートとミュージックの違いは、サウンドアートはリスナーとリスナーの関係によるもので、ミュージックはプレイヤーとリスナーの関係。サウンドインスタレーションや音響彫刻について。鈴木昭男のパフォーマンスは、サウンドアートとしてのパフォーマンスであり、聴くという部分が重要。

・(畠中)今日のテーマは「向こう側」だけど、もしかして「あいだ」なのかも。恩田さんは時間軸と言われたが、映像にはいかずに音だけの記録に留まった。それが結果として面白い事になった。また、ブラッケージの話も出ていたが、聴く映画があってもいい訳で、皆さんの試みとはメディアの交換で、見ることを聴いたり、聴くことを見たりという、感覚の乗り越えなのかもしれない。

・(恩田)アートは疑問を投げかけることが出来る。アイデアでひっくり返せる。そこが面白い。音楽は意外とそういうのがない。

・(スノウ)サウンドの一部にミュージックがあり、そのミュージックを構成するもののなかにサウンドがあるとも言える。

・(畠中)自分の表現としてはどうですか? スノウさんの仕事の中でジャンルは相互干渉するのですか?

・(スノウ)関係については言えない。私はピュアリスト(純粋主義者)なので、彫刻は彫刻でちゃんと作る。個々の作品で私の考えが出ている。全体的なメディアの関係は言えない。

・(畠中)作品の中に、いろんなメディアの要素が詰め込まれるのではないということですね。

・(スノウ)それぞれが個々の世界を持っているのが理想的だと思います。

会場質疑
・(会場)『波長』や『中央地帯』といった映画の仕事が、今日のように音楽の側から言及されたことはあまりなかったと思うが、スノウさんのなかでは、このような映画作品を作る時に、映画としての動機が先にあったのか、音楽としての動機が先にあったのか、どちらですか? 

・(スノウ)『波長』や『中央地帯』についてだが、フィルムが先で作りたいと思ったか、サウンドが先で作りたいと思ったかといえば、その両方なので、別個に言うことは出来ない。両方を構築していく。カメラの動き、関係性を見る。これらの作品はファミリーとして考えられる(註:『バック・アンド・フォース』を含めての発言だと思われる)。

・(恩田)スノウさんの場合はメディアを越えた時に、各メディアで出来ることをやろうとする。私やリクトさんなら、メディアを越えた時に違うものを持ち込む。全体の話の中でBetweenという言葉が出ているので、曖昧になっている。各人が違うスタンスを持っていると思う。そこは混同しない方が良い。スノウさんは彫刻は彫刻と言っていたが、そのようなスタンス。

・(畠中)ちょっと難しいのが、映画はイメージと音があるということかも。

・(スノウ)イメージと音といいますが、私は2つサイレントフィルムも作っています(笑)。

・(畠中)言い方が悪かったが、映画は映画として作る。ピュアリストとして、映画というフォームなんだということですね。作家各人の手法をひとつにまとめて言えないかもしれない。

・(会場)少し付け加えますと、スノウさんは「彫刻家として音楽を作る」とか「映画作家として音楽を作る」とか、(註:正しくは「映画作家の描いた絵、ミュージシャンの作った彫刻、画家の映画、映像作家の音楽、彫刻家の絵、映画作家の彫刻」、Michael Snow, Statement 18 Canadian Artists, 1967)そのように言っておられた。そういう言い方をした時に、さっき言っておられた純粋性、映画なら映画、音楽なら音楽という純粋性というのは、どういうふうに捉えられているんですか?

・(スノウ)それは確かに私が言ったことですが、1967年頃のかなり昔に言ったことで、それが完全に守られてきたとはいえない。なぜ私がその時、そう言ったかというと、個々のメディアを見た時に、そのメディアが従来するであろうこと以外に何が出来るか、そこに皆さんの注意を向けたいという意図があった。そう言ったことで、それが複雑なかたちで皆さんに取られた。しかし今は、ピュアリストと言ってくれたように、彫刻家として彫刻に、写真家として写真に、音楽家として音楽にアプローチしている。なので、1967年の発言から今の私を見て、皆さんはますます混乱なさるだろう。

・(リクト)マルチディシプリナリー、学際的に、メディアを横にまたがるように扱うのがスノウさんだと言える。それぞれのディシプリンの中で確立したものがありながら、それを横断するかたちでメディアを使う。

その後も質問は続き、畠中氏の司会によってシンポジウムは首尾よくまとめられて終了した。


上記の会場からの質問は自分だったのだが、スノウが様々なメディウムを横断しながらも、なぜ個々のメディウムあるいは個々の作品においてはピュアリストとして振る舞うのかという問題について、かなり興味深い発言を聴くことが出来て、個人的には大変満足した。また、畠中氏の述べたメディウム同士の「あいだ」という問題意識自体は的を外してはいないと思えた。確かに恩田氏の述べる通り、作家各人でコンセプトに違いがあるので一元化することは出来ない(スノウはフォームの純粋性を保持し、恩田氏やリクトは違うものを持ち込むというかたちで)。しかし、諸メディウムの機能が徹底して対比されているという点においては、三者は共振している。恐らく対比の方向が異なるのだ。大まかに言うならば、フォームの純粋性のなかでそれ自体を内破させるようにしてメディウムの隠れた機能をあぶり出すのがスノウであり、フォームの不純性によってメディウムの転覆を目論むのが恩田氏やリクトであると——ひとまずそのように表現できるのではないか。このフォームとは技術的な慣習を含む。言うまでもなく、そこからパラシネマや、ポストメディウム論に至るまでの距離は、あと少しだろう。

本日の散財

・James Benning – natural history & Ruhr / DVD
・ジョルジュ・バタイユ – ドキュマン
・ハンス・ベルティング – 美術史の終焉?
・三浦哲哉 – 映画とは何か: フランス映画思想史
・池田龍雄 – 視覚の外縁
・文藝別冊「赤瀬川原平:現代赤瀬川考」
・「赤瀬川原平の芸術原論」展覧会カタログ
・「ディスカバー、ディスカバー・ジャパン 「遠く」へ行きたい」展覧会カタログ
・Grim – Vital 1983-86 / Cassette
・Grim – Divine Music For Sleeping + Field 1987 / Cassette
・Muslimgauze – Hebron Massacre / CD
・Merzbow – Red 2 Eyes / 10″
・篠崎史子, 小杉武久 – ハープの個展 / LP
・CCMC – CCMC Play At Double Double / Cassette
・Ugandan Methods & Prurient – Dial B for Beauty / File
・Akkord – HTH030 (Haxan Cloak and Vatican Shadow remix) / 12″, File

十一月上旬までの散財。ベニングのDVDは以前注文していたが、手違いがあったため再注文。『ドキュマン』は、ゆっくりと楽しみながら読んでいるが、二見書房版とは異なり図版が文章に併置されていて、バタイユの意図が分かりやすくなっている。その他は、展覧会場で購入したり、買い逃していたものをオーダーしたり、中古で拾ったり、プレオーダーしたもの。

上記レコ関係のなかでも、注目すべきはこれだろう。本当にVatican Shadowことドミニクの変貌には驚かされる。ブラックメタル系のアンビエントを通過したうえで、ダンスフロアに持ち込まれたインダストリアル・ノイズ。またはMuslimgauzeの、あり得たかもしれない別の姿。

マイケル・スノウ+恩田晃+アラン・リクト @ 渋谷WWW

11月5日・6日の両日、マイケル・スノウ+恩田晃+アラン・リクトのコンサートが、サウンド・ライブ・トーキョーのプログラムとして、渋谷WWWにて行われた。遠方なのでサウンド・ライブ・トーキョーのプログラムを聴きに行くのは初めてであるが、この演目なら駆けつけない訳にはいかない。

日本においてマイケル・スノウは、イメージフォーラムが『波長』と『←→(バック・アンド・フォース)』の16mmプリントを貸し出していたので、主に実験映画の作家として知られている。その一方で、国内の美術の文脈においては、原美術館で開催された個展を唯一として、それ以外の場所で取り上げられることはなかったように思う。国内の美術館の学芸員にしてみれば、実験映画作家として知られていたスノウは、自分たちのジャンル外の作家として映ったのだろうか。そういった日本の美術業界特有の映画・映像に対するねじれは長く続いたが、ようやく近年になって、「ヨコハマ国際映像祭」や、国立国際美術館「中之島映像劇場」などで、スノウの映像作品を取り上げるケースが散見されるようになる。しかし、それでもまだ、スノウの音楽関係の仕事に光を当てるところまでは行ってなかった――せいぜい「ジャズミュージシャン」という肩書きが紹介文の末尾に記述されるくらいに留まっていた。それが今回、まさかの数十年振りの来日である。本当にサウンド・ライブ・トーキョーのプログラマーには感謝したい。スノウの音楽の仕事にはフリージャズ/フリーインプロといった即興演奏者としての活動と、疑似民族音楽やサウンドインスタレーションなどのサウンドアート寄りの活動という二つの側面があるが、今回のコンサートは前者に光を当てるものとなっていた(後者については、11月3日にICCで行われたトークイベントの中で、学芸員の畠中氏からフォローがなされていた)。

今回の共演者についても述べておく。アラン・リクトはフリーインプロのギタリストで、1990年代から活動しており、ローレン・マザケイン・コナーズとの共演作が多数ある。恩田晃は、1990年代にはオーディオ・スポーツとしての活動で知られ、後にカセットテープによる、フィールド・レコーディング音源を使用したフリーインプロに転じた作家である。スノウを含め、この三者は2000年代中頃から度々共演を重ねており、2008年には『Five A’s, Two C’s, One D, One E, Two H’s, Three I’s, One K, Three L’s, One M, Three N’s, Two O’s, One S, One T, One W』をリリースしている。


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11月5日
・マイケル・スノウ ソロ
・マイケル・スノウ+恩田晃+アラン・リクト トリオ

マイケル・スノウ ソロ:
スノウの演奏するピアノにマイクは立てられておらず、生音のみである。まず、第一セット。前方の指の動きが見える位置に席を取ったが、85歳という年齢を感じさせない、滑らかな即興であった。軽やかに弾かれる音が空間に敷き詰められるが、フリージャズ的な熱さは希薄であり、どことなく上品なサウンドとなっている。続く第二セットは、右手と左手の音域を対比させたり、左手で演奏しながら右手をピアノ本体の中に差し込んで、ピアノ線を押さえて反響をコントロールしたりするなど、ピアノの構造を前面に出した演奏を聴かせた。最後は既存のテーマに収斂するという、フリージャズの典型をなぞる余裕を見せて終了。

マイケル・スノウ+恩田晃+アラン・リクト トリオ:
後半はトリオによるロングセット一本のみ。スノウはCATシンセサイザーを使用(ピアノにはマイクも立てられていたのだが、最後に遊びで一音弾いただけで、ほぼ使用されず)。リクトはギターとエフェクター。恩田はテープ(サンプラーも使用していたかもしれない)に加えて、シンバルやガラス瓶など。全体的な構成は、リクトによるE-Bowやエフェクターを駆使したギタードローンを下地としながら、その上で、スノウがひたすらシンセサイザーのつまみを操作して電子音を発し続けるというもの。そして恩田は、スノウに対峙するようにして、テープによって環境音や人声などのレイヤーを積み重ねてゆく(要所では、シンバルなどによる破砕音も加える)。フリージャズ的な残滓が全くない集団即興によるドローンとなっており、なかなか聴き応えがあった。


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11月6日
・恩田晃+アラン・リクト デュオ
・マイケル・スノウ+恩田晃+アラン・リクト トリオ

恩田晃+アラン・リクト デュオ:
このセットでのリクトの演奏は、ドローン主体だった昨日とは違って、通常のギター演奏なども取り入れたものになっていた。それに対して恩田は演奏の下地を支えるような役目に回る。すなわち、昨日とは役割が逆になったような印象であった。ギターとテープという組み合わせが、なかなか合わせ難いところがあるのかもしれないが、ギター演奏のバリエーションを模索するような展開だった。

マイケル・スノウ+恩田晃+アラン・リクト トリオ:
この日は長めのセットを一本と、短いセットを二本演奏した。使用楽器は昨日と同じだが、スノウは最初からピアノも使用していた。第一セットは、まずピアノのスリリングな即興から開始される。しかし、すぐにスノウはシンセサイザーに向き直り、昨日と同じ編成となる。やがて、恩田がノイジーなサウンドをテープから繰り出し、スノウも激しい電子音を発しはじめ、リクトのギターも重なりながら、勢いのあるハーシュな展開へと向かう。ドローンではない、各人のサウンドが縦横無尽に運動する素晴らしい演奏だった。続いて第二セット。恩田のテープ(サンプラー?)から繰り出される間欠的なノイズに、スノウの細分化されたピアノが絡まり合う。リクトはシールドのプラグを素手で持って接触不良音を出すなどする。最後の第三セットは、恩田のテープ(サンプラー?)から繰り出されるシンプルな電子音に、スノウの流麗なピアノが重なる展開だった。

二日間を通してトリオの演奏を観た訳だが、全体として恩田のテープによって場面が設定される傾向があり、スノウがピアノとシンセサイザーの演奏によってそれに対応し、リクトが空白を埋めるようにして全体を背後から補助しているような印象を受けた。音楽としてはテープと電子音を中心としたフリーインプロの範疇に収まるものだったが、スノウの即興演奏者としての技量、表現力は充分に確認することが出来た。他方で、スノウがこのようなフリーインプロと併行して、メタ音楽とでもいうべきサウンドアート寄りの作品も制作していることは、忘れてはならないだろう。このようなフリーインプロの演奏もスノウが楽器を操作しているというだけで、単なるフリーインプロではなく、ある条件下での音楽形式のテストのように思えてくるのだ。