第7回恵比寿映像祭「ケン・ジェイコブス:知覚のアドヴェンチャー」

アメリカ実験映画の代表的作家のひとりである、ケン・ジェイコブスの特集。基本的なことを述べておくならば、ジェイコブスは映画の機構をコンセプトとする構造映画を始めとする作品を手がけてきた作家であり、1905年の映画(ビリー・ビッツァーによる)から取られた短いフッテージを2時間以上の作品として再構成した『トム、トム、笛吹きの子』(1969)などの映画によって知られている。2000年代からは、僅かに視差のずれた静止画像をネガポジ反転させたうえで数フレーム単位で反復させる擬似立体視手法を使用しており、パラシネマ的な「映画の再発明」に取り組んでいる。このところ日本国内の言説では商業的ではない3D映画というと、飛びつくようにしてゴダールの『さらば、愛の言葉よ』が論じられるという、それ自体興味深い状況が展開されているが、ともあれ、映画におけるメディウムの定義をやり直すなかで「映画の再発明」を考えるのならば、ジェイコブスの近作は避けて通ることが出来ないものであり、そこに異論を挟む人はいないだろう。今回の特集では『ディスオリエント・エクスプレス』と、擬似立体視手法を用いた『もうひとつの占領』と『モンキーキングを探して』が上映された。


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・ケン・ジェイコブス – ディスオリエント・エクスプレス Ken Jacobs – Disorient Express
35mm, 30min, 1996
1906年の映画から取られたフッテージを引用して、同一の像なのに条件が異なるだけで知覚が全く違うものを見出すということを明らかにする作品。元々のフッテージは、山中を走る機関車が駅に到着するまでの過程を、機関車上から撮影した数分間のフィルムである。このフッテージが左右に並べられ、再生方向の正逆の反転と、フレーム上下の反転という、二つの要素の最小限の組み合わせによって提示される。組み合わせのバリエーションは以下のとおり。

パート1:フレーム上下逆、再生正方向、左右両面
パート2:フレーム上下正、再生正方向、左面のみ、終了時にそのままパート3につながる
パート3:フレーム上下逆、再生逆方向、右面のみ
パート4:フレーム上下逆、再生逆方向、左右両面、終了時にそのままパート5につながる
パート5:フレーム上下逆、再生正方向、左右両面

パート1では、観客はスクリーン上においてセンターラインから溢れ出す抽象的なイメージを見ようとするだろう。しかし、パート2の正常な映写において、観客はその映像が元々は列車の運行を撮影した、何の変哲もないものであったことを了解する。そしてパート3・4において、段階的にフッテージに対する操作が加えられてゆき、最後のパート5においてはパート1が反復されることになる。ここで映画は人間の知覚作用の脆さを明示するものとして機能することになり、観客に興味深い現象をもたらすものとなる。すなわち、観客がそこに元のイメージを見出そうとするならば、スクリーンには列車の運行が立ち現れ、逆に抽象的なイメージを見出そうとすれば、スクリーンから列車の運行が完全に消え去るのである。この映画において何を観るかは観客それぞれの意識に委ねられる。モノクロ。サイレント。
(ネット上に低解像度のアンオフィシャルなムービーがアップロードされているが、あれを見て映画を知った気になるのもどうかと思うので、URLは貼らないでおく。)

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・ケン・ジェイコブス – もうひとつの占領 Ken Jacobs – Another Occupation
HD-Video, 15min, 2010
東南アジアの植民地と思われる地域の河川を、列車上から撮影した古い記録フィルム。これをフッテージとして引用し、数フレームの反復による擬似立体視手法を用いて構築した作品。このように述べると、本作は『Celestial Subway Lines / Salvaging Noise 』(2005)に連なる、ジェイコブスの立体映画の連作の中に位置付けられる作品だと思われるかもしれない。しかし、本作の狙いはそのような「映画の再発明」だけに止まるものではない。この映画はタイトルの通り政治的なテーマを持っており、その表現も比喩的なものではなく、映画の中に挿入される字幕によって明示される直接的なものになっている。その字幕とは以下のような趣旨のものであった。

・「奴隷の最も劣悪な形態は兵士だ」
・「将校の地位は殺した人間の数で決まる」
・「危険な任務と退屈な待機に耐える、これは国家が与える最悪の人生だ」
・「キャンプは一般人を兵士に変える」

思えば、ジェイコブスの映画の中には、『Capitalism』シリーズや『Star Spangled to Death』(2004)のように政治的な傾向はあったが、それがここまで明確化されているというのは、やや意外だった。ただし、ここで言う政治とは特定の思想を他者に押し付けるようなものではなく、日常生活や芸術・文化のあり方に関わる、個人の生活レベルでの抵抗に属するものである。この点は誤解すべきではないだろう。カラー。サウンドは Rick Reed によるアンビエント。
(Vimeoには、オフィシャルなムービーがアップロードされているので、なるべく良い環境で参照のこと。http://vimeo.com/105918432

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・ケン・ジェイコブス – モンキーキングを探して Ken Jacobs – Seeking the Monkey King
HD-Video, 39min, 2011
薄いアルミの表面の反射を接写し、これを素材としてフレームの反復による擬似立体視手法を展開した作品である。それと同時に、本作は『もうひとつの占領』と同じく政治的なテーマを持った作品でもある。ただし先述の通り、ジェイコブスの作品でいう政治的であることとは、私的な領域から発した、個人の生活レベルでの抵抗であることは言うまでもない。字幕の大まかな趣旨は以下の通り。

・アメリカの植民政策の歴史を批判
・「モンキーキングよ、我々はあなたの足元の泥だ」
・ケネディ暗殺、オバマの変化、「モンキーキングは高笑い」
・奴隷制の歴史、ウィキリークス、911、イラク戦争を批判、「モンキーキングだ!よし、このまま進もう」
・「街に奇妙な人々が溢れている。テニスを楽しめと言いたい。それができるのは富裕層だけだと気がついた。マルクスを読め」
・「アメリカは虚構だ」、「芸術作品は空箱だがうまく売買される」
・ジャン・ヴィゴの『操行ゼロ』、ガーシュウィン、デレン、ブラッケージなどの、芸術に関わる名前の列記
・「宇宙は我々のことなど知らない」、「芸術など関係ない」、「私は人間でありたい」

多くの場合、構造映画といえばコンセプチュアルな、芸術の純粋性を追求するモダニズム的なものとして、表面的に捉えられがちである。確かにそのように捉えるならば、本作のような個人の生活から発した政治意識の言語化などは、フォーマリスティックな芸術作品においては不純物でしかないだろう。しかし、構造映画が映画において、それに関わる文化的なイデオロギーや諸制度を解体しようとする、文化的な抵抗であったと捉えるならば事情は変わってくる(ピーター・ジダルによる「構造的=物質主義的映画」のマニフェストを参照のこと)。そのように考えるならば、ジェイコブスが映画に潜んでいるイデオロギーや諸制度に対して「映画の再発明」を試みることで抵抗しながら、政治的・社会的な抑圧として現れるイデオロギーに対して個人として抵抗の声を上げることは、作家の動機において一致していると言える。私が本作から受けた衝撃とは、そこに尽きる。カラー。サウンドは Jim Thirlwell(Foetus)が担当。商業的な映画音楽をわざと模倣したかのような、大げさな音楽となっている。
(Vimeoには、オフィシャルなムービーがアップロードされているので、なるべく良い環境で参照のこと。http://vimeo.com/106030243

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第7回恵比寿映像祭「あたらしい過去:ダンカン・キャンベル」

2014年のターナー賞を受賞した映像作家、北アイルランド出身の作家であるダンカン・キャンベルの特集。北アイルランド問題をはじめとして、様々な政治的テーマを分析する映像作品を手がけているようだ。スタンスとしては、ハルン・ファロッキのラインにいる作家だと理解すればいいだろう。

Bernadette
・ダンカン・キャンベル – バーナデット Duncan Campbell – Bernadette
Video, 38min, 2008
1969年に21歳で下院議員に当選した、北アイルランド公民権運動の活動家であるバーナデットの記録映像をもとに、新たに撮影した映像を加えながら、過去を現在から語り直そうとする作品。政治的な季節の記録映像を経て、作品の終盤でバーナデットは、「私」として社会化される以前の、極めてパーソナルな自分について語り始める。カラー。サウンド。

itforothers
ダンカン・キャンベル:他のものたちに Duncan Campbell – It for Others
HD-Video, 54min, 2013
ターナー賞を受賞した作品であり、物についてのマルクス主義的な映画である。まず、レネ+マルケルの『彫像もまた死す』(1953)のアフリカ彫刻のフッテージを引用しながら、ヨーロッパの植民地主義による、アフリカ文化の強制的な融合についての思考が語られる「二つの文化が平等に出会えていたなら…」、「アフリカの村落の、芸術・文化の可能性は失われた…」などの言葉と共に、博物館側の「文化的継承のため」という不平等な主張もインサートされる。次に、交換と流通の構造が、五人のパフォーマーのダンス・パフォーマンスによって絵解き的に説明される。そして、日記の日付によって区切られながら、様々なイメージとマルクス主義的な言葉によって、交換価値についての思索が深められてゆく。アイルランド共和軍(IRA)の兵士の写真から、その写真がプリントされたグッズを製造する中国の繊維工場へと映像は流れて行き、やがて思索は「この作品の価格」に向けられてゆく。最後にはカードゲームに興じる男たちの手の映像に重ねて、「作品の価値は市場や観客によって決まる——社会の価値体系において、価格とはそれを反映する変数である」という旨の、作品の交換価値を作品が規定するというメタ的な結論に至る。カラー。サウンド。

第7回恵比寿映像祭「フィンランド・ヴィデオアートの現在形:AV-arkkiより」

フィンランドの非営利配給組織、AV-arkkiの作品集。日本ではフィンランドの映像の情報などは殆ど知られていないので、その表現の豊かさを知る良い機会になった。一応、使用メディアがビデオなのでビデオアートとして括られているが、実験映画的な方法論も目立つプログラムだった。以下、印象深かった作品についてのみ述べる。多くの作品がAV-arkkiのウェブサイトにて公開されているので、参照のこと。
http://www.av-arkki.fi/

・ピンク・ツインズ – デフェンストレイター Pink Twins – Defenestrator
Video, 8min30sec, 2008
コンサートホールなどの空間を撮影した静止画像を電子的なエフェクトで崩して抽象化する作品。良くも悪くもグラフィカルな面白さに留まる。カラー。サウンドはmegoのようなデジタルノイズ。

・アデル・アビディン – 戦争の消費 Adel Abidin – Consumption of War
Video, 3min20sec, 2011
スーツ姿の二人のビジネスマンが、おもむろに天井の蛍光灯を取り外し、スターウォーズごっこに興じる。チャンバラの最中に蛍光灯は次々に割れてゆき、部屋が真っ暗になって終わり。テーマが若干安直かもしれない。カラー。サウンド。

・ピルヴィ・タカラ – イージー・ライダー Pilvi Takala – Easy Rider
Video, 4min25sec, 2004
バスの中で、仕込みの役者が「プレゼンに行くが事情があって準備ができていない。困っている。ジャケットを貸してくれ」と、見知らぬ男性に頼み込む。男性は躊躇しながらも、役者の頼みを受け入れる。最初は不審がっていた周りの乗客も含め、その場の人々は打ち解けてゆく。喜劇的なドキュメント。カラー。サウンド。

・ピルヴィ・タカラ – 現実の白雪姫 Pilvi Takala – Real Snow White
Video, 9min15sec, 2009
パリのディズニーランドの入り口に、白雪姫に扮した作家が現れる。周囲の人々は、本物の白雪姫と思い込みサインを求めたり記念写真を撮影したりするが、やがて警備員がやってきて、そのままの格好では入園させられないとして議論になる。現実に持ち込まれた喜劇的な状況。カラー。サウンド。

・ヤニ・ルスキカ – 場面転換 6つの時間の中で Jani Ruscica – Scene Shifts, In Six Movement
Video, 15min58sec, 2011
このプログラムの中で、最も興味深かった作品。通常の映像における「声・文字・イメージ(写真やイラスト)」と「場所・時間」の関係性を組み替えて、そこに6つのバリエーションを見せる。カラー。サウンド。
1:パリの街路を移動撮影によって映し出し、そこにパリの街の良さを紹介する声がアフレコで重ねられる。移動撮影はわざとレールを写し込み、作為性が強調されている。
2:紀行先で撮影されたスナップ写真が画面に映し出される。それを虫めがねで拡大しながら、声の主は思い出を語る。この発話行為が行われている場所はどこかの屋外であると思われ、その場所の雑踏の音も聴こえる。しかし、フレームには紀行写真しか映し出されない。
3:エジプトの歴史上の人物を描いた2種類のイラスト(イラストが描かれた時代の価値観によって、キャラクターの表象が変化している)。このイラストに、キャラクターを演じる女性の声があてられる。
4:屋敷を描いた絵葉書が画面に映し出され、文章が読み上げられる。
5:ローマの街を対象にして、(1)と同じ方法をとったバリエーション。
6:チェンバロにて「中国風」と題された楽曲が演奏される。カメラはゆっくりと移動してゆき、チェンバロ本体に描かれた「中国風」の装飾画を映し出す。ここで先のパートにおいて使用されていた「声」は、楽譜の演奏に置き換えられる。

・マリヤ・ヴィータフッタ – 死の庭 Marja Vitahuhta – Garden of death
Video, 19min57sec, 2013
葬儀場と墓地で働く人々の営為を、台詞のないドキュメンタリー的なフィクションとして描き出す。ただし、年相応の従業員を演じる人々のなかで、主役だけは死から最も遠い存在としての子役に置き換えられている。仰りレンズを生かした撮影手法と、繊細でプロフェッショナルなカラーコレクションによって、世俗的なものが皆無の静謐な場所が表現されている。カラー。サウンドは音のみフィールド音のみ。

・サラ・ティッカ – 動物園 Salla Tykka – Zoo
Video, 12min, 2006
ヒッチコックの映画に出てきそうな風貌のカメラを持った女性が、ありふれた動物園のなかで動物達を撮影する。ただそれだけなのだが、サスペンス映画風の演出の模倣と、謎の水球競技を撮影した断片的なインサートショットによって、観客を長編のサスペンス映画を見ているような気にさせる作品。カラー。サウンド。

・サラ・ティッカ – 巨人 Salla Tykka – Giant
Video, 12min47sec, 2014
ダイレクトシネマ的な手法で撮影された、ルーマニアの体操選手養成学校の様子。そこにボイスオーバーで、生徒へのインタビューの声を重ねる。選手を生産する機械的なシステムとしての養成学校の一面が強調されているように思えるが、上記の作品における定型的演出の模倣というコンセプトを踏まえるならば、これも演出によるプロパガンダ的な印象操作を意図しているのかもしれない。カラー。サウンド。

第7回恵比寿映像祭「惑星で会いましょう」会場展示

写真美術館改装のため隣のガーデンホールに会場を移して、第7回恵比寿映像祭「惑星で会いましょう」が開催された。本年度の開催はどうなるんだろうと一時は危ぶんでいたので、ひとまずは安心した。各国の実験的な映画・映像の新潮流をリサーチしたプログラムを持つフェスティバルとして、恵比寿映像祭は国内において重要な役割を担っている。その辺りが、国内コンペと評価の定まった有名海外作家の回顧に傾きがちなイメージフォーラムフェスとの違いである(もちろん、それはフェスティバルの性格の違いによるものだが)。さらに恵比寿映像祭は「映像」と謳っているだけあって写真や美術家の映像も対象としており、その射程は幅広い。今回、私は上映プログラムについては、「フィンランド・ヴィデオアートの現在形―AV-arkkiより」、「共鳴する視線―ブラジル実験映画」、「ケン・ジェイコブス―知覚のアドヴェンチャー」、「あたらしい過去―ダンカン・キャンベル」を観に行くことにした。これらについては別エントリーで述べる。展示については、シングルチャンネル・インスタレーション問わず、気になった作品のみ以下でまとめて述べる。


・ホンマタカシ – 最初にカケスがやってくる
HD-Video, Loop, 2015
4面スクリーンで、映像は黒味を挟みながら間欠的に展開してゆく。知床の雪原で鹿が猟師に撃ち殺され、解体された内臓が雪原に残される。それを野鳥が、次々についばみにやって来る。まずカケスが、次にカラスが、最後に鷲がやって来る。鹿を捕食するものとしての野鳥と人間というモチーフは、若干浅い感じもするが悪くない。それよりも気になったのが、写真家が手がける映像作品にありがちな映像編集の安直さであり、3面が同時投影される箇所などは残念だった。カラー。サウンドはフィールドの同時録音。

・佐々木友輔 – 土瀝青
HD-Video, 20min, 2015
同名映画のインスタレーション版。6つのモニターを横に並べ、北関東の郊外の風景を、様々な視点から映し出す。それぞれのモニターの映像は、それぞれ撮影方法が異なる(徒歩・自転車・電車など)。これらの映像に合わせて、100年前の北関東の寒村を舞台とする小説「土」が朗読される。歴史的な深さを持った空間として、均質化された郊外の風景イメージが覆される。映画版は未見だが、風景を重層化するマルチモニターの手法は、作品のコンセプトに良く合っていたと思う。また、かつての映画における風景論が、目的として高度経済成長下での社会の均質化を政治的に突くものであったのに対して、本作の表現的な目的は、風景の多層性を露呈させることに向けられているように思えた。カラー。サウンドは朗読+器楽曲。

・ダンカン・キャンベル – 新しいジョン Duncan Campbell – Make it New John
Video, 50min, 2009
ダンカン・キャンベルについては、上映プログラムでも特集が組まれているが、本作は展示形式がとられていた。デロリアン社の新社長ジョンが公的な補助金を得て、北アイルランドに新工場を開くが、わずか一年で倒産したという問題に取り組んだ作品。一見するとスタンダードなソーシャル・ドキュメンタリーになっているが、本作の制作年は2009年なので、上映プログラムの『バーナデット』と同じく、過去のフッテージの再構成だと思われる。経営者・労働者へのインタビューによって作品は展開してゆく。最後は労働者へのインタビューが突然途切れて終了。カラー。サウンド。

・堀尾寛太 – 電気と光の紐付け
Installation, 2014
ティンゲリーっぽい大掛かりな可動オブジェに小型カメラが据え付けられ、そこからの映像が壁面に映し出される。オブジェの周回的な作動に合わせて、イメージもダイナミックに周回する。新しい意義は見出しにくいが、単純に見ていて楽しい。


ビデオひろば作品集
今回の展覧会は、全体としては「惑星で会いましょう」というテーマに基づいて組まれていたのだが、このテーマに最も良く合致していたのは、間違いなく「ホール・アース・カタログ」の特集と、(ゲリラ・テレビジョンを介して)それと思想的に繋がっている、日本の初期ビデオアートを代表するグループ「ビデオひろば」の特集だったといえる。「ビデオひろば」特集として展示されていた作品は、かわなかのぶひろ『キック・ザ・ワールド』と『プレイバック』、中谷芙二子『卵の静力学』と『老人の知恵』、和田守弘『認知構造・表述』の5作品だった(中谷の『水俣病を告発する会』については、過去に写真美術館で展示されているので今回は外されたのだろう)。このうちビデオを媒介とすることで行為の持続的循環を試みている作品としては、『キック・ザ・ワールド』・『卵の静力学』・『認知構造・表述』が該当する。

・かわなかのぶひろ – キック・ザ・ワールド
Video, 15min, 1974
本作は、遊園地の世界の観光地ミニチュアのなかで、作家が缶蹴り遊びを延々と続け、そのプロセスを作家自身が持つカメラで長回しで撮影した作品。モノクロ。サウンドは同時録音。

・中谷芙二子 – 卵の静力学
Video, 11min, 1973
本作は、フィックスショットによって二つの卵を立てる行為を延々と撮影し続けた作品。モノクロ。サウンドはタージマハル旅行団によるサイケデリック・ドローン。

・和田守弘 – 認知構造・表述
Video, 20min, 1975
本作は、入れ子状のビデオフィードバックのなかで、作家が認知したものを口述してゆくという作品。制作行為をメタ的に問う、70年代当時の美術家の問題意識の圏内にある試みといえる。本作のような美術家によるビデオの使用が、「ビデオひろば」のビデオの方法論と合致していたというのは、やはり面白い。他にも堀浩哉や菅木志雄のビデオの仕事もそうだが、70年代の美術家とビデオアーティストのアプローチが重なるのは、このラインに他ならない。カラー。サウンドは同時録音。

そして、『老人の知恵』は、このようなビデオを媒介とする行為の持続的循環を社会的コミュニケーションのレベルで展開したものだといえる。

・中谷芙二子 – 老人の知恵=文化のDNA
Video, 11min, 1973
E.A.T.東京も関わったビデオプロジェクトのテストケース的作品。老人ホームにて、老人達に「生活の知恵」についてインタビューし、記録映像を蓄積する。そして、この記録映像をデータベース化して運用するというプロジェクトが構想された。モノクロ。サウンドは同時録音。

さらに、「ビデオひろば」の作品として提示するのには若干の抵抗があるが、16mmフィルム作品である、かわなかの『プレイバック』も展示されていた(フィルムの再撮影によるイメージの循環と言えないこともないので、狙いは分からないでもないが)。

・かわなかのぶひろ – プレイバック
16mm, 7min, 1973
リュミエール兄弟の『列車の到着』のフッテージを引用して再構成した作品。乗降客のスチルをディゾルブで見せた後に、フィルムの回転方向や速度を操作し、ある種の運動のコラージュを行う。おそらくリワインダーを手動で操作し、編集機のビューワーを再撮影している。再撮影の際には、プリズムレンズによると思われる物理的なエフェクトも加えている。モノクロ。サウンドは古いレコードの針飛び。ちなみに紛らわしいのだが、かわなかには同名の『プレイバック』と題されたビデオ作品も存在する。