音から作る映画2『サロメの娘』アクースモニウム上映 @ 両国門天ホール

音から作る映画2『サロメの娘』アクースモニウム上映
両国門天ホール 2015年3月27日、28日
http://keishichiri.com/jp/events/salome/

少し前の話になるが、両国門天ホールに七里圭の映画『サロメの娘』(2015)を観に行った。今回、この作品は、20台以上のマルチチャンネルのスピーカーを駆使したアクースモニウム演奏に合わせて上映される。本作の音楽を担当するのは電子音楽の作曲家であり、アクースモニウム演奏者でもある檜垣智也である。

現代音楽の領域におけるアクースモニウムとは、フランスの電子音楽の系譜上にある上演技術であり、私も何度かそのようなコンサートを聴きに行った記憶がある。初めてこのようなマルチチャンネルでの電子音楽の上演を聴いたのは、神戸ジーベックホールで開催された「国際コンピュータ音楽フェスティバル98」(1998)だったと思う(その頃はアクースモニウムとは呼ばれていなかった気がする)。そして、最近では久万美術館における展覧会「白昼夢―松本俊夫の世界」(2012)に併せて開催されたコンサート「松本俊夫の映画音楽(作品:湯浅譲二・一柳慧、音響:能美亮士)」である。そのような数少ない経験で理解できるマルチチャンネルによる上演の特色としては、やはり観客とスピーカーの距離の近さ、すなわち観客と、そこで起こっている音響的な現象との近さが挙げられる。スピーカーを、通常のPAのようにステージ左右に配置するのではなく、客席と同列の空間に様々な工夫を凝らして——時には観客を取り囲むようにして配置する。それによって音楽は空間的な表現の多様性を得て、音響は現実的な出来事になる。(詳しくはこちらの記述を参考のこと。 http://ih-plus1.sblo.jp/category/88406-1.html

このような音楽を前提として制作される映画もまた、映画上映の形態を再考したものとなるのは必然だろう。七里は、おもに長編/短編の劇映画作品で知られているが、近年では物語性を解体させる方向を進めて、ワーク・イン・プログレスとしての実験的な映画上映に取り組んでいる。そこで生み出される映画は、断片的な言葉とイメージの集積という姿をとっているが、その中にはドラマチックな演出が含まれているので、フィクションとしての俳優による演技や物語性がなくとも、一般的な映画と同じように、観客の感情に働きかけるドラマ性を持っていると言える。

この日の会場内には、客席前方の空間に黒い紗幕が吊るされ、ここにメインの映像が投影される。さらに紗幕の背後の壁をスクリーンにして、そこにも映像が投影される。そして、この二つのスクリーンの間に、アクースモニウムを演奏する檜垣が座る。スクリーンに現れるイメージとは、雪山の風景、白馬、海原、人(人形?)の頭部、朧げな光などの断片的なものであるが、それらは通常の映画のようにスムーズに編集されておらず、イメージとイメージの間には、長い暗闇が挿入される。この暗闇の意識化は、明らかに『DUBHOUSE: 物質試行52』(2012)における試みの延長線上にある。『DUBHOUSE: 物質試行52』において七里は、鈴木了二の巨大模型を映し出すショットの前に、フィルムによってしか生み出せない完全な暗闇を置いた。それは、映画という装置が、暗闇と光によって形成される環境そのものであるという事実を示そうとするものであった。七里はそのような思考に基づいて、一連のワーク・イン・プログレスのなかで、映画が形成されるにあたっての、諸条件の再配置を推し進めていると言える(それは形態としては、かつての拡張映画/インターメディアや、映像を用いたインスタレーションに接近する)。

次に音楽について述べる。七里は『映画としての音楽』(2014、音楽:池田拓実)のなかで、無数の声の配置によって映画と音楽を一旦分離させ、再編することを試み始めた。本作でもアクースモニウムを駆使した檜垣との共同作業によって、その方向性が更にラジカルに推し進められている。会場内には、目につくところだけでも、10個以上のスピーカーが設置されている(私が座った椅子の下にもスピーカーが設置されていたので、目につかないところにも、まだ幾つかのスピーカーが潜んでいることだろう)。これらのスピーカーは、ローファイな拡声器やスタジオモニター用など、様々な種類の機種が揃えられており、それぞれの周波数特性も大きく異なる。その周波数特性の差によって、スピーカーは空間的な位相だけでなく、発音体である自らの物質性までも主張し始める。音楽の構成としては、脚本を朗読する人声の電子変調を基盤としたものであり、電子音楽・テープ音楽の領域でみられる音響的なラジオドラマを思わせるものとなっていた。その音源は会場内の無数のスピーカーにパラレルで振り分けられ、空間的な配置のなかで演奏された。

断片的なイメージと断片的な音響の、そして断片的な暗闇と断片的な静寂の、空間的な再配置。『映画としての音楽』の試みを展開させた『サロメの娘』は、七里が取り組んでいる「音から作る映画」の最前線を示すものとなっている。本作で檜垣が果たした役割は大きい。これは映画を再発明する作業であり、この方向にはまだまだ掘り下げる余地が残っている。今後のワーク・イン・プログレスの展開に、さらに期待したい。


付記:
七里の近作を契機に、実験映画が置かれた状況について少し付言したい(こんなことを書き加える気になったのは、ケイズシネマでの「DUBHOUSE: 物質試行52/映画としての音楽」上映の際に、七里のトークを聞く機会があったからかもしれない)。七里の近作に見られる実験性とは、何よりもまず表現への欲求が先行しており、その結果として名状しがたい映画になってしまったというものであると思う。それは、実作者として、自らの衝動に忠実であったことによる帰結でもある。すなわち劇映画と実験映画という区別のなさを、この作家は実作において示しているのである。彼のような開かれた態度において映画を手がける作家ばかりならば、国内の映画言説はもう少し違ったものになっていただろう。

しかし、今も昔も建前として「映画に区別はない」という態度をとる作家や評論家が多勢を占めているという状況に変わりはない。彼らはそのような態度によって、「『別の映画』は、なぜ危険な概念なのか。それは『別の』という言葉を口にするものが示す排除的身振りが、別でない『映画』の総体を、そっくり一つの虚構として制度化し、曖昧に生き延びさせてしまうからである」という、蓮実がかつて実験映画に対して行った批判を暗黙のうちに反復している訳だが、その言説が、結局のところ自分たちの守りたい映画を守るためのものに過ぎなかったことは自明だろう——彼らはあらゆる映画を映画であると認めながら、形式的に実験映画と呼ばれるような映画を排除してきたのだから。私はこのような映画への寛容さを装った、実は不寛容な人々のことはあまり評価できない。

『ジム・オルーク完全読本』

IMG_8920 『ジム・オルーク完全読本』に、川崎弘二氏の論考「ジム・オルークの電子音楽」が掲載されています。世間一般に流通しているジム・オルークの音楽(特に電子音楽・テープ音楽)についての固定観念を解体する、意義ある論考になっていると思います。私などに助言を求めてくださった川崎さん、ありがとうございました。

ところで、誌面では川崎弘二氏の論考を除いて、ジムと現代音楽、ノイズ、フリーインプロヴィゼーションといった音楽との関わりについては、あまり言及がなされていなかったが、それについては雑誌の刊行後に公開された以下のインタヴュー補遺に詳しい。ジムとデイヴィッド・ジャックマン〜クリストフ・ヒーマンとの関係や、大学で学んだ現代音楽に対する考え方、NWWへの意外な評価など、興味深い発言が満載で面白い。
http://www.ele-king.net/interviews/004475/

あと、誌面ではジムと実験映画の関わりについても言及がなかったのだが、それについては[Plus Documents 2009-2013]のジム・オルーク+牧野貴のトークセッションを参照してください。ジムが今まで観てきた実験映画についてのコメントや、映画音楽に対する考え方が興味深いです。
http://www.amazon.co.jp/372/dp/4990595440

「石田尚志 渦まく光」展@横浜美術館


「石田尚志 渦まく光」展
横浜美術館 2015年 3月28日(土)~5月31日(日)
沖縄県立博物館・美術館 2015年9月18日(金)~10月25日(日)
http://yokohama.art.museum/special/2014/ishidatakashi/

石田尚志は越境的なポジションにいる美術家/映像作家として知られている。もともと石田は、1999年のイメージフォーラムフェスティバルで特選となった『部屋/形態』(1999)や、愛知県立美術館オリジナル映像作品として制作された『フーガの技法』(2001)などの実験的なアニメーションにより、いわゆる実験映画の周辺においてその初期の評価を確立した。しかし、初期から現在に至るまでその表現の中心となっていたものは、アニメーション作品としての映像というよりも、むしろ描画行為それ自体であったと思える。そして、その行為をそのまま取り出すために選択された方法こそが、石田の作品を成り立たせる「ドローイング・アニメーション」であった。これは16mmフィルムカメラ(現在はデジタル一眼)のコマ撮りによって、平面上のドローイングの痕跡を撮影し、それをフィルムの上で——すなわち映画的な時間構造の中で展開するという手法である。一般的なドローイングが作品の完成に向かって終わっていく作業であるのに対して、このような手法によるドローイングには、明確な終着点が存在しない。それはフィルムやデジタル一眼を始めとした映像メディウムの特性を巻き込みながら、自動化された運動を続けることになる。

さて、今回の展覧会は石田にとって初の大規模な回顧展であり、横浜美術館と沖縄県立美術館を巡回する。フィルム/ビデオを問わず、映像作品が中心となる美術展示では、その方針によって見せ方が大きく変わるものだが、今回の横浜での展示は、石田の映像と深く結びついた造形物を、可能な限り併置するというアプローチが取られていた。石田は、過去にもたびたび平面作品などを映像に併置させる形で展示を行ってきたが、今回の展示でもその多くが再現されている。そのため、館内の壁や宙吊りのスクリーンには無数の映像が映し出され、その間を縫うようにして、絵巻物や平面作品、原画、インスタレーションのセットなどが展示されることになる(しかもフィルム作品については、可能な限りループ化されたフィルムによるプロジェクションを行っている)。その様子は、まるでこの空間全体が、複合的なインスタレーションとして構成されたものであるかのようだ。この一連の展示を観て、石田のドローイングが一つ一つの作品や各々のメディウムの枠組みを飛び越えて、一つの絵巻物のように繋がっていると思ったのは、私だけではないだろう。以下、具体的に各作品を概説することで、この展覧会全体を満たす複合性を表してみたい。


まず、美術館に入ってすぐのエントランスには、三枚の大きな壁が設置されており、ここには『海の壁—生成する庭』がプロジェクションされる。また、エントランスの天井近くの壁面には『絵馬・絵巻』もプロジェクションされている。

・『海の壁—生成する庭』(HD×3, 6min, 2007)※章立てとしては第4章に属する
三面スクリーンによるインスタレーション。横浜美術館での四ヶ月にわたる公開の滞在制作によって制作された。作品の流れとしては、まず映像の中の映像として、16mmフィルムによる海のイメージが映し出される。そして、この16mmフィルムによる映像を起点として、液状化したドローイング・アニメーションが進行してゆく。ホワイトキューブの床や、転倒した壁の表面に溜まった、液状化した絵の具の流れが印象的。撮影は数フレーム単位の連写で行われてるようで、液体の動きはカットアップされたムービーのようにも見える。サウンド。

そして、エスカレーターに乗って二階の企画展展示室へ向かうと、若き日の石田が描いた抽象画を冒頭に置いて、四つの章立てに分けられた展示が、観客を包み込むようにして展開されていた。

第1章「絵巻」
・『絵馬・絵巻』(16mm to HD, 2min2sec, 2003)
14mにも及ぶ絵巻のドローイングを、上向きのフレームの運動によって展開させる。映像と対になった絵巻本体も展示される。絵巻のドローイングはカラーインクによるものだが、フィルムにはモノクロ反転が施されている。白黒に還元された抽象的なフォルムが、宙吊りにされたスクリーンの中で走り続ける。サイレント。

・『海坂の絵巻』(HD, 1min12sec, 2007)
これも『絵馬・絵巻』と同じく、長い絵巻のドローイングをもとにした作品。墨汁によるドローイングを、手前から奥へ向かうフレームの運動によって追い続ける。撮影手法がユニークであり、紙のテクスチャーや墨汁表面の反射光にフォーカスが合わせられている。それによって、対象物の物質的な存在感が際立つことになる。やはり、映像と対になった絵巻本体も展示される。サイレント。

・『絵巻』(8mm, 5min10sec, 1995)
最初期のドローイング・アニメーション。黒インクによるドローイングを、8mmフィルムカメラによってコマ撮り。部分的に多重露光も使用。後年の洗練に至る以前の試みといえるが、基本的なコンセプトはすでに確立されている。サウンド。

・『絵巻その2』(8mm, 3min45sec, 1996)
上記と同じく、黒インクによるドローイングを、8mmフィルムカメラによってコマ撮りした作品。平面だけでなく、箱状のミニチュアも活用している。今作よりドローイングを逐一コピーして、再撮影によって構成するという手法も導入しているようで、運動のコントロールが複雑化している。終盤ではミニチュア内部で、針金を使用した立体アニメーションも表れる。サウンドはミニマル風な鍵盤曲。

・『20枚の原稿』(HD, 4min20sec, 2013)
まず原稿用紙にスポイトでドローイングを行い、これをデジタルスキャン。そして、サイズや透明度を操作しながらレイヤーとして重ね合わせて構成する。スポイトによる滲みが面白い効果を生んでいる。サイレント。薄いタブレットと原稿用紙を並べて、テーブル状の展示形態をとっていた。

・『色の習作』(HD×5, 3min 2min22sec 4min11sec 6min41sec 2min54sec, 2009)
作家が撮影したドローイング・アニメーションの16mmフィルム素材をテレシネし、ポストプロダクション作業を施した習作。カラリストである牧野貴の協力によって、ドローイングの原色から離れたカラーコレクションが行われている。まとめて展示された5本のうち1本では、フレーム外のスプロケットホールも含めてテレシネが行われ、画面全体を歪める表現も試みられている。サイレント。

第2章「音楽」
・『フーガの技法』(16mm, 19min, 2001)
愛知芸術文化センターオリジナル作品として制作された、石田の代表作の一つ。先述の、コピーを再撮影する手法が活用されている。音楽のテーマ展開に応じて、矩形の運動が厳密な遠近法の中で展開してゆく。それによって映画と音楽の関係が、大きなブロックごとの総体的なイメージの対比として捉えられる。サウンドはバッハ『フーガの技法』の部分。映画館的な暗室の中で上映されていた。

・『絵馬・絵巻2』(16mm to HD, 6min30sec, 2006)
上方向へのフレームの運動によって三つのドローイング・アニメーションを展開し、それらをレイヤーとして重ね合わせる。サウンドは石田の弟による鍵盤曲。

・『ベルクのアニメーション』(SD, 3min57sec, 1993)
8mmフィルム以前の、アナログビデオによる初期作。ドローイング・アニメーションの手法も部分的に試みられている。技術的な点からみると、この数年後に石田がアナログビデオをフィルムに持ち替えたことは、コマ単位でのフレームコントロールの容易さという点からも、また、解像度の高さという点からも必然だったというべきだろう。サウンドは、ベルクのヴァイオリン協奏曲。

・『ランドフスカのバッハによるアニメーション』(SD, 34sec, 1994)
上記と同じく、アナログビデオによる初期作。高速カットアップで、荒々しいドローイング・アニメーションが展開され、わずか30秒ほどで終了する。未完成あるいは中間報告といったところか。サウンドは、バッハの『半音階的幻想曲とフーガ』。

・『パフォーマンス記録映像』(SD, ?, 1992-1993)※章立てとしては第3章に属する
新宿アルタ前と、夢の島公園でのペインティング・パフォーマンスの記録。地面に紙を貼って、描画という身体的行為に没頭する。現在につながる石田のスタート地点を確認することができる。

第3章「身体」
・『渦巻く光』(HD, 2min40sec, 2015)※章立てとしては第4章に属する
ガラス板の上で、液状化した絵の具によるドローイングを展開する。撮影は数フレーム単位の連写で行われてるようで、まるでカットアップムービーのように液体が流れてゆく(それはアニメーションというよりも、液体を操作するパフォーマンスに接近している)。ガラス下からの透過光の操作も行われている。液体や光などの捉え難いものと、描画行為との相互作用が興味深い。天井近くの高い位置に吊るされたスクリーンに、映像がプロジェクションされていた。サイレント。

・『3つの部屋』(HD×3, 5min46sec 26min10sec 9min26sec, 2010)
三枚の絵画と、三台のモニターを併置したインスタレーション。カンバスに向かう制作中の作家の身振りをそのまま撮影し、3つの異なる編集方法によって展開する。そこでは、作家の身体もドローイング・アニメーションに取り込まれる。サウンド。

・『音楽と空間のドローイング』(HD×4, 3min55sec, 2012)
音楽に合わせて振られる作家の腕の運動を、四通りの方法(実写やコンピュータグラフィックスなど)で視覚化した作品。サイレント。

・『影の部屋』(HD×2, 7min52sec, 2012)
カンバスに向かう作家の身体的な身振りを、実写と赤外線の併置によって可視化した作品。サウンド。

・『浜の絵』(HD, 14min10sec, 2011)
・『夏の絵』(HD, 4min30sec, 2010)
・『海中道路(行き・帰り)』(HD×2, 10min31sec, 2011)
野外において地面を平面に見立てて、水によるドローイングを行うという連作。地面に描かれたパターンは、すぐに乾いて消え去ってゆく。これら第3章の諸作は、ひとつのコンセプトにおいてまとめることが可能だろう。石田にとっての描画行為とは、絵画を完成させるための作業ではなく、意識と身体の自動的な運動過程そのものなのだということが、ここでは様々な角度から浮かび上がっているように思う。全てサウンド。

第4章「部屋と窓」
・『燃える机』(HD×3, ?, 2015)
府中美術館での滞在制作によって制作されたインスタレーション。展示室内には府中美術館のスタジオを模した二つのミニチュアと、スタジオと同寸のセットが展示されている。そして、このミニチュアとセットに対して、サイズの異なる三つのドローイング・アニメーションがプロジェクションされる。それによって、空間の虚実が混ざり合う。サウンド。

・『白い部屋』(HD×4, 5min20sec|HD, 1min55sec,|16mm, 5min5sec, 2012)
複数の映像と様々なメディウムを組み合わせた集合体的なインスタレーション。具体的には以下の四つのパートから成る。
1:四面スクリーンにプロジェクションされる、ホワイトキューブ内でのドローイング・アニメーション。サウンドは映写機の作動音。このパートのみサウンドで、映画館的な暗室で上映される。
2:ドローイング前の部屋の記録映像。サイレント。小さな液晶モニターで展示。
3:(1)の作中で、使用された16mmフィルムによる映像がループ化され、壁面に対してプロジェクションされる。サイレント。
4:撮影に使用されたホワイトキューブの実寸セット。間欠的なライティングによって幻想的な影が生み出される。

・『部屋/形態』(16mm, 7min, 1999)
イメージフォーラムフェスティバルで特選を獲得した、石田の代表作の一つ。窓から自然光が差し込む古い寮の一室にて、床や壁を問わず、部屋全体にドローイング・アニメーションが展開する。サウンドはバッハの『コラール前奏曲』。宙吊りにされたスクリーンにプロジェクションされていた。

・『椅子とスクリーン』(SD, 8min30sec, 2002)
椅子と、椅子の虚像と、映像の中のスクリーン。この三者のあいだで展開する、空間の虚実を曖昧化するドローイング・アニメーション。サウンドはオルガンの持続音。展示室の片隅に置かれたモニターでの展示。この作品が映し出されたモニターの傍には、椅子の実物が置かれる。過去の展示ではインスタレーション版もあったと記憶する。

・『燃える椅子』(HD, 5min8sec, 2013)
青い光に包まれた、椅子の置かれたスタジオ。この空間の中で、チョークと水によってドローイングが展開される。水はすぐにコンクリートに染み込んで乾燥するため、描画行為は常に宙吊り状態に置かれ、生成と消失を繰り返す。やがて、壁には燃え盛る炎の実写イメージがプロジェクションされ、水浸しの壁面との対比をみせる。静謐な空間の中で、意識の層を下降してゆくような内向的な作品。サウンドはオルガンのドローン。

・『リフレクション』(HD, 6min, 2009)
カナダ滞在中に、ギャラリーにて滞在制作された作品。窓から陽光が差し込むギャラリーの壁面に、窓枠の影の輪郭を起点としたドローイング・アニメーションを展開してゆく。描画行為の進行とともに太陽は移動し、影はその姿を変えてゆく。どこか相原信洋の『Stone』(1975)を思わせる開放感のある作品である(数多いる日本のアニメーション作家のなかで、私が唯一、石田に近い方向を見出せるのは相原に他ならない)。サウンド。ちなみに『燃える椅子』と『リフレクション』は、一つの巨大な壁面の裏表にプロジェクションされていたのだが、その対比も面白い。

・『光の落ちる場所』(HD, 5min1sec, 2015)
巨大なカンバスの立てかけられたスタジオにて、ドローイング・アニメーションが展開される。自然光と照明光の混在のなかで、光は複雑にコントロールされる(まるで光を用いたドローイングのようでもある)。最後にはカンバスが切り裂かれ、その背後から光が溢れ出し、画面全体がホワイトアウトする。サウンド。スクリーンの傍らには、作中の切り裂かれたカンバスも立かけられる。

そして、出口近くの廊下には『色の波の絵巻』が展示され、展覧会全体を締めくくる。

・『色の波の絵巻』(HD, 53sec, 2010)※章立てとしては第1章に属する
『海坂の絵巻』と似ているがフレームの運動方向が逆であり、ドローイングが観客に迫ってくるような形をとる。被写界深度が浅いレンズを使用しているため、ドローイングに強いボケがかかっており、日常的なスケール感が狂う。サイレント。やはり映像と対になった絵巻本体も展示されていた。

以上、展覧会全体を満たす、渾然一体となった映像と造形物の複合性を伝えるべく、長々とした文章で努力してみた。是非、会期中に横浜に足を運んで、直接経験してください。

本日の散財

・ウィリアム・モリス, E・B・バックス – 社会主義
・河村彩 – ロトチェンコとソヴィエト文化の建設
・鯖江秀樹 – イタリア・ファシズムの芸術政治
・今井祝雄 – タイムコレクション
・「高松次郎 制作の軌跡」展覧会カタログ

・Dziga Vertov – Dziga Vertov Collection / Blu-ray
・V.A. – Experimental in Cinema v10 / DVDr
・The New Blockaders with The Haters and Vomir – Nichts Fur Niemand / File
・E.g Oblique Graph – Completely Oblique / 2LP
・Prurient – Frozen Naiagara Falls / 2CD
・Vatican Shadow, Cut Hands – Azar Swan Variations / 12″
・Nocturnal Emissions – Deathday / Cassette
・Nocturnal Emissions – Whisky 23.5.82 / Cassette
・Selten Gehorte Musik – Das Munchner Konzert 1974 / 2CD

四月下旬から五月上旬にかけての散財。たびたび映画を観に行ったりしていたので散財控えめ。今月はこの2作品を楽しみにしている。ちなみにBoomkatにオーダーしたので、リリース後、盤が届くよりも早くファイルがDL可能になるという便利さです。

vsch

イメージフォーラムフェスティバル2015・Sプロ, Tプロ:ポール・シャリッツ2, 3

ペーター・クーベルカ、トニー・コンラッドと並んで、フリッカー映画の代表的な作家として知られるポール・シャリッツの特集プログラム。シャリッツの映画は静止した複数のイメージを集合させる、ある種の時間的な彫刻と見なせるものであり、実験映画の文脈だけでなく、現代美術の文脈にもつなげやすい作品揃いである。ボワ+クラウスによる『アンフォルム』のなかでも、シャリッツについての言及が行われている(こちらのエントリーを参照)。これを機会に、日本国内でも、実験映画を現代美術の文脈に関連づけるという態度が広まって欲しいものだ。実験映画作家であるフランソワ・ミロンによるドキュメンタリー『ポール・シャリッツ』も併せて上映された。


・ポール・シャリッツ『T:O:U:C:H:I:N:G』(16mm, 12min, 1968)
Paul Sharits – T:O:U:C:H:I:N:G


シャリッツの代表的な作品である。激しいカラーフリッカーのなかに、自傷的な行為を行う男などの暴力的なイメージが挿入される。サウンドは“Destroy”という単語の反復。本作を代表的な例として、シャリッツの作品が「映画」という装置から引き出した意義とは、連続しないフレーム(別々の物として独立したイメージおよび色彩)の狭間において、それらが干渉し合った状態を観客に知覚させることだったといえるだろう。また、シャリッツは複数のスクリーンを使用した作品も手がけているが、そのような上映形態も、フレームの対立がスクリーンの対立に置き換えられているのだといえる(例えば『Lazor Blade』、『癲癇発作対比』、『Shutter Interface』など)。このようなシャリッツの仕事の意義は、クラウスの言説やパラシネマの思考を通して、いまこそ再考されるべきものだと思う。(上記の映像は『T:O:U:C:H:I:N:G』だけでなく、他の作品を含むRe-VoirのDVD「Mandala Films」のトレイラーです。)

・ポール・シャリッツ『S:TREAM:S:S:ECTION:S:ECTION:S:S:ECTIONED』(16mm, 42min, 1971)
Paul Sharits – S:TREAM:S:S:ECTION:S:ECTION:S:S:ECTIONED
Paul Sharits - STREAM
多重露光によって継ぎ目なく重ね合わされた水流の映像がしばらく映し出される。やがてスクリーン内にフィルムを削ることによって描かれた、縦方向のラインが入ってくる。このラインは時間の経過とともに本数が増えてゆくが、一本一本のラインは重なり合うことなく、そして途切れることなく映画の終了まで引き延ばされる(フィルム上に引かれたラインの長さは、時間的に考えて、長いもので1200フィート以上はある)。「水の流れ」と「ラインの流れ」は、ここでは比喩として並べられているに過ぎないが、作品のコンセプトとしては、「川の流れ」というイリュージョンへの注視を、漸次的にフィルム上の傷への注視に置き換えることが試みられていたのだと言える。最終的にスクリーンは、びっしりと並んだフィルム上のライン=傷によって満たされる。サウンドは女性の声による不明瞭な単語の反復と重層化。

・ポール・シャリッツ『分析的探求 II・フレームでないライン』(16mm, 30min, 1978)
Paul Sharits – Analytical Studies II: Un-Frame-Lines
透明なスヌケのフィルムを映写しながらフレーム調整やフォーカスを操作して、前後フレームの境界やスプロケットホールといった、映画の隠された機構を可視化させる。このスクリーンを再撮影して現像したプリントに、さらにライン(傷)を書き込んだうえで映写と再撮影を繰り返し、フィルムの物質性を徹底して顕在化させる。作品だけ見ると、これはいかにもフォーマリスティックな、よくある構造映画である。もしかすると、シャリッツの問題意識のなかには、元々このようなモダニズム的影響が存在していたのかもしれない(思えば彼の得意とするカラーフリッカーも、極めて整然と設計されたものである)。しかし、単純なモダニスト像に収まらない様々な余剰物、すなわち異質性が存在することも確かであり、この両義性——モダニズム的な整然さと、それを内破する自己破壊の兆候——こそがシャリッツの面白さであるだろう。そこに着目したのがボワ+クラウスの『アンフォルム』であったことは言うまでもない。サイレント。

・ポール・シャリッツ『N:O:T:H:I:N:G』(16mm, 36min, 1968)
Paul Sharits – N:O:T:H:I:N:G
綿密に配置された単一色のカラーフレームが、人間の目では知覚不能な速度で色を切り替えながら明滅する。それによって観客は、隣り合ったカラーフレームの狭間において、干渉し合う別の色彩を知覚する。それは物質としてのフィルム上には存在しない、映画的な経験そのものである。サウンドとしては、部分において明滅に合わせた断続的なノイズが付加される。また、随所に電球のイラストが挿入され、時間の経過(?)を表現する。中盤では、倒れる椅子のイメージ(連続写真)も明滅のなかに挿入される。

・ポール・シャリッツ『癲癇発作対比』(16mm, 30min, 1976)
Paul Sharits – Epileptic Seizure Comparison
Paul Sharits - Epileptic Seizure Comparison
本来は上下2スクリーンのインスタレーションとして提示される作品だが、今回は1スクリーン版を上映。癲癇症状の発作における脳波の採取のための医療用フィルムを引用し、この素材とカラーフリッカーと組み合わせる。構造としては、a:カラーフリッカー(+患者のうめき声)、b:引用されたフィルムを素材とするフリッカー(+脳波をトリガーとした電子音?)、c:そしてaとbの複合という、三つのパートからなる(aとbのサウンドも重ね合わされる)。観客の知覚への直接的作用(a)と、患者の状態の観察(b)と、その主客の複合(c)がここでは試みられており、この映画を観る者は、スクリーンを視るという経験の中で、知覚の変容という事件に主客両面から直面することになる。

イメージフォーラムフェスティバル2015・Vプロ:ヨースト・レクフェルト2

ヨースト・レクフェルトの近年の作品によって構成されたプログラム。これらの作品は、過去のテクノロジーを文化的なものとして参照する、ある種のメディア考古学的な観点に基づいており、過去のテクノロジーを引用して、装置やプロセスを組み立てるところから制作が開始されている。このようなレクフェルトのアプローチは、言葉通りの意味でメディアアーティスト的なものであり、そこから得られたイメージは、思いがけない異質なものを彼の映画にもたらしている。単純に抽象映画として括ることのできない作品ばかりであった。


・ヨースト・レクフェルト『#11 マレー モワレ』(35mm, 21min, 1999)
Joost Rekveld – #11, Marey Moiré
回転するラインを撮影することで得られた放射状のパターンをモチーフとして、幾つかの一次素材を撮影し、各素材ごとに異なる色相のカラー加工を施して、最終的にそれらを重ね合わせることによって構築されたと思われる作品。作家のサイトにある解説によると、この放射状のパターンは以下の三つの運動の干渉の帰結だという。
– the movement of the film in the camera
– the rotation of a shutter in front of the lightsource
– the movement of a line in front of the camera

このパターンの中心軸は複数存在し、カメラの周回的な運動によって、スクリーン内を縦横無尽に動き回る。また、これらは細かい集中線を生み出しながら交差し合って、複雑なモワレを生じさせる。回転スピードのピークは中盤であり、特に三つの中心軸が重なる箇所では、極めて複雑な現象が引き起こされる。そして、中盤以降は徐々に回転スピードは落ちてゆき、回転する被写体の姿がある程度判別できるようになる。被写体の姿が判別できるため、純然たる抽象というよりも、映画前史の連続写真や1920年代の純粋映画を連想させる。アイデアの参照元となったのは、タイトルの通りエティエンヌ=ジュール・マレーの連続写真だという。35mmシネスコープ。サウンドはプロペラの回転音であり、中心軸の運動に対応している。

・ヨースト・レクフェルト『#23.2 鏡の本』(35mm, 12min, 2002)
Joost Rekveld – #23.2, Book of Mirrors
作家の解説によると、鏡を組み合わせた自作の装置を用いて、ピンホールやスリットを通過した外光を直接フィルムに焼き付けることで制作された作品。レンズを装着しないカメラを使用したらしい。この装置を通過することで、フィルム上には水面に映りこんだ波紋のような同心円状のパターンが写り込む(光もまた波紋であるということが、視覚的に理解できる)。イメージは不明瞭だが、装置を通過する前の現実の光景(太陽と空)が、かすかな痕跡をエマルジョンに残している。このようにして撮影された素材が重ねられることによって、光の乗算が行われ、複雑なモワレが作中で展開される。素材の色合いの違いは、モワレとともに微妙な混色を引き起こす。アイデアの参照元となったのは、映画以前の光学装置の歴史であろう。サウンドはRozalie Hirsによる、点描的な室内楽。

・ヨースト・レクフェルト『#37』(35mm, 31min, 2009)
Joost Rekveld – #37
パーティクルのシミュレーションを行ったコンピュータグラフィックス作品であり、結晶と類似した抽象的なパターンが展開される。アイデアの参照元となったのは、マックス・フォン・ラウエが1912年に発見したX線回折で、結晶内部の構造回析の手法として使われるものらしい。自らプログラムを書いたというソフトウェアによって制作された。有機的な結晶状のパターンが、モワレや色の変移を引き起こしながら、ゆっくりと進行してゆく(細かいプロセスが分からないので一般的な3DCGアプリに例えるならば、モールガラスのような曲面と屈折率を持ったオブジェクトを空間に複数作成し、それらを複数重ねてアニメートしたようなグラフィックとなっていた)。
編集も大変興味深いものであり、短いショットは本当に数秒程度だが、長いショットは数分にも及ぶ。この長時間におよぶ微細な変化の提示は、レクフェルトがプログラムに選んだバート・フェヒターの『時間』の表現を思わせるものである。ここには、漫然とスクリーンを眺めていれば観客の眼球をトリップさせてくれるような、抽象映画にありがちな親切さや怠惰さはない。スクリーン上に潜在している膨大な変移は、観客の能動的な凝視によってはじめて見出され、観測され得るのである(ただし、画面の全面において変移は生じているので、映画の全てを認識することは不可能である)。デジタル環境での制作だが、最終的にフィルムにキネレコされた。35mmシネスコープ。
サウンドはYannis Kyriakidesによる、自然の環境音を思わせる電子音楽。パターンの変化に応じて無音状態を上手く使用しており、作品に緊張感を与えていた。

イメージフォーラムフェスティバル2015・Uプロ:ヨースト・レクフェルト1

実験映画作家であるヨースト・レクフェルトの初期作品(および短い最新作)と、彼に影響を与えた抽象映画の作品群を並べた、大変興味深いプログラム。レクフェルトの創作の背景にあるものが明確に伝わる内容となっている。また、抽象映画や抽象アニメーションに対する、凝り固まった歴史的先入観を解体する糸口が、随所に潜んでいたことも指摘しておきたい。


・ジョーダン・ベルソン『誘惑』(16mm, 7min, 1961)
Jordan Belson – Allures
抽象アニメーションの代表的作家の一人であるベルソンの作品。回転する円などをモチーフとした抽象アニメーション。カラー。サウンドはクラシック曲。

・ジェイムズ・ホイットニー『ヤントラ』(16mm, 8min, 1950-57)
James Whitney – Yantra
同じく、抽象アニメーションの代表的作家の一人であるジェイムズ・ホイットニーの作品。作家が影響を受けていた仏教思想が、そのまま作品を支えるモチーフとなっている。コンピュータ制御による制作プロセス導入以前の仕事であり、繊細なパーティクルの運動は手作業によるペイントであり、8年という長い制作期間を要した。カラー。サウンドはHenk Badingsによる電子音楽。

・ヨースト・レクフェルト『#2』(16mm, 12min, 1993)
Joost Rekveld – #2
水流のしぶきや、空を飛ぶ鳥の群れなどを、フォーカスを微妙に外して抽象的に撮影しながら、フリッカーを織り交ぜて構成した作品。撮影はスーパー8による。この作家が、いわゆる抽象アニメーションの文脈とは全く異ったところから制作を開始したことを物語る。現実像であろうと、無対象な形態や色彩であろうと、コンピュータグラフィックスであろうと、この作家にとって区別はない。そこでは、視覚を通した経験の組織化こそが中心的問題となっている。カラー。サウンドは本人によるアンビエントな電子音楽。

・ヨースト・レクフェルト『IFS-film』(16mm, 3min, 1991-94)
Joost Rekveld – IFS-film
パーティクルの運動を描いた、シンプルなコンピュータグラフィックス。真っ暗な仮想空間の中で、ドットの群れが分散と集合を繰り返す。当時のコンピュータグラフィックスの水準から見て、おそらく自分で全てのプログラムを書いたであろう、習作的な作品。スーパー8で撮影を行うのと同じ感覚でプログラム言語を自ら書くという、この作家の技術に対する柔軟なアプローチが、明確に現れている。モノクロ。サイレント。

・ヨースト・レクフェルト – VRFLM(16mm, 2min, 1994)
Joost Rekveld – VRFLM
野外で燃える車(?)のファウンドフッテージを流用して、この炎のイメージをオプチカル処理することによって様々に加工した作品。本来の炎の色は、それによって様々な色に変調される。ビデオによるカラー変調ではなく、フィルム制作におけるオプチカル処理にこだわったのは、オプチカルプリンターの技術的特質を引き出すことが目的になっていたためだろう。カラー。サイレント。

・スタン・ブラッケージ – コミングルド・コンテイナーズ(16mm, 5min, 1997)
Stan Brakhage – Commingled Containers
流れる水や水滴にカメラを向け、フォーカスを外してマクロ的に撮影する。それによって、自然の姿は抽象的な光の運動に還元される。ホイットニーやベルソンといった作家と、通常であれば彼らと結びつけられることのないブラッケージを併置するレクフェルトの観点は明快なものである。サイレント。

・ハイ・ハーシュ – Gyromorphosis(16mm, 7min, 1956)
Hy Hirsh – Gyromorphosis
抽象映画の先駆的な作家であるハイ・ハーシュによる作品。針金による彫刻を対象として、これを回転させながら様々なカメラワークによって撮影する。そうして得られたイメージを多重露光によって重ね合わせ、現像時にカラー加工を施し、抽象的に構築する。アプローチとしては、モホリ=ナギ『光の戯れ 黒・白・灰』(1930)を思わせるが、オプチカル処理による構築の複雑さは比較にならない。カラー。サウンドはMJQの『Django』をそのまま使用。

・ヨースト・レクフェルト『#3』(16mm, 4min, 1994)
Joost Rekveld – #3
長時間露光によって、ライトの軌跡を線状の抽象形として描き出した作品。作家の解説によると、ライトを運動させる装置もこのために製造されたという。細かく振動する光源は、物理的な運動を再現するものであるらしく、この作家のテクノロジーへの関心の強さがここにも表れている。映画的な技術としては、フォーカスを変化させることによる抽象化と、オプチカル処理による画面全体のカラー変調、細かいフリッカー的な編集が駆使されている。サイレント。

・ヨースト・レクフェルト『#5』(16mm, 6min, 1994)
Joost Rekveld – #5
ライトの軌跡を線状の抽象形として描き出すという表現手法は『#3』と共通するが、本作ではこれが3台の映写機によるマルチプロジェクションとして展開され、中央のプロジェクションが左右のプロジェクションに覆い重なるという形態をとる。これは、松本俊夫の『つぶれかかった右眼のために』と同じ上映形態である。さらにオプチカル処理による画面全体のカラー加工も、各リールごと別個に行われており、ポール・シャリッツの『Shutter Interface』のように、フレームの重なり合った部分が別の色に乗算される。カラー。サイレント。

・バート・フェヒター『時間』(Video, 9min, 2008)
Bart Vegter – De tijd
http://lightcone.org/en/film-5264-de-tijd
数学的な構成に基づいて、シンプルな斜線がゆっくりと推移してゆくコンピュータグラフィックによる抽象。このゆっくりとした展開のなかで、観客は映像の背後にあるアルゴリズムを観察することになる。この緩慢な変化による表現は、レクフェルトの『#37』に影響を与えているように思う。フェヒター本人によって書かれたプログラムで作成されたとのこと。サイレント。

・ヨースト・レクフェルト『#43.4』(Video, 1min, 2012)
Joost Rekveld – #43.4


本作は、実験映像プログラム「ヴァーティカルシネマ」の一編として制作された作品『#43』が元になっている(「ヴァーティカルシネマ」は、シネスコープサイズのスクリーンを横転させて縦に長い特殊スクリーンとして扱い、そこに35mmフィルムの映像を投影するという、映画上映の制度を読み直すコンセプトの企画であり、レクフェルトを含め多数の作家が委嘱制作を行った)。他にも、『#43.1』から『#43.5』に至るまでのヴァリエーションがある。表現としては、コンピュータグラフィックスによって描かれた、相互作用を引き起こすアルゴリズムによる抽象である。ここではサイバネティックスの相互作用やフィードバックが、アイデアの参照元となっているようだ。サウンドは、ドローンと自然の環境音を織り交ぜたようなアンビエント。