イメージフォーラムフェスティバル2015・Sプロ, Tプロ:ポール・シャリッツ2, 3

ペーター・クーベルカ、トニー・コンラッドと並んで、フリッカー映画の代表的な作家として知られるポール・シャリッツの特集プログラム。シャリッツの映画は静止した複数のイメージを集合させる、ある種の時間的な彫刻と見なせるものであり、実験映画の文脈だけでなく、現代美術の文脈にもつなげやすい作品揃いである。ボワ+クラウスによる『アンフォルム』のなかでも、シャリッツについての言及が行われている(こちらのエントリーを参照)。これを機会に、日本国内でも、実験映画を現代美術の文脈に関連づけるという態度が広まって欲しいものだ。実験映画作家であるフランソワ・ミロンによるドキュメンタリー『ポール・シャリッツ』も併せて上映された。


・ポール・シャリッツ『T:O:U:C:H:I:N:G』(16mm, 12min, 1968)
Paul Sharits – T:O:U:C:H:I:N:G


シャリッツの代表的な作品である。激しいカラーフリッカーのなかに、自傷的な行為を行う男などの暴力的なイメージが挿入される。サウンドは“Destroy”という単語の反復。本作を代表的な例として、シャリッツの作品が「映画」という装置から引き出した意義とは、連続しないフレーム(別々の物として独立したイメージおよび色彩)の狭間において、それらが干渉し合った状態を観客に知覚させることだったといえるだろう。また、シャリッツは複数のスクリーンを使用した作品も手がけているが、そのような上映形態も、フレームの対立がスクリーンの対立に置き換えられているのだといえる(例えば『Lazor Blade』、『癲癇発作対比』、『Shutter Interface』など)。このようなシャリッツの仕事の意義は、クラウスの言説やパラシネマの思考を通して、いまこそ再考されるべきものだと思う。(上記の映像は『T:O:U:C:H:I:N:G』だけでなく、他の作品を含むRe-VoirのDVD「Mandala Films」のトレイラーです。)

・ポール・シャリッツ『S:TREAM:S:S:ECTION:S:ECTION:S:S:ECTIONED』(16mm, 42min, 1971)
Paul Sharits – S:TREAM:S:S:ECTION:S:ECTION:S:S:ECTIONED
Paul Sharits - STREAM
多重露光によって継ぎ目なく重ね合わされた水流の映像がしばらく映し出される。やがてスクリーン内にフィルムを削ることによって描かれた、縦方向のラインが入ってくる。このラインは時間の経過とともに本数が増えてゆくが、一本一本のラインは重なり合うことなく、そして途切れることなく映画の終了まで引き延ばされる(フィルム上に引かれたラインの長さは、時間的に考えて、長いもので1200フィート以上はある)。「水の流れ」と「ラインの流れ」は、ここでは比喩として並べられているに過ぎないが、作品のコンセプトとしては、「川の流れ」というイリュージョンへの注視を、漸次的にフィルム上の傷への注視に置き換えることが試みられていたのだと言える。最終的にスクリーンは、びっしりと並んだフィルム上のライン=傷によって満たされる。サウンドは女性の声による不明瞭な単語の反復と重層化。

・ポール・シャリッツ『分析的探求 II・フレームでないライン』(16mm, 30min, 1978)
Paul Sharits – Analytical Studies II: Un-Frame-Lines
透明なスヌケのフィルムを映写しながらフレーム調整やフォーカスを操作して、前後フレームの境界やスプロケットホールといった、映画の隠された機構を可視化させる。このスクリーンを再撮影して現像したプリントに、さらにライン(傷)を書き込んだうえで映写と再撮影を繰り返し、フィルムの物質性を徹底して顕在化させる。作品だけ見ると、これはいかにもフォーマリスティックな、よくある構造映画である。もしかすると、シャリッツの問題意識のなかには、元々このようなモダニズム的影響が存在していたのかもしれない(思えば彼の得意とするカラーフリッカーも、極めて整然と設計されたものである)。しかし、単純なモダニスト像に収まらない様々な余剰物、すなわち異質性が存在することも確かであり、この両義性——モダニズム的な整然さと、それを内破する自己破壊の兆候——こそがシャリッツの面白さであるだろう。そこに着目したのがボワ+クラウスの『アンフォルム』であったことは言うまでもない。サイレント。

・ポール・シャリッツ『N:O:T:H:I:N:G』(16mm, 36min, 1968)
Paul Sharits – N:O:T:H:I:N:G
綿密に配置された単一色のカラーフレームが、人間の目では知覚不能な速度で色を切り替えながら明滅する。それによって観客は、隣り合ったカラーフレームの狭間において、干渉し合う別の色彩を知覚する。それは物質としてのフィルム上には存在しない、映画的な経験そのものである。サウンドとしては、部分において明滅に合わせた断続的なノイズが付加される。また、随所に電球のイラストが挿入され、時間の経過(?)を表現する。中盤では、倒れる椅子のイメージ(連続写真)も明滅のなかに挿入される。

・ポール・シャリッツ『癲癇発作対比』(16mm, 30min, 1976)
Paul Sharits – Epileptic Seizure Comparison
Paul Sharits - Epileptic Seizure Comparison
本来は上下2スクリーンのインスタレーションとして提示される作品だが、今回は1スクリーン版を上映。癲癇症状の発作における脳波の採取のための医療用フィルムを引用し、この素材とカラーフリッカーと組み合わせる。構造としては、a:カラーフリッカー(+患者のうめき声)、b:引用されたフィルムを素材とするフリッカー(+脳波をトリガーとした電子音?)、c:そしてaとbの複合という、三つのパートからなる(aとbのサウンドも重ね合わされる)。観客の知覚への直接的作用(a)と、患者の状態の観察(b)と、その主客の複合(c)がここでは試みられており、この映画を観る者は、スクリーンを視るという経験の中で、知覚の変容という事件に主客両面から直面することになる。

イメージフォーラムフェスティバル2015・Vプロ:ヨースト・レクフェルト2

ヨースト・レクフェルトの近年の作品によって構成されたプログラム。これらの作品は、過去のテクノロジーを文化的なものとして参照する、ある種のメディア考古学的な観点に基づいており、過去のテクノロジーを引用して、装置やプロセスを組み立てるところから制作が開始されている。このようなレクフェルトのアプローチは、言葉通りの意味でメディアアーティスト的なものであり、そこから得られたイメージは、思いがけない異質なものを彼の映画にもたらしている。単純に抽象映画として括ることのできない作品ばかりであった。


・ヨースト・レクフェルト『#11 マレー モワレ』(35mm, 21min, 1999)
Joost Rekveld – #11, Marey Moiré
回転するラインを撮影することで得られた放射状のパターンをモチーフとして、幾つかの一次素材を撮影し、各素材ごとに異なる色相のカラー加工を施して、最終的にそれらを重ね合わせることによって構築されたと思われる作品。作家のサイトにある解説によると、この放射状のパターンは以下の三つの運動の干渉の帰結だという。
– the movement of the film in the camera
– the rotation of a shutter in front of the lightsource
– the movement of a line in front of the camera

このパターンの中心軸は複数存在し、カメラの周回的な運動によって、スクリーン内を縦横無尽に動き回る。また、これらは細かい集中線を生み出しながら交差し合って、複雑なモワレを生じさせる。回転スピードのピークは中盤であり、特に三つの中心軸が重なる箇所では、極めて複雑な現象が引き起こされる。そして、中盤以降は徐々に回転スピードは落ちてゆき、回転する被写体の姿がある程度判別できるようになる。被写体の姿が判別できるため、純然たる抽象というよりも、映画前史の連続写真や1920年代の純粋映画を連想させる。アイデアの参照元となったのは、タイトルの通りエティエンヌ=ジュール・マレーの連続写真だという。35mmシネスコープ。サウンドはプロペラの回転音であり、中心軸の運動に対応している。

・ヨースト・レクフェルト『#23.2 鏡の本』(35mm, 12min, 2002)
Joost Rekveld – #23.2, Book of Mirrors
作家の解説によると、鏡を組み合わせた自作の装置を用いて、ピンホールやスリットを通過した外光を直接フィルムに焼き付けることで制作された作品。レンズを装着しないカメラを使用したらしい。この装置を通過することで、フィルム上には水面に映りこんだ波紋のような同心円状のパターンが写り込む(光もまた波紋であるということが、視覚的に理解できる)。イメージは不明瞭だが、装置を通過する前の現実の光景(太陽と空)が、かすかな痕跡をエマルジョンに残している。このようにして撮影された素材が重ねられることによって、光の乗算が行われ、複雑なモワレが作中で展開される。素材の色合いの違いは、モワレとともに微妙な混色を引き起こす。アイデアの参照元となったのは、映画以前の光学装置の歴史であろう。サウンドはRozalie Hirsによる、点描的な室内楽。

・ヨースト・レクフェルト『#37』(35mm, 31min, 2009)
Joost Rekveld – #37
パーティクルのシミュレーションを行ったコンピュータグラフィックス作品であり、結晶と類似した抽象的なパターンが展開される。アイデアの参照元となったのは、マックス・フォン・ラウエが1912年に発見したX線回折で、結晶内部の構造回析の手法として使われるものらしい。自らプログラムを書いたというソフトウェアによって制作された。有機的な結晶状のパターンが、モワレや色の変移を引き起こしながら、ゆっくりと進行してゆく(細かいプロセスが分からないので一般的な3DCGアプリに例えるならば、モールガラスのような曲面と屈折率を持ったオブジェクトを空間に複数作成し、それらを複数重ねてアニメートしたようなグラフィックとなっていた)。
編集も大変興味深いものであり、短いショットは本当に数秒程度だが、長いショットは数分にも及ぶ。この長時間におよぶ微細な変化の提示は、レクフェルトがプログラムに選んだバート・フェヒターの『時間』の表現を思わせるものである。ここには、漫然とスクリーンを眺めていれば観客の眼球をトリップさせてくれるような、抽象映画にありがちな親切さや怠惰さはない。スクリーン上に潜在している膨大な変移は、観客の能動的な凝視によってはじめて見出され、観測され得るのである(ただし、画面の全面において変移は生じているので、映画の全てを認識することは不可能である)。デジタル環境での制作だが、最終的にフィルムにキネレコされた。35mmシネスコープ。
サウンドはYannis Kyriakidesによる、自然の環境音を思わせる電子音楽。パターンの変化に応じて無音状態を上手く使用しており、作品に緊張感を与えていた。

イメージフォーラムフェスティバル2015・Uプロ:ヨースト・レクフェルト1

実験映画作家であるヨースト・レクフェルトの初期作品(および短い最新作)と、彼に影響を与えた抽象映画の作品群を並べた、大変興味深いプログラム。レクフェルトの創作の背景にあるものが明確に伝わる内容となっている。また、抽象映画や抽象アニメーションに対する、凝り固まった歴史的先入観を解体する糸口が、随所に潜んでいたことも指摘しておきたい。


・ジョーダン・ベルソン『誘惑』(16mm, 7min, 1961)
Jordan Belson – Allures
抽象アニメーションの代表的作家の一人であるベルソンの作品。回転する円などをモチーフとした抽象アニメーション。カラー。サウンドはクラシック曲。

・ジェイムズ・ホイットニー『ヤントラ』(16mm, 8min, 1950-57)
James Whitney – Yantra
同じく、抽象アニメーションの代表的作家の一人であるジェイムズ・ホイットニーの作品。作家が影響を受けていた仏教思想が、そのまま作品を支えるモチーフとなっている。コンピュータ制御による制作プロセス導入以前の仕事であり、繊細なパーティクルの運動は手作業によるペイントであり、8年という長い制作期間を要した。カラー。サウンドはHenk Badingsによる電子音楽。

・ヨースト・レクフェルト『#2』(16mm, 12min, 1993)
Joost Rekveld – #2
水流のしぶきや、空を飛ぶ鳥の群れなどを、フォーカスを微妙に外して抽象的に撮影しながら、フリッカーを織り交ぜて構成した作品。撮影はスーパー8による。この作家が、いわゆる抽象アニメーションの文脈とは全く異ったところから制作を開始したことを物語る。現実像であろうと、無対象な形態や色彩であろうと、コンピュータグラフィックスであろうと、この作家にとって区別はない。そこでは、視覚を通した経験の組織化こそが中心的問題となっている。カラー。サウンドは本人によるアンビエントな電子音楽。

・ヨースト・レクフェルト『IFS-film』(16mm, 3min, 1991-94)
Joost Rekveld – IFS-film
パーティクルの運動を描いた、シンプルなコンピュータグラフィックス。真っ暗な仮想空間の中で、ドットの群れが分散と集合を繰り返す。当時のコンピュータグラフィックスの水準から見て、おそらく自分で全てのプログラムを書いたであろう、習作的な作品。スーパー8で撮影を行うのと同じ感覚でプログラム言語を自ら書くという、この作家の技術に対する柔軟なアプローチが、明確に現れている。モノクロ。サイレント。

・ヨースト・レクフェルト – VRFLM(16mm, 2min, 1994)
Joost Rekveld – VRFLM
野外で燃える車(?)のファウンドフッテージを流用して、この炎のイメージをオプチカル処理することによって様々に加工した作品。本来の炎の色は、それによって様々な色に変調される。ビデオによるカラー変調ではなく、フィルム制作におけるオプチカル処理にこだわったのは、オプチカルプリンターの技術的特質を引き出すことが目的になっていたためだろう。カラー。サイレント。

・スタン・ブラッケージ – コミングルド・コンテイナーズ(16mm, 5min, 1997)
Stan Brakhage – Commingled Containers
流れる水や水滴にカメラを向け、フォーカスを外してマクロ的に撮影する。それによって、自然の姿は抽象的な光の運動に還元される。ホイットニーやベルソンといった作家と、通常であれば彼らと結びつけられることのないブラッケージを併置するレクフェルトの観点は明快なものである。サイレント。

・ハイ・ハーシュ – Gyromorphosis(16mm, 7min, 1956)
Hy Hirsh – Gyromorphosis
抽象映画の先駆的な作家であるハイ・ハーシュによる作品。針金による彫刻を対象として、これを回転させながら様々なカメラワークによって撮影する。そうして得られたイメージを多重露光によって重ね合わせ、現像時にカラー加工を施し、抽象的に構築する。アプローチとしては、モホリ=ナギ『光の戯れ 黒・白・灰』(1930)を思わせるが、オプチカル処理による構築の複雑さは比較にならない。カラー。サウンドはMJQの『Django』をそのまま使用。

・ヨースト・レクフェルト『#3』(16mm, 4min, 1994)
Joost Rekveld – #3
長時間露光によって、ライトの軌跡を線状の抽象形として描き出した作品。作家の解説によると、ライトを運動させる装置もこのために製造されたという。細かく振動する光源は、物理的な運動を再現するものであるらしく、この作家のテクノロジーへの関心の強さがここにも表れている。映画的な技術としては、フォーカスを変化させることによる抽象化と、オプチカル処理による画面全体のカラー変調、細かいフリッカー的な編集が駆使されている。サイレント。

・ヨースト・レクフェルト『#5』(16mm, 6min, 1994)
Joost Rekveld – #5
ライトの軌跡を線状の抽象形として描き出すという表現手法は『#3』と共通するが、本作ではこれが3台の映写機によるマルチプロジェクションとして展開され、中央のプロジェクションが左右のプロジェクションに覆い重なるという形態をとる。これは、松本俊夫の『つぶれかかった右眼のために』と同じ上映形態である。さらにオプチカル処理による画面全体のカラー加工も、各リールごと別個に行われており、ポール・シャリッツの『Shutter Interface』のように、フレームの重なり合った部分が別の色に乗算される。カラー。サイレント。

・バート・フェヒター『時間』(Video, 9min, 2008)
Bart Vegter – De tijd
http://lightcone.org/en/film-5264-de-tijd
数学的な構成に基づいて、シンプルな斜線がゆっくりと推移してゆくコンピュータグラフィックによる抽象。このゆっくりとした展開のなかで、観客は映像の背後にあるアルゴリズムを観察することになる。この緩慢な変化による表現は、レクフェルトの『#37』に影響を与えているように思う。フェヒター本人によって書かれたプログラムで作成されたとのこと。サイレント。

・ヨースト・レクフェルト『#43.4』(Video, 1min, 2012)
Joost Rekveld – #43.4


本作は、実験映像プログラム「ヴァーティカルシネマ」の一編として制作された作品『#43』が元になっている(「ヴァーティカルシネマ」は、シネスコープサイズのスクリーンを横転させて縦に長い特殊スクリーンとして扱い、そこに35mmフィルムの映像を投影するという、映画上映の制度を読み直すコンセプトの企画であり、レクフェルトを含め多数の作家が委嘱制作を行った)。他にも、『#43.1』から『#43.5』に至るまでのヴァリエーションがある。表現としては、コンピュータグラフィックスによって描かれた、相互作用を引き起こすアルゴリズムによる抽象である。ここではサイバネティックスの相互作用やフィードバックが、アイデアの参照元となっているようだ。サウンドは、ドローンと自然の環境音を織り交ぜたようなアンビエント。