音から作る映画2『サロメの娘』アクースモニウム上映 @ 両国門天ホール

音から作る映画2『サロメの娘』アクースモニウム上映
両国門天ホール 2015年3月27日、28日
http://keishichiri.com/jp/events/salome/

少し前の話になるが、両国門天ホールに七里圭の映画『サロメの娘』(2015)を観に行った。今回、この作品は、20台以上のマルチチャンネルのスピーカーを駆使したアクースモニウム演奏に合わせて上映される。本作の音楽を担当するのは電子音楽の作曲家であり、アクースモニウム演奏者でもある檜垣智也である。

現代音楽の領域におけるアクースモニウムとは、フランスの電子音楽の系譜上にある上演技術であり、私も何度かそのようなコンサートを聴きに行った記憶がある。初めてこのようなマルチチャンネルでの電子音楽の上演を聴いたのは、神戸ジーベックホールで開催された「国際コンピュータ音楽フェスティバル98」(1998)だったと思う(その頃はアクースモニウムとは呼ばれていなかった気がする)。そして、最近では久万美術館における展覧会「白昼夢―松本俊夫の世界」(2012)に併せて開催されたコンサート「松本俊夫の映画音楽(作品:湯浅譲二・一柳慧、音響:能美亮士)」である。そのような数少ない経験で理解できるマルチチャンネルによる上演の特色としては、やはり観客とスピーカーの距離の近さ、すなわち観客と、そこで起こっている音響的な現象との近さが挙げられる。スピーカーを、通常のPAのようにステージ左右に配置するのではなく、客席と同列の空間に様々な工夫を凝らして——時には観客を取り囲むようにして配置する。それによって音楽は空間的な表現の多様性を得て、音響は現実的な出来事になる。(詳しくはこちらの記述を参考のこと。 http://ih-plus1.sblo.jp/category/88406-1.html

このような音楽を前提として制作される映画もまた、映画上映の形態を再考したものとなるのは必然だろう。七里は、おもに長編/短編の劇映画作品で知られているが、近年では物語性を解体させる方向を進めて、ワーク・イン・プログレスとしての実験的な映画上映に取り組んでいる。そこで生み出される映画は、断片的な言葉とイメージの集積という姿をとっているが、その中にはドラマチックな演出が含まれているので、フィクションとしての俳優による演技や物語性がなくとも、一般的な映画と同じように、観客の感情に働きかけるドラマ性を持っていると言える。

この日の会場内には、客席前方の空間に黒い紗幕が吊るされ、ここにメインの映像が投影される。さらに紗幕の背後の壁をスクリーンにして、そこにも映像が投影される。そして、この二つのスクリーンの間に、アクースモニウムを演奏する檜垣が座る。スクリーンに現れるイメージとは、雪山の風景、白馬、海原、人(人形?)の頭部、朧げな光などの断片的なものであるが、それらは通常の映画のようにスムーズに編集されておらず、イメージとイメージの間には、長い暗闇が挿入される。この暗闇の意識化は、明らかに『DUBHOUSE: 物質試行52』(2012)における試みの延長線上にある。『DUBHOUSE: 物質試行52』において七里は、鈴木了二の巨大模型を映し出すショットの前に、フィルムによってしか生み出せない完全な暗闇を置いた。それは、映画という装置が、暗闇と光によって形成される環境そのものであるという事実を示そうとするものであった。七里はそのような思考に基づいて、一連のワーク・イン・プログレスのなかで、映画が形成されるにあたっての、諸条件の再配置を推し進めていると言える(それは形態としては、かつての拡張映画/インターメディアや、映像を用いたインスタレーションに接近する)。

次に音楽について述べる。七里は『映画としての音楽』(2014、音楽:池田拓実)のなかで、無数の声の配置によって映画と音楽を一旦分離させ、再編することを試み始めた。本作でもアクースモニウムを駆使した檜垣との共同作業によって、その方向性が更にラジカルに推し進められている。会場内には、目につくところだけでも、10個以上のスピーカーが設置されている(私が座った椅子の下にもスピーカーが設置されていたので、目につかないところにも、まだ幾つかのスピーカーが潜んでいることだろう)。これらのスピーカーは、ローファイな拡声器やスタジオモニター用など、様々な種類の機種が揃えられており、それぞれの周波数特性も大きく異なる。その周波数特性の差によって、スピーカーは空間的な位相だけでなく、発音体である自らの物質性までも主張し始める。音楽の構成としては、脚本を朗読する人声の電子変調を基盤としたものであり、電子音楽・テープ音楽の領域でみられる音響的なラジオドラマを思わせるものとなっていた。その音源は会場内の無数のスピーカーにパラレルで振り分けられ、空間的な配置のなかで演奏された。

断片的なイメージと断片的な音響の、そして断片的な暗闇と断片的な静寂の、空間的な再配置。『映画としての音楽』の試みを展開させた『サロメの娘』は、七里が取り組んでいる「音から作る映画」の最前線を示すものとなっている。本作で檜垣が果たした役割は大きい。これは映画を再発明する作業であり、この方向にはまだまだ掘り下げる余地が残っている。今後のワーク・イン・プログレスの展開に、さらに期待したい。


付記:
七里の近作を契機に、実験映画が置かれた状況について少し付言したい(こんなことを書き加える気になったのは、ケイズシネマでの「DUBHOUSE: 物質試行52/映画としての音楽」上映の際に、七里のトークを聞く機会があったからかもしれない)。七里の近作に見られる実験性とは、何よりもまず表現への欲求が先行しており、その結果として名状しがたい映画になってしまったというものであると思う。それは、実作者として、自らの衝動に忠実であったことによる帰結でもある。すなわち劇映画と実験映画という区別のなさを、この作家は実作において示しているのである。彼のような開かれた態度において映画を手がける作家ばかりならば、国内の映画言説はもう少し違ったものになっていただろう。

しかし、今も昔も建前として「映画に区別はない」という態度をとる作家や評論家が多勢を占めているという状況に変わりはない。彼らはそのような態度によって、「『別の映画』は、なぜ危険な概念なのか。それは『別の』という言葉を口にするものが示す排除的身振りが、別でない『映画』の総体を、そっくり一つの虚構として制度化し、曖昧に生き延びさせてしまうからである」という、蓮実がかつて実験映画に対して行った批判を暗黙のうちに反復している訳だが、その言説が、結局のところ自分たちの守りたい映画を守るためのものに過ぎなかったことは自明だろう——彼らはあらゆる映画を映画であると認めながら、形式的に実験映画と呼ばれるような映画を排除してきたのだから。私はこのような映画への寛容さを装った、実は不寛容な人々のことはあまり評価できない。

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