ノイズ/パワーエレクトロニクスへの回帰

Hospital Productionsから2014年に6本組カセットテープとしてリリースされたVatican Shadowの『Death Is Unity With God』を、Modern Loveから2枚組LPとしてリリースすることによって、クラブミュージックとインダストリアルミュージックの文脈の重なり合う地点を示して見せたドミニクだが、その一方でPrurientの2015年の作品『Frozen Niagara Falls』は、前作と比較して、かなりハーシュノイズ/パワーエレクトロニクスの要素を取り戻した作品になっていた。このことから、ドミニクがVatican ShadowやExploring Jezebelと、Prurientの差別化を図っているという評価もできる。しかし、今年6月に開催された「Heavy Electronics III」の映像を見ていると、ドミニクは、クラブミュージックから、ハーシュノイズ/パワーエレクトロニクスへと回帰しつつあるのかもしれないと思えてきた。「Heavy Electronics」の第3回として位置づけられたイベントにおいて、あのGenocide Organと共演するということは、スタイルの使い分けで簡単に出来るようなことではないだろう。このフィードバックは、Vatican Shadowを始めとする他名義の音楽のなかにも、それなりに反映されてゆくのではないかと思う。

「ソエジマ・ナイト(第2夜)牧野貴 × 大友良英」@ 上野ストアハウス

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Photo © Rei Hayama

ソエジマ・ナイト(第2夜)牧野貴 × 大友良英
「1984年に北海道で行われた高柳昌行ソロツアーを副島輝人が記録した伝説のロードムービー『北走譚』を、映像を牧野貴、音楽を大友良英が解体し再構築し、全く新しい現在の作品として上映する試み」
2015年7月7日
会場:上野ストアハウス
企画:近未来考古学研究所
協力:青土社、JINYA、上野ストアハウス

2014年に逝去した音楽評論家である副島輝人は、1950年代に粕三平が発行していた映画雑誌「映画批評」に寄稿したり、同誌の研究会である「映画と批評の会」のメンバーにも名を連ねるなどしており、フリージャズに関する批評以前に、1950年代の革新的な映画言説に出自を持つ評論家であったといえる(当時、この雑誌や会の周辺には、山際永三、大島渚、松本俊夫、佐藤忠男、吉田喜重、佐藤重臣などがいた)。そんな彼が、1984年11月の高柳昌行の北海道ツアーに同行し、その旅程を撮影、編集した8mm映画が『北走譚』(1984)である。このツアーには、企画者である副島の他に、高柳門下生であった大友良英も同行している。この映画は単なるツアーの記録などではなく、音楽評論家による個人映画として捉えるべき作品であろう。私は過去に一度観たことがあるだけなので、細部をはっきりと覚えていないのだが、大友が運転する車での移動中の何気ないシーンや、コンサートのシーンが交互につなぎ合わされた、日記映画的な作品であったと記憶している。時期としては『ACTION DIRECT』(1987、録音は1985)の前年のツアーであり、作中でも高柳は、カセットテープと、様々な器具を使用したギター演奏によって、混沌とした即興を行っていた。

さて今回の「ソエジマ・ナイト」第2夜では、この『北走譚』を素材として牧野が新しい映画を制作し、さらに大友良英が即興で音楽を付けるという、挑戦的な試みが行われた。この解体的なコラボレーションは、副島の遺言から始まったと聞いている。私は北海道にいるため、この催しを観に行くことはできなかったのだが、後日見せてもらった映像や写真をもとに、このレヴューを書いている。その辺りの条件を勘案して読んでもらえればと思う。

大友の使用楽器は、副島を介して大友の手に渡った高柳のギターと、卓上のカセットテープ、エレクトロニクスなどであるが、これが『北走譚』における高柳の方法を再構築したものであることは明らかである。アクション・ダイレクトの時期に使用された、これらのエレクトロニクス類は、高柳のアイデアをもとに大友が手がけたものであったという。大友はこれらの楽器を使用して、全編を通して緊張感のある混沌とした演奏を聴かせていた(大友のFacebookへの書き込みによると、『北走譚』ツアーのライブ音源もミックスされていたようだ)。そして、牧野の映画『HOKUSOTAN 2015』であるが、これもオリジナルの『北走譚』を、完全に新しい映画として再構築したものになっていた(よって、副島と牧野の関係は、『光の絵巻』における石田尚志とのコラボレーションと同じ役割分担になっていたといえる)。映画の制作プロセスとしては、フィルムグレイン(粒子)が見えるほどの高解像でテレシネされたフィルム素材に、新たにデジタル撮影した自然物の映像を重ねながら、膨大な数のレイヤーによって編集するという、牧野が得意とするいつもの手法がとられている。特に今回は、オリジナルの映画が8mmフィルムなので、フィルムグレインの泡立つような運動が大きく、はっきりと見て取れる。この泡立つフィルムグレインの奥に、元々の『北走譚』のイメージは分解され、原型をかすかに留めた状態で沈められている。ここには、様々な場面の痕跡=レイヤーがせめぎ合っている。北海道の自然の風景や、演奏を行う高柳の姿も認めることができる。しかし、その輪郭は他の痕跡と混ざり合い、ほとんど抽象化していた。

さて、この牧野の手法は、高柳が取り組んだアクション・ダイレクトのアプローチとよく似ている。アクション・ダイレクトにおける、カセットテープやエレクトロニクスを使用することによって形成された重層的なサウンドは、様々な場面の痕跡の集合であるといえる。そして、高柳は——今回のライブにおいて大友は——その集合に直面しながら、現在の時制においてそこに介在し、即興的に自己のサウンドの形態を変化させてゆく。このアプローチを踏まえて、映画の制作プロセスをある種の即興的行為として見なすのであれば、牧野の編集作業も、高柳や大友の演奏行為と同質のものとして捉えることが出来るのではないか。生まれつつある「映画」の最初の観客は、必然的に作家本人である。そこで牧野は、様々な場面の痕跡を見つめ、編集しながら、即興的に映画を形成してゆく。たとえ映画が最終的にリニアな時間軸に固定されたものであったとしても、そこに即興的な変化の痕跡は埋め込まれているのである。すなわち映画とは、レコード盤上に録音された『ACTION DIRECT』のようなものだといえる。映画・音楽作品が有している内的な複雑さや、そこに埋め込まれた痕跡の意味を考える上で、このコラボレーションが興味深いものであったことは疑いようがない。

当日の模様は、下記のFacebookのイベントページから見られる。
http://www.facebook.com/events/938673882820369/

また、大友良英のウェブサイトにも、詳細なコメントが掲載されている。
「高柳さんのギター」 http://otomoyoshihide.com/955/

2015年7月15日

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安保法案が強行採決された。特定秘密保護法の施行、集団的自衛権の閣議決定を経て、今日に至った。2011年3月11日にはじまった私たちの社会の劣化が、このような政治状態をもたらしたことは明らかだろう。これによって憲法は空文化した。さらに来月からは、国内の原発が無責任にも再稼動されてゆく。やはり、引き返すことができる歴史の折り返し地点は過ぎたのだろう。これは極東の島国の衰退の過程だ。

「シンプルなかたち展:美はどこからくるのか」@ 森美術館

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作家名/作品名:アンソニー・マッコール『円錐を描く線 2.0』
この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示・非営利 – 改変禁止 2.1 日本」ライセンスでライセンスされています。


森美術館で開催されている、「シンプルなかたち展:美はどこからくるのか」のなかに、イギリスの実験映画作家、アンソニー・マッコールの『円錐を描く線 2.0』が出品されているので、それを目当てに観に行ってきた。

スモークの焚かれた空間のなかで、白い光点が30分程度の時間をかけ、ゆっくりと円を描いてゆく。そして最終的に、上映空間に映写機とスクリーンを結ぶ円錐が形成されるという作品である。観客には自由に動き回って、この円錐を体験することが許されている。本作は1973年に発表された作品の2010年版であり、1973年版が16mmフィルムで制作されていたのに対して、ビデオで制作されている。(ちなみに1973年版は、マスク合成で光点の軌跡を左右反転させることによって円を作っていたので、円はビデオによる2010年版の方が正確に出ている。ただし、2010年版はビデオプロジェクションのために、黒の部分がフィルム上映に比べて若干明るい。)

本作は、映画史的にはエクスパンデッド・シネマ(拡張映画)の文脈にあり、映画というメディウムを通常とは異なる方法によって再発明するタイプの作品であると位置付けられる。ここで映画は、役者の演技によって物語を映し出す手段としてではなく、一定の持続のなかで光の軌跡を形成するメディウムとして捉え直されているのだ。よって、本来であれば通常の映画上映の空間において、フィルムによって体験するのが最良な作品であるといえる。しかし、マッコールはその後、美術館向けに同様の手法によるインスタレーションを制作しているので、その仕事の中からは、映画の再発明という文脈は薄れてしまっている。おそらく2010年版を見た観客も、本作を異形の映画であるとは思わないだろう。作家は、今や二次元と三次元の関係構造において、シンプルな形態を経験してもらうことを望んでいるのかもしれない。しかし、それでもなお、映画の技術を捉え直す契機が、ここには内包されている。

本作については、『表象08 特集:ポストメディウム映像のゆくえ』でも書いたので、そちらも参照のこと。