Editions MEGO 20th Anniversary@Super Deluxe

mego20th
Editions MEGO 20th Anniversary
エディションズ・メゴ 20th アニバーサリー Super Deluxe 9月23日
・Fennesz+Jim O’Rourke
・Pita
・Klara Lewis
・ibitsu

Mego(Editions MEGO)のレーベル設立20周年となるイベントがスーパーデラックスにて開催された。このエントリーでは、そのイベントについて書きたいと思うが、その前に少し昔話をしたい。

1990年代末から2000年代にかけて、MegoやRaster-Noton、Mille Plateauxなど、この辺りのポピュラー音楽の範疇で現れた実験的な電子音楽は、国内では「電子音響」や「音響派エレクトロニカ」、あるいは「グリッチ」や「テクノイズ」などと様々な呼称で呼ばれた。この新しい動向をめぐる雑誌上での言説は、それまでのテクノについて語られてきたジャーナリスティックな言葉とは、異なるものとして展開された(特にDJ向けの音楽機材誌『Groove』での連載を元にした佐々木敦『テクノイズ・マテリアリズム』などは重要な役割を果たした)。曖昧な記憶を元にして大雑把にその言説をまとめてしまうと、そこで示されたものは、当時爆発的に普及し始めていたパソコンや安易なプログラミング環境によって、電子音楽の制作過程やライブ演奏が根本的に変化するのではないか――という見方であったと言えるだろう。

もちろんアカデミックな現代音楽の文脈にある電子音楽は、特定のコミュニティを形成し、歴史の延長線上に存在している。しかし、当時現れたポピュラー音楽としての「電子音響」(便宜上、ひとまずこの一語にまとめる)は、アカデミックな電子音楽とは違うものとして意義を付与された。そのことを理解するためには、前提として、アカデミックな電子音楽と同様の制作環境、例えばMax等のプログラミング環境が、安価なノートPCとともに普及したという事実を踏まえる必要がある。その普及によって何が引き起こされるかといえば、アカデミックな作曲ではあり得ないような非作曲家的あるいはハッキング的なアプローチによって、すなわちパンクやノイズと同じようなテクノロジーの即物的な誤用によって、音楽の形式や、リスナーの音楽聴取の枠組みまでもが解体されるという事態である。これが当時の「電子音響」に付与された意義だったといえる。

ただしこの様な言説は、テクノロジーの普及期における一定の有効期間を終えた後、雑誌上からは消えてゆく。そして、その後の「電子音響」として括られた音楽は、特別な批評性を持った音楽ではなく、昔からある他の実験的な音楽と同じくらいの可能性と限界を抱えた、普通の実験的な音楽となるか、もしくは耳障りの良いアンビエントミュージックの一種にまで後退する。

「普通の実験的な音楽」というのも変な言い方だと思うが、それはさておきMegoの活動史の背景には、日本国内に限って言えば、このような言説の変化が存在している。そんなMegoのイベントに、今回はピーター・レーバーグ(Pita)とクリスチャン・フェネス、それ加えてジム・オルークも出演するというので、久しぶりに彼らの音楽を見直す機会になるかもしれないと思いながら、私はスーパーデラックスに足を運んだ。Pitaとクリスチャン・フェネス+ジム・オルークの前には、クララ・ルイスとibitsuも演奏した。

Pita:
Megoの初来日時には、ノートPC一台でライブ演奏を行うことに、ある種のパンクな批評性が存在していたと言えなくもないが、今やそんなことに意味を見いだす人もいないだろう。ピーター・レーバーグこと、Pitaのライブ演奏での使用機材は、ノートPC+モジュラーシンセである。ここ5年くらいのユーロラックのモジュラーシンセの流行によって、ノートPCとモジュラーシンセを連動させたライブ演奏も見られるようになってきたが、Pitaもこのスタイルに則っており、ノートPC内のシーケンスもしくはプログラミングによって生成されたMIDI信号をCV/GATEに変換してモジュラーシンセに送って、ライブエレクトロニクス的にモジュラーシンセを操作しているのだと思われる。もしくは、Ableton Liveなどで事前に取り込んだサウンドを並走させているだけか。いずれにせよ、そのサウンドは、デヴィッド・チュードアのライブエレクトロニクスを想起させるアナーキーな電子音の集合体であった。破砕音のような電子音が周期的に反復し、蠢く電子音がそれを支える一曲目、重厚な持続音のレイヤーが重なり合う二曲目、チュードアの『Rainforest』を思わせる密集した電子音の奔流から、煌めくような持続音に転じる三曲目まで、いずれも密度の高い演奏を聴かせてくれた。40分程で演奏終了。

Fennesz+Jim O’Rourke:
フェネスの演奏はオルークとの共演。二人ともギターを抱えて椅子に腰掛け、机上のノートPCに向かうというスタイルである。まず二人は断片的なフレーズをギターで演奏してゆく。そして、それをある程度コンパクトエフェクターで処理してからノートPC内のDAWに送り、音響処理を掛けて最終的にPAに送っていたようだ。半ば抽象的な電子音となったギターのフレーズが、次々と現れては、残響の中に消えてゆく。終わってみて勝手に想像したのだが、この演奏のコンセプト自体はフェネスが立てたもので、オルークは演奏家的な立場で関わっているのではないかと思った。そういう意味では、この演奏は私の好みからすれば綺麗すぎるのだが、オルークが持ち込んだと思われる、調和を乱すような異質な電子音も一定の割合で存在していたので、結果的には大変興味深く聴くことができた。ノンストップで40分程の演奏であった。

Fenn O’berg:
最後に、Pitaとフェネス、オルークは、三人が並んで座り、15分程のFenn O’bergとしてのセッションを行った。こちらはオマケ的な感じで、取り立てて何かを言う程の結果にはなっていなかったように思う。「この噛み合わなさが面白いのだ」と言われれば、まあそういう気もするが、私としては各々の演奏の方が断然興味深かった。

この日のイベントは、音楽そのものと、音楽を批評的に価値付けようとする言説の関係を考え直す、良い機会になったと思う。新しく考案したタームを批評的に駆使して、ある時期ある音楽に意味を与えたこと――それは言説の側の役割を果たす仕事だったと思うし、無意味だとは思わない。しかし、音楽家は、その後も地道な模索の中で音楽を一生やり続けるしかない訳で、戦略的・批評的な言説の援護が、長い目で見た時に、その音楽家にとってどのような意味を持つのか、これを評定することはなかなか難しいだろう。これは言っても仕方のないことかもしれない。音楽を聴くことは自分にとって趣味に過ぎないが、せめて自分の取り組んでいるささやかな仕事の中でも、こういった意識は忘れないようにしたいと思う。

Jim O’Rourke “two sides to every story”@草月ホール DAY2

JO_twosides
Jim O’Rourke “two sides to every story” DAY2
ジム・オルーク 東京・草月ホール 10月26日
・Program:Bad Timing 全曲LIVE
・Program:Jazz Trio and Big Band

個人的などうでもいい話だが、この日、自分に割り当てられた座席が右壁側だったため、ステージの右側後方1/4くらいが見えない状態でコンサートを観るハメになってしまった。コンサートの内容は全く申し分なかっただけに、自分の運の悪さが恨めしい。よって下記レヴューにある楽器編成は一部不明確です。


・Program:Bad Timing 全曲LIVE
DAY2の最初は「カントリーブルースとミニマルミュージック」にあたるプログラムである。これについては、少し説明を加えておく必要があるだろう。97年に発表された『Bad Timing』(1997)は、バッドタイミングによって出会うことのなかった二つの音楽、ミニマルミュージック(あるいはアメリカ現代音楽における実験主義)とカントリーブルース(あるいはその発掘者としてのジョン・フェイヒー)についてのアルバムであった。この二つの音楽は時代は異なれど、いずれも広義にはアメリカ民族音楽といえる訳だが、その歴史はすれ違い、重なり合うことはなかった。だからこそオルークはこのバッドタイミングをやり直し、一枚のレコードの中で二つの文化を出会わせようとする。オルークはこの年、『Bad Timing』と同じテーマを持つ作品といえる、もう一つのアルバム『Happy Days』(1997)を発表している。これはアコースティックギターによるカントリーブルース的な繰り返しの演奏と、ハーディーガーディーによるドローンを重ね合わせた作品であり、Revenant盤の帯解説でもジョン・フェイヒーとトニー・コンラッドを結びつける仕事であると表現されている。ちなみにRevenantとは、言うまでもなくフェイヒーの作った自主レーベルである。さらに、この前年に発表されたGastr Del Solの『Upgrade & Afterlife』(1996)では、フェイヒーの「Dry bones in the valley (i saw the light come shining ’round and ’round) 」をミニマルミュージックとしてカヴァーし、トニー・コンラッドをヴァイオリンで参加させている。このように1997年頃のオルークの仕事には、ミニマルミュージックとカントリーブルースを結びつけるというテーマが存在していたと言える。

このプログラムでの楽器編成は、オルークがギター、そしてピアノ兼キーボード兼ピアニカ兼フルート、ベース、ドラム兼ビブラフォン、ペダルスティールギター、ヴァイオリンという総勢6名(私の座席からは見えなかったが、ダーリン・グレイも「94 The Long Way」でコントラバスを演奏していたようだ)。演奏はアルバムの曲順通り進行する。まず「There’s Hell In Hello But More In Goodbye」だが、ドラムのパートが入ることによって、アルバムの繊細な演奏に比較して、かなりロック寄りのアレンジになっていた。そのため、アルバムに存在していたGastr Del Sol的な繊細な構築性はやや後退していた。「94 The Long Way」は管楽器のパートが弦楽器に置き換えられていたが、それは重要な役割を充分に果たしていた。「Bad Timing」は比較的アルバムに忠実で、ビブラフォンの反復と微細なドローンの絡み合いによって、Gastr Del Sol的な構築性が実現されていた。そして、そのままギターノイズのドローンによって「Happy Trails」に繋がる展開もアルバムの通り。ただし中盤の転換点となる管楽器のパートは、やはり弦楽器に置き換えられていた。全体的に見てみると、前半2曲のロック寄りのアレンジには好みが分かれるところだろうが、後半2曲はアルバムに近い繊細な構築性を再現していたと思えた。勿論、個人的には全て申し分なしである。


・Program:Jazz Trio and Big Band
二日間のコンサートの締めくくりは「フリージャズ」にあたるプログラムである。実のところ、私はこのプログラムを「プレーヤーの組み合わせを変えてセッションを行い、最後に全員で集団即興を行うのだろう」と高を括っていた。しかし、実際の内容はそんな浅はかな想像を超えるものだった。これは正しく「Jazz Trio and Big Band」としか形容できない音楽である。

まず、ステージの前方に立つのは、坂田明(サックス、クラリネット、鈴、ヴォイス)、ダーリン・グレイ(コントラバス)、クリス・コルサーノ(ドラム)というお馴染みのトリオである。ここまでは想定の範囲内だといえるが、ビッグバンドが予想外だった。トリオの背後にピアノ奏者と、チューバやトロンボーンなど管楽器奏者5名が並び、オルークは観客席に背を向けて座って、ビッグバンドの指揮に専念する(管楽器奏者の一部は自分の座席からはよく見えなかったので、詳細がよく分からない)。

セッションが開始されると、坂田+グレイ+コルサーノのトリオは最初から全く躊躇なく、手数の多い即興演奏を展開する。そしてオルークは、カードと手数字によってビッグバンドを指揮する(ビッグバンドは譜面を見て演奏していたので作曲は行われているのだが、カードが複数使用されていた事から、恐らくそれはパーツごとの作曲だったのではないかと思う)。トリオを自由に動き回らせて、ビッグバンドはトリオの動きを補正するように、構築的に動いてゆくという対応関係である。それによって普通のフリージャズならばあり得ないような、異常な音楽が展開していた。これまた曖昧な言い方になるが、一瞬も止まらないトリオの即興が最高潮に達した時、それがピアノのクラスターと低音域の管楽器のリフによって、もう一段持ち上げられるような印象である。もちろん既存のフリージャズ系のオーケストラにも似たような試みを見出すことはできる。しかし、この編成ではオルークが全体的な視点からビッグバンドを指揮するというポジションに専念しているため、トリオの自由な即興が特定の状態に達した時に、全体を編集的にコントロールすることが可能となっているのだ。一気に15分程度の第一セットを駆け抜けて、比較的静かな第二セットから、ビッグバンドによるリフが先導する中で坂田のヴォイスが唸る第三セットへと続き、暴風雨のような演奏は終了した。呆然とするしかない、あり得ないような音楽だった。

追記:Globe Unity Orchestraのこの演奏などは、方向が近いかもしれない。ただし、Jazz Trio and Big Bandでは、これがもっと柔軟に、即応的に指揮されて行くことになる。参考まで。

追記2:グレン・コッチェのインスタグラムに写真がありました。


こうして観客は「現代音楽(電子音楽)」、「ポップス」、「カントリーブルースとミニマルミュージック」、「フリージャズ」というオルークの提示した四つのテーマを、二日間にわたって聴いたことになる。そのうえで私たちは、このジム・オルークという音楽家の内部にある多面性をどのように受け止めればいいのだろう。それは、観客各人が考えればいいことだが、私なりに思ったことを蛇足ながら付け足しておこう。

この多面性に共通するものがあるとすれば、それは、持続や反復による「循環構造を前提とする編集性」ではないかと思う。この提案は、弦楽器の音響加工による現代曲や、『Bad Timing』および『Happy Days』を例に挙げるならば、容易に同意してもらえると思う。さらに言えば、『Eureka』や『Simple Songs』のようなポップな楽曲ですら、ミニマルミュージックを経た反復の要素はある程度存在している。フリージャズについては、今まではちょっとはっきりしなかったが、今回はビッグバンドの指揮という枠組みによって、即興を一段高い次元から即応的に編集しようとする考えが強く押し出されていた。ただ、誤解して欲しくないのだが、ここで言う編集性とは、最終的な完成状態というものを持たないものである。その編集作業は完成に至ることなく、約束された失敗によって、循環構造の中で変化を生み出し続ける。どこかのインタビューで本人も語っていたように記憶するが、これは両足の靴紐を結んでわざと転ぶようなものである。まあ、いずれ詳しくジム・オルーク論として書いてみたいと思うので、ここでは暇人の思いつきとして聞き流していただければ幸いです。

Jim O’Rourke “two sides to every story”@草月ホール DAY1

JO_twosides
Jim O’Rourke “two sides to every story” DAY2
ジム・オルーク 東京・草月ホール 10月25日
・Program:String Quartet
・Program:Simple Songs 全曲LIVE

今回のコンサート「two sides to every story」はオルークの13年ぶりのヴォーカルアルバムである『Simple Songs』の発売に合わせたものと言えるが、この二日間のプログラムは、明らかに2013年にスーパーデラックスで開催された「ジム・O 6Days」を下敷きにしている。「ジム・O 6Days」は、テーブルトップギターによるインプロヴィゼーションや、電子音楽、テープ音楽、デポール大学時代の現代曲、『Happy Days』+『Bad Timing』の再現ライブ、そしてポップスやフリージャズに至るまで、振れ幅の大きいオルークの音楽的な引き出しを全て開いたような内容であった。そして「ジム・O 6Days」での試みを踏まえた上で、オルークは「two sides to every story」の中で、「1:現代音楽(電子音楽)」、「2:ポップス」、「3:カントリーブルースとミニマルミュージック」、「4:フリージャズ」という四つのテーマを各プログラムで提示したのだといえる。

大まかに確認しておくとオルークの音楽的なバックグラウンドは、フランク・ザッパを初めとするポピュラー音楽を除くと二つある。ひとつは、まだ十代の頃にデレク・ベイリーとの個人的な知遇を得ることから始まったヨーロッパのフリージャズ/フリーインプロヴィゼーションからの影響。もうひとつはデポール大学で学んだ現代音楽からの影響である——ただし後者は、オルークの中にアカデミックな現代曲への反発を生じさせるものであり、彼を非アカデミックでアンダーグラウンドな実験音楽やノイズミュージックの世界に向かわせたと言う意味で、反影響というべきかもしれない。そうしてオルークは、90年代にはフリーインプロヴィゼーションに取り組む一方で、各国のノイズレーベルからも精密に作り込まれたテープ音楽をリリースし、電子音楽とミニマルミュージックとカントリーブルースを高い次元で再構築したGastr Del Solでの活動を行うようになる。Gastr Del Sol解散以降は、ソロとしてヴォーカルアルバムをリリースしたり、プロデュース業や映画音楽制作に取り組むなど更に活動の幅を広げているが、この辺りはわざわざ説明するまでもないだろう。

このようなオルークの音楽的な経歴を考えると、「現代音楽(電子音楽)」、「ポップス」、「カントリーブルースとミニマルミュージック」、「フリージャズ」という先述の四つのテーマは、実に的を射たものであり、今回のコンサートは、ジム・オルークという音楽家の多面性を的確に伝えることのできる充実のプログラムになっていたのではないかと思う。


・Program:String Quartet
DAY1の最初は「現代音楽(電子音楽)」にあたるプログラムであり、ここではストリング・カルテットのために作曲された3作品が演奏された。ストリング・カルテットは、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロというオーソドックスな編成である。そして、並んで座った四人の演奏家の前に、観客に背を向けてオルークが腰掛ける。オルークはノートPCを開いて電子的な音響のコントロール——想像になるが恐らくリングモジュレーターによるキャリアの掛け合わせと、演奏者への指示を行っていた。これらの作品は、一聴するとデビッド・ジャックマン(Organum)やリチャード・ルペナス(The New Blockaders)の様なノイズミュージック、あるいはトニー・コンラッドのドローンの様に聴こえるかもしれないが、電子的な音響のコントロールが楽曲のコンセプトになっているという点において、言葉通りの意味で電子音楽作品である。いずれも楽曲タイトルは不明。

一曲目:18分程度の作品。まず第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが演奏を開始し、しばらくしてヴィオラ、チェロが加わる。それによって、4本の弦楽器による狭い音程を移動するドローンが続く。4本の弦楽器によるドローンは、リングモジュレーターによって、本来の楽器の音域外のサウンド(特に低音域の電子音)を発生させる。ある程度原型を保っている弦楽器によるドローンがあまり動かないのに対して、これらの音域外のサウンドは、上昇下降や揺れなど、さまざまな変化を見せてゆく。このことからキャリアとして掛けられる周波数が、事前にオシレーターによって「作曲」されていることが分かる。見た目には単調な演奏に見えるが、このドローンの内部には極めて複雑な構造が形成されている。

二曲目:12分程度の作品。まずチェロから断片的なフレーズの演奏を開始する。続いてヴィオラ、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリンも同じように断片的なフレーズを弾き始める。これらのパーツは、別々のものとして進行してゆくが、やはりリングモジュレーターによって本来の楽器の音域外のサウンドが生じている。それによって、まるで50年代の初期電子音楽のように、奇妙な電子音となった弦楽器のサウンドが断片的に現れては消えてゆく。

三曲目:9分程度の作品。紫の照明がステージの幕を照らすなかで、全演奏者が一斉に単音のドローンを弾く。そして、しばらくすると演奏者が楽器から手を離してゆく。だが、この単音のドローンはループ処理によって引き伸ばされており、演奏者が演奏を止めた後も持続する。このドローンには、例によってリングモジュレーターによる処理が行われているのだが、そのアプローチは上記2曲とは少し異っているように思えた。曖昧な言い方になるが、束状のドローンを全体的にまとめて、徐々に推移させてゆくような感じである。長い時間をかけて段々と音量が小さくなり、ドローンが消失したところで楽曲は終了した。


・Program:Simple Songs 全曲LIVE
次は「ポップス」にあたるプログラムであり、新作『Simple Songs』の楽曲が、ジム・オルークバンドによって全曲演奏された。バンドの編成はオルークによるギターとヴォーカルの他、ギター、ベース、ドラム、ピアノ兼キーボード、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリンという総勢7名。程良くミニマルな構造だが、プログレを思わせる複雑さも持っている楽曲を、情熱的な演奏で聴かせてくれた。アンコールでは「昔のバンドのメンバーとやります」と言って、Wilcoのグレン・コッチェ、そしてダーリン・グレイを呼び出し、2ndヴォーカルアルバム『Insignificance』から「Therefore, I Am」を演奏した。

確かに素晴らしい演奏であったが、将来ライブ盤などがリリースされて、このプログラムだけ取り上げて聴く人がいた場合、オルークを単なるポップミュージシャンとして誤解する人もいるかもしれない。しかし、恐らく最も大切なのは『Simple Songs』をポップスとして楽しむだけでなく、オルークが持っている他の音楽的側面との関連で聴き、そこに共通するものを見出すことだろう。勿論そんなことは、この日、草月ホールにいた観客たちにとっては、あまりに自明のことである。

追記:グレン・コッチェのインスタグラムに写真がありました。

Jim O'Rourke Simple Songs live in Tokyo, Mind Blowing! @tatsuhisayamamo @dragcity

A post shared by @glennkotche on

ケン・ジェイコブスの復習

IMG_2089

幾つか仕事が重なって長らくブログから遠ざかっていましたが、ひと段落ついたので再開。ひとまずケン・ジェイコブスを復習。私が持っているケンの作品は以下。意外と沢山出ている。

・Ken Jacobs ‎– 3X3D / 3D Blu-ray
・Ken Jacobs / John Zorn ‎– Celestial Subway Lines/Salvaging Noise / DVD
・Ken Jacobs ‎– New York Ghetto Fishmarket 1903 / DVD
・Ken Jacobs ‎– Let There Be Whistleblowers & Ontic Antics Starring Laurel and Hardy; Bye, Molly / DVD
・Ken Jacobs ‎– Tom Tom Piper’s Son / DVD
・Ken Jacobs ‎– 3 features and a short / 3DVD
・Ken Jacobs ‎– Star Spangled to Death / 4DVD

今回のサウンド・ライブ・トーキョーにおける、フィルムもビデオも使わないケン・ジェイコブスのパフォーマンス「ナーバス・マジック・ランタン」は、ジョン・ゾーンがサウンドを担当したバージョンのDVDもリリースされている。全く同一の映像素材なのかどうかは公演を観ないと分からないが、過去のDVDの内容に準じるならば、それは近年の作品のような、政治的主張が突然字幕で入るようなスタイルの作品ではない。

Ken Jacobs & Aki Onda – Nervous Magic Lantern Performance part 4/4, 2007 from Aki Onda on Vimeo.

しかし、個人的には「「ケン・ジェイコブス:知覚のアドヴェンチャー」」で紹介されたような作品にこそ、ケン・ジェイコブスらしさを感じてしまうところではある。ケン・ジェイコブスの実験映画は、フォーマリズムのバリエーションなどではない。それは芸術の政治(=芸術の制度)への抗議を通した、現実への抗議であると思う訳だ。だが、少し考えてみると、言葉としての政治的主張の有無などは、別段大した問題ではないのかもしれないと気がつく。この明滅の中に、自身を抑圧するあらゆるものへの苛立ちや抵抗を読み取れるかどうか。そこが問われているのではないか。この明滅の中で受け取った意識の解放を、現実の路上や毎日の生活に持ち込むことができるか否か。実験映画を観るということは、要はそういうことだ。