出版予告『松本俊夫著作集成』全四巻

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2016年2月より順次刊行。
『第一巻 1953-1965』:A5版2段組み、約600頁、予価6000円
編集協力:江口浩、川崎弘二、佐藤洋
発行:森話社


追記:刊行されました。こちらのエントリーを参照してください。
・出版予告『松本俊夫著作集成 Ⅰ 一九五三 ─ 一九六五』

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Re: play 1972/2015―「映像表現 ’72」展、再演 @ 東京国立近代美術館

replay

Re: play 1972/2015―「映像表現 ’72」展、再演
会場:東京国立近代美術館 企画展ギャラリー
会期:2015年10月6日〜12月13日
http://www.momat.go.jp/am/exhibition/replay

東京国立近代美術館にて、「Re: play 1972/2015―「映像表現 ’72」展、再演」展(以下リプレイ展)が開催されている。今回の展覧会で取り上げられる対象は、1968年から京都で始まった重要な動向である「現代の造形」の、1972年の展覧会「現代の造形〈映像表現 ’72〉―もの・場・時間・空間―Equivalent Cinema」である。「現代の造形〈映像表現〉」の解説については、過去にartscapeの用語辞典に書いたので参照のこと。
・「現代の造形〈映像表現〉」展(artscape Artwords)

以下にリプレイ展のレヴューを、1:「リプレイ展の評価」と、2:「映像表現 ’72の意義」に分けて記述しました。すいません、長いです。


1:リプレイ展の評価
まず最初に、リプレイ展の企画意図に関して評価すべき点を指摘しておく。このリプレイ展が、東近美が過去に開催した展覧会「ヴィデオを待ちながら」展(2009、以下ヴィデオ展)の続編に位置することは、内容的に明らかだと思う。観ていない人のために概説しておくと、ヴィデオ展は批評的な狙いをもって組まれた展覧会であり、その意図は、ロザリンド・クラウスの「ナルシシズムの美学」のビデオ論に対応する海外の造形作家のフィルム作品とビデオ作品を展示して、さらに国内の戦後美術においても、同論に対応する徴候を見つけ出すことにあったといってよい。そして、その際に見つけ出された徴候こそが、「現代の造形〈映像表現〉」に関わった作家たちのフィルム作品とビデオ作品であった。そして今回のリプレイ展は、ヴィデオ展の意図を展開させる形で、改めて「映像表現 ’72」を取り上げ、1972年の展示を映像メディウムの再現不能性(1972年と全く同じ状態での復元を行うことが出来ない)という切り口から、作品を再解釈する。ここで提示されるのが、一回性の展覧会に対する「再演」という考え方である。これは、フィルムやビデオといったメディウムを技術的集合として見なした、クラウスのメディウム論に対する解答にもなっているところが興味深い。造形美術における映像とは、固定された物質的支持体によって成り立つものではなく、複合的な技術の集合によって成り立っている。そのために、ある作品は再演される機会に応じて、異なる組成によって立ち上がる。個別の作品レヴューは後述するが、オリジナルに準ずる再演が、どの程度達成されていたのかをまとめると、次のようになる。

オリジナルに準ずる再演
・4点(米津茂英、植村義夫、庄司達、今井祝雄)
オリジナルに準ずる再演だが、都合によりデジタル素材も併用して展示
・4点(河口龍夫、植松奎二、柏原えつとむ、野村仁)
再制作版の展示
・2点(山本圭吾、山中信夫)
レプリカ+デジタル素材による展示
・1点(彦坂尚嘉)
デジタル素材による展示
・1点(長澤英俊)
再演に至らず
・4点(村岡三郎、松本正司、宮川憲明、石原薫)

このようにして見ると、不完全な再演が含まれた展示だったように映るかもしれない。しかし、全く同じ状態での復元が不可能であるということによって、メディウムの問題を逆説的に明らかにすることこそが、リプレイ展の本当の意図なのだとすれば、この結果自体が批評的な意味を持ってくるだろう。

このような評価の一方で、私はヴィデオ展およびリプレイ展のあり方に違和感も覚えている。その理由は、美術と映像の境界線上で展開してきた実験映画やビデオアートの歴史そのものに対する無関心が、この一連の展覧会に目立つためである。ヴィデオ展のカタログには、そのような歴史への関心が存在しないことが明記されており、造形作家のビデオ作品だけに限定する姿勢が取られていた。言うまでもなくビデオアートは、造形作家以外にも、様々な背景を持つ作家が手がけていたので、この限定条件は特異なものだったといえる。リプレイ展では、アルド・タンベリーニ、W&B・ハイン、松本俊夫などの実験映画・ビデオアートを上映した「FILM NOW 3日間の映画会」*1の再現も行われるので、ヴィデオ展の時に比べると実験映画・ビデオアートに対する目配りは改善されている。しかし、「現代の造形〈映像表現〉」の背景である、1960年代の京都の映画上映運動については言及がない。京都には「京都記録映画を見る会」をはじめとして、実験映画を含む自主上映運動の歴史が脈々と存在している(京都における自主上映の歴史については、次の研究にまとまっている|坂上しのぶ「京都の戦後自主上映の概略」)。そのような歴史が、「映像は発信する!」や「FILM NOW 3日間の映画会」のようなイベントに影響を与えたのだと私は考える。さらに、今井祝雄は第一回草月実験映画祭に『円』(1967)を出品しており、彦坂尚嘉は『季刊フィルム』13号に「映像表現 ’72」のための制作ノートを寄稿している。私はこのような歴史の重層性を細やかに記述し、分析することも、国立の美術館である東近美の役割ではないかと思う。今回は「映像表現 ’72」のカード型カタログを復元したものがカタログとなっていたので、普通のカタログがあれば詳細な記述によって、この点はもっと改善できたのかもしれない。(追記 11月28日:2冊目のカタログも出版予定だそうです。)

もう一つテクニカルな側面でも疑問がある。複製プリントの作業工程だが、私は8mmフィルムの密着デュープでプリントを作るか、16mmもしくは35mmフィルムにブローアップしてから、それを再撮影しているものとばかり思っていた。しかし展示解説によると、これは実際にはテレシネしたムービーファイルをMacBookのディスプレイに表示して、それをコマ撮りで再撮影したものなのだという。これは、技術員の工夫が窺える方法であるし、低予算でもできる苦肉の策といえる。しかし、この方法で作られた複製は展示の素材にしか使用できず、作品の永久的な保存の目的に資するものにはならない。本来であれば16mmもしくは35mmにブローアップしてHDテレシネを行い、美術館として作品保存の目的を完遂したうえで、展示用に8mmフィルムの複製プリントを作るべきであった。予算の話になるので仕方ない部分もあるのだろうが、資料を並べた回廊設置の予算を削ってでも、作品の保存作業に取り組んで欲しかった。(この作業工程については推測で書いている部分もあるので、私の認識に誤りがあれば訂正します。)


2:「映像表現 ’72」の意義
次に「映像表現 ’72」という展覧会それ自体の意義についてであるが、まずは個別の作品を出来るだけ詳細に分析してみたい。これらの作品は、1972年の展示が行われた京都市美術館展示室の寸法を縮小再現した展示室のなかで、オリジナルの寸法・配置に忠実に「再演」されていた。参考上映は、全てデジタル素材の液晶モニター展示。

・山本圭吾『行為による確認no.1』(Video Installation, 1972)
この作品は、1台のビデオカメラと2台のソニーのCV-2000を使用して、2台のモニターに来場者の姿を表示し、うち片方のモニターの上下を逆転させたビデオインスタレーションである。2台のCV-2000にオープンリールのテープを跨いで掛けるかたちでセッティングした1972年版では、物理的な遅延も発生していたはずである。実にこの作家らしい、遅延やズレをコンセプトとした作品で、インタラクティブなメディアアートへの指向が明快に表れている。2015年版では現在のビデオ機器によって、遅延も含めて再制作されている。

・野村仁『ROUTE 161』(Video, 160min, 1972)
この作品は、京都市美術館から敦賀湾までを走行する車の助手席から、進行方向を長時間撮影したビデオ作品である。テープチェンジの時間以外はノーカットで映像が続く。記録とは異なる、映像によるコンセプチュアルな行為の物質化といえる作品である。作家は本作の他にも「道」をテーマとする作品を複数制作している。モノクロ。同録サウンド。
2015年版は複製されたデジタル素材によるテレビモニター再生であったが、時間を限定して、1972年版と同じくアカイのVT-110を使用した上映も行われていた。
加えて資料展示では、次の作品の参考上映も行われていた
・『Graphilm』(16mm, 17min, 1970)
グラフィカルな血圧計の目盛りの動きを、数値を表示したのちに、フィックスで撮影する。「フィルム造形’70」に出品された。モノクロ。サイレント。
・『Jump: 一般府道10号京都線に於いて』(16mm, 8min, 1972)
ジャンプしながら移動するという行為を撮影する。府道のいろいろなポイントを撮影しながら進んで行く。モノクロ。サイレント。

・米津茂英『無題』(8mm x2, 6min32sec, 1972)
宙吊りの小さな白いパネルの裏表に、向かい合った2台の8mm映写機によって映像をループで投影したフィルム・インスタレーションである。この2台の映写機の配置は、撮影現場における2台のカメラの位置関係に対応している。それぞれの映像の展開は以下の通り。
カメラ1:空き地。カメラの後方から作家が歩いてくる。空き地の中央には等身大の板が建てられており、作家は板を避けて向こうに歩いて行く。作家の姿は、板の影に隠れてカメラからは見えなくなるが、撮影は継続される。
カメラ2:空き地。空き地の中央には等身大の板が建てられている。しばらくすると、作家が板の影から突然現れる。作家はカメラの前まで歩いてきて、また板の方に戻るという往復運動を繰り返す。
本作は2台のカメラ=映写機によって空間を再構成したものであり、1970年前後の造形美術の作家による映像作品が、行為や認識それ自体の取り出しを目的とするものであったことをよく表す、代表的な作品であるといえる。カラー。サイレント。
1972年版は8mmフィルムによる上映であるが、2015年版は耐久性の問題から16mmフィルムを使用して再演していた。
加えて資料展示では、次の作品の参考上映も行われていた
・『フレームを行く』(8mm, 7min8sec, 1971)
線路沿いの野原で、線路を底辺、カメラを頂点とする巨大な三角形を定める。そして作家は、その三角形の各辺を歩いて一周する。まず、作家は頂点(カメラ)から歩き始め、底辺の右端(フレームの右端)まで歩く。次に線路に沿って、底辺の左端(フレームの左端)まで歩く。そして再び頂点(カメラ)まで戻ってくる。厳密なコンセプトを、そのままフィルムに定着した作品である。「映像表現’71」に出品された。モノクロ。サウンドは会場の資料展示の環境がよくなかったので判然としなかった。

・植村義夫『Moving Picture 2』(8mm, 17sec, 1972)
TVコマーシャルの表示されたテレビモニターを8mmカメラで撮影し、それを一コマづつ紙焼きプリントにする(映像の内容は、出口が入り口につながった不思議な廊下のドアを出入りする人物)。そうして作成された170枚の写真を本に貼り付けて、フリップブックにする。これを手で動かして再々撮影し、17秒間の分解された運動として完成させ、壁面にループで投影する。モノクロ、サイレント。
2015年版は、1972年版と同じく8mmフィルムによって再演されていた。
加えて資料展示では、次の作品の参考上映も行われていた
・『Shoot』(8mm, 13min30sec, 1971)
ニュースが映されたテレビモニターを再撮影した作品。「5月13日広島のTVより」との字幕が入るので、瀬戸内シージャック事件の報道であると思われる。不鮮明な画面に何かを叫ぶ男の様子が、たびたび停止するスローモーションで映し出され、最後に射殺されて倒れこむところで終了する。「フィルム造形’70」に出品された。モノクロ。サウンドは会場の資料展示の環境がよくなかったので判然としなかった。

・植松奎二『Earth Point Project – Mirror』(8mm, 9min40sec, 1972)
壁面に鏡が貼られ、そこに8mm映写機によって映像がループで投影されている。木々、海面、歩行者の足元、建物、自動車などの映像が映し出されるが、それらはカメラのズームアウトによって、対象そのものではなく、その場に置かれた鏡に映る反射像だったことが明らかにされる。ここでは、映像の中の鏡と、スクリーンに貼られた鏡が対応関係にある。カラー。サイレント。
2015年版では、1972年版と同じ8mmフィルムで再演されていたが、上映時間は限定されており、テレシネしたデジタル素材によるプロジェクター投影も併用されていた。
加えて資料展示では、次の作品の参考上映も行われていた
・『23.5』(8mm, 4min20sec, color, silent, 1970)
テトラポッドに腰掛けた作家の足の運動を撮影したコンセプチュアルな作品。「フィルム造形’70」に出品された。カラー。サイレント。

・村岡三郎『無題』(8mm, 2min40sec?, 1972)
作家が亡くなっているため再演に至らず。1972年に展示されたはずの場所だけが空けられて、8mm映写機だけが置かれていた。ガラス越しに角材を立てかける行為を撮影し、それを8mm映写機で壁に投影するという内容だったと思われる。

・彦坂尚嘉『フィルム・デュエット:垂直の海(Upright Sea)』(16mm x2, 9min45sec, 1972)
展示室の両面の壁に、2台の16mm映写機を使ってフィルムを投影するのだが、この2台の映写機には、映写時間から推察して300フィート(90メートル)以上に及ぶ巨大なフィルムループが掛けられている。すなわち、同じフィルムを2台の映写機で同時に使用して上映するのである。しかも、フィルムループは床に無造作に束ねられており傷だらけとなる。フィルムの内容は、海面をアンダー気味の露出で撮ったもの。船舶など洋上の移動物を避けるために時折カメラはパンするが、ほとんど変化のないままに海面の映像が続く。カラー。サイレント。
1972年版は16mmフィルムで上映された。2015年版も同様に2台の映写機と16mmフィルムが設置されているのだが、これは外見を模倣しただけのレプリカとしての役目しか持っていない。すなわち、映写機は回転しているがフィルムは何も映っておらず、映写機による実際の投影は行われない。壁面の映像はテレシネされたデジタル素材をリア側からプロジェクター投影したものであった。

・河口龍夫『ふたつの視点と風景』(8mm x2, 3min15sec, 1972)
固定された2台の8mmカメラによって、線路沿い車道の様子を撮影する。そして、撮影時のカメラと同じような間隔で設置された2台の8mm映写機によって、2つのフレームを横に並べて壁面にループ投影する。右スクリーンを通過した車両や自転車は、少し欠落して、また左のスクリーンに登場するが、その欠落した空間と時間は、観客が補完することになる。本作もまた、カメラ=映写機によって空間を再構成した好例であるといえるだろう。モノクロ。サイレント。
2015年版では、1972年版と同じ8mmフィルムで再演されていたが、ループの距離が長いため、上映機会は限定されており、基本的にテレシネしたデジタル素材によるプロジェクター投影が行われていた。
加えて資料展示では、次の作品の参考上映も行われていた
・『陸と海』(8mm, 4min10sec, 1970)
波打ち際の四本の木材をフィックスで撮影。4月22日19時2分から5分までの4分間の現象の観測である。「フィルム造形’70」に出品された。モノクロ。サイレント。

・長澤英俊『Number 1』(8mm, 23min, 1971)
「映像表現 ’72」に出品された作品の中では例外的な、単体の映画として成立する詩的な作品。ミラノ滞在中の作家からフィルムが送付されたそうだが、当時の記録写真だけでは、実際に展示されたかどうか判然としないそうだ。シークエンスは次の通り。
1:作家が霧の中を歩いてくる。白い玉を持っている。玉を投げると落ちてこない。
2:指で木の芽を指差す。花を手で包む。街路にて指で物のサイズを測定する。
3:葉っぱの積もった土を掘り返す作家の手の動き、地中から人間の足が出てくる。やがて、その足は作家自身の下半身であるとわかる。足を掘り起こして土を払う。
4:石段を登って行く作家。木々。建物の中庭のような場所を手持ちカメラで撮りながら歩く。地面に引かれた線とチョーク。そのチョークで線を引くが、行き止まりに突き当たる。柱にチョークでバツ印を書く。
5:冒頭のシーンに戻る。空中から白い玉が落ちてくる。玉を持った作家の横顔。
カラー。サイレント。
2015年版では、テレシネされたデジタル素材をリア側からプロジェクター投影することで再演されていた。

・松本正司『かの虚構のなかの虚像の』(Slide + 8mm + Video Installation, 1972)
作家が亡くなっているため再演に至らず。1972年に展示されたはずの場所だけが空けられており、障子状のスクリーンや2台のTVモニター、8mmカメラなどが置かれていた。当時のカタログを見ても内容がはっきりしない作品であるが、8mm映写機と2台のTVモニターを併用して、複合的に展開してゆくインスタレーションであったようだ。
加えて資料展示では、次の作品の参考上映も行われていた
・『The Game』(8mm, 28min10sec, 1971)
ガスマスクを被った男のパフォーマンスを中心として、グラフィカルなイメージが展開する。画面には原色カラーフィルターがかけられており、ポップなイメージを演出している。当時のゼロ次元的なパフォーマンスに影響を受けているのが見て取れる。「映像表現’71」に出品された。カラー。サウンドはポップス。

・庄司達『無題』(8mm Installation, 1min, 1972)
8mm映写機からループで投影された映像が、8枚の不定形な形状の鏡に連鎖的に反射してゆくというフィルム・インスタレーション。フィルムの内容は陸上競技の風景。この作家の立体作品的な要素が強く表れているといえる。カラー、サイレント。
加えて資料展示では、次の作品の参考上映も行われていた
・『浜辺にて』(8mm, 9min44sec, 1972)
野間海岸の波打ち際の様子を手持ちのカメラで撮影する。波に打ち上げられる瓶を追い続ける。「映像表現’73」に出品された。カラー。サウンドは当時のポップス。

・宮川憲明『無題』(8mm Installation, 1min, 1972)
再演に至らず。1972年に展示されたはずの場所だけが空けられていた。秒針のない置き時計の実物に、秒針の映像をループ投影するというインスタレーションだったらしい。

・石原薫『無題』
(8mm x2 Installation, 1972)
再演に至らず。1972年に展示されたはずの場所に台が設置され、2台の8mm映写機が置かれていた。壁に垂らされた紗幕に映像を投影するというインスタレーションだったらしい。
加えて資料展示では、次の作品の参考上映も行われていた
・『MOU-S 178』(8mm, 15min, 1970)
白い全身スーツとカツラという奇抜な風貌の女性が、ジュースを飲んだり踊ったりするという作品。カラー。サウンドはポップス。「フィルム造形’70」に出品された。

・今井祝雄『切断されたフィルム』(Slide, 1972)
自動式スライド投影機1台によって、81枚の16mmフィルムの切れ端を、次々と壁面に投影してゆくインスタレーション。床には山積みのフィルムの切れ端が置かれている。このフィルムは放送局で廃棄されたものであり、写っているものは風景・人物・ニュースの様子など。この作家らしい、物としての記録媒体に着目した作品である。その後、今井はポラロイドカメラやフィルム、ビデオテープを物質的に使用するパフォーマンスを手がける。カラー。
2015年版は、1972年版と同じように自動式スライド投影機1台によって再演されていた。
加えて資料展示では、次の作品の参考上映も行われていた
・『ジョインテッド・フィルム』(16mm, 19min40sec, 1973)
『切断されたフィルム』の素材を映画に展開した作品。スライドによって投影されていたフィルムの切れ端は一本につなげられて、ランダムな編集のファウンド・フッテージ作品として再構成された。1973年の「京都アンデパンダン」に出品された。サイレント。カラー。

・柏原えつとむ『足を洗いましょう』(8mm, 1min45sec, 1972)
壁面に「足から洗いましょう」「足ぐらい洗いましょう」「足でも洗いましょう」「足を洗いましょう」「足は洗いましょう」「足まで洗いましょう」と書かれた6枚の紙が貼られている。そのうちの4枚の紙をスクリーンとして、足を石鹸で洗う映像を、8mm映写機からループで投影する。カラー。サイレント。
2015年版では、1972年版と同じ8mmフィルムで再演されていたが、上映時間は限定されており、テレシネしたデジタル素材によるプロジェクター投影も併用されていた。
加えて資料展示では、次の作品の参考上映も行われていた
・『サワタル』(8mm, 18min3sec, 1971)
波打つ噴煙の映像に暗喩的な字幕が重なる。「映像表現’71」に出品された。カラー。サウンドは民族音楽。

・山中信夫『ピンホール・カメラ』(1972)
「映像表現 ’72」のなかで、唯一フィルムもビデオも使用しないインスタレーション。幅2メートル、高さ2メートル、奥行き4メートルの木製の暗室を設置し、会場に面した側面にピンホールによるレンズ機構を取り付け、巨大なピンホール・カメラの内部を観客に経験させる。観客は暗室のなかで、おぼろげに浮かびあがる外界の反転像を見ることになる。
2015年版の暗室は再制作されたものだが、フィルムもビデオも使用しないからこそ、最も1972年版に近い形で再演されている。ただし、暗室のサイズは若干縮小された。

1970年頃に造形作品を手がけてきた造形作家の多くが映像作品の制作に取り組んだのは、美術が解体し、物質と観念に還元され、具体的な造形物を作ることが困難であった時期において、作品制作の過程における行為や認識それ自体を取り出すためであったといえる。「現代の造形〈映像表現〉」の周辺、あるいは「美共闘」や、「ビデオひろば」の和田守弘などに代表される造形作家によるフィルムやビデオの使用には、このような共通の前提が存在していた。そのような造形作家の映像への取り組みは、1980年代に向けて、彼らが造形作品の制作に回帰してゆくなかで沈静化してゆくことになる(また、一部の作家はビデオアーティストの方向へ進んで行くことになる)。資料展示のインタビューの中で、河口龍夫は次のような趣旨のことを語っていた(正確な引用ではないので注意してください)。

「現実が芸術になるとはどういうことか」「境界がなくなる。会場自体が非日常となる」「観客の現実の時間を奪わずに」

造形作家の映像作品は、その多くが身体や認識に根差したものに帰結する傾向を見せた。そこで映像は、任意の空間と、空間に付随する時間を写し取った鏡面としての役割を果たす。この鏡は、鏡面をのぞきこむ観客の意識を引き込んで奪い去るのではなく、観客が存在する現実を分裂させる方向に作用するのだ。行為や認識それ自体をフィルムやビデオによって取り出すというアプローチには、まだ汲み尽くされぬ可能性が潜在しているという他ない。


付記:言うまでもなく、「観客が存在する現実を分裂させる」という方向は、同時期のエクスパンデッド・シネマ(拡張映画)やビデオアートを手がけていた映像作家の問題意識と一致する。リプレイ展のチラシ解説の文章には「映画=没頭」という安易な図式に立脚している箇所があるが、そのような考えは、映画に対して理解が少し足りない。造形作家の映像と、実験映画作家やビデオアーティストの映像に違いがあるとすれば、映像そのものである持続する時間を解体する際に、どのようなアプローチを取るかという違いでしかあり得ない。

註1. 「FILM NOW 3日間の映画会」再演のプログラムは以下の通り。1972年に上映された作品のうち、ジョン・レノン+オノ・ヨーコ、クルト・クレン、ふじいせいいちの作品は、今回の上映プログラムから外されている。

「FILM NOW 3日間の映画会」再演
10月24日、11月29日
1 アルド・タンベリーニ(Aldo Tambellini)『ブラック TV(BLACK TV)』(1968)
2 ブルース・ベイリー(Bruce Baillie)『タング(Tung)』(1966)
3 スタン・ヴァンダービーク(Stan VanDerBeek)『ブレスデス(Breathdeath)』(1963)
4 安藤紘平『オー・マイ・マザー』(1969)
5 松本俊夫『エクスタシス』(1969)
6 松本俊夫『メタスタシス=新陳代謝』(1971)
7 松本俊夫『オートノミー=自律性』(1972)
8 松本俊夫『エクスパンション=拡張』(1973)

10月25日、11月28日
1 ウィルヘルム&ビルギット・ハイン(W&B Hein)『ラフなフィルム(Roh film)』(1968)
2 荒川修作『WHY NOT』(1969)

ケン・ジェイコブス「ナーバス・マジック・ランタン」@スパイラルホール+「死に至る星条旗」@イメージフォーラム


・ナーバス・マジック・ランタン
Nervous Magic Lantern
会場:スパイラルホール
日時:2015年11月3日

ライブ上映:ケン・ジェイコブス、フロ・ジェイコブス
作曲・演奏:恩田晃
http://www.soundlivetokyo.com/2015/ja/nervous_magic_lantern.html

サウンド・ライブ・トーキョーは、昨年は恩田晃が関わる形でマイケル・スノウを招聘してくれたが、今年は何とケン・ジェイコブスを招聘してくれた。これは1990年代以降、実験映画の文脈がなくなってしまったこの国の状況を考えれば画期的なことである。以前のエントリーでも書いたが、ジェイコブスはフィルムもビデオも使わない「ナーバス・マジック・ランタン」という映写パフォーマンスに以前から取り組んでいる。このような実験映画のパフォーマンスは、形式的な分類学を好む国内の美術や映画の状況においては、美術館からも映画館からもこぼれ落ちることになるが、これを逆手にとって、音楽パフォーマンスの文脈にジェイコブスを組み込んだサウンド・ライブ・トーキョーの功績は大きい。観客も200名以上はいたはずで、ほとんど満席だった。

会場であるスパイラルホールは、どちらかといえばフラットなホールなのだが、今回は前方の観客は床に座らせて、後方の観客は移動式観客席に座らせるという形を取っており、正面の壁すべてが巨大なスクリーンとして扱われていた。ジェイコブスは、観客席の最上段で映写作業を行い、恩田は観客からは見えない観客席の裏手で演奏を行う。私はいろいろ思案して、スクリーン・映写・演奏を全て見渡すことができる位置として、観客席最上段の左はじ付近に腰掛けた。おかげでこの三つの要素を何とか全て観察することができた。ジェイコブスが操作する自作映写機の内部構造は、A4程度の大きさの透明フィルムにペインティングを施し、それに強いライトを当ててスクリーンにイメージを投影するという機構のようだ。イメージの被写界深度が浅いために透明フィルムのブラシ跡には、ピントが合っている部分とそれ以外の部分で、不思議な奥行きが発生している。そして黒い箱の前方では巨大なプロペラが回転しており、投影光は間欠的に暗闇に遮られる。この際の光学的な回折によって、ジェイコブスの立体視映画と類似する効果が生じることになる。ジェイコブスは、投影の最中にも透明フィルムの位置を微妙に動かしたり、次の透明フィルムを取り替えたりと忙しく働いていた(ちなみに取り替えの際には、レンズの前に板を差し込んで完全に光を遮断する)。観客はこのスクリーンに映し出された不定形な光を知覚して、神経作用のなかで立体感のあるイメージに変換してゆく。一方、客席後方の恩田は、環境音や声、そして抽象的なノイズを録音したカセットテープや、シンバルやガラスなどの小物を発音具として即興演奏を展開していた。抽象的なサウンドについては、不定形な光とサウンドが余りにマッチし過ぎてしまうために刺激が足りなかったが、逆に人の声や生活音等の具体的なサウンドは、かなり興味深い映像との関係を生み出していたと思う。

この「ナーバス・マジック・ランタン」のアイデアが、映画前史における幻燈をモチーフとしていることは言うまでもない。これは、フォルムでもビデオでもないが、しかし映画としか形容できないパフォーマンスである。「プッシュ・アンド・プル」の理論で知られるハンス・ホフマンからジェイコブスが受け取ったものとは、物と物の関係であったという。この思考を映画に引き寄せて解釈することによって、映写機の機構と観客の関係を解体し、フレームとフレームの狭間、あるいはプロペラの間欠運動においてイメージの生成を促そうとする、現在に至るまでのシェイコブスの作品が制作されてきたのだ。ジェイコブスの映画を観ることとは、上映が始まってから終わるまでの時間を主体的に、能動的に生きることに等しい。それは映画的な、スクリーンへの没入の対極にある行為なのだといえる。


sstd2
・ケン・ジェイコブス『死に至る星条旗』(Digital, 393min, 1956–60/2003–04)
Ken Jacobs – Star Spangled to Death
Vimeo 予告編
starspangledtodeath.com

今回の来日パフォーマンスに合わせて、イメージフォーラムでは、ジェイコブス作品の回顧上映も行われた。去年のスノウの時は3階のスペースだったのに、今回は地下の通常のホールでの上映である。今回のプログラムで取り上げられた作品は、4本中3本が既にDVDになっているので目新しさは少ないが、私は都合もあって『死に至る星条旗』のオールナイト上映のみを観に行った(DVDは持っているが、6時間40分に及ぶこの作品を集中して鑑賞するというのは、映画館でないとなかなか難しい)。

本作は1956~60年頃に、ジェイコブスがジャック・スミスやジェリー・シムズと繰り広げた路上での即興演劇を中心軸に置きながら、多数の引用映像と、時として判読不能な密度にまで至る政治的批判の字幕によって構成された作品である。予算が足りず当時は完成に至らなかったが、2000年代になってようやくデジタルで完成に漕ぎ着けたという。「多数の引用映像と字幕による構成」などと説明すると、いかにもゴダール的な、映像と音響の再構成によって表象を宙吊りにするというアプローチを想像する方がいるかもしれないので、もう少し本作の根本的な方向を明確にしておく。ある時期以降のジェイコブスの映画には、アメリカ合衆国史の欺瞞を辛辣に批判するコメントが明確に登場するようになった。しかし、それは公式主義的なイデオロギーに染まったものではなく、あくまで作家自身の生活の次元に立脚している。ここでいう生活とは、自己の周囲で知覚される直接的な出来事と、自分との関係の連なりを指す。そしてジェイコブスの映画は、この生活のなかに潜在している抑圧的なプログラムを憎悪し、それを批判するものとして立ち現れる。生活の次元における抵抗――そのように考えれば、ジェイコブスがパラシネマのアイデアによって規格化された映画の再発明を試みたり、抽象的な立体視によって世界を知覚することのやり直しを試みていることは、辛辣な体制批判の言葉と真っ直ぐにつながってくる。それは映画によって生活の主導権を取り戻し、自分自身をコントロールするための抵抗なのだ(まあ、これは一種の疎外論であるとも言えるだろう)。

映画についてもう少し詳しく述べる。映画は1950年代に撮影された、スクラップ置き場や路地裏を舞台とする仲間達との奇妙な即興演劇と、9.11以降の政治状況に向けられた体制批判の字幕が並置されることによって始まる。作中を通して展開する即興演劇のパートに脚本は存在しないが、作家によると、スミスは生活の精霊であり、シムズは苦痛を表すという。同じようなタイプの人間でありながらも、確かにスミスの姿には天真爛漫な生の喜びを感じる一方で、シムズからは社会から排除されてきた者の悲哀を感じる(それは、後年撮影されたパートにおける、シムズの姿の印象が強かったせいかもしれない)。

この即興演劇の断片に、様々な引用映像が繋げられてゆくのだが、その編集の特徴を述べるならば、素材となるファウンドフッテージが基本的に元の形で、長い時間を取って使われているということが挙げられる。映像と音響を細切りにして再構成するという編集ではないのだ。これによって観客は、政治的あるいは暗喩的な字幕と、引用された映像の意味を思考する長い時間を与えられる。ファウンドフッテージの内容は、古いアフリカ探検のドキュメンタリー映画、ニクソンの「チェッカーズスピーチ(Checkers speech)」、子猿の行動分析を行う科学映画、下品なカートゥーン映画、アイス工場を舞台とする喜劇映画、道徳的な教育映画などである。特に人種差別や、宗教および道徳に関わるファウンドフッテージが印象に残る。そして映画は、終盤で突如ブッシュ政権下でのイラク戦争反対デモの映像に切り替わり、死に至る星条旗の歴史は、自死を目前とした現在地点に到達する。そして、デモに参加するジェイコブスは路上にジャック・スミスの精霊を見る。本作は政治的な意味でまさしく前衛映画であり、映画の機能を解放するという意味でまさしく実験映画であると言えるだろう。

上映会予告「映像芸術の世界 松本俊夫特集」

来月は愛知県美術館だけでなく、川崎市市民ミュージアムでも松本俊夫著作集成第一巻の刊行にタイミングを合わせて「映像芸術の世界 松本俊夫特集」と題された特集上映が行われる。こちらは、すべて川崎市市民ミュージアム所蔵の、コンディション良好な16mmプリントでプログラムが組まれている。

映像芸術の世界 松本俊夫特集
日時:12月5日 11:00〜Aプログラム 14:00〜Bプログラム
12月6日 11:00〜Bプログラム 14:00〜Aプログラム
会場:川崎市市民ミュージアム 映像ホール
料金:一般600円、大学・高校生・65歳以上500円、小中学生・市民ミュージアム友の会会員400円、幼児(未就学児)、障害者手帳・身障者手帳・療育手帳をお持ちの方およびその介助者1名、被爆者手帳をお持ちの方無料。 スカラチケット(10枚綴り回数券・有効期限なし)4,800円。

戦後映像芸術を切り拓いた松本俊夫の初期作品をはじめ、1974年にニューヨーク近代美術館で初めてのビデオアートのシンポジウムで上映された「モナ・リザ」等を、当館所蔵の16㎜フィルムで公開します。
映像ホール内の入り口にて、16mmフィルムから2Kデジタルに変換した「モナ・リザ」を展示します。

松本俊夫(1932〜)
映像作家・映画理論家・映画監督。東京大学文学部美学美術史学科卒業。「松本俊夫著作集」全四巻(森話社)刊行開始。

今回の特集上映で取り上げられる作品は、以下の17作品である。

Aプログラム
・松本俊夫『春を呼ぶ子ら』 (16mm, 21min, 1959)
・松本俊夫『安保条約』(16mm, 18min, 1959)
・松本俊夫『石の詩』(16mm, 8min, 1963)
・松本俊夫『メタスタシス=新陳代謝』(16mm, 8min, 1971)
・松本俊夫『エクスパンション=拡張』(16mm, 14min, 1972)
・松本俊夫『モナ・リザ』(16mm, 3min, 1973)
・松本俊夫『アンディ・ウォーホル=複々製』(16mm, 23min, 1974)

Bプログラム
・松本俊夫『ファントム=幻妄』(16mm, 10min, 1975)
・松本俊夫『色即是空』(16mm, 8min, 1975)
・松本俊夫『アートマン』(16mm, 11min, 1975)
・松本俊夫『ホワイトホール』(16mm, 7min, 1979)
・松本俊夫『氣=BREATHING』(16mm, 30min, 1980)
・松本俊夫『CONNECTION=コネクション』(16mm, 10min, 1981)
・松本俊夫『シフト=断層』(16mm, 10min, 1982)
・松本俊夫『フォーメーション=形成』(16mm, 10min, 1983)
・松本俊夫『スウェイ=ゆらぎ』(16mm, 8min, 1985)
・松本俊夫『エングラム=記憶痕跡』(16mm, 15min, 1987)

石の詩アンディウォーホルファントムコネクション(上段より、『石の詩』『アンディ・ウォーホル=複々製』『ファントム=幻妄』『CONNECTION=コネクション』)

比較的知られているメジャーな松本作品が多いが、これだけの数の作品をまとめて、しかもフィルムで上映するというのは、2006年の展覧会「眩暈の装置」以来の極めて珍しいことである。さらに付け加えておくならば、『春を呼ぶ子ら』『安保条約』『氣=BREATHING』『フォーメーション=形成』辺りの作品は、上映される機会が決して多いとはいえないので、この機会を逃さずにスクリーンで観ていただきたい。


また、12月5日のBプログラムの後には、トークイベント「映像芸術の保存と公開 フィルムとデジタルのジレンマを解く」も開催される(松本監督の出席は都合によりキャンセルとなりましたので、ご注意ください)。

私も登壇予定ですが、どうなることやら不安が…。とりあえずテーマは「映像芸術の保存と公開」ということなので、過去に東京都写真美術館、福岡市総合図書館、フィルムセンターの方々とお話しさせて頂いて、個人的にリサーチしてきたことの総論と、実際にPJMIAとして取り組んできた実験映画/個人映画やビデオアートの保存と運用について、お話しさせて頂こうかと。その際に論点となるかもしれない事柄を思いつくままに挙げるならば、以下のような感じだろうか。

1:「映像作品の保存はフィルムで」という方針が、限られた予算の中でどこまで可能なのか
2:現状、妥協点として採用しているHDデータ(prores)が、どこまで運用に耐え得るのか
3:作品において絶対的に担保されなければならないものは何か
4:どの作家、どの作品を優先させるのか
5:各機関の役割分担、美術側と映画側の意識差

会場では、2KのHDデータに変換した「モナ・リザ」もディスプレイ展示されるそうなので、それも観てもらいながら、「来たるべきアーカイブ」についての議論ではなく、とにかく実践的な意見交換させてもらえればと思います。


追記:メモ書き程度のものですが、当日使用したキーノートを、少し手直ししてアップしておきます。
・川崎市市民ミュージアム「映像芸術の保存と公開 フィルムとデジタルのジレンマを解く」(PDF)

上映会予告「第20回アートフィルム・フェスティバル 松本俊夫著作集成第一巻 1953-1965 刊行記念 “松本俊夫:新発見&再発見”」

愛知県美術館で開催される「第20回アートフィルム・フェスティバル」において、「松本俊夫著作集成第一巻 1953-1965 刊行記念 “松本俊夫:新発見&再発見”」と題されたプログラムが上映される。このプログラムは映像担当の学芸員氏の理解によって、誰もがよく知るメジャーな松本俊夫作品ではなく、新発見作品、上映機会のほとんどなかった忘れられた作品、珍しいプリントや新しいプリントで固められた恐ろしい内容となっている。しかも、これだけの内容なのに入場無料。中部圏の方々にはぜひ足を運んでほしい。以下、フェスティバルの概要と、各作品の解説を述べておきたい。

第20回アートフィルム・フェスティバル
日時:11月29日~12月6日
会場:愛知県美術館 12階アートスペースA
プレスリリースPDF
上映スケジュールPDF

実験映画やビデオ・アート、ドキュメンタリー、アニメーション、自主制作映画など、既存のジャンル区分を越えた視点から作品を選出し、映像表現の先端的な動向を紹介する特集上映会です。1990年代より特異な風景映画を制作するイギリスの監督パトリック・キーラーの「ロビンソン三部作」を初紹介する他、コレクション企画「線の美学」展関連作品上映、年末に著作集の刊行が始まることで新たな注目を集めつつある松本俊夫の新発見作品を含む特集、愛知芸術文化センター・愛知県美術館オリジナル映像作品として平成26年度に制作した、パフォーマー川口隆夫の創作プロセスを追った山城知佳子の新作の初公開等を予定しています。

松本俊夫著作集成第一巻 1953-1965 刊行記念「松本俊夫:新発見&再発見」
日時:12月4日 16:30〜『修羅』 19:00〜短編作品集

今冬、新たに著作集が刊行されるのに合わせ、新発見された企業 PR 映画『晴海埠頭倉庫』(1965 年)や、1970 年の「日本万国博覧会」(大阪万博)せんい館で行われた『スペース・プロジェクション・アコ』(1970 年)の記録映像、8mm フィルムで制作された『ディレイエクスポージャー』(1984 年)等の貴重な作品を紹介。また『修羅』(1971 年)や『アートマン』、『青女』(ともに 1975 年)等の代表作をフィルム上映します。


修羅2
・松本俊夫『修羅』(35mm, 134min, 1971)
鶴屋南北の「盟三五大切」を原作とする前衛的な時代劇。不合理な情念の絡み合いが、避けがたい悲惨な結末を呼び込む。撮影は鈴木達夫、出演は中村賀津雄、三条泰子、唐十郎など。本来は冒頭のみカラーで、以降はモノクロとなる作品であるが、今回の上映では、カラーのパートが冒頭以外にもう一つ存在する貴重な35mmプリントを使用する。

・松本俊夫『晴海埠頭倉庫』(16mm, 33min, 1965)※Blu-ray上映
近年発見された日本通運株式会社の企画によるPR映画であり、この年に完成した晴海埠頭倉庫の業務を解説する。斬新なフレーミングや、綿密なカメラワークを展開しており、企業のPR映画でありながら実験性に満ちた作品となっている。音楽は湯浅譲二による器楽曲+テープ音楽。

スペースプロジェクションアコ
・松本俊夫『スペース・プロジェクション・アコ』記録映像 (16mm, 15min, 1970)
『アコ』は「日本万国博覧会せんい館」における大規模なマルチ・プロジェクション作品であり、10台の35mm映写機と8台のスライド投影機によって構成されている。この記録映像はその館内の模様を最初から最後まで、固定ショットで、ノーカット収録したものである。音楽は湯浅譲二によるテープ音楽の傑作である「スペース・プロジェクションのための音楽」。この記録映像は、埼玉県立美術館での「日本の70年代 1968-1982」展や、文化庁メディア芸術祭、「記録映画アーカイブプロジェクト」などにも貸し出されてきたが、16mmプリントでの一般上映は今回が初めてである。

アートマン
・松本俊夫『アートマン』(16mm, 11min, 1975)
河原に佇む般若の面を被った人形の周囲をカメラが激しく旋回し、観る者の意識に強烈な眩暈を与える国内実験映画の傑作。人形の周囲をグリッドで仕切って、様々なパラメータのショットを撮影し、それを一コマづつ再構成することによって制作された。音楽は一柳慧による電子音楽。撮影には写真家の山崎博も同行した。今回上映する2012年製作の16mmプリントは、ラッシュをテレシネして監督立会いの元でカラーコレクションを行い、それを参照しながらタイミングをやり直した完全版と言えるものであり、赤外線フィルムを使用した独特の色味が、監督の意図に忠実に再現されている。

青女
・松本俊夫『青女』(16mm, 30min, 1975)
一切の説明を排して一人の女性が森林と海辺をさまよい歩く。全編赤外線フィルムを使用しているため、幻覚的な印象を観る者に与える。音楽は一柳慧による電子音楽。正しい読み方は「せいじょ」。 監督は本作をあまり高く評価していないが、抒情的な雰囲気は松本作品においては、かなり珍しいものであり忘れがたい。今回上映する2012年製作の16mmプリントは、監督立会いの元でチェックを行ったものである。

ディレイエクスポージャー
・松本俊夫『ディレイエクスポージャー』(8mm, 3min, 1984)※ビデオ上映
九州芸術工科大学に勤めていた時期に制作された、習作的な8mm作品である。カメラの自動露出機構を利用して、露出オーバーから適正露出に至るまでの数秒間の遅れをコンセプトとしている。

EEコントロール
・松本俊夫『EEコントロール』(8mm, 3min, 1985)※ビデオ上映
本作も九州芸術工科大学に勤めていた時期に制作された、習作的な8mm作品である。EEコントロールとは、シャッター速度優先自動露出機構のこと。コンセプトは『ディレイエクスポージャー』と同じだが、短いショットの構成が、より緻密になっている。

バイブレーション
・松本俊夫『バイブレーション』(8mm, 3min, 1985)※ビデオ上映
本作は京都芸術短期大学に移った時期に制作された、習作的な8mm作品である。固定カメラによってコマ撮りされた、ズームの非連続的な変化を積み増さねることをコンセプトとしている。本作の表現は、そのまま『エングラム=記憶痕跡』の中でも使用されている。

殺人カタログ
・松本俊夫『殺人カタログ』(Video, 20min, 1975)
近年発見されたビデオ作品であり、オープンリールテープのマスターからデジタル化を行った。松本の初期のビデオ作品でありながら、幻覚的なエフェクトの追求ではなく、ビデオアート的な長回しにおける循環性を、『薔薇の葬列』や『修羅』に通じるブラックなイメージに結びつけた、珍しい作品となっている。撮影は写真家の遠藤正。

牧野貴 作品集 Vol.2『Cerulean Spectacles』

牧野貴 作品集 Vol.2『Cerulean Spectacles』が12月にリリースされる。ちなみに、ジム・オルークとの共同制作による作品を集めたVol.1は、2010年末に紀伊國屋書店からリリースされている。今回のVol.2は、様々な音楽家とのコラボレーション作品が集められており、作家本人が主宰する上映組織+(プラス)の出版部門であるPlus Publishingからのリリースとなる。


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牧野貴 作品集 Vol.2『Cerulean Spectacles』
2015年12月中旬リリース 4,200円(税込み)
http://makinotakashi.net/ceruleanspectacles/

本作品集に収録されている作品は次の通り。様々な時期の、様々な音楽家との作品が並んでいる。
・Tranquil 音楽:牧野貴 & 平野敏久(2007年 カラー 19分 4:3 8mm film → Video)
・The Low Storm 音楽:ローレンス・イングリッシュ(2009年 カラー 16分 4:3 35mm & 8mm film → Video)
・Inter View 音楽:タラ・ジェイン・オニール & ブライアン・マムフォード(2010年 カラー 23分 16:9 35mm & 8mm film → HD)
・Ghost of OT301 音楽:Inconsolable Ghost(2014年 カラー 9分 16:9 16mm & 8mm film → HD)

さらに、Extra Discには次の作品のMOVファイルが収録されており、PCで高精細なHDムービーを観ることができる。勿論、この作品を見るための減光遅延方式3D眼鏡も付属。
・2012 映像 & 音楽:牧野貴(2013年 カラー 30分 16:9 35,16,8mm film → HD)(プルフリッヒ/マキノ3D©)

以下、このブログの過去のレヴューを転載しながら、各作品について簡単に説明する。


『Tranquil』は比較的初期の作品であり、揺らめくような自然の接写をつなぎ合わせた静謐な作品。本作の音楽は、牧野貴と、牧野の音楽的アドバイザーである平野敏久によるもので、アコースティックなドローンが画面を満たす。

『The Low Storm』は、まずアンダーな暗い画面のなかで、無数の粒子が運動し続ける序盤から始まる。やがて、雷の閃光のような画面の明滅によって、海原を航行する船舶や、凪の海面のイメージが姿を現わす。そして終盤に向けて、画面の明暗レベルはアンダーからオーバーへと急速に逆転してゆき、最後に全てが白い光に還元される。牧野のカラリストとしての職務経験が注ぎ込まれたコンセプチュアルな作品である。本作の音楽はローレンス・イングリッシュが担当しており、破砕音のコラージュと細い電子音のドローンによって構成されている。

『Inter View』は、過去にレヴューを書いているので、転載しておく。
「今回牧野が取った方法は、実験映画史的にいうならば、空をフレーム一面に撮影して、空のイメージを異化するという点において、Peter Gidalの「Clouds」との近似を指摘できる。牧野は本作で青空をフレーム一面に撮影し、そのイメージをさらに抽象化している。参照すべきものが何もない平坦な視界のなか、やがて青空を見ていたはずの観客は、スクリーン上の粒子の運動のなかでイメージの混沌に遭遇する。ライトグリーンをベースとしながら、その上で微細な運動を続けるブルーの粒子。(しかし、ごく稀にフレームを横切った海鳥の姿によって、意識は青空へと引き戻されたりもする。)そのような意識の振れを引き起こしながら、映画は混沌の度合いをミクロなレベルで高めてゆく。やがて草花、海鳥の群などのイメージが混ぜ合わされ、終盤においてイメージは沸点に達する。まさに観る人の数だけイメージが立ち表れる、そのような映画だった。牧野が次のフェイズに進んだことを知らしめる重要作品。ちなみに本作の音楽は Tara Jane O’Neil と Brian Mumford による、溶岩のようなドローン・ノイズであり、イメージの混沌としての映像と相互的な関係を結んでいた」


『Ghost of OT301』も、過去にレヴューを書いているので、転載しておく。
「牧野が所属する即興演奏ユニット、Inconsolable Ghostのアムステルダムでのライブ音源を使用した作品であり、珍しく音楽が先行する作品である。フィルムのスクラッチノイズやドリッピングのような微細な粒子が画面を埋め尽くす。その粒子の奥に、判別が難しい半抽象化した状態で、複数の人影が垣間見える。これは作家の解説によると、ある劇映画から取られたファウンドフッテージらしい」


『2012』は、本作品集のメインコンテンツというべき作品である。作品が持つ情報量の多さゆえに、DVDオーサリングにどうしても不具合が生じるため、データファイルとして今回パッケージ化されたらしい。これもまた過去にレヴューを書いているので、転載しておく。
「一年を掛けて一本の映画を制作し、その生成プロセスを定期的に上映により公開するというコンセプトによって、2012年を通して作家が取り組んだ作品。この作家はじめての立体映画であり、片目のグラスを掛けてスクリーンを観ることによって、プルフリッヒ効果を応用した立体感を得ることができる(ただし、グラスの使用は観客の自由である)。グラスを掛けて鑑賞した場合、この作家が得意とする画面を埋めつくす微細な光の運動が、立体的な奥行きを持った複数のレイヤーのなかで立ち上がってくる経験を得られる。それは、現行の商業映画における3D技術とは、可能性のひとつに過ぎないということを突きつけてくる。ケン・ジェイコブスのパラシネマのアイデアに繋がる、技術的集合としての[映画]を内部的欠如から問い直す試みといえるだろう。また、映像メディアの移行期に制作されたこともあり、前半はフィルムによって、後半はビデオによって制作されている。前半における横方向に走る鋭利なエマルジョン面への傷、そして、後半における沸き立つようなピクセルの運動と、この使用されるメディウムの違いによる生成結果の異同も興味深い」


今回改めて上記の作品を見直してみて思ったのだが、プルフリッヒ効果を導入して以降の牧野の作品(『Ghost of OT301』『2012』)は、2010年頃までの作品と比較して、レイヤー構造が明らかに複雑化している。速度の早いレイヤーと遅いレイヤー、その差は各レイヤーの立体的な奥行き感の強調に結びついている。そしてユニークなのが、このようなレイヤー構造の緻密化とプルフリッヒ効果の導入の一方で、作家が減光遅延方式グラスの使用を観客の自由に委ねていることだろう(作家は上映の際に、グラスを好きなように使用することを観客に勧める)。本作品集のライナーノーツにおいて映画研究者のジュリアン・ロスは、「カレンダーから滑り落ちる年:牧野貴の2012」と題された文章を寄せているのだが、そこで彼はプルフリッヒ効果の映画を観た経験を次のように述べている。

「我々は我々個人の見方を実感し、感覚と共に「見る」ことを演じるように導かれることとなる」
「光が明滅する中で、牧野貴は「見る」という行為の本質的な要素を観客に考え直すことを託す。はたして、どこまでがコントロールできるものなのだろうか」

観客が牧野の映画において直面する、「見る」という行為に付きまとう不安定性。我々が日常的に依拠している視覚とは、本来極めて脆いものである。観客は牧野の映画における視覚的な不安定性のなかで、「見る」ことを演じながら、視覚を変容させてゆく。牧野の映画とは、ゴダールの3D映画や、ポール・シャリッツのカラーフリッカーや、ケン・ジェイコブスのパラシネマと同様に、映画と人間の知覚の関係を再設定する映画なのだといえるだろう。ゴダールの3D映画について論じているアカデミックな映画研究者の方々や、一般のシネフィルの方々にこそ、機会があれば是非観て頂きたい作品集である。

+上映会「Lynn Loo + Guy Sherwin」@音楽実験室新世界

+上映会「Lynn Loo + Guy Sherwin」
音楽実験室新世界 2015年9月1日

少し前の話になってしまったが、六本木新世界での+上映会「リン・ルー+ガイ・シャーウィン」を観て感じたこと、考えたことを、当日配布した資料の作品解説に追記する形でレヴューしたい。イギリス実験映画史の解説と二人のプロフィールについては、繰り返しになるので資料のPDFを参照のこと(「Lynn Loo + Guy Sherwin」リーフレットPDF)。当日はフィルム交換の都合上、二人の作品が混在する上映順となり、その間にルーのプログラミングによる、ヨーロッパの女性作家の作品集が挟まれる形をとった。



・Lynn Loo『End Rolls』(16mm x3, 12min, 2011)
「ろうそく、ストーブ、火、ルームライトといった異なるレベルの光によって、異なる色彩を持った複数のフィルム。これらを複数の映写機によってスクリーンの上で重ね合わせる。それによって複雑な光の干渉が生じる。これに加えて、映写機レンズ前に設置されたフォトレジスターがランプ光に反応して、ノイズを発生させる」

ルーは3台の映写機のフォーカスとズームを絶えず操作して、それぞれのフレームサイズとフォーカスを細かく変化させ、三つの色彩をスクリーン上で繊細に混色する。三つのフレームの関係は常に移り変わって行き、フレームの中に縮小したフレームを入れ子構造的に配置したり、映写機を横にずらして部分的に重ねたり、そのヴァリエーションは工夫に満ちたものであった。重なった部分は加法混色となるので、フレームは時として白い光に到達する。考えてみれば、そもそもこの作品における色彩は、撮影時の光源の色温度とフィルムの意図的なミスマッチによって生じたものである。そのようなミスマッチによって生じた色彩が、スクリーン上で混色された時に、純粋な白い光に還元されるというのは、コンセプトと表現の一致という点から見ても見事だ。ガイはミキサーの前に座ってフォトレジスターから発生する持続的なノイズをミックスしていた。


・Lynn Loo『Autumn Fog』(16mm x2, 8min short version, 2012)
「秋の庭の草木を撮影したフィルムを元に、ネガフィルムとポジフィルムを作成し、これを複数の映写機によってスクリーン上で重ね合わせる。それによって、ソラリゼーションのようなイメージが形成される」

この作品でも、ルーは2台の映写機のフォーカスとズームを微調整しながら映写を行う。実際に観てみると、ネガフィルムとポジフィルムの重なり合いによる不思議な色合いもさることながら、同一の対象を捉えながらも、位置や時間の微妙なズレが生み出す多重性が素晴らしい効果を生み出していた。サイレント。

1-3
・Guy Sherwin『Railings』(16mm, 10min, 1977)
「横向けにしたカメラによって撮影された手すりの映像。この手すりのイメージは、フィルム上のサウンドトラックにも入り込んでおり、そのまま光学的にサウンド変換される。このフィルムの編集は複雑なものであり、サウンドはイメージに対応して一定のリズムを形成する。この作品は映写機を90度横転した垂直フォーマットで上映される」

まず、ガイは映写機にフィルムをセットして映写を開始し、回転する映写機をそのまま抱え上げて横転させる。何とも大胆な映写方式であるが、1度目はトラブルで映写機が止まってしまう。再び別の映写機にフィルムをセットするために時間が取られるが、まるでこの行為自体が一つのパフォーマンスのようで、見ていて飽きない。2度目の横転は成功し、そのまま映写は進行してゆく。今回の上映会場はライブハウスであるためにPAが大変パワフルだったのだが、サウンドトラックに焼き込まれた手すりのパターンは、大音量でインダストリアルなテクノのようなリズムを生み出す。視覚的なものと聴覚的なものを、映画のメカニズムのなかで一致させた見事な作品だった。上映が終わった時にコンサートのような歓声が上がる——こんな実験映画は稀である。


以上の前半三作品が上映されたのち、ヨーロッパの女性作家プログラムが上映された。ルーの希望により、作品の制作年は伏せる形で上映が行われた(すべてデジタル上映)。個別の作品レビューは、ここでは省略する。その後、後半三作品の上映となる。
・Esther Urlus – Red Mill with sound by Matt Kemp(Netherlands, 16mm *Digital Screening, 5min)
・Barbara Meter – Stretto(Netherlands, 16mm *Digital Screening, 7min)
・Helga Fanderl – Girls(German, 8mm *Digital Screening, 2min)
・Inger Lise Hansen – Traveling Fields(Norway, 35mm *Digital Screening, 9min)


1-2
・Guy Sherwin『Bay Bridge from Embarcadero』(16mm x2, 10min, 2002)
「同じ場所で撮影されたが、異なる時間を持った三つのフィルム。この三つのフィルムを横向けに並べて映写することにより、パノラマとして再現する。そこでは微妙に異なった時間を内包する空間が立ち上がる」

この作品は、通常は3台の映写機によって上映されるのだが、今回はスクリーン幅の限界から2台の映写機によって上映された。ベイブリッジの車道の風景を同じようなポジションから撮影した複数のフィルム。これを、2台の映写機によって、最初は横並びに映写する。それによって観客は、同じポジションの映像でありながら、あたかもパノラマ写真を見ているような錯覚に陥る。そして映写機はガイの手によって少しずつ動かされ、二つのフレームは徐々に接近し、最終的に一つのフレームとして一致する。この過程において生じる、知覚的な統一性が崩壊してゆく奇妙な経験は、映画の潜在的な能力を考えさせるものであり、大変興味深いものだった。


・Guy Sherwin『Cycles #3』(16mm x2, 9min, 1972/2003)
「二つのフィルム上に焼き付けられた円形のイメージが、二台のプロジェクターによって映写され、スクリーン上でスーパーインポーズされる。この円形のイメージは、それぞれ異なる周期で明滅しており、相互の干渉によってリズムを生みだしながら激しいフリッカーを引き起こす」

ガイは2台の映写機のズームとフォーカスを微妙に調整しながら、二つの明滅する円形のイメージを重ね合わせる。それによって、異なる周期を持った二つのフリッカー・フィルムが偶発的なリズムを生み出しながら絡み合って進行してゆく。サウンドも、異なる周期を持ったノイズの重なり合いによる偶発的なリズムであり、大音量のPAによって、まるでインダストリアルなテクノのように聴こえた。


・Lynn Loo『Washi #2』(16mm x2, 10min, 2014)
「複数の映写機を使用することによって、斜線のパターンが一つのスクリーンの上で多重化され、幾何的な抽象パターンが展開される。これに加えて、映写機レンズ前に設置された二つのフォトレジスターがランプ光に反応して、断続的なノイズを発生させる」

和紙の紙すきから連想されたであろう、複数のパターンの折り重ねによる抽象的な作品。ルーは2台の映写機のズームとフォーカスを絶えず操作しながら、抽象的なパターンのレイヤーを構築してゆく。想像していたよりも即興的なフィルム・パフォーマンスであった。サウンドは、フォトレジスターから発生する持続的なノイズ。


このように、ガイとルーは息の合ったコンビネーションで映写をこなしてゆく。二人の作品が混在して進行する形をとったが、すべて見終えてから思い返すと、ガイとルーの作品はアプローチの違いが明確なので、どちらの作家の作品なのか混乱するようなことはなかった。二人のアプローチの違いとは何か。大まかに述べるならばガイの関心は、映画の構造と人間の知覚の関係性の分析に向けられているといえる。ルーの関心は、複数の映写機の使用によってイメージと色彩が多層化された時に生じる変化に向けられており、フィルムを使用した即興的な造形作業のようであった。

上映後には質疑が行われたのだが、私の方からは「イギリス実験映画にコンセプチュアルな作品が多いのはどうしてか?」と「フィルムで作る意味、条件をどう考えるか?」という二つの質問をしてみた。すると最初の質問についてガイは、「プロテスタントだから」という冗談で笑いをとったうえで、「イギリスはアメリカ東海岸と近かった、その一方で詩的な作品はアメリカ西海岸に多かった」という地理的な影響関係についての見解を述べてくれた。次の質問については、ルーは「フィルム制作の全工程を作家が自分でコントロールできるから」と答え、ガイは「自分らの映画はコマーシャリズムの対極である」と述べたうえで、「あなた方はサブジェクトを購入したいと思いますか?」と観客に問いかける。これは二人の作品が、映画に潜むイデオロギーの抑圧に対しての、ひとつの抵抗として制作されていることを示すものだといえる。だからこそ二人は、映画のイリュージョンを使って別の物語を語るのではなく、映画の全工程を作家個人のコントロールの元に置いて、映画を成立させているプロセスや条件を、いちから作り直すという方針をとるのだ(商業的な映画と同じようにして、映画のイリュージョンを使って別の物語を語ることは、結局のところ観客を別種のイデオロギーに誘導することに他ならないのだから)。ガイとルーの作品を通して、イギリス実験映画、特に「構造的=物質主義的映画」の思想と実践が持っていた、広い意味での政治的な意味を考えさせてくれる良い機会になったと思う。




後日談として、ガイを日本に招聘してくれた渋谷のアツコバルーの企画展「絶対の今」(9月5日〜10月11日)も観に行った。ここにガイは、16mm映写機を使用したフィルム・インスタレーションを出品している。また9月10日には、+上映会とは別のプログラムによるガイの作品上映も行われたのだが、私は都合でそちらは観に行けなかった。

ガイのインスタレーションは、宙に吊るされた回転する小さな和紙をスクリーンにして、窓から差し込む太陽光の変化をとらえたフィルム(3分程度)をループ映写するというもの。この小さなスクリーンは、時計の機構を利用して、規則的な回転を続ける。そのため、投影光を全面で受けた時にはスクリーンとしての役割を果たすが、それ以外のタイミングでは和紙は光のオブジェと化す。また、和紙に投影される映像も興味深いものであった。それは真っ暗な部屋に窓から陽光が差し込んできて、その光がどんどん強まって、最後に部屋を真っ白な光で満たすという内容なのだが、ループ映写装置のなかで回転し続ける、映像が焼き付けられたフィルムを造形的な物体として見ると面白い。序盤の真っ暗な部屋のイメージは、造形的には完全な黒味である。そして、終盤の真っ白な光のイメージは、造形的にはスヌケ(透明フィルム)である。要するに、我々はフィルム上の単なる黒味とスヌケの推移のなかに、勝手に太陽光のイメージを読み取っているのである。

太陽光のイメージという表象性と、透明フィルムを通過した映写機のランプ光という物質性、この二つの意味の間で映像は揺らめく。しかも、中盤の窓から差し込む光という具体的なイメージも、スクリーンの回転するタイミングによっては物質的な光に還元される。シンプルながら、よく練られたコンセプトのインスタレーションであり、ガイの映画をそのままギャラリーに置き直したような、見事な作品になっていた。(以下、写真の中央よりやや左の映写機と吊るされた和紙がガイの作品。そして座ってそれを観る私。手前は河合政之氏のビデオ・インスタレーション。)