+上映会「Lynn Loo + Guy Sherwin」@音楽実験室新世界

+上映会「Lynn Loo + Guy Sherwin」
音楽実験室新世界 2015年9月1日

少し前の話になってしまったが、六本木新世界での+上映会「リン・ルー+ガイ・シャーウィン」を観て感じたこと、考えたことを、当日配布した資料の作品解説に追記する形でレヴューしたい。イギリス実験映画史の解説と二人のプロフィールについては、繰り返しになるので資料のPDFを参照のこと(「Lynn Loo + Guy Sherwin」リーフレットPDF)。当日はフィルム交換の都合上、二人の作品が混在する上映順となり、その間にルーのプログラミングによる、ヨーロッパの女性作家の作品集が挟まれる形をとった。



・Lynn Loo『End Rolls』(16mm x3, 12min, 2011)
「ろうそく、ストーブ、火、ルームライトといった異なるレベルの光によって、異なる色彩を持った複数のフィルム。これらを複数の映写機によってスクリーンの上で重ね合わせる。それによって複雑な光の干渉が生じる。これに加えて、映写機レンズ前に設置されたフォトレジスターがランプ光に反応して、ノイズを発生させる」

ルーは3台の映写機のフォーカスとズームを絶えず操作して、それぞれのフレームサイズとフォーカスを細かく変化させ、三つの色彩をスクリーン上で繊細に混色する。三つのフレームの関係は常に移り変わって行き、フレームの中に縮小したフレームを入れ子構造的に配置したり、映写機を横にずらして部分的に重ねたり、そのヴァリエーションは工夫に満ちたものであった。重なった部分は加法混色となるので、フレームは時として白い光に到達する。考えてみれば、そもそもこの作品における色彩は、撮影時の光源の色温度とフィルムの意図的なミスマッチによって生じたものである。そのようなミスマッチによって生じた色彩が、スクリーン上で混色された時に、純粋な白い光に還元されるというのは、コンセプトと表現の一致という点から見ても見事だ。ガイはミキサーの前に座ってフォトレジスターから発生する持続的なノイズをミックスしていた。


・Lynn Loo『Autumn Fog』(16mm x2, 8min short version, 2012)
「秋の庭の草木を撮影したフィルムを元に、ネガフィルムとポジフィルムを作成し、これを複数の映写機によってスクリーン上で重ね合わせる。それによって、ソラリゼーションのようなイメージが形成される」

この作品でも、ルーは2台の映写機のフォーカスとズームを微調整しながら映写を行う。実際に観てみると、ネガフィルムとポジフィルムの重なり合いによる不思議な色合いもさることながら、同一の対象を捉えながらも、位置や時間の微妙なズレが生み出す多重性が素晴らしい効果を生み出していた。サイレント。

1-3
・Guy Sherwin『Railings』(16mm, 10min, 1977)
「横向けにしたカメラによって撮影された手すりの映像。この手すりのイメージは、フィルム上のサウンドトラックにも入り込んでおり、そのまま光学的にサウンド変換される。このフィルムの編集は複雑なものであり、サウンドはイメージに対応して一定のリズムを形成する。この作品は映写機を90度横転した垂直フォーマットで上映される」

まず、ガイは映写機にフィルムをセットして映写を開始し、回転する映写機をそのまま抱え上げて横転させる。何とも大胆な映写方式であるが、1度目はトラブルで映写機が止まってしまう。再び別の映写機にフィルムをセットするために時間が取られるが、まるでこの行為自体が一つのパフォーマンスのようで、見ていて飽きない。2度目の横転は成功し、そのまま映写は進行してゆく。今回の上映会場はライブハウスであるためにPAが大変パワフルだったのだが、サウンドトラックに焼き込まれた手すりのパターンは、大音量でインダストリアルなテクノのようなリズムを生み出す。視覚的なものと聴覚的なものを、映画のメカニズムのなかで一致させた見事な作品だった。上映が終わった時にコンサートのような歓声が上がる——こんな実験映画は稀である。


以上の前半三作品が上映されたのち、ヨーロッパの女性作家プログラムが上映された。ルーの希望により、作品の制作年は伏せる形で上映が行われた(すべてデジタル上映)。個別の作品レビューは、ここでは省略する。その後、後半三作品の上映となる。
・Esther Urlus – Red Mill with sound by Matt Kemp(Netherlands, 16mm *Digital Screening, 5min)
・Barbara Meter – Stretto(Netherlands, 16mm *Digital Screening, 7min)
・Helga Fanderl – Girls(German, 8mm *Digital Screening, 2min)
・Inger Lise Hansen – Traveling Fields(Norway, 35mm *Digital Screening, 9min)


1-2
・Guy Sherwin『Bay Bridge from Embarcadero』(16mm x2, 10min, 2002)
「同じ場所で撮影されたが、異なる時間を持った三つのフィルム。この三つのフィルムを横向けに並べて映写することにより、パノラマとして再現する。そこでは微妙に異なった時間を内包する空間が立ち上がる」

この作品は、通常は3台の映写機によって上映されるのだが、今回はスクリーン幅の限界から2台の映写機によって上映された。ベイブリッジの車道の風景を同じようなポジションから撮影した複数のフィルム。これを、2台の映写機によって、最初は横並びに映写する。それによって観客は、同じポジションの映像でありながら、あたかもパノラマ写真を見ているような錯覚に陥る。そして映写機はガイの手によって少しずつ動かされ、二つのフレームは徐々に接近し、最終的に一つのフレームとして一致する。この過程において生じる、知覚的な統一性が崩壊してゆく奇妙な経験は、映画の潜在的な能力を考えさせるものであり、大変興味深いものだった。


・Guy Sherwin『Cycles #3』(16mm x2, 9min, 1972/2003)
「二つのフィルム上に焼き付けられた円形のイメージが、二台のプロジェクターによって映写され、スクリーン上でスーパーインポーズされる。この円形のイメージは、それぞれ異なる周期で明滅しており、相互の干渉によってリズムを生みだしながら激しいフリッカーを引き起こす」

ガイは2台の映写機のズームとフォーカスを微妙に調整しながら、二つの明滅する円形のイメージを重ね合わせる。それによって、異なる周期を持った二つのフリッカー・フィルムが偶発的なリズムを生み出しながら絡み合って進行してゆく。サウンドも、異なる周期を持ったノイズの重なり合いによる偶発的なリズムであり、大音量のPAによって、まるでインダストリアルなテクノのように聴こえた。


・Lynn Loo『Washi #2』(16mm x2, 10min, 2014)
「複数の映写機を使用することによって、斜線のパターンが一つのスクリーンの上で多重化され、幾何的な抽象パターンが展開される。これに加えて、映写機レンズ前に設置された二つのフォトレジスターがランプ光に反応して、断続的なノイズを発生させる」

和紙の紙すきから連想されたであろう、複数のパターンの折り重ねによる抽象的な作品。ルーは2台の映写機のズームとフォーカスを絶えず操作しながら、抽象的なパターンのレイヤーを構築してゆく。想像していたよりも即興的なフィルム・パフォーマンスであった。サウンドは、フォトレジスターから発生する持続的なノイズ。


このように、ガイとルーは息の合ったコンビネーションで映写をこなしてゆく。二人の作品が混在して進行する形をとったが、すべて見終えてから思い返すと、ガイとルーの作品はアプローチの違いが明確なので、どちらの作家の作品なのか混乱するようなことはなかった。二人のアプローチの違いとは何か。大まかに述べるならばガイの関心は、映画の構造と人間の知覚の関係性の分析に向けられているといえる。ルーの関心は、複数の映写機の使用によってイメージと色彩が多層化された時に生じる変化に向けられており、フィルムを使用した即興的な造形作業のようであった。

上映後には質疑が行われたのだが、私の方からは「イギリス実験映画にコンセプチュアルな作品が多いのはどうしてか?」と「フィルムで作る意味、条件をどう考えるか?」という二つの質問をしてみた。すると最初の質問についてガイは、「プロテスタントだから」という冗談で笑いをとったうえで、「イギリスはアメリカ東海岸と近かった、その一方で詩的な作品はアメリカ西海岸に多かった」という地理的な影響関係についての見解を述べてくれた。次の質問については、ルーは「フィルム制作の全工程を作家が自分でコントロールできるから」と答え、ガイは「自分らの映画はコマーシャリズムの対極である」と述べたうえで、「あなた方はサブジェクトを購入したいと思いますか?」と観客に問いかける。これは二人の作品が、映画に潜むイデオロギーの抑圧に対しての、ひとつの抵抗として制作されていることを示すものだといえる。だからこそ二人は、映画のイリュージョンを使って別の物語を語るのではなく、映画の全工程を作家個人のコントロールの元に置いて、映画を成立させているプロセスや条件を、いちから作り直すという方針をとるのだ(商業的な映画と同じようにして、映画のイリュージョンを使って別の物語を語ることは、結局のところ観客を別種のイデオロギーに誘導することに他ならないのだから)。ガイとルーの作品を通して、イギリス実験映画、特に「構造的=物質主義的映画」の思想と実践が持っていた、広い意味での政治的な意味を考えさせてくれる良い機会になったと思う。




後日談として、ガイを日本に招聘してくれた渋谷のアツコバルーの企画展「絶対の今」(9月5日〜10月11日)も観に行った。ここにガイは、16mm映写機を使用したフィルム・インスタレーションを出品している。また9月10日には、+上映会とは別のプログラムによるガイの作品上映も行われたのだが、私は都合でそちらは観に行けなかった。

ガイのインスタレーションは、宙に吊るされた回転する小さな和紙をスクリーンにして、窓から差し込む太陽光の変化をとらえたフィルム(3分程度)をループ映写するというもの。この小さなスクリーンは、時計の機構を利用して、規則的な回転を続ける。そのため、投影光を全面で受けた時にはスクリーンとしての役割を果たすが、それ以外のタイミングでは和紙は光のオブジェと化す。また、和紙に投影される映像も興味深いものであった。それは真っ暗な部屋に窓から陽光が差し込んできて、その光がどんどん強まって、最後に部屋を真っ白な光で満たすという内容なのだが、ループ映写装置のなかで回転し続ける、映像が焼き付けられたフィルムを造形的な物体として見ると面白い。序盤の真っ暗な部屋のイメージは、造形的には完全な黒味である。そして、終盤の真っ白な光のイメージは、造形的にはスヌケ(透明フィルム)である。要するに、我々はフィルム上の単なる黒味とスヌケの推移のなかに、勝手に太陽光のイメージを読み取っているのである。

太陽光のイメージという表象性と、透明フィルムを通過した映写機のランプ光という物質性、この二つの意味の間で映像は揺らめく。しかも、中盤の窓から差し込む光という具体的なイメージも、スクリーンの回転するタイミングによっては物質的な光に還元される。シンプルながら、よく練られたコンセプトのインスタレーションであり、ガイの映画をそのままギャラリーに置き直したような、見事な作品になっていた。(以下、写真の中央よりやや左の映写機と吊るされた和紙がガイの作品。そして座ってそれを観る私。手前は河合政之氏のビデオ・インスタレーション。)

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