ケン・ジェイコブス「ナーバス・マジック・ランタン」@スパイラルホール+「死に至る星条旗」@イメージフォーラム


・ナーバス・マジック・ランタン
Nervous Magic Lantern
会場:スパイラルホール
日時:2015年11月3日

ライブ上映:ケン・ジェイコブス、フロ・ジェイコブス
作曲・演奏:恩田晃
http://www.soundlivetokyo.com/2015/ja/nervous_magic_lantern.html

サウンド・ライブ・トーキョーは、昨年は恩田晃が関わる形でマイケル・スノウを招聘してくれたが、今年は何とケン・ジェイコブスを招聘してくれた。これは1990年代以降、実験映画の文脈がなくなってしまったこの国の状況を考えれば画期的なことである。以前のエントリーでも書いたが、ジェイコブスはフィルムもビデオも使わない「ナーバス・マジック・ランタン」という映写パフォーマンスに以前から取り組んでいる。このような実験映画のパフォーマンスは、形式的な分類学を好む国内の美術や映画の状況においては、美術館からも映画館からもこぼれ落ちることになるが、これを逆手にとって、音楽パフォーマンスの文脈にジェイコブスを組み込んだサウンド・ライブ・トーキョーの功績は大きい。観客も200名以上はいたはずで、ほとんど満席だった。

会場であるスパイラルホールは、どちらかといえばフラットなホールなのだが、今回は前方の観客は床に座らせて、後方の観客は移動式観客席に座らせるという形を取っており、正面の壁すべてが巨大なスクリーンとして扱われていた。ジェイコブスは、観客席の最上段で映写作業を行い、恩田は観客からは見えない観客席の裏手で演奏を行う。私はいろいろ思案して、スクリーン・映写・演奏を全て見渡すことができる位置として、観客席最上段の左はじ付近に腰掛けた。おかげでこの三つの要素を何とか全て観察することができた。ジェイコブスが操作する自作映写機の内部構造は、A4程度の大きさの透明フィルムにペインティングを施し、それに強いライトを当ててスクリーンにイメージを投影するという機構のようだ。イメージの被写界深度が浅いために透明フィルムのブラシ跡には、ピントが合っている部分とそれ以外の部分で、不思議な奥行きが発生している。そして黒い箱の前方では巨大なプロペラが回転しており、投影光は間欠的に暗闇に遮られる。この際の光学的な回折によって、ジェイコブスの立体視映画と類似する効果が生じることになる。ジェイコブスは、投影の最中にも透明フィルムの位置を微妙に動かしたり、次の透明フィルムを取り替えたりと忙しく働いていた(ちなみに取り替えの際には、レンズの前に板を差し込んで完全に光を遮断する)。観客はこのスクリーンに映し出された不定形な光を知覚して、神経作用のなかで立体感のあるイメージに変換してゆく。一方、客席後方の恩田は、環境音や声、そして抽象的なノイズを録音したカセットテープや、シンバルやガラスなどの小物を発音具として即興演奏を展開していた。抽象的なサウンドについては、不定形な光とサウンドが余りにマッチし過ぎてしまうために刺激が足りなかったが、逆に人の声や生活音等の具体的なサウンドは、かなり興味深い映像との関係を生み出していたと思う。

この「ナーバス・マジック・ランタン」のアイデアが、映画前史における幻燈をモチーフとしていることは言うまでもない。これは、フォルムでもビデオでもないが、しかし映画としか形容できないパフォーマンスである。「プッシュ・アンド・プル」の理論で知られるハンス・ホフマンからジェイコブスが受け取ったものとは、物と物の関係であったという。この思考を映画に引き寄せて解釈することによって、映写機の機構と観客の関係を解体し、フレームとフレームの狭間、あるいはプロペラの間欠運動においてイメージの生成を促そうとする、現在に至るまでのシェイコブスの作品が制作されてきたのだ。ジェイコブスの映画を観ることとは、上映が始まってから終わるまでの時間を主体的に、能動的に生きることに等しい。それは映画的な、スクリーンへの没入の対極にある行為なのだといえる。


sstd2
・ケン・ジェイコブス『死に至る星条旗』(Digital, 393min, 1956–60/2003–04)
Ken Jacobs – Star Spangled to Death
Vimeo 予告編
starspangledtodeath.com

今回の来日パフォーマンスに合わせて、イメージフォーラムでは、ジェイコブス作品の回顧上映も行われた。去年のスノウの時は3階のスペースだったのに、今回は地下の通常のホールでの上映である。今回のプログラムで取り上げられた作品は、4本中3本が既にDVDになっているので目新しさは少ないが、私は都合もあって『死に至る星条旗』のオールナイト上映のみを観に行った(DVDは持っているが、6時間40分に及ぶこの作品を集中して鑑賞するというのは、映画館でないとなかなか難しい)。

本作は1956~60年頃に、ジェイコブスがジャック・スミスやジェリー・シムズと繰り広げた路上での即興演劇を中心軸に置きながら、多数の引用映像と、時として判読不能な密度にまで至る政治的批判の字幕によって構成された作品である。予算が足りず当時は完成に至らなかったが、2000年代になってようやくデジタルで完成に漕ぎ着けたという。「多数の引用映像と字幕による構成」などと説明すると、いかにもゴダール的な、映像と音響の再構成によって表象を宙吊りにするというアプローチを想像する方がいるかもしれないので、もう少し本作の根本的な方向を明確にしておく。ある時期以降のジェイコブスの映画には、アメリカ合衆国史の欺瞞を辛辣に批判するコメントが明確に登場するようになった。しかし、それは公式主義的なイデオロギーに染まったものではなく、あくまで作家自身の生活の次元に立脚している。ここでいう生活とは、自己の周囲で知覚される直接的な出来事と、自分との関係の連なりを指す。そしてジェイコブスの映画は、この生活のなかに潜在している抑圧的なプログラムを憎悪し、それを批判するものとして立ち現れる。生活の次元における抵抗――そのように考えれば、ジェイコブスがパラシネマのアイデアによって規格化された映画の再発明を試みたり、抽象的な立体視によって世界を知覚することのやり直しを試みていることは、辛辣な体制批判の言葉と真っ直ぐにつながってくる。それは映画によって生活の主導権を取り戻し、自分自身をコントロールするための抵抗なのだ(まあ、これは一種の疎外論であるとも言えるだろう)。

映画についてもう少し詳しく述べる。映画は1950年代に撮影された、スクラップ置き場や路地裏を舞台とする仲間達との奇妙な即興演劇と、9.11以降の政治状況に向けられた体制批判の字幕が並置されることによって始まる。作中を通して展開する即興演劇のパートに脚本は存在しないが、作家によると、スミスは生活の精霊であり、シムズは苦痛を表すという。同じようなタイプの人間でありながらも、確かにスミスの姿には天真爛漫な生の喜びを感じる一方で、シムズからは社会から排除されてきた者の悲哀を感じる(それは、後年撮影されたパートにおける、シムズの姿の印象が強かったせいかもしれない)。

この即興演劇の断片に、様々な引用映像が繋げられてゆくのだが、その編集の特徴を述べるならば、素材となるファウンドフッテージが基本的に元の形で、長い時間を取って使われているということが挙げられる。映像と音響を細切りにして再構成するという編集ではないのだ。これによって観客は、政治的あるいは暗喩的な字幕と、引用された映像の意味を思考する長い時間を与えられる。ファウンドフッテージの内容は、古いアフリカ探検のドキュメンタリー映画、ニクソンの「チェッカーズスピーチ(Checkers speech)」、子猿の行動分析を行う科学映画、下品なカートゥーン映画、アイス工場を舞台とする喜劇映画、道徳的な教育映画などである。特に人種差別や、宗教および道徳に関わるファウンドフッテージが印象に残る。そして映画は、終盤で突如ブッシュ政権下でのイラク戦争反対デモの映像に切り替わり、死に至る星条旗の歴史は、自死を目前とした現在地点に到達する。そして、デモに参加するジェイコブスは路上にジャック・スミスの精霊を見る。本作は政治的な意味でまさしく前衛映画であり、映画の機能を解放するという意味でまさしく実験映画であると言えるだろう。

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