Re: play 1972/2015―「映像表現 ’72」展、再演 @ 東京国立近代美術館

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Re: play 1972/2015―「映像表現 ’72」展、再演
会場:東京国立近代美術館 企画展ギャラリー
会期:2015年10月6日〜12月13日
http://www.momat.go.jp/am/exhibition/replay

東京国立近代美術館にて、「Re: play 1972/2015―「映像表現 ’72」展、再演」展(以下リプレイ展)が開催されている。今回の展覧会で取り上げられる対象は、1968年から京都で始まった重要な動向である「現代の造形」の、1972年の展覧会「現代の造形〈映像表現 ’72〉―もの・場・時間・空間―Equivalent Cinema」である。「現代の造形〈映像表現〉」の解説については、過去にartscapeの用語辞典に書いたので参照のこと。
・「現代の造形〈映像表現〉」展(artscape Artwords)

以下にリプレイ展のレヴューを、1:「リプレイ展の評価」と、2:「映像表現 ’72の意義」に分けて記述しました。すいません、長いです。


1:リプレイ展の評価
まず最初に、リプレイ展の企画意図に関して評価すべき点を指摘しておく。このリプレイ展が、東近美が過去に開催した展覧会「ヴィデオを待ちながら」展(2009、以下ヴィデオ展)の続編に位置することは、内容的に明らかだと思う。観ていない人のために概説しておくと、ヴィデオ展は批評的な狙いをもって組まれた展覧会であり、その意図は、ロザリンド・クラウスの「ナルシシズムの美学」のビデオ論に対応する海外の造形作家のフィルム作品とビデオ作品を展示して、さらに国内の戦後美術においても、同論に対応する徴候を見つけ出すことにあったといってよい。そして、その際に見つけ出された徴候こそが、「現代の造形〈映像表現〉」に関わった作家たちのフィルム作品とビデオ作品であった。そして今回のリプレイ展は、ヴィデオ展の意図を展開させる形で、改めて「映像表現 ’72」を取り上げ、1972年の展示を映像メディウムの再現不能性(1972年と全く同じ状態での復元を行うことが出来ない)という切り口から、作品を再解釈する。ここで提示されるのが、一回性の展覧会に対する「再演」という考え方である。これは、フィルムやビデオといったメディウムを技術的集合として見なした、クラウスのメディウム論に対する解答にもなっているところが興味深い。造形美術における映像とは、固定された物質的支持体によって成り立つものではなく、複合的な技術の集合によって成り立っている。そのために、ある作品は再演される機会に応じて、異なる組成によって立ち上がる。個別の作品レヴューは後述するが、オリジナルに準ずる再演が、どの程度達成されていたのかをまとめると、次のようになる。

オリジナルに準ずる再演
・4点(米津茂英、植村義夫、庄司達、今井祝雄)
オリジナルに準ずる再演だが、都合によりデジタル素材も併用して展示
・4点(河口龍夫、植松奎二、柏原えつとむ、野村仁)
再制作版の展示
・2点(山本圭吾、山中信夫)
レプリカ+デジタル素材による展示
・1点(彦坂尚嘉)
デジタル素材による展示
・1点(長澤英俊)
再演に至らず
・4点(村岡三郎、松本正司、宮川憲明、石原薫)

このようにして見ると、不完全な再演が含まれた展示だったように映るかもしれない。しかし、全く同じ状態での復元が不可能であるということによって、メディウムの問題を逆説的に明らかにすることこそが、リプレイ展の本当の意図なのだとすれば、この結果自体が批評的な意味を持ってくるだろう。

このような評価の一方で、私はヴィデオ展およびリプレイ展のあり方に違和感も覚えている。その理由は、美術と映像の境界線上で展開してきた実験映画やビデオアートの歴史そのものに対する無関心が、この一連の展覧会に目立つためである。ヴィデオ展のカタログには、そのような歴史への関心が存在しないことが明記されており、造形作家のビデオ作品だけに限定する姿勢が取られていた。言うまでもなくビデオアートは、造形作家以外にも、様々な背景を持つ作家が手がけていたので、この限定条件は特異なものだったといえる。リプレイ展では、アルド・タンベリーニ、W&B・ハイン、松本俊夫などの実験映画・ビデオアートを上映した「FILM NOW 3日間の映画会」*1の再現も行われるので、ヴィデオ展の時に比べると実験映画・ビデオアートに対する目配りは改善されている。しかし、「現代の造形〈映像表現〉」の背景である、1960年代の京都の映画上映運動については言及がない。京都には「京都記録映画を見る会」をはじめとして、実験映画を含む自主上映運動の歴史が脈々と存在している(京都における自主上映の歴史については、次の研究にまとまっている|坂上しのぶ「京都の戦後自主上映の概略」)。そのような歴史が、「映像は発信する!」や「FILM NOW 3日間の映画会」のようなイベントに影響を与えたのだと私は考える。さらに、今井祝雄は第一回草月実験映画祭に『円』(1967)を出品しており、彦坂尚嘉は『季刊フィルム』13号に「映像表現 ’72」のための制作ノートを寄稿している。私はこのような歴史の重層性を細やかに記述し、分析することも、国立の美術館である東近美の役割ではないかと思う。今回は「映像表現 ’72」のカード型カタログを復元したものがカタログとなっていたので、普通のカタログがあれば詳細な記述によって、この点はもっと改善できたのかもしれない。(追記 11月28日:2冊目のカタログも出版予定だそうです。)

もう一つテクニカルな側面でも疑問がある。複製プリントの作業工程だが、私は8mmフィルムの密着デュープでプリントを作るか、16mmもしくは35mmフィルムにブローアップしてから、それを再撮影しているものとばかり思っていた。しかし展示解説によると、これは実際にはテレシネしたムービーファイルをMacBookのディスプレイに表示して、それをコマ撮りで再撮影したものなのだという。これは、技術員の工夫が窺える方法であるし、低予算でもできる苦肉の策といえる。しかし、この方法で作られた複製は展示の素材にしか使用できず、作品の永久的な保存の目的に資するものにはならない。本来であれば16mmもしくは35mmにブローアップしてHDテレシネを行い、美術館として作品保存の目的を完遂したうえで、展示用に8mmフィルムの複製プリントを作るべきであった。予算の話になるので仕方ない部分もあるのだろうが、資料を並べた回廊設置の予算を削ってでも、作品の保存作業に取り組んで欲しかった。(この作業工程については推測で書いている部分もあるので、私の認識に誤りがあれば訂正します。)


2:「映像表現 ’72」の意義
次に「映像表現 ’72」という展覧会それ自体の意義についてであるが、まずは個別の作品を出来るだけ詳細に分析してみたい。これらの作品は、1972年の展示が行われた京都市美術館展示室の寸法を縮小再現した展示室のなかで、オリジナルの寸法・配置に忠実に「再演」されていた。参考上映は、全てデジタル素材の液晶モニター展示。

・山本圭吾『行為による確認no.1』(Video Installation, 1972)
この作品は、1台のビデオカメラと2台のソニーのCV-2000を使用して、2台のモニターに来場者の姿を表示し、うち片方のモニターの上下を逆転させたビデオインスタレーションである。2台のCV-2000にオープンリールのテープを跨いで掛けるかたちでセッティングした1972年版では、物理的な遅延も発生していたはずである。実にこの作家らしい、遅延やズレをコンセプトとした作品で、インタラクティブなメディアアートへの指向が明快に表れている。2015年版では現在のビデオ機器によって、遅延も含めて再制作されている。

・野村仁『ROUTE 161』(Video, 160min, 1972)
この作品は、京都市美術館から敦賀湾までを走行する車の助手席から、進行方向を長時間撮影したビデオ作品である。テープチェンジの時間以外はノーカットで映像が続く。記録とは異なる、映像によるコンセプチュアルな行為の物質化といえる作品である。作家は本作の他にも「道」をテーマとする作品を複数制作している。モノクロ。同録サウンド。
2015年版は複製されたデジタル素材によるテレビモニター再生であったが、時間を限定して、1972年版と同じくアカイのVT-110を使用した上映も行われていた。
加えて資料展示では、次の作品の参考上映も行われていた
・『Graphilm』(16mm, 17min, 1970)
グラフィカルな血圧計の目盛りの動きを、数値を表示したのちに、フィックスで撮影する。「フィルム造形’70」に出品された。モノクロ。サイレント。
・『Jump: 一般府道10号京都線に於いて』(16mm, 8min, 1972)
ジャンプしながら移動するという行為を撮影する。府道のいろいろなポイントを撮影しながら進んで行く。モノクロ。サイレント。

・米津茂英『無題』(8mm x2, 6min32sec, 1972)
宙吊りの小さな白いパネルの裏表に、向かい合った2台の8mm映写機によって映像をループで投影したフィルム・インスタレーションである。この2台の映写機の配置は、撮影現場における2台のカメラの位置関係に対応している。それぞれの映像の展開は以下の通り。
カメラ1:空き地。カメラの後方から作家が歩いてくる。空き地の中央には等身大の板が建てられており、作家は板を避けて向こうに歩いて行く。作家の姿は、板の影に隠れてカメラからは見えなくなるが、撮影は継続される。
カメラ2:空き地。空き地の中央には等身大の板が建てられている。しばらくすると、作家が板の影から突然現れる。作家はカメラの前まで歩いてきて、また板の方に戻るという往復運動を繰り返す。
本作は2台のカメラ=映写機によって空間を再構成したものであり、1970年前後の造形美術の作家による映像作品が、行為や認識それ自体の取り出しを目的とするものであったことをよく表す、代表的な作品であるといえる。カラー。サイレント。
1972年版は8mmフィルムによる上映であるが、2015年版は耐久性の問題から16mmフィルムを使用して再演していた。
加えて資料展示では、次の作品の参考上映も行われていた
・『フレームを行く』(8mm, 7min8sec, 1971)
線路沿いの野原で、線路を底辺、カメラを頂点とする巨大な三角形を定める。そして作家は、その三角形の各辺を歩いて一周する。まず、作家は頂点(カメラ)から歩き始め、底辺の右端(フレームの右端)まで歩く。次に線路に沿って、底辺の左端(フレームの左端)まで歩く。そして再び頂点(カメラ)まで戻ってくる。厳密なコンセプトを、そのままフィルムに定着した作品である。「映像表現’71」に出品された。モノクロ。サウンドは会場の資料展示の環境がよくなかったので判然としなかった。

・植村義夫『Moving Picture 2』(8mm, 17sec, 1972)
TVコマーシャルの表示されたテレビモニターを8mmカメラで撮影し、それを一コマづつ紙焼きプリントにする(映像の内容は、出口が入り口につながった不思議な廊下のドアを出入りする人物)。そうして作成された170枚の写真を本に貼り付けて、フリップブックにする。これを手で動かして再々撮影し、17秒間の分解された運動として完成させ、壁面にループで投影する。モノクロ、サイレント。
2015年版は、1972年版と同じく8mmフィルムによって再演されていた。
加えて資料展示では、次の作品の参考上映も行われていた
・『Shoot』(8mm, 13min30sec, 1971)
ニュースが映されたテレビモニターを再撮影した作品。「5月13日広島のTVより」との字幕が入るので、瀬戸内シージャック事件の報道であると思われる。不鮮明な画面に何かを叫ぶ男の様子が、たびたび停止するスローモーションで映し出され、最後に射殺されて倒れこむところで終了する。「フィルム造形’70」に出品された。モノクロ。サウンドは会場の資料展示の環境がよくなかったので判然としなかった。

・植松奎二『Earth Point Project – Mirror』(8mm, 9min40sec, 1972)
壁面に鏡が貼られ、そこに8mm映写機によって映像がループで投影されている。木々、海面、歩行者の足元、建物、自動車などの映像が映し出されるが、それらはカメラのズームアウトによって、対象そのものではなく、その場に置かれた鏡に映る反射像だったことが明らかにされる。ここでは、映像の中の鏡と、スクリーンに貼られた鏡が対応関係にある。カラー。サイレント。
2015年版では、1972年版と同じ8mmフィルムで再演されていたが、上映時間は限定されており、テレシネしたデジタル素材によるプロジェクター投影も併用されていた。
加えて資料展示では、次の作品の参考上映も行われていた
・『23.5』(8mm, 4min20sec, color, silent, 1970)
テトラポッドに腰掛けた作家の足の運動を撮影したコンセプチュアルな作品。「フィルム造形’70」に出品された。カラー。サイレント。

・村岡三郎『無題』(8mm, 2min40sec?, 1972)
作家が亡くなっているため再演に至らず。1972年に展示されたはずの場所だけが空けられて、8mm映写機だけが置かれていた。ガラス越しに角材を立てかける行為を撮影し、それを8mm映写機で壁に投影するという内容だったと思われる。

・彦坂尚嘉『フィルム・デュエット:垂直の海(Upright Sea)』(16mm x2, 9min45sec, 1972)
展示室の両面の壁に、2台の16mm映写機を使ってフィルムを投影するのだが、この2台の映写機には、映写時間から推察して300フィート(90メートル)以上に及ぶ巨大なフィルムループが掛けられている。すなわち、同じフィルムを2台の映写機で同時に使用して上映するのである。しかも、フィルムループは床に無造作に束ねられており傷だらけとなる。フィルムの内容は、海面をアンダー気味の露出で撮ったもの。船舶など洋上の移動物を避けるために時折カメラはパンするが、ほとんど変化のないままに海面の映像が続く。カラー。サイレント。
1972年版は16mmフィルムで上映された。2015年版も同様に2台の映写機と16mmフィルムが設置されているのだが、これは外見を模倣しただけのレプリカとしての役目しか持っていない。すなわち、映写機は回転しているがフィルムは何も映っておらず、映写機による実際の投影は行われない。壁面の映像はテレシネされたデジタル素材をリア側からプロジェクター投影したものであった。

・河口龍夫『ふたつの視点と風景』(8mm x2, 3min15sec, 1972)
固定された2台の8mmカメラによって、線路沿い車道の様子を撮影する。そして、撮影時のカメラと同じような間隔で設置された2台の8mm映写機によって、2つのフレームを横に並べて壁面にループ投影する。右スクリーンを通過した車両や自転車は、少し欠落して、また左のスクリーンに登場するが、その欠落した空間と時間は、観客が補完することになる。本作もまた、カメラ=映写機によって空間を再構成した好例であるといえるだろう。モノクロ。サイレント。
2015年版では、1972年版と同じ8mmフィルムで再演されていたが、ループの距離が長いため、上映機会は限定されており、基本的にテレシネしたデジタル素材によるプロジェクター投影が行われていた。
加えて資料展示では、次の作品の参考上映も行われていた
・『陸と海』(8mm, 4min10sec, 1970)
波打ち際の四本の木材をフィックスで撮影。4月22日19時2分から5分までの4分間の現象の観測である。「フィルム造形’70」に出品された。モノクロ。サイレント。

・長澤英俊『Number 1』(8mm, 23min, 1971)
「映像表現 ’72」に出品された作品の中では例外的な、単体の映画として成立する詩的な作品。ミラノ滞在中の作家からフィルムが送付されたそうだが、当時の記録写真だけでは、実際に展示されたかどうか判然としないそうだ。シークエンスは次の通り。
1:作家が霧の中を歩いてくる。白い玉を持っている。玉を投げると落ちてこない。
2:指で木の芽を指差す。花を手で包む。街路にて指で物のサイズを測定する。
3:葉っぱの積もった土を掘り返す作家の手の動き、地中から人間の足が出てくる。やがて、その足は作家自身の下半身であるとわかる。足を掘り起こして土を払う。
4:石段を登って行く作家。木々。建物の中庭のような場所を手持ちカメラで撮りながら歩く。地面に引かれた線とチョーク。そのチョークで線を引くが、行き止まりに突き当たる。柱にチョークでバツ印を書く。
5:冒頭のシーンに戻る。空中から白い玉が落ちてくる。玉を持った作家の横顔。
カラー。サイレント。
2015年版では、テレシネされたデジタル素材をリア側からプロジェクター投影することで再演されていた。

・松本正司『かの虚構のなかの虚像の』(Slide + 8mm + Video Installation, 1972)
作家が亡くなっているため再演に至らず。1972年に展示されたはずの場所だけが空けられており、障子状のスクリーンや2台のTVモニター、8mmカメラなどが置かれていた。当時のカタログを見ても内容がはっきりしない作品であるが、8mm映写機と2台のTVモニターを併用して、複合的に展開してゆくインスタレーションであったようだ。
加えて資料展示では、次の作品の参考上映も行われていた
・『The Game』(8mm, 28min10sec, 1971)
ガスマスクを被った男のパフォーマンスを中心として、グラフィカルなイメージが展開する。画面には原色カラーフィルターがかけられており、ポップなイメージを演出している。当時のゼロ次元的なパフォーマンスに影響を受けているのが見て取れる。「映像表現’71」に出品された。カラー。サウンドはポップス。

・庄司達『無題』(8mm Installation, 1min, 1972)
8mm映写機からループで投影された映像が、8枚の不定形な形状の鏡に連鎖的に反射してゆくというフィルム・インスタレーション。フィルムの内容は陸上競技の風景。この作家の立体作品的な要素が強く表れているといえる。カラー、サイレント。
加えて資料展示では、次の作品の参考上映も行われていた
・『浜辺にて』(8mm, 9min44sec, 1972)
野間海岸の波打ち際の様子を手持ちのカメラで撮影する。波に打ち上げられる瓶を追い続ける。「映像表現’73」に出品された。カラー。サウンドは当時のポップス。

・宮川憲明『無題』(8mm Installation, 1min, 1972)
再演に至らず。1972年に展示されたはずの場所だけが空けられていた。秒針のない置き時計の実物に、秒針の映像をループ投影するというインスタレーションだったらしい。

・石原薫『無題』
(8mm x2 Installation, 1972)
再演に至らず。1972年に展示されたはずの場所に台が設置され、2台の8mm映写機が置かれていた。壁に垂らされた紗幕に映像を投影するというインスタレーションだったらしい。
加えて資料展示では、次の作品の参考上映も行われていた
・『MOU-S 178』(8mm, 15min, 1970)
白い全身スーツとカツラという奇抜な風貌の女性が、ジュースを飲んだり踊ったりするという作品。カラー。サウンドはポップス。「フィルム造形’70」に出品された。

・今井祝雄『切断されたフィルム』(Slide, 1972)
自動式スライド投影機1台によって、81枚の16mmフィルムの切れ端を、次々と壁面に投影してゆくインスタレーション。床には山積みのフィルムの切れ端が置かれている。このフィルムは放送局で廃棄されたものであり、写っているものは風景・人物・ニュースの様子など。この作家らしい、物としての記録媒体に着目した作品である。その後、今井はポラロイドカメラやフィルム、ビデオテープを物質的に使用するパフォーマンスを手がける。カラー。
2015年版は、1972年版と同じように自動式スライド投影機1台によって再演されていた。
加えて資料展示では、次の作品の参考上映も行われていた
・『ジョインテッド・フィルム』(16mm, 19min40sec, 1973)
『切断されたフィルム』の素材を映画に展開した作品。スライドによって投影されていたフィルムの切れ端は一本につなげられて、ランダムな編集のファウンド・フッテージ作品として再構成された。1973年の「京都アンデパンダン」に出品された。サイレント。カラー。

・柏原えつとむ『足を洗いましょう』(8mm, 1min45sec, 1972)
壁面に「足から洗いましょう」「足ぐらい洗いましょう」「足でも洗いましょう」「足を洗いましょう」「足は洗いましょう」「足まで洗いましょう」と書かれた6枚の紙が貼られている。そのうちの4枚の紙をスクリーンとして、足を石鹸で洗う映像を、8mm映写機からループで投影する。カラー。サイレント。
2015年版では、1972年版と同じ8mmフィルムで再演されていたが、上映時間は限定されており、テレシネしたデジタル素材によるプロジェクター投影も併用されていた。
加えて資料展示では、次の作品の参考上映も行われていた
・『サワタル』(8mm, 18min3sec, 1971)
波打つ噴煙の映像に暗喩的な字幕が重なる。「映像表現’71」に出品された。カラー。サウンドは民族音楽。

・山中信夫『ピンホール・カメラ』(1972)
「映像表現 ’72」のなかで、唯一フィルムもビデオも使用しないインスタレーション。幅2メートル、高さ2メートル、奥行き4メートルの木製の暗室を設置し、会場に面した側面にピンホールによるレンズ機構を取り付け、巨大なピンホール・カメラの内部を観客に経験させる。観客は暗室のなかで、おぼろげに浮かびあがる外界の反転像を見ることになる。
2015年版の暗室は再制作されたものだが、フィルムもビデオも使用しないからこそ、最も1972年版に近い形で再演されている。ただし、暗室のサイズは若干縮小された。

1970年頃に造形作品を手がけてきた造形作家の多くが映像作品の制作に取り組んだのは、美術が解体し、物質と観念に還元され、具体的な造形物を作ることが困難であった時期において、作品制作の過程における行為や認識それ自体を取り出すためであったといえる。「現代の造形〈映像表現〉」の周辺、あるいは「美共闘」や、「ビデオひろば」の和田守弘などに代表される造形作家によるフィルムやビデオの使用には、このような共通の前提が存在していた。そのような造形作家の映像への取り組みは、1980年代に向けて、彼らが造形作品の制作に回帰してゆくなかで沈静化してゆくことになる(また、一部の作家はビデオアーティストの方向へ進んで行くことになる)。資料展示のインタビューの中で、河口龍夫は次のような趣旨のことを語っていた(正確な引用ではないので注意してください)。

「現実が芸術になるとはどういうことか」「境界がなくなる。会場自体が非日常となる」「観客の現実の時間を奪わずに」

造形作家の映像作品は、その多くが身体や認識に根差したものに帰結する傾向を見せた。そこで映像は、任意の空間と、空間に付随する時間を写し取った鏡面としての役割を果たす。この鏡は、鏡面をのぞきこむ観客の意識を引き込んで奪い去るのではなく、観客が存在する現実を分裂させる方向に作用するのだ。行為や認識それ自体をフィルムやビデオによって取り出すというアプローチには、まだ汲み尽くされぬ可能性が潜在しているという他ない。


付記:言うまでもなく、「観客が存在する現実を分裂させる」という方向は、同時期のエクスパンデッド・シネマ(拡張映画)やビデオアートを手がけていた映像作家の問題意識と一致する。リプレイ展のチラシ解説の文章には「映画=没頭」という安易な図式に立脚している箇所があるが、そのような考えは、映画に対して理解が少し足りない。造形作家の映像と、実験映画作家やビデオアーティストの映像に違いがあるとすれば、映像そのものである持続する時間を解体する際に、どのようなアプローチを取るかという違いでしかあり得ない。

註1. 「FILM NOW 3日間の映画会」再演のプログラムは以下の通り。1972年に上映された作品のうち、ジョン・レノン+オノ・ヨーコ、クルト・クレン、ふじいせいいちの作品は、今回の上映プログラムから外されている。

「FILM NOW 3日間の映画会」再演
10月24日、11月29日
1 アルド・タンベリーニ(Aldo Tambellini)『ブラック TV(BLACK TV)』(1968)
2 ブルース・ベイリー(Bruce Baillie)『タング(Tung)』(1966)
3 スタン・ヴァンダービーク(Stan VanDerBeek)『ブレスデス(Breathdeath)』(1963)
4 安藤紘平『オー・マイ・マザー』(1969)
5 松本俊夫『エクスタシス』(1969)
6 松本俊夫『メタスタシス=新陳代謝』(1971)
7 松本俊夫『オートノミー=自律性』(1972)
8 松本俊夫『エクスパンション=拡張』(1973)

10月25日、11月28日
1 ウィルヘルム&ビルギット・ハイン(W&B Hein)『ラフなフィルム(Roh film)』(1968)
2 荒川修作『WHY NOT』(1969)

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