《Showing》03 映像:伊藤高志 マルチプロジェクション舞台作品『三人の女』

1980年代に登場した実験映画作家の代表格である伊藤高志のマルチプロジェクションによる新作『三人の女』が、1月23日・24日に二日間だけの公演として京都造形芸術大学春秋座にて上演された。今回の催しは、京都造形芸術大学で開催されてきた公演《Showing》シリーズの第3回目にあたる。この《Showing》シリーズの趣旨は、「「公演」における各要素の中で、複製技術を持つメディア(音、写真、 映像など)を取り上げ、それぞれの視点から劇場へと向かう創作を試みる」というもので、すでに「音」と「写真」をテーマとする公演が、過去2回開催されている。このような枠組みのなかで、今回は「映像」がテーマとして設定された。私は今回の公演に、トークで参加したので、簡単な感想をここにまとめておきたい。この作品は、二日間だけの公演として終わらせるには勿体なく、いずれどこかで再演されることになるだろうと予想するが、それまではこの文章が、今回の上演を見逃した方々の参考になればと思う。

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©加納俊輔 ©Shunsuke Kano

《Showing》03 映像:伊藤高志 マルチプロジェクション舞台作品『三人の女』
舞台構成・演出:伊藤高志
音響構成:荒木優光

映画『三人の女』
監督・構想・撮影・編集:伊藤高志
映像出演:石倉直実、田中志朋、宝来麻耶
撮影協力:米倉伸
実験映画撮影協力:ジョン・ピロン

舞台監督:浜村修司
映像技術:浜田俊輔、脇原大輔
照明:藤原康弘
音響:小早川保隆
音響協力:奥村朋代
チラシデザイン:森大志郎
制作:中山佐代


1:
本作『三人の女』は、伊藤と、音響作家・荒木優光によるコラボレーションである。それは劇場公演を構成する諸要素を、伊藤のコンセプトにあわせて再編したもので、「映画」でもあり、「演劇」でもあり、「インスタレーション」でもあるという不安定な形態をとっている。伊藤には、過去にもエクスパンデッド・シネマとダンサーの身体を組み合わせた『DOUBLE 分身』(2001)や『恋する虜 The Dead Dance』(2009)といった試みがあるが、その経験も本作の背景になったのだろう。観客たちは劇場に入った瞬間に、その異様な環境に戸惑うことになる。本作はホールに備え付けられている座席を使用せず、舞台上に仮設の観客席を組んで上演される。この観客席は仮設の、80名ほどが腰掛けることができるような設計のものである。この観客席が、舞台正面のスクリーン(S1)に対して、大体90度の角度で配置される。そして、観客席の正面にはスクリーン(S3)が配置され、さらにS1とS3の中間にもスクリーン(S2)が配置される。これに加えて、S2とS3の中間にも小型のスクリーン(S4)が配置される。このように、上演空間には合計4つのスクリーンが不安定なバランスで置かれていた。ちなみにS1、S2、S3にはデジタルプロジェクター、S4には16mm映写機によって映像が映し出される。また、S4の中空には女物の衣服もぶら下がっている。それは、まるで存在の確証性を担保する遺留品のようでもある。

2:
映像それ自体に言及する前に、伊藤のフィルモグラフィーについて簡単に整理しておきたい。まず、伊藤の映画の変遷は、『モノクローム・ヘッド』(1997)以前と以後に分けて考えることができるだろう。すなわち、再撮影手法を駆使して視覚の安定性を崩した「以前」と、妄想が生み出した幻覚のようなイメージによって、観客のなかに思考開始以前の違和感を焼き付けてゆく「以後」。例外もいくつかあるが、大まかにいえば『SPACY』(1981)にはじまる再撮影手法は『悪魔の回路図』(1988)、『ミイラの夢』(1989)、『ビーナス』(1990)のあたりで洗練の頂点に達し、『12月のかくれんぼ』(1993)、『THE MOON』(1994)、『ZONE』(1995)などの中間期を経て、『モノクローム・ヘッド』で本格的に次の段階に突入したのだといえる。それ以後の『静かな一日・完全版』(2002)、『甘い生活』(2010)、『最後の天使』(2014)に共通するものは、台詞を廃した曖昧な物語であり、それは表面的にはジャンルとしての「ホラー」を装う。しかし、見慣れた光景を偏執狂的に歪曲させるという伊藤の執着は、『SPACY』から一貫して持続している。そして、今回上演される『三人の女』もその延長線上に置かれる。

3:
映画のなかで進行する物語は、三人の映画学科の学生の話である。簡単に物語の流れをなぞっておくと、難聴で耳に補聴器を付けている役者のナオミ、そのナオミを愛し支えている録音部のマヤ、この二人の親友の行く末を見つめる映画作家のシホが登場人物である。この三人のうち、ナオミとマヤは作中の早い段階で心中する。そして、残されたマヤは二人の亡霊に直面しながら、二人を向こう側に送り届けたいと願う。このような物語がS1・S2・S3の三つのスクリーンにおいて進行してゆく。それは基本的には、一つのシークエンスを三つの視点に分解して、異なる視点から重層的に示すという方法をとる。

この方法についてもう少し詳しく説明したい。映画冒頭のシークエンスを例に取ろう。このシークエンスでは学生達のグループが、野外でロケハンを行っている。まずグループから少し離れて歩くナオミがS1に映し出され、それに気がついたシホが、携帯電話の着信音でシホを呼ぶ動作がS2に映し出される。そして、着信音に気がついたナオミが小走りでグループに追いつき、S2に移行する。ここで観客は三つのスクリーンが、視点の単一性を分解するためのものだったと理解する。このスクリーンをまたいで見つめ合う視点の関係性は、上演の解説文にある通り、『最後の天使』で試みられた視線の交錯によるモンタージュを、マルチプロジェクションに拡大したものだと言える。しかし、このような視点の重層性はナオミとマヤの心中以降、大きく混乱してゆく。心中のシーン以降、映画には過去の回想シーンがインサートされ、現在だけでなく、過去の物語も並行して語られてゆくことになる。そのとき、場所は同一だが、違う時制にあるショットが、S1・S2・S3に紛れ込んでゆくのである。これによって同一の時間・場所における統合性はほころび、時制の不一致も表現されることになり、それが現実なのか、妄想なのか、現在なのか、過去なのか、判断は困難なものとなる。そして視点の重層性の錯乱のなかで、シホは二人の亡霊に直面しながら、コマ撮りによる抽象的な短編のフィルムを作り続ける。

4:
ところで亡霊はどうして亡霊と呼ばれるのか。亡霊とは一般的に、存在しないはずの者の喩えであるが、それを映画において捉え直してみよう。すると深く考えるまでもなく、編集のつなぎ間違い、フレーム内に入り込んだ撮影クルーの影、録音時の不明瞭な物音などが、映画における亡霊的なものとして思い浮かぶ。このような亡霊の気配は、本作にも常に纏わりついている。しかし、本作においては、亡霊が「亡霊そのもの」としてスクリーン上に姿を表すことはない。もちろん、役者によって「亡霊のような佇まいの女性の姿」は演じられている。しかし、それは亡霊それ自体ではない。先述したように、本作のマルチプロジェクションの使用法においては、撮影対象に関わる「いつ、どこ」といった映画的な保証、そして時間と場所を統合するモンタージュの同期性が無視されている。そのため、存在の確証を持たない無数の異物が、本作には溢れかえる。そして、それらは複数のスクリーンの間で、ズレや違和感といったものを生成する。そのズレや違和感こそが本作における亡霊と呼ばれるものの正体であると思える。いわば、この映画において亡霊たちは、スクリーンの中にではなく、S1・S2・S3のスクリーン間の関係性のなかに潜在しているのだ。

このことは、本作の終盤で違う形で明示される。映画の最後のシークエンスは、冒頭に出てきた巨木が再び映し出され、ある人物に誰かの手が差し伸べられるショットで終わる。そしてS1・S2・S3の映像はブラックアウトし、会場は暗闇に包まれる。そして間髪をおかず、シホ役の女性が会場に現れ、S4の前方に設置された16mm映写機のスイッチを入れ、映画の中で制作されていた抽象的なフィルムを、S4に投影する(このフィルムはジョン・ピロンの制作による)。そして、数分間のフィルム上映が終了することで、上演の全てが終了する。この演出を、寺山修司の『ローラ』(1974)や『審判』(1975)のように、現実と虚構の境界を強制的に解消する演出だと捉えるのも誤りではない。だが、亡霊はスクリーンの間に潜むという本作の性質を踏まえるならば、これは、S1・S2・S3の三つのスクリーンに映し出された映画的世界と、S4に映し出される映写機の投影光(およびシホ役の女性の現前性)の関係において、一致させることが不能な違和感、すなわち亡霊的なものを呼び出す行為であったと考えることも可能だろう。

見慣れた光景を歪曲させる伊藤の執着は、本作において劇場空間に滲み出している。将来、本作が再演されるならば、映画、演劇、美術といった領域区分に関係なく、幅広い領域の観客に目撃してもらいたいと思う。

付記:
このような、確証性を持たない亡霊たちの気配に満ちた上演のなかで、シホ役の女性の登場の他にも、強烈な実在性を発揮していたものが、もうひとつだけある。それは荒木によるサウンドトラックである。荒木による15chマルチトラックでコントロールされたサウンドは、複数の小型スピーカーによって、会場内に立体的に配置される(私はその様子を見て、フランス電子音楽におけるアクースモニウムのコンサートを思い出した)。そして、そこで鳴らされるのは分かりやすい器楽曲や電子音楽ではなく、フィールドレコーディングを素材とする音響作品であった。それはリュック・フェラーリの『ほとんど何もない、あるいは海岸の夜明け(Presque rien no.1 ou Le lever du jour au bord de la mer)』(1967-70)を思わせる。このサウンドの実在性は大変興味深いものである。例えば、映画ではシホが沸騰する湯の中にマイクを沈めたり、道路でマイクを振り回しながら歩くシークエンスがあるのだが、そこではアンバランスなほどにスクリーン内の一部で発された音のみがピックアップされる。この特異なサウンドのミックスは、亡霊の気配が充満する上演空間の中で、サウンドのみが存在の確証性を担保すると主張しているのである。(ちなみに上演のなかでは一箇所だけ、録音された音ではなく、会場で実際に大きな音が鳴らされるシーンがあったのだが、再演の機会があれば、それがどこのシーンなのか聴き取ってみてほしい。)