David Grubbs Japan Tour 2016@ムジカーザ

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David Grubbs Japan Tour 2016
デヴィッド・グラッブス/代々木上原・ムジカーザ/1月22日

デヴィッド・グラッブス(今回からデヴィッド・グラブスという表記がみられるが、慣れているのでこちらの表記で書かせてもらう)が、今年の始めに久しぶりに来日して各地でコンサートを行ったので、レヴューしておきたい。今回の来日は、グラッブスの著書『レコードは風景をだいなしにする』(フィルムアート社、2015)の出版に合わせてのものなので、このエントリーでは、付記のなかで、同書の簡単なレヴューも記しておく。すいません、長文です。


私が初めてグラッブスの演奏を聴いたのは、だいぶ記憶が薄れているが、Red Krayolaの初来日公演(1999年)の際だったと思う。当時は「シカゴ音響派」という、少し間の抜けた呼び名が通用していたので、その文脈で私はGastr Del Solを始めとする音楽を聴くようになっていた。その後、このあたりの水増しされたバンド群の殆どは、凡庸に思えてきて聴き返すこともなくなってしまうが、Gastr Del Solは別だった。他のバンドが、音響を楽曲の装飾として回収して行ったのに対し、Gastr Del Solだけは全く異なる方向にある、革新的な試みを行っているように思えたのだ。その革新的な試みとは、ひと言でいうと一種のメタ音楽の試みであった。ただし、ここで言うメタとは様々なジャンルの形式を引用するという意味でのメタではない。過去のエントリーで、私はそれを「楽曲に電子ノイズや不定形な音響をぶつけて、溶け合わせる」という言葉で表現した(このエントリーを参照)。これを違う表現で言い換えると、常態的に複数のレイヤーを持ちながら進行し、複数の聴取を可能とするような音楽と表現できるだろう(そのような音楽は決して多くないが、数少ない例として、ここではTony Conrad with Faustの存在を挙げておく)。

そのような音楽が、どうして成立したのかといえば、それはジム・オルークとグラッブスの互いの異質な部分が、絶妙な形で組み合わされたからだといえる。初期のオルークは、ヨーロッパのフリーインプロヴィゼーションや、大学で学んだ現代音楽、そしてOrganumやH.N.A.S.のような実験的なノイズから多大な影響を受けていた。一方、グラッブスは高校時代に結成したSquirrel BaitからBastroに至るまでの、パンク/ハードコアバンドでの活動を出自としていた。そのような活動を踏まえて、グラッブスは解体直前のBastroにおいてミニマルなインストゥメンタルの方向へ向かい、バンディ・K・ブラウンとのデュオとしてGastr Del Solを結成する(ちなみに、解体直前のBastroでは、後にGastr Del Solとして発表されることになる楽曲の原型が演奏されていた)。Gastr Del Solは1stアルバム『The Serpentine Similar』(1993)をリリースするが、ブラウンはすぐにデュオを脱退する。そこにオルークが加入し、Gastr Del Solは複数の音楽をめぐる実験の場となる。そして、作曲されたものと作曲されないもの、聴取されるものと聴取されないもの、ポピュラー音楽(=カントリーブルース)と現代音楽(=ミニマルミュージック、テープ音楽、電子音楽)など、複数のレイヤーが重なり合ったメタ的な音楽として、2ndアルバム『Crookt, Crackt, Or Fly』(1994)とミニアルバム『Mirror Repair』(1994)、トニー・コンラッドとの共作である『The Japanese Room At La Pagode / May』(1995)、室内楽編成でのミニアルバム『湖畔通りの竪琴工房』(1995)といった傑作を次々と生み出してゆく。やがて、この追求は3rdアルバム『Upgrade & Afterlife』(1996)という革新的な作品を生み出すに至るのだが、翌年、Gastr Del Solはポピュラーソングを中心的な要素として、実験性を後退させた4thアルバム『Camoufleur』(1997)を残して、その活動を解消することになる。

Gastr Del Solについての話が長くなったが、二人のその後の活動も踏まえておきたい。オルークは、自身の作品としては『Eureka』(1999)と『Insignificance』(2001)以降、『Simple Songs』(2015)がリリースされるまでは、ポピュラーソングからは比較的距離を置いてきた。勿論、Sonic Youthへの参加や、様々なバンドのプロデュースは行っていた。また、若松孝二の映画音楽、『The Visitor』(2009)、『All Kinds of People』(2010)もあったし、ライブで『Simple Songs』の楽曲を演奏することもあった。だがそれは、『Simple Songs』に至るための長い準備期間といえるもので、この期間に形として残された自己の音楽表現は、やはり恐山やカフカ鼾のメンバーとの活動を含めたフリーインプロヴィゼーションと、ドローンを主体とした電子音楽であったと言っていいだろう。また、近年bandcamp(steamroom.bandcamp.com)で、過去のアーカイヴを含むデジタルアルバムのリリースを頻繁に行うようになってからは、コンセプトごとに作品の方向(フリーインプロヴィゼーション、電子音楽)を定める傾向が明確になっているように思う。

グラッブスは、その後もGastr Del Solからそのまま引き継がれたような、ポピュラーソングと現代音楽的なものを重ね合わせることへの関心を、ソロアルバムのなかで保ち続けてきたといえるのだが、多くの場合、作曲された楽曲や歌に対比される不定形な音響の部分への取り組みは不足していたように思う。比較的、実験的なコンセプトを持っていたであろう『Act Five, Scene One』(2002)ですら、不定形な音響のレイヤーが安直に配置されていたと思える。ただし、グラッブスがAndrea Belfi(ドラム、エレクトロニクス)、Stefano Pilia(ギター)と組んだトリオ、Belfi / Grubbs / Piliaとしての活動(2010~)に表れた実験性については特筆しておく必要があるだろう。このトリオは、一応作曲された楽曲を演奏するのだが、その内部には不定形な音響の要素が含まれており、さらにBelfiとPiliaが即興演奏に長けた演奏者であるため、作曲されたものと作曲されないものが混在したような、不定形さを持ったアンサンブルとなっている。その演奏は、かつてのGastr Del Solの水準に迫るものである。


私がグラッブスの音楽をどのように評価しているかは、これで大体明確になったと思う。改めて簡潔に述べると、実験的な音楽としては若干物足りないということだ。オルークとはバックグラウンドが違いすぎるので、比較するべきではないのかもしれないが、実験性の有無に基準を置くならば、そのような印象を持ってしまう。このような先入観込みで、私は代々木上原ムジカーザへ向かった。初めて訪れるムジカーザは、小さなコンサートホールであるが、アコースティック楽器向けの広い天井を持った良い場所で、繊細なサウンドの音楽に向いている。グラッブスの使用楽器は、エレクトリックギターとスチールギター(12曲目のみ)というシンプルなもの。ツイッターにこの日のセットリストの写真があがっていたが、実際の演奏曲目とは一部違うように思えるので、私のメモを照合させて整理したのが下記のリストである。(間違っている可能性も高いので、あまり信用せずに参照してください。)

1: Charm Offensive(Belfi / Grubbs / Pilia)
2: Cool Side Of The Pillow(Belfi / Grubbs / Pilia)
3: Out with the Tide (Ken Vandermark and David Grubbs)
4: The Plain Where The Palace Stood
5: Learned Astronomer(The Wingdale Community Singers)
6: Knight Errant
7: The Hesitation Waltz
8: Onrushing Cloud(Belfi / Grubbs / Pilia)
9: Fugitive Colors
10: Abracadabrant
11: An Optimist Declines
12: 未発表? Mind’s Eye Touch
13: 未発表? Bonsai Waterfall

このようなセットリストの分析を試みたのは、グラッブスの演奏の印象が予想と違うものだったので、どこまで意図的に作りこまれていたのかを確認したかったからである。コンサートは上記のリストの通りインストゥメンタルを中心として、いくつかの短い歌も挟みながら演奏して行くものだが、曲間を取らずに、そのまま次の曲に緩やかに移行してゆくというスタイルだったので、全体の流れとしては、まるでアドリブで爪弾かれて行くカントリーブルースのようにも聴こえた。伴奏者がいないことによって、演奏にかなり自由な緩急がつけられていたことも、そのような印象を強めることに寄与していたのだろう。セットリストについて、もう少し詳しく述べる。この日の演奏が、風景が移り変わるように次々にフレーズを切り替えてゆくBelfi/Grubbs/Piliaの『Charm Offensive』から始まったのは意外であったが、グラッブスはこの長いインストゥメンタルのあとに、短い歌である『Cool Side Of The Pillow』と『Out with the Tide』を配置し、その後に、再びミニマルで勢いのあるインストゥメンタル『The Plain Where The Palace Stood』へと繋げていた。このように、この日の曲順は、インストゥメンタルと短い歌を交互に置いたGastr Del Solのアルバム構成を連想させるもので、以降の演奏も基本的にこの配置を踏襲しながら展開していった。最後の曲はスチールギターによって、弛緩したフレーズが反復される未発表(?)のインストゥメンタルで、加えてアンコールでも未発表(?)の楽曲を披露してコンサートは終了した。個人的には、その演奏の至る所にGastr Del Solに通じるような、複数のレイヤーが重なり合った表現が散りばめられているように感じたので、心底満足した。特に最後のスチールギターによる表現は、もっと聴いてみたいと思えた。


付記:コンサートの後、しばらく時間を置いてから、私はグラッブスの著書『レコードは風景をだいなしにする』を読んでみた。すると、グラッブスの音楽について、今までとは少し違う考えもわいてきた。この長いエントリーは、ここからグラッブスの著書についてのレヴューに転じる。

グラッブスの『レコードは風景をだいなしにする』は、録音物による流通の拡大が、1960年代のアメリカ実験音楽とヨーロッパのフリーインプロヴィゼーションの原風景をどのように変えたのかを、テーマごとにエッセイとして記述した本である。ちなみにグラッブスはブルックリン大学で、実験的なポピュラー音楽や詩について教鞭をとる大学教員(ブルックリン大学ウェブサイト)でもあり、原著はデューク大学から出版されている。個別のエピソードを積み上げてゆく書き方なので、あまり論理的な本ではないが、その書き方ゆえに様々な音楽家の証言や、一枚一枚のレコードの背景に光が当てられていて面白い。各章のテーマを、私の関心に基づいて適当にメモしたものは、以下の通り。(私の勝手な関心に基づいているので、これも参考程度にとどめて下さい。)

第1章「ラジオから流れるヘンリー・フリント」
・60年代はリリースされなかった録音物が、80〜90年代辺りから発掘されるようになり、60年代のアメリカ実験音楽についての歴史的通説が改められた
・60年代のフリントは、アカデミックな現代音楽の特権性を批判していたが、録音物による流通の拡大によって、今やヒエラルキーの差異はなくなった

第2章「ジョン・ケージをめぐる風景」
・60年代のケージ周辺の実験音楽は、そもそも録音技術とは相反するものであった(フルクサスのテキストスコア、ミニマリストの長時間演奏、録音に相反するライブレクトロニクス、そもそも演奏ではないインスタレーションなど)
・しかし、録音技術によって、新しい作曲の領域も開拓された(ピエール・シェフェールのオブジェ・ソノールと、その後の挫折。リュック・フェラーリのランドスケープ)

第3章「録音芸術家としてのジョン・ケージ」
・ケージは録音物を嫌悪しながらも、偶然性の要素を録音技術というテクノロジーの中に見いだした(『カートリッジ・ミュージック』『ヴァリエーションズII』『ウィリアムズ・ミックス』『HPSCHD』『インデターミナシー』)

第4章「骨董品の取引──フリー・インプロヴィゼーションとレコード文化」
・フリーインプロヴィゼーションは反録音的な性質を持っていたが、録音物のリリースによって広まったことも否定できない
・デレク・ベイリーとAMMの違い(演奏者の自律性に突き抜けるベイリー、集団において自律的に音の共有と探求を試みるAMM)
・コーネリアス・カーデューの図形楽譜と即興演奏の関わり

第5章「テキサスからレコードをなくせ──オンライン・リソースと永久ではないアーカイヴ」
・オンライン・リソースとデータベースについて(オフィシャルなオンラインアーカイブであるDRAMと、多くの法的問題を含んだアンオフィシャルなオンラインアーカイブであるUBUWEB)
・60年代の実験音楽やフリーインプロヴィゼーションは、再現の不可能性にこだわっていた。オンライン・リソースやデータベースは、そこから遠く隔たったものである

このように、本書の核心は、60年代のアメリカ実験音楽やフリーインプロヴィゼーショが持っていた再現不可能性や反録音性が、録音物の流通拡大によって「だいなし」になったという言い方によって、ある時代の音楽が持っている風景(制作環境、作品の受容形態など)が不可避的に変化してゆく過程を捉え、現在につながる聴取の変容を提示することにあったといえる。

さて、グラッブスの音楽について、違う考えがわいてきたという話に戻ろう。この本自体は興味深く読んだのだが、私がグラッブスの音楽活動に結びつけて気になってしまったのは、本書のなかでは大して重要ではない「ラジオから流れるヘンリー・フリント」のエピソードであった。それによると、フリントは、アカデミックな現代音楽を批判しながら、自分らの音楽をヒルビリー音楽に貢献するものであると定義していたらしい(そのような例として、ここではオーネット・コールマンの名前が挙げられる)。これは、アカデミックな現代音楽が大衆文化の要素を高みから簒奪するのとは真逆の、現代音楽の要素を大衆文化に導入しようとする考えに基づいている(フリントにこのような考えを持たせた切っ掛けの一つが、ケージの心ない言葉であったというエピソードも興味深い)。このようなフリントのスタンスは、どこかグラッブスに通じるものがあると思う。

Gastr Del Solにおけるカントリーブルースやフォークの要素は、どちらかと言えばグラッブスが元来持っていたものではないだろうか。勿論、オルークもカントリーブルースに対する関心を持っているが、オルークがカントリーブルースを演奏しても、それはあくまで擬態的なものであり、形式的なものを分析することへの興味に根ざしている。具体例としては、『Happy Days』(1997)と『Bad Timing』(1997)を参照すれば分かりやすい(このエントリーを参照)。ただしそれは、フリントが批判したようなアカデミックな現代音楽が、下位の文化を簒奪するという事態とは当然ながら異なるものである。オルークにとっては、アカデミックな現代音楽すらも特別なものではあり得ず、それは擬態の対象であり、批判的分析の対象なのである。以前にも述べたが、オルークは音楽家を演じる音楽家なのだと私は考える(このエントリーを参照)。オルークが自らの表現において唯一根拠とするものは、形式や文脈を逸脱するような実験性の有無に尽きるのだといえよう。

それに対してグラッブスは、フリントがヒルビリー音楽の側に立ったように、カントリーブルース、フォーク、パンク/ハードコアを始めとするポピュラー音楽の側に立っている。その動機については措くが、一般的なポピュラー音楽のミュージシャンとグラッブスの違う点としては、グラッブスがポピュラー音楽の諸形式をそのまま反復しようとするのではなく、ポピュラー音楽のなかに実験的な要素を取り込もうとしていることを指摘しておきたい(これはグラッブスだけでなく、アメリカの実験的ポピュラー音楽のミュージシャンによく見られる態度であるといえる)。そのため、グラッブスが即興演奏や電子音楽に正面から取り組んだとしても、独自性や卓越したものは生まれにくい。むしろ、ポピュラー音楽の形式のなかに実験的な要素を取り込んで行く方向でこそ、その表現は輝きを増すのである。

思えばこの半年、私は長年の宿題をまとめるようにして、オルークの草月コンサートを聴き、今回のグラッブスのソロコンサートを聴き、グラッブスの著書を読んだ。そのような経験のなかで、Gastr Del Solが何であったのかが、ようやく分かりかけてきたように思う。Gastr Del Solは、オルークとグラッブスという二つの存在があってこそ生まれたものであり、むしろオルークこそがグラッブスを必要としたのだという側面が強い。あと少しで、Gastr Del Solが持っていた実験性の本質に辿り着けそうな気がする。

第8回恵比寿映像祭:ベン・ラッセル「「快楽の園」三部作」「映像パフォーマンス『われわれが享受している素晴らしいもの』」

本年の恵比寿映像祭で私が観に行った上映プログラムは合計5プログラムである。シャンタル・アケルマンの遺作である『No Home Movie』。映画それ自体がノンサイトと言える、ランドアートについてのドキュメンタリー『トラブルメーカーズ――ランドアートの話』(ちなみに、この作品に関連して組まれたシンポジウム「ランドアートの話」も拝聴した)。実験映画や現代美術寄りの短編映像によって編まれた「不在の庭――そして、誰もいなくなったら」。そして、ようやく来日を果たしたベン・ラッセルの「『快楽の園』三部作」と「ベン・ラッセル映像パフォーマンス『われわれが享受している素晴らしいもの』+スペシャル上映」。このエントリーでは、実験映画とドキュメンタリーを架橋する作品群によって、映画が取り扱うことのできる世界の広大さを見せつけた、ベンの2本のプログラムをレヴューする。

まず、ベンの映画の基本的なコンセプトについて確認しておきたい。私が過去にPlus Documentsのために行ったインタビュー(当ブログ「ベン・ラッセル インタビュー」)や、上映後のトークのなかで、ベンは実験映画とドキュメンタリーが混ざりあったような自らの作品を指して、「サイケデリック・エスノグラフィー」と呼称していた。作家の説明を踏まえるならば、この造語におけるサイケデリックなものとは自己の内部を主観的に探ってゆく作業であると位置付けられる。そしてエスノグラフィーは、自己の外部に存在する他者を探ってゆく作業であると位置付けられる。この二つのアプローチを並置すると、両者の間には、共通するものを見いだすことができるだろう。それらは知覚的な移動のなかで、予期せぬものに現象学的に出会ってゆくという点において、共通した性質を持っているのだ。この共通性に基づいて考えるならば、「サイケデリック・エスノグラフィー」とは、内部あるいは外部、主観あるいは客観といった違いを未分化なものとして把握しながら、対象を探ってゆく方法であると説明できる。このようなコンセプトを持った映画を経験する観客は、主観と客観が入り混じった状態のなかで、映画に巻き込まれるようにして、「意識の中と意識の外」や「(地政学的な意味での)こちら側と向こう側」の境界面に入り込んで行くことになる。


「「快楽の園」三部作」
このプログラムは、2015年のロッテルダム国際映画祭でタイガーアワード(IFFRウェブサイト)を受賞した『祖先への挨拶』と、2014年のプラス上映会(プラス上映会ウェブサイト)にて国内紹介済みの『忘却の前にやり遂げなくてはいけない』を含む、「快楽の園」三部作を一挙に上映するものである。ちなみに、このタイトルはヒエロニムス・ボスから取られている。

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・忘却の前にやり遂げなくてはいけない/Let Us Persevere In What We Have Resolved Before We Forget(16mm, 20min, sound, 2013|英語・ホワイトサンズ語)
バヌアツ共和国のタンナ島にて撮影された作品。映画の中では、島民たちが毎日アメリカ国旗を掲げる様子、そして海底に沈む戦争の残骸と、島に暮らす人々の生活の様子、そして火山の噴火が映し出される。そして、そのような光景の断片とともに、カメラに向かって話す老人の言葉が挿入されてゆく。それは、この島に広まるジョン・フラム信仰(Wikipedia)についての物語である。ジョン・フラム信仰とは土着的な宗教と、植民地支配への抵抗の歴史と、太平洋戦争中の巡り合わせによって偶像化された米軍の存在が混じり合ったものである。まず、信者たちはキリスト教化される以前の古来の文化に回帰することで、この土地に豊かな生活がもたらされると長らく信じてきたという。そして、太平洋戦争中に「本当に」物資を投下してくれた米軍を、自分たちの信仰の対象と見なすようになった。これは、ある種の集団的な幻想であるといえるが、映画はそれを調査しようとするのではなく、あくまで信者の眼を通して見られた世界を、シュルレアリスム的に撮影することに徹する。「快楽の園」三部作全てに共通するのだが、これらの映画は、様々な社会における信仰や文化を対象としながらも、主観と客観が入り混じった状態において、観客を一時的にその集団幻想のなかへ誘導するものである。撮影・録音はベン・リヴァースと共同で行われた。字幕の一部はサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』に結びつけられている。
プレヴューは次のURLを参照のこと。“Let Us Persevere In What We Have Resolved Before We Forget” on Vimeo

Atlantis
・アトランティス/Atlantis(16mm, 23min, sound, 2014|英語・マルタ語)
地中海に浮かぶマルタ島で撮影された作品。この土地には、有名な巨石神殿群(マルタ観光局ウェブサイト)が存在するが、これはやや荒唐無稽な空想話として、アトランティス大陸の伝説と結びつけて語られている。そして、この映画は、不在の場所としてのアトランティス――すなわち超越的な場所が、マルタ島の人々のなかでどのように幻視されているのかを探るものとなっている。映画の中では、鏡に映る海のイメージを媒介としながら、酒場で歌う人々、アトランティス人の扮装で行われるパレード、ペンテコステ派の修道士と交わされる幸福や理想社会についての対話が展開してゆくが、それらは超越的な場所の別々の顕現だといえる。やがて映画は、パレードの太鼓の連打を呼び水として、テクノが鳴り響くクラブの空間へ移行し、さらに白いマントをかぶった人物が海に入って行くシークエンスへと展開してゆく。そして最後に、通俗的な娯楽小説「アトランティスから来た男」が朗読されることで映画は閉じられる。ベンの「サイケデリック・エスノグラフィー」という方法は、一見すると発展途上国の信仰や文化を取り扱うものだと思われるかもしれない。しかし、それは当然ながらマルタ島のようなヨーロッパ内部にある社会も撮影対象に含むものである。字幕の一部はトマス・モアの『ユートピア』に結びつけられている。
プレヴューは次のURLを参照のこと。“Atlantis” on Vimeo

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・祖先への挨拶/Greetings to the Ancestors(16mm, 29min, sound, 2015|英語・コサ語)
南アフリカ共和国の南部沿岸に居住するコサ人の村落で撮影された作品。コサ人の文化には、幻覚を誘発する植物の根を服用してトリップし、その際に見た夢を解釈することを職業とする祈祷師が存在するらしい。この映画は、それらの夢を通して解釈された、この世界に隣接する別の世界の姿を垣間見るものとなっている。まず映画は、狂騒的な祭儀の様子を映し出す長いシークエンスから始まる。次に、最近祈祷師の修行を始めたばかりだという少女の夢語り(槍を集める夢)へと繋げられ、以降は、様々な祈祷師の夢語りを中心に進行してゆく。そして終盤では、電子音と唱歌がミックスされたサウンドトラックに合わせて、南アフリカの風景が映し出されるシークエンスが続く。ちなみに、この風景を撮影するカメラのレンズの前には、「隣接する別の世界」の暗喩として赤いフィルターが翳されるのだが、この赤いフィルターと催眠的なサウンドトラックは、観客に夢を通して見られた世界を幻視させるという役割を果たす。まるで、この映画自体が、観客たちが見ている集団的な一つの夢のようである。


「映像パフォーマンス『われわれが享受している素晴らしいもの』+スペシャル上映」
このプログラムは、ベンの映像パフォーマンス『われわれが享受している素晴らしいもの』を上演するものであり、過去の作品からも『Trypps』シリーズのうち2作品と『River Rites』が併映された。(以下、『Trypps』シリーズ2作品については、過去に書いた文章を修正して転載した。『Trypps』シリーズ全体のレヴューについては次のURLを参照のこと。+2016/Osaka PDF版

『Trypps』シリーズは、実験映画的な抽象表現から開始され、ナンバーが進むにつれて、ジャン・ルーシュからの影響を窺わせる、民族誌的なドキュメンタリーに接近していった作品群であり、それは実験映画とドキュメンタリーの混成体であるといえる。そこでは、サイケデリックとドキュメンタリーという対極的なものが、未分化な状態に置かれることになるが、この二つの極は、言うまでもなく主体と客体、あるいは主観と客観の関係に対応している。観客は、この『Trypps』シリーズを観るという経験のなかで、映画が持っている移行(Transition)の能力の助けを借りながら、様々な境界を超えて、トリップしてゆくことになる。

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・Black and White Trypps #3(35mm, 11min30sec, sound, 2007)
ベースとドラムによる実験的なロックデュオLightning Boltのライブ会場において、大音響のなかでトランス状態に向かう観衆の姿を、スローモーションによって撮影した作品。Lightning Boltはステージではなく、観衆が密集するフロアの真ん中で演奏を行うことで知られている。固定されたライトは、バンドを取り囲む観衆の一部のみを照らし出し、カメラはその精神状態の推移を機械的に記録し続ける。そして、スローモーション・パートへの突入によって、映画を観る観客もまた、スクリーン内のトリップに巻き込まれる。エスノグラフィー的な考察対象としてのトリップ――その現代的なヴァリエーションだといえよう。本作以降『Trypps』シリーズは、その主題をより一層明確化させてゆくことになる。冒頭から中盤までの音楽はLightning Boltによるもので、スローモーション以降のドローンはジョー・グリム(Joe Grimm)によるもの。
プレヴューは次のURLを参照のこと。“Black and White Trypps #3” on Vimeo

trypps7
・Trypps #7 (Badlands)(HD, 10min, 5.1ch, 2010)
本作の撮影場所であるバッドランズ国立公園では、19世紀に先住民(インディアン)によって始められた終末論的な儀式であるゴーストダンスが行われていた。そして、このゴーストダンスは白人入植者によって弾圧され、ウンデット・ニーの虐殺(Wikipedia)によって多くの犠牲者を生んだ。作中において忘我の表情を浮かべる女性は、このような歴史的背景のある場所でLSDを服用しており、そのトリップは、ゴーストダンスのトリップを追体験するものとなる。また、回転する鏡を使用した長回し撮影によって、トリップの推移を観察する観客的な視点を、途中で巧妙に入れ替えているところも興味深い(女性を客観視していた観客は、鏡の回転によって、不意にトリップの中に巻き込まれる)。
プレヴューは次のURLを参照のこと。“Trypps #7 (Badlands)” on Vimeo

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・River Rites(16mm, 10min, sound, 2011)
スナリム共和国の自然の中を流れる河にて撮影された作品。水遊びや魚取り、洗濯、網の手入れなど、河の傍で営まれる現地の人々の日常生活の風景が、逆再生の操作によって、非日常的な儀式を思わせる光景へと変貌する。この逆再生の処理は単純なものであるが、この作品においては極めて大きな効果を発揮している。それは、この10分間の作品が、ワンショットの移動撮影によって成立しているためである。要するに、この映画は、移動撮影の終着点から開始され、撮影の起点へと向かって逆方向に進行してゆくのである。このワンショットの長い映像は、河の流れの逆流と一体化しながら、その場所で生じた人々の動作や移動が収斂してゆく過程として映し出される。それは現在という瞬間を離脱して、現在を成り立たせているものの起源を探索するという、主観的なものと客観的なものが入り混じった一時的なトリップに観客を引き込むものとなっている。サウンドトラックは、Lightning Boltの関連ユニットであるMindflayerの楽曲を逆再生したもの。
プレヴューは次のURLを参照のこと。“River Rites” on Vimeo

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・われわれが享受している素晴らしいもの/The Marvels We Now Enjoy(video performance, sound, 2015)
本作は「快楽の園」三部作のアウトテイクを使用して、映像とサウンドをリアルタイムに生成するパフォーマンスであり、ベンはスクリーンの前方で機材(モジュラーシンセ、映像送出用ノートPCなど)を操作する。まず、パフォーマンスの基本的な構成について説明する。ベンが操作する機材は、基本的にサウンドトラック演奏用のモジュラーシンセであり、これによって、フィンランドのPanasonic(Pan Sonic)を思わせる無機質でミニマルな電子音が出力される。このモジュラーシンセのサウンドは、Maxを介して映像送出用のノートPCにも入力される。そして、映像送出用のノートPCからは、近作フィルムのアウトテイクをデジタル化した短いムービー素材が、ランダムに再生されてゆく。加えて、スクリーンの中央には常に円環状のワイヤーフレームの3DCGモデルが合成される。この3DCGモデルは、先述のMaxを介して入力されたサウンドのレベルに応じて、激しく変形する。さらに、クロード・レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』より、西洋中心主義の視点で世界を見ることへの批判を述べた一節が引用され、女性の朗読者によって、日本語で繰り返し朗読される。

引用元からも明らかなように、この作品はレヴィ=ストロースが根本的に抱えざるを得なかった疑問を背景として、様々な民族・社会の存在を並列化することをコンセプトとしている。では、その試みがどのように成立したのか、映画というメディウムの機能的な側面から考えてみよう。この作品においては、映画の諸機能の中でも、異なるショットを架橋するサウンドトラックの要素が重要視されている。ライブで演奏されるサウンドトラック――及びそれが可視化されたものとしての3DCGモデル――は、寄せ集め状態の様々な民族・社会の映像のなかを移行してゆくにあたって、超越を担保するという重要な役割を担っているのだ。そして、観客はサウンドトラックによって輸送されるような形で、ショットとショットの間を知覚的に移行してゆく。このような映画の機能が、内部あるいは外部、主観あるいは客観といった違いを未分化なものと見なして、現象学的に探索してゆく「サイケデリック・エスノグラフィー」の方法とも合致していることは、言うまでもないだろう。


実験映画やドキュメンタリー、あるいは学術的なエスノグラフィーも含め、広義の映画を考え直すうえで、ベン・ラッセルの映画は重要な契機をもたらすものであり、今回のベンの来日は、映画に関わる言説が棲み分けられてしまっている国内の状況において、大きな意義を持つものであったといえる。このようなラディカルな映画作家を受け止めようとする批評家や映画研究者、あるいは雑誌媒体が、いままで日本国内に殆ど存在しなかったことは残念であるが、そのような状況に一石を投じようとした恵比寿映像祭の熱意に感謝したい。

付記:ベン・ラッセルの最新作は、キックスターターによるクラウドファンディングによって資金を集めた『He Who Eats Children』(16mm, 25min, 2016)である。出資者には既にネット上で作品が供給されているが、ジャングルの奥深くに住む悪魔についての、ユニークな作品となっている。詳しくは次のURLを参照のこと。https://www.kickstarter.com