図書新聞「鼎談 阪本裕文×江口浩×佐藤洋『松本俊夫著作集成』をめぐって」

tosyoshinbun

『図書新聞』8月13日号と8月27日号に、前後編に分けて「鼎談 阪本裕文×江口浩×佐藤洋『松本俊夫著作集成』をめぐって」と題された、江口さん・佐藤さんと私の鼎談が掲載されました。5月28日から6月3日にかけて渋谷アップリンクで開催された「混沌が意味するもの 松本俊夫アヴァンギャルド映像特集上映」のなかで組まれたトークイベントのひとつ、「松本俊夫と前衛記録映画」(5月28日)を抜粋して採録したものです。松本俊夫の記録映画や実験映画を読み解くキーワードとして、松本が子どもの頃に親しんだ「忍術映画」や「切手収集」を取り上げた前編、そして50年代の「政治的な正しさ」に60年代の「個人的な楽しさ」を対置させ、実験映画(すなわち、自分のための映画)に向かった松本の意識の変化を論じる後編という、ちょっと今までにない内容の鼎談になっています。結構面白いと思いますので、よろしくお願いします。

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東京現音計画 #07 クリティックズ・セレクション1:沼野雄司@北とぴあ つつじホール

日時:2016年7月14日
会場:北とぴあ つつじホール
プログラム監修:沼野雄司
出演:東京現音計画 有馬純寿(エレクトロニクス)、大石将紀(サクソフォン)、神田佳子(打楽器)、黒田亜樹(ピアノ)、橋本晋哉(チューバ)
客演:宮村和宏(オーボエ)、大田智美(アコーディオン)

五年前の震災・原発事故を経て、この国は徐々に変化しつつある。それは単純に交代後の政権によって右傾化した政治方針が推進されているということだけでなく、それを「まあ、それくらいなら」と何となく受け入れてしまえるほどに、人々のなかに権力の内面化、あるいは消極的受容が進行しているということによる。このような日常生活レベルで、権力の消極的受容が進行する状況下では、日常生活を撹乱するかたちで現れる政治主張は、ノイズとして煩がられるか、時として反射的な攻撃の対象とされる。最近、フジロック・フェスティバルのトークイベントにSEALDsのメンバーが招聘された際に、「音楽に政治を持ち込むな」という反応が一部のネットユーザーのあいだから立ち現れたことなどは、その分りやすい一例といえるだろう。言うまでもないが「音楽に政治を持ち込むな」、すなわち「芸術に政治を持ち込むな」という発言は、それ自体が「ある空間において政治的なものの存在を許容しない」という政治的な発言になっている。あらゆる文化は、社会的なレイヤーが重なり合うことで生み出された、政治的な織物である。そのようなレイヤーは明確に目に見える場合もあれば、表面的には見えてこない場合もある。いずれにせよ社会の内部に存在する限り、政治的に漂白された純粋芸術などはあり得ないのだ。

何故こんな話からコンサートのレヴューを始めたかといえば、それは今回の「東京現音計画#07」のテーマが、そのものずばり「新たな抵抗へ向けて」と題されていたからである。今回のクリティック・セレクションと題されたプログラムは、外部から監修者として音楽研究者の沼野雄司を招いて組まれている。ウェブと当日のプログラム冊子ではステートメントの内容が異なるのだが、ここではウェブ版(新たな抵抗へ向けて Toward Another Resistance)を参照しながら話を進めたい。このステートメントにおいて「抵抗」という言葉は、直接的な政治主題に限定されるものではなく、社会との摩擦や衝突を恐れない、音楽という営為そのものへの根本的問いかけとして位置付けられている。すなわち、作曲や演奏といった「音楽の生産行為」において、障害や抑圧として立ち現れる音楽的な諸制度に抵抗すること。時として、ここに直接的な政治主題が絡んでくる場合もあるだろうが(実際、そのような作品は過去において数多く書かれたが)、それも広義の「抵抗」のひとつの表れに過ぎない。重層的な、社会的レイヤーの内部においては、障害や抑圧は様々なかたちで姿を表すのである。このように「抵抗」を、音楽の生産行為一般にまで拡張して捉え直すことは、日常生活レベルで権力の消極的受容が進行する状況下においては、有効な突破口になるかもしれない。

この日、上演された作品は以下のとおり。東京現音計画は特異な編成のグループであるため、幾つかの楽曲では、作曲家の承諾を得て、使用楽器を変更することによって対応していた。いずれも、比較的わかりやすい仕掛けによって、さまざまな制度に対する抵抗のあり方を示す作品であり、沼野によるセレクトのコンセプトは明快である。

1:Steve Reich『Pendulum Music for 3 or 4 microphones, amplifiers and loudspeakers』(1968)
スティーヴ・ライヒ『振り子の音楽』
ステージ上には、四台のスピーカーが上向きに置かれ、それぞれのスピーカー上には、四本のマイクが吊るされている。そして演奏家が登場し、この吊るされたマイクを振り子のように揺らすことで、周期的なハウリングを発生させる。四つの周期のズレがミニマルミュージック的な複雑性を生成しはじめると、演奏家はすぐに退場し、マイクの揺れが自然に収まるまで作品演奏は続けられる。初期のライヒの作品には人為性を排除しながら、機械的な方法によって構造を前景化させるコンセプチュアルな方向性が存在しているが、それを最もよく示した作品だと思う。

2:Paolo Castaldi『Elisa Per Pianoforte』(1967)
パオロ・カスタルディ『エリーザ』
イタリアのレーベルCRAMPSの「nova musicha」シリーズの5番にも作品を残している、カスタルディのピアノ曲。沼野の解説によると『エリーゼのために』をモチーフとしながらも、それを脱臼させた複雑な記譜となっているらしい。聴衆からしてみれば、表面的には素人のピアニストによる危なっかしい演奏に聴こえるのが面白い。最後にピアニストが声を上げながら鍵盤を叩いて終了。

3:Chaya Czernowin『Die Kreuzung for Accordion, alto saxophone, and Tuba』(1995)
ハヤ・チェルノヴィン『雑種』
初めて名前を聞く作曲家、ハヤ・チェルノヴィンによる、アコーディオンとサクソフォンとコントラバスのための作品だが、今回はコントラバスがチューバに変更されている。それぞれの楽器が別々に動き、時として奇妙なまとまりを見せながら進行する。カフカから取られたタイトルの通り、不条理な音の駆け引きが楽しめた。

4:Christian Wolff『Exercise 5 for 2 or more players』(1973〜74)
クリスチャン・ウォルフ『エクササイズ5』
二人以上の演奏家のための作品で、今回はサクソフォン、チューバ、パーカッション、ピアノによる編成である。沼野の解説によると、解釈を演奏家に任せた上で、複数人にひとつの旋律を演奏させるというコンセプトらしい。今回の演奏では、まるでゲームのように各人が自由な駆け引きを展開しており、先の『雑種』にも共通する不条理さが存在していた。また、この演奏家の駆け引きに協働的な社会性を見出すならば、近年の現代美術における、小グループ内での協働モデルを提示するタイプの作品との間に、共通性を指摘できるかもしれないと思えた。

5:Horaţiu Rădulescu『The Origin for one pecussionist with two bass drums』(1997)
ホラチウ・ラドゥレスク『オリジン』
ラドゥレスクというと、スペクトル学派の作曲家ということ程度しか知らない私だが、これは二台のバスドラムによる、一人のパーカッション奏者のための作品であり、とても興味深かった。一聴するとスローなパーカッションの連打であるが、倍音の響きに奇妙な違和感が残る。沼野の解説によると、パーカッションを一つの音響の塊としてみなしたような、相当複雑な拍子の構成が試みられているようだ。

6:Svetlana Lavrova『Gravity for oboe, saxophone and electronics』(2013)
スヴェトラーナ・ラヴロヴァ『重力』
初めて名前を聞く作曲家、スヴェトラーナ・ラヴロヴァによる、オーボエ、サクソフォン、エレクトロニクスという編成による作品。あまり期待はしていなかったのだが、引き伸ばされた管楽器の微細な響きにノイジーな電子音が絡まるという内容で、なかなか楽しめた。

7:Joakim Sandgren『Objets saisis pour saxophone et ordinateur』(2011〜12)
ヨアキム・サンドグレン『押収品』
こちらも初めて名前を聞く作曲家、ヨアキム・サンドグレンによる、バスクラリネットとエレクトロニクスのための作品だが、今回はバスクラリネットがテナーサクソフォンに変更されている。4チャンネルの間欠的な電子音に、サクソフォンによって発生する奇怪な音響が絡まる。管楽器でこのような音を出すことが可能なのかと驚いた。明らかにノイズリスナー向けの作品であり、大変興味深い。

8:Louis Andriessen『Workers Union for any loud-sounding group of instruments』(1975)
ルイ・アンドリーセン『ワーカーズ・ユニオン』
この日の「新しい抵抗」のあり方を示すプログラムの締めくくりは、直接的に政治的題材を取り扱う作品として、アンドリーセンの『労働組合』がセレクトされていた。この作品は「大音量の楽器グループのための」と指定されているように、とにかく大音量で演奏することが求められている(この日の編成は、オーボエ、サクソフォン、チューバ、パーカッション、アコーディオン、ピアノ)。楽曲は、まるでフランスのプログレバンド、マグマを思わせるようなテンションで、全楽器のユニゾンにより進行してゆく。演奏という労働行為を政治的に捉え直した、極めてラディカルな作品だと思えた。それは政治的な音楽としては、数多の労働歌よりも直接的なものだろう。