佐々木友輔『TRAILer』@ イメージフォーラムシネマテーク

福島で引き起こされた原発事故については、報道的なものから実験的なものまで、幾つものドキュメンタリーが制作されてきた。しかし、ここ数年の沖縄の置かれた状況についてはどうか。私の知る限り、そのようなドキュメンタリーは皆無だったと言わざるを得ない。佐々木友輔が監督した『TRAILer』(2016)は、そのような意味で、まず意義深い仕事として記憶されるべきものだと思う。上映は、2016年12月11日にイメージフォーラムシネマテークにて、トークショーとともに行われた。本作は、沖縄在住の美術評論家である土屋誠一の企画により製作されたものである。佐々木と土屋の協働は、2014年の「反戦 来るべき戦争に抗うために」展にはじまるもので、土屋の呼びかけに応じた佐々木は、作品を同展に出品している。今回の『TRAILer』での協働も、映画が沖縄という場所を扱っている以上、「反戦」展の延長線上に置かれるものとなる(「反戦」展については、こちらのレヴューも参照のこと)。

さて、佐々木の映画的な方法論は、代表作である『土瀝青』(2013)によって確立されている(ただし、私が観る機会を持てたのは、2015年の恵比寿映像祭におけるインスタレーション版である。こちらのレヴューを参照のこと)。それは、『略称・連続射殺魔』(1969/1975)の系譜に連なる風景論映画であり、その批判であった。ある場所へ赴き、揺動するカメラと身体の移動によって、その風景を記録する。それによって風景は直接的な身体移動のレベルで再把握され、固定化された風景イメージでは把握され得ない、ひとつの場所として立ち現れる。これは風景を現象学的に生み直す行為だといえるかもしれない。さらに言うと、佐々木の風景論映画がユニークなのは、このような世界(「セカイ」と表記すべきか)と個人との関係に、異物的なテクストがボイスオーバーで挿入されることだろう(諸関係が個人の内面に収束してしまうのを回避させる意図によるものか)。スクリーン上で生成され続ける風景に併置される、歴史的な距離を持った、その場所に関わるテクスト。それは、風景イメージの下層にひそんでいるレイヤーの可聴化である。

その方法論は本作においても踏襲されており、映画は、まず渡具知ビーチのショットから開始される。そして、佐々木はビーチを起点に、沖縄平和祈念公園にある摩文仁の丘に至るまでの沖縄戦のルートを、グーグルマップを頼りに自転車移動によって目指す。生活道路、フェンスと米軍基地、マクドナルド、コンビニエンスストア。揺動する風景が、次々と生成されてゆく。そして、そこに挿入されるテクストは、沖縄戦における、米軍の公式の戦争記録と、断片的な言葉による風景論あるいは観光論である。このテクストは土屋の執筆によるものであり、テクスト内の戦争記録と風景論の割合は、ほぼ半々だったと思う。土屋に事後的に質問したところによると、はじめは映画になるかどうかを一旦保留にしたような状態で、ひとまず誌上予告編となる冊子として、映像(写真)とテクストの組み合わせによる『disPLACEment「場所」の置き換え vol.3』(2015)を作成したという。その際には、撮影とテクスト作成は並行しながら別々に進められた。その作業の結果、なんとか作品になりそうだということで、佐々木がイニシアチブを取って撮影素材を編集し、テクストを朗読する声をボイスオーバーで挿入することを選択したらしい(朗読はカニエ・ナハによる)。映画の最後で、佐々木は摩文仁の丘に到着し、そこを訪れる人々の姿を撮影する。そして、ある一日の歴史を撮影した映画は終わる。

まず、沖縄戦についての歴史的テクストとして米軍側の戦争記録を選ぶというアイデアは、批評的なものであり、高く評価したい。私もつい最近、沖縄戦の戦跡を巡る機会があったのだが、その時に感じた、風景のレイヤーが複数存在している感覚は、この映画から受けた印象に近いものだった。至るところに米軍基地のフェンスがあり、生活道路を曲がると、いきなり病院や避難に使われた豪・ガマに遭遇する、あの不思議な感覚。沖縄戦は、女性や子どもを含む現地住民を軍隊に協力者として取り込む、軍民混在の戦闘であったことが知られている。現地住民の死者数は、3月23日の沖縄戦開始以後、4月から6月の期間にかけて著しく増大してゆく。そして、現地住民たちは南部への後退を続けながら、日本軍の組織的抵抗が終了した6月23日前後をもって、南端の戦地に放り出される。このような過去の出来事を米軍側の記録を用いながら、現在の風景のなかに再布置するという構図は、沖縄戦の特異性を客観視させるうえで、当事者たる戦争経験者の言葉よりも有効であったと思う。ただ、その一方で、風景論=観光論についての言葉は、最後の言葉の配置が、若干ナイーブであるようにも感じられた(ただし、冊子で読むとナイーブな印象はないので、公園内のイメージとの組み合わせによる印象だろうとも思う)。

また、これは深く考えるには至っていないが、土屋は先述の冊子について、ロバート・スミッソンの映画『スパイラル・ジェッティ』(1970)を例に出して、「ノン―サイト」的なものであるという旨の発言していた。この発言は面白いもので、この構図を敷衍するならば、映画としての『TRAILer』を、「沖縄戦」に対する「ノン—サイト」として位置付けることも可能なのではないかと思えた。それは、「特定の場所」と「映画」の関係性を更新するような、大変興味深い視点である。

いずれにせよ、『TRAILer』と題しているのだから、可能であれば、続編となる風景論映画の展開を期待したいところである。沖縄における風景論は、米軍基地移設問題が膠着した現在の状況における、ひとつの批評的なテーマになり得るものだと思う。

Advertisements