Toshio Matsumoto: Everything Visible Is Empty@香港Empty Gallery

Toshio Matsumoto: Everything Visible Is Empty
会場:香港Empty Gallery
会期:2017年9月9日〜11月18日
http://www.theemptygallery.com

NPO法人戦後映像芸術アーカイブから香港のEmpty Galleryに、2Kレストアされた松本俊夫作品のデジタルデータが貸し出され、2ヶ月間に渡って「Toshio Matsumoto: Everything Visible Is Empty」展が開催された。Empty Galleryが凄いという話は、ギャラリーとの話を繋いでくれた牧野貴さんから聞いていたので、会期終了までに観に行きたいなと思っていていた。そして、スケジュールがうまく合ってクロージング間際に観に行けることになった次第である。

Empty Galleryは香港の新しいコマーシャルギャラリーであり、ロケーションは高層ビルが立ち並ぶセントラルから離れた、香港島南部の香港仔の工業ビル街にある。このギャラリーはオーナーの方針によって、実験的なアーティストや即興音楽の紹介に主眼を置いているようで、いわゆるコマーシャルギャラリーとは異なる雰囲気を纏っており、高品質なインディペンデント・スペースといった趣きがある。直近では映画作家の牧野貴による『Takashi Makino: Cinéma Concret』(2016年12月13日~2017年2月17日)や、アメリカの現代美術家タケシ・ムラタによる『Takeshi Murata: Infinite Doors』(2017年3月22日~5月27日)を開催している。香港には現在のところ、大手のコマーシャルギャラリーやインディペンデント・スペースはあれど、現代美術を専門的に取り扱う公的美術館が存在しない。2019年には西九龍文化区に、大規模な公的美術館としてM+(エムプラス)が開館する予定であるが、そのような状況のなかで、このギャラリーは香港のアートコミュニティにおいて独自の存在感を放っている。

ギャラリーは、ビル高層階の2フロアに入っている。今回は壁を新たに作り直して、内壁を黒で統一するというコンセプチュアルな展示によって、まるで暗闇の迷路のような空間が生み出されていた。まずエレベーターの扉が開くと、密室のようなエントランスで『ホワイトホール』(1979)がプロジェクションされている。そして、エントランスの自動ドアを抜けて、暗闇の通路を手探りで進んでゆくと、香港的な調度品のあるレセプションルームにたどり着く。ここで解説書と配置図を受け取り、二つある通路のうち片方へ進むと『色即是空』(1975)がプロジェクションされている空間にたどり着く。この空間の内壁には微かな反射が生じており、眩暈を覚えるような秘教的な空間になっていた。

次にレセプションルームに引き返してもう一つの通路を進むと、細長い空間にたどり着く。ここでは一方の壁面に『ファントム=幻妄』(1975)が、もう一方の壁面に『石の詩』(1963)がプロジェクションされていた。

この空間の壁面中央には40cm程の隙間が空いており、その隙間をすり抜けると、透過型のスクリーンが吊るされた真っ暗で大きな空間に出る。そこでは、リア側から3台のプロジェクターによって『つぶれかかった右眼のために』(1968)がプロジェクションされており、観客は自由な位置から作品を眺めることができる。


本作は、フィルム上映の場合は3台の16mm映写機によって分割投影されるが、デジタル上映の場合はひとつに合成したバージョンを1台のプロジェクターによって投影することが多い。しかし、作家は本作に関しては3台のビデオプロジェクターによる分割投影も認めていたので、それに基づき今回の展示では高品質な2Kプロジェクターを揃えることによって、16mm映写機と遜色ない精細なプロジェクションが実現されていた。3台の2Kプロジェクターの間ではコンピュータ制御によって完全な同期が取られており、作家の意図に忠実なシンクロを保ちながら進行する。しかも、初演時に仕込まれたラストのストロボ発光まで再現されており、その上演形態は可能な限りオリジナルに近付けられていた(このストロボもコンピュータ制御による)。やはり本作は、分割投影によって上映されることで、中央のイメージの存在感が強烈に際立つ。私自身、分割投影で本作を見るのは久しぶりだったので、新鮮な発見が多数あった。

次は『ファントム=幻妄』と『石の詩』の空間に引き返して、その先にある吹き抜けの階段をおりて、下のフロアに向かう。この吹き抜けの空間では、4Kプロジェクターによって高めの位置に『エクスパンション=拡張』(1972)がプロジェクションされている。空間を撹乱するような作品配置は、作品がもたらす眩暈の感覚を強化していた。

階下に降りた空間では『西陣』(1961)がプロジェクションされており、翳りのあるモノクロ映像が暗闇に溶け出すような、静謐で緊張感のある場が生まれていた。

そして、通路の先に開けた隣室では『アートマン』(1975)がプロジェクションされており、強烈なイメージを通路のこちら側にまで届けていた。漆黒の内壁が映画館並みの徹底した暗闇を実現しており、ギャラリーの展示でここまで出来るのかと驚愕した。

この『アートマン』の空間の左隣の空間では、『エクスタシス=恍惚』(1969)がプロジェクションされている。この空間は狭く、スクリーンは観客を部屋の角に追い込むような形で配置される。作品のイメージと相まって異様な圧迫感が生じていた。

最後に『アートマン』の空間の右隣の空間につながる自動ドアを抜けると、打ちっ放しのコンクリートの空間に出る。そこではエピローグ的に『ブラックホール』(1977)が静かにプロジェクションされていた。

海外の美術館やギャラリーで、松本俊夫が単独展示されるのは初のこと。国内では2012年に久万美術館で「白昼夢 松本俊夫の世界」展があったが、それとはまた違ったコンセプトで、大変丁寧に映画を展示してくれたEmpty Galleryに敬意を表したい。今回の展示では、松本作品に存在する観客の身体に直接的に作用する眩暈の効果が、最大限に引き出されていたといえる。作家本人にも見てもらいたかった。最終日のクロージングイベントでは、即興演奏のコンサートで使用するスペースで、北米版Blu-rayがリリースされたばかりの作家監修による4Kレストア版『薔薇の葬列』(1969)の上映と、上映後のディスカッションが開催された。香港の観客たちは、自分たちが直面した2014年の香港の民主化デモと、『薔薇の葬列』の後景にある1960年代末の日本の社会状況を重ね合わせながら、熱心に作品を読み解いているようだった。

日本国内では東京写真美術館やイメージフォーラム、京都ルーメンギャラリーで、海外では北米・ヨーロッパでの4Kレストア版『薔薇の葬列』や、2Kレストア版の実験映画の上映が進められている。いずれも素晴らしいことだと思う。松本先生が語られていたように、これからも松本作品を観たいと思う人が、作品に容易にアクセスできるような環境が維持されることを願ってやみません。

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この一年の牧野貴の活動について

本日より、関西での上映ツアーが始まるとのことで、この一年の牧野貴の主な活動について私の知る限りで記しておきたい。

3月10日〜11日には、東京都庭園美術館にて「IGNITTION BOX 2016/2017」として『ENDLESS CINEMA』のパフォーマンス上映が行われた。これは私も両日観に行った。両日ともに、インスタレーション版の『ENDLESS CINEMA』(2017)を半日にわたってループ上映し、次に近作である『On Generation and Corruption』(2016)と『Picture From Darkness』(2017)の上映を挟んで、パフォーマンス版の『ENDLESS CINEMA』を牧野貴本人(10日)とジム・オルーク(11日)のライブ演奏によって上演するというものだった。

・『On Generation and Corruption』(Digital, 26min, 2016|音楽:ジム・オルーク)
液体の中を流動する塵を主なモチーフとした作品。牧野作品らしい、イメージを生成する抽象性を備えながらも、部分的に物質性がそのまま残されている(原形となる物質の形象が保たれている)ところが面白い。ジム・オルークによる電子音の点描によるサウンドトラックも、これまでの彼の音楽にはあまりなかったアプローチである。



・『Picture From Darkness』(Digital, 37min, 2017|音楽:サイモン・フィッシャー・ターナー)
サイモン・フィッシャー・ターナーがサウンドトラックを担当した、デレク・ジャーマンの『BLUE』(1993)の後に上映することを前提とした作品らしい。『BLUE』は青一色のフレームによるフィルム作品であるが、ターナーのサウンドトラックに触発されて、観客は意識のなかで青一色のフレームを映画として形成する。そして本作もまた、その意識の運動を引き継ぐことになる。



・『ENDLESS CINEMA』(2017|音楽:ジム・オルーク)
本作は、3台のプロジェクターを使用した映像インスタレーションであり、各プロジェクションの持続時間が異なることにより、ランダムなイメージの重なり合いが常態的に生み出される映画である。左・中央・右スクリーンのイメージは、牧野の過去作品である『World』『No is E』『Still in Cosmos』に、それぞれが類似している。パフォーマンス版の上映では、牧野あるいはジムによるライブ演奏に合わせて3つのプロジェクションが合体し、3つのレイヤーを内包した単一のスクリーンとなる。私はこのパフォーマンス版を観て、マイケル・スノウの『←→』(1969)のエピローグパートを連想した。観客は各レイヤーの重なり合いにおいて、頭の中にある単体のプロジェクションの記憶を呼び起こしながら、眼前の重層化したレイヤーに向き合うことになるのだ。この分裂性は極めてスリリングなものだった。

ちなみに、これら3作品は全てサウンドトラックが単独リリースされており、『Picture From Darkness』についてはLP版もリリースされている。





続いて、サンフランシスコにて10月11日〜15日の期間で開催された「RECOMBINANT festival 2017」では、会場の壁全面に、映像を360度で投影する『Memento Stella Cinechmber』(2017)が上映された。この試みは、一見すると、これまでの映画史のなかで試みられてきたエクスパンデッドシネマの範疇に収まるものにみえなくもないが、実際に観たうえで『ENDLESS CINEMA』からの展開において検討する必要があるだろう。これまでの牧野作品におけるスクリーンの単一性と、その内部でレイヤーとして折り重ねられた複数性が、マルチプロジェクションによる複数性と同一視できるものなのか。それとも異なるものなのかという点において。

そして、これらの活動が、大阪シネ・ヌーヴォ(11月5日〜10日)とクローバーホール(11月7日)での「EXP」と、原美術館での「+ Peter Burr」(11月11日)につながる訳です。お時間のある方は是非。