第10回恵比寿映像祭「インヴィジブル Mapping the Invisible」会場展示@東京都写真美術館

本年の恵比寿映像祭は、「インヴィジブル」という総合テーマによって不可視なものを可視化する、そのような映像が集められていた。このエントリーでは展示セクションにある作品について述べたい。
まず、イタコの老女の語りに戦後日本史を仮託する、ナターシャ・ニジック&基丸謙による三面スクリーンのインスタレーション作品『恐山』(2018)や、ポーランドのスポーツ施設に集う男性たちをモチーフとした、ガブリエラ・エレーラ・トレスによるシングルチャンネル作品『適切な運動による神への近寄り方』(2016)などの作品では、抽象化な物語による映像のなかに、社会的なものの反映を発見することが可能であった。しかしこの方向では、どこまで行っても不可視なものの分かりやすい翻訳、あるいは比喩としての可視化にとどまるだろう。この二作品は本来良い作品であり、他の展示作品よりも抜きん出ていると思うのだが、この総合テーマの元では、どうしても安直なものに見えてしまった。
他方、メディアに馴致される黒人のイメージを渉猟する、マルティーヌ・シムズの映像インスタレーション作品『レッスンズI-LXXV』(2014)や、ISILの攻撃を生き延びた聴覚障害の少年の身振りによって凄惨な出来事を可視化させる、エルカン・オズケンのシングルチャンネル作品『ワンダーランド』(2016)などの幾つかの作品は、事実そのものを撮影した映像ではないが、間接的な映像を操作することによって翻訳や比喩であることから逃れていた。そこには不可視なものが二重化された形で残存しているといえる。この方向にある作品は興味深いものであり評価したい。



『Shutter Interface』(1975, 16mm×4, Endless)
しかしながら、展示作品のどれとも異なる形で、総合テーマを基底面から批評する作品だと思えたのは、ポール・シャリッツの『Shutter Interface』(1975)だった。言うまでもなくシャリッツは、トニー・コンラッドやマイケル・スノウ、ジョージ・ランドウ、アニー・ゲールなどと並びアメリカ・カナダの構造映画を代表する作家である。シャリッツといえば、世間では『T,O,U,C,H,I,N,G』(1968)などの作品におけるカラーフリッカーが有名だが、それは光の明滅による眼への刺激にとどまらず、ある単一色のカラーフレームが、その前後に配置されたカラーフレームと干渉し合うことで「別の色彩」を生成するという特性を備えている。その「別の色彩」とは、もちろん物質としてのフィルム上に存在するものではなく人間の知覚過程において生じるものであるが、シャリッツの映画には、このような整然としたモダニズム的構築を超える自壊の契機が、常に内包されている。そして、これは総合テーマである不可視性の問題にも関わってくる。
具体的な作品の構造を説明したい。本作は、水平に並べられた4台の映写機によって、4本のカラーフリッカーのループフィルムをエンドレス上映するものだが、それらは隣接する画面の三分の一を相互に重ね合わせる形で壁面にプロジェクションされる。シャリッツの作品では、あるカラーフレームが前後のフレームと干渉し合うことによって、「別の色彩」として生成されることは先に述べた通りだが、本作ではそれに加えて、隣接する画面が相互に重なり合うことによって、スクリーン上でも加法混色が行われることになるのだ(外見上は水平方向に7つの色彩が並ぶことになる)。それによって、不均質な集合態として構成された、恐ろしくいびつな映画が立ち上がるのである。電子音のパルスによるサウンドトラックは、4本のフィルム全てにオプチカルで収録されており、各映写機につき1chの小型スピーカーで再生される。それによって電子音のパルスは、プロジェクションされる映画と同じくクラスター状の塊となる。
本作では、いかなる形においても社会的な事象はスクリーン上に現れない。しかし本作は、映画における知覚の臨界、すなわち可視/不可視の境界を指し示すことによって、私たちの知覚する外部の世界が、容易に認識できる断片的な刺激や情報によって、半ば自動的に構成された仮設的なものに過ぎず、その足元には不可視の領域が広がっていることを明らかにする。エクスパンデッドシネマとは単純な意味での上映空間の拡張などではなく、整然とした知覚過程や意味付けを自壊させることで、観客の意識のなかに仮設されている世界(ここで言う「世界」には、当然ながら社会的なものも含意される)のイメージを転倒させる、そのような経験の試みなのである。

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