第10回恵比寿映像祭「エクスパンデッド・シネマ・パフォーマンス:Beyond the Frame」@東京都写真美術館

恵比寿映像祭では毎年ライブイベントが組まれてきた。本年は二つのイベントが行われたが、私はそのひとつである「エクスパンデッド・シネマ・パフォーマンス:Beyond the Frame」と題されたイベントを観に行った。このイベントは、ポール・シャリッツの『Dream Displacement』(1976)を上映し、サウンドアーティストである大城真の『ストリングス』(2014)のパフォーマンスを挟んで、宮井陸郎の『時代精神の現象学』(1967)と『シャドウ』(1968)を上演するというプログラムである。去年同館で開催された「エクスパンデッド・シネマ再考」で、宮井の作品が紹介されなかったのは腑に落ちなかったが、今思えばこのイベントのために取っておいたということなのだろう。サウンド作品のパフォーマンスや、ダンスパフォーマンスの併演は、若干盛り込み過ぎという感じがしないでもないが、それでもエクスパンデッドシネマの重要作品をまとめて観ることができる貴重な機会であったことは間違いない。以下、それぞれの作品について述べる。



『Dream Displacement』(1976, 16mm×2, 25min)
本作は『Shutter Interface』(1975)と同じく、シャリッツの代表的なエクスパンデッドシネマ作品である。タイトルにはフロイトの精神分析が参照されている。オリジナルは1976年にオルブライト・ノックス美術館において、16mm映写機4台による「ロケーショナル・フィルム」としてループ上映されたはずだが、ニューヨークのフィルムメーカーズ・コーポラティヴのレンタルリストを見ると、映写機2台のバージョンでも貸し出されているようである。今回の上映もこれに準じて、映写機2台での上映であった。このようなバージョン違いのあるらしい本作だが、映写機4台と映写機2台の上映では、外観が異なってくる。まず、いずれの映写機のフィルムも、そこに焼き付けられた像はフィルム(自作『SPECIMEN II』が素材になったとされる)を再撮影することによって得られた、カラーフィールド(赤・黄・緑)の不規則な往復運動であることに違いはない。この運動が、バージョンによって水平方向、あるいは垂直方向に変化することになる。簡潔に書くとこうなる。

1:映写機4台の上映では、ミラーの反射を用いることにより、フィルムは90度横倒しになった縦長のフレームとして投影され、この画面が4面水平に連結される
2:映写機2台の上映では、フィルムは正位置として投影され、この画面が2面水平に連結される

なおフィルム上には、再撮影の際にスプロケットホール(フィルムの両端にある掻き落としの穴)まで焼きこまれているので、映写機4台の上映では、まるで巨大なフィルムが壁面に出現したような外観になる。
いずれにせよ、上記どちらのバージョンであっても、連結されたフレームが、不規則な往復運動を内包した一つの総体として立ち上がる瞬間(言い換えると、全体的な必然性があるかのように感じられる瞬間)が、次々と生産されることに違いはない。『Shutter Interface』がフレームの重なり合いを一つの総体に転じさせるものだったとすれば、本作は、往復運動を一つの総体に転じさせるものだと言えよう。映写機2台よりも映写機4台の方が、運動の不規則性が最大化されており、コンセプトが明確化される気もするが、それでも充分に知覚を撹乱する不規則な運動を体験することはできた。
サウンドは間欠的なガラスの破砕音で、2本のフィルムのサウンドトラックに、それぞれオプチカルで収録されている。


『時代精神の現象学』(1967, 16mm×2, 40min)
宮井陸郎は1960年代末のサイケデリックカルチャーの只中で、自らの存在もひとつの現象に過ぎないと考え、自らの全存在をかけてそれを表現した作家であり、同時代的な精神を最も端的に表現した実験映画、特にエクスパンデッドシネマを多数制作したことで知られる。北村皆雄と2人で結成した独立プロダクションである「ユニット・プロ」は、当時のフーテン達の拠点の一つとなった。映画制作の他にも、銀座に開店したディスコ「キラー・ジョーズ」の構成演出を担当するなどした。このようなサイケデリックカルチャーに端を発する精神的な領域への関心は、やがて宮井をインドに向かわせることになり、その後、彼は映画制作からは離れてゆくことになる。
作品としては『時代精神の現象学』(1967)、『積分現象学』(1968)、『横尾忠則ちゃんだーいすき』(1968)、『続時代精神の現象学』(1968)、『レス・レス・レス』(1968)、『シャドウ』(1968)、『シンジュク・シンジュク・シンジュク』(1968)、『微分現象学』(1968)、『テレビとマンガ』(1969)、『パーティ』(1970)、『微分積分現象学』(1971)があるが、聞くところによると、現存するのは『時代精神の現象学』と『シャドウ』のみらしい。この2作品は、2012年に同館で開催された「映像をめぐる冒険 vol.5 記録は可能か。」でも上映された。今回の上映は、作家自身によるパフォーマンスを組み込んだ2018年バージョンの上演となる。

『時代精神の現象学』は2台の16mm映写機によるエクスパンデッドシネマであるが、本作の最大の特徴は、映写機に掛けられる2本の同一内容のモノクロフィルムを、数秒間のズレを持たせて、一つのスクリーンに重ね合わせてプロジェクションする所にある(今回のズレは約2秒だった)。これによって生じる瞬間の多重化、あるいは時間の分裂の効果は凄まじく、観客の知覚の安定性は常に危険に晒されることになる。さらに、それぞれの映写機のレンズの前では、それぞれの映写技師によって赤・青・緑といった原色のセルロイドフィルターが翳される。このフィルターはそれぞれの映写機の光に対して、部分的に素早く重ねられるので、スクリーン上ではモノクロ映像でありながら、部分的に色彩が発生するという混沌とした事態が生じる。まるでスクリーン上で時間が激しく沸騰しているかのようである。松本俊夫、飯村隆彦、おおえまさのりのエクスパンデッドシネマがスクリーンの外部に拡張するものであったことと比較すると、スクリーンの内部に映画を拡張する本作の特異性は際立っている。
サウンドは、当時の著名なサイケデリックロックのメドレーだったが、このサウンドトラックに関しては、恐らく2012年に再制作されたものだろうと思う。ちなみに、当時の資料によると、本来はオーディオテープから別出しでサウンドトラックを再生する形態だったらしい。
作品の内容は以下の通り。

・スタジオ(ユニット・プロ)にたむろする仲間たちの様子を捉えた主観ショットから映画は始まる。撮影は手持ちカメラによるもので、このスタイルは映画の最後まで持続する
・スタジオの扉を開け、アパートの外に出る。時間帯は昼間。仲間たちが撮影者にカメラを向ける
・路上を歩き、車の助手席に乗って移動。斜めになったカメラ位置のまま風景が流れる
・新宿の街頭に到着、ゼロ次元による担架に女性を乗せて運ぶというパフォーマンスを、仲間たちと共に追う
・一瞬だけ建物の中に入り、またすぐに街頭に出て、ゼロ次元のパフォーマンスを追う
・再び百貨店の中に入り、またすぐに街頭に出て、仲間と共に撮影し合いながら歩く。警官と議論するヘルメット姿の活動家も見られる
・地下道に下りて、仲間と共に撮影し合いながら歩く
・地上に上がって、再びゼロ次元のパフォーマンスを追う。クリスマスの広告があるので冬頃の撮影と推測される
・女性が担架から降り、ガスマスクの男が担架に乗る。ゼロ次元らしい身振りの行進
・ゼロ次元が地下道へ下り、万歳三唱を行う。ゼロ次元のメンバーは、幼い息子の手を引いて歩き続ける
・一旦映像が途切れて、時間帯が夜に飛ぶ。ゼロ次元のパフォーマンスは続き、片手を上げて全裸での行進が行われる
・新宿紀伊國屋前に到着したゼロ次元は、タクシーに乗り込んで手際よく立ち去る。カメラは野次馬の群衆を撮影し続ける
・再び地下道に下りて、柱に据えけられた美容院の広告をしばらく撮る
・地下道の電光表示の時計を定点撮影する。このフィックスショットは8:59から開始され、9:03になると同時に終了する

当時の猥雑な新宿の風景と、ゼロ次元のパフォーマンスを被写体とすることで時代の空気を映画に取り込み、時間を分裂させることによって、観客が本作を見ている瞬間それ自体を唯一無二の現象として生じさせる。本当に凄い作品であると思う。
今回のバージョンでは宮井を含む3人のダンサーのパフォーマンスと、パーカッション奏者による演奏と、ニューエイジ的なBGMが加えられていた(ダンスの間だけ、作品本来のサウンドトラックからBGMにフェードイン~フェードアウトする)。


『シャドウ』(1968, 16mm×2, 30min)
『シャドウ』も2台の16mm映写機によるエクスパンデッドシネマであるが、こちらは二つのプロジェクションを横に並べた形態をとる。映写機に掛けられる2本のモノクロフィルムの内容は、基本的に同一だが、像のみが反転しており、左スクリーンにはポジ像が、右スクリーンにはネガ像が映し出される(今回は、序盤では左スクリーンが2秒遅く映写され、中盤以降は右スクリーンが10秒以上遅く映写されていた)。
作品の内容は、街を歩きながら、手持ちカメラを用いて路上や壁面に落ちた自分自身(宮井本人)の影を撮影し続けるというものである。撮影者は、ひたすら自分の影をファインダーに収めながら歩き続けるのだが、映画の最後で立ち止まり、壁に落ちる自分の影を、正面像としてフィックスショットで撮影する。そこにはある種の自己客体化と、それにともなう空虚感が滲んでいる。
サウンドは、2012年の「映像をめぐる冒険 vol.5 記録は可能か。」で観たときにはサイレントだったように記憶している。当時の資料によるとサイレントの上映の場合もあるし、オーディオテープから別出しでサウンドトラックを再生していた場合もあるようだ。
今回のバージョンでは、客席前方に巨大な布を張ってそれをスクリーンとして、リア側から2台のHDプロジェクターでデジタル素材を投影していた。スクリーンとプロジェクターの間では、宮井を含むダンサーがパフォーマンスを行い、その影がスクリーンに落ちるという演出も加えられた。さらに、パーカッション奏者の演奏に、大城の小型アンプを使用したパフォーマンスも加えられた。

Advertisements