告知「風景/映画再考 Vol.5 相原信洋――風景論としてのアニメーション」

映像作家の佐々木友輔氏による企画「風景/映画再考」の第5回として、鳥取大学にて「相原信洋――風景論としてのアニメーション」の上映会を行います。今年3月に発見された、相原信洋の幻の初期8mm作品である『風景の死滅』の上映を軸として、ドキュメンタリーや風景論映画につながる、相原のもう一つの側面に光をあてるプログラムとなっています。以下、公式の告知と、当日配布予定のハンドアウトを転載しておきます。当日は、沖縄戦を主題とした『TRAILer』(2016)などの制作を通して風景論映画の再考に取り組んでいる佐々木氏と、相原作品における風景の問題についてお話ししたいと思っています。よろしくお願いします。

風景/映画再考Vol.5
相原信洋――風景論としてのアニメーション

日時|2018年11月4日(日)17:00-20:00
講師|阪本裕文(映像研究者)
場所|鳥取大学コミュニティ・デザイン・ラボ(※鳥取大学鳥取キャンパス広報センター内)
入場料|無料
企画|佐々木友輔
平成30年度 鳥取大学地域学部長経費事業
http://qspds996.com/landscapefilm/?p=177

風景/映画再考の第5弾は、映像研究者の阪本裕文氏を講師にお迎えして、日本を代表する個人アニメーション作家・相原信洋氏(1944-2011年)の上映会および講座をおこないます。

第1部では、代表作の上映を軸に相原氏のフィルモグラフィーを辿るとともに、NPO法人戦後映像芸術アーカイブによる、相原作品のデジタル復元やアーカイブ化への取り組みについて紹介していただきます。

第2部では、今年3月に発見された幻の初期作品『風景の死滅』(1971年)の上映を軸に、アニメーション制作を通じて政治や社会の問題に切り込むドキュメンタリー作家・風景論映画作家としての相原氏の側面に迫ります。


相原信洋――風景論としてのアニメーション
阪本裕文

第1部|Animated Psychedelia
 相原信洋は1944年、神奈川県生まれの個人アニメーション作家である。デザイン学校で学んだのち、スタジオゼロやオープロダクションに所属し、商業アニメのアニメーターとしての仕事に取り組んだ。その一方で、相原は1965年より個人としてのアニメーション制作も開始し、『あめ』(1965)を実質的な第一作として、数々の個人作品を制作した。1960年代後半とは草月アートセンターの活動によって日本の実験映画・個人映画・個人アニメーションが拡大していった時期にあたるが、相原の創作活動も、このような運動によって動機付けられていたといえる。
 続いての作品である『STOP』(1970)、『サクラ』(1970)、『風景の死滅』(1971)、『相模原補給廠』(1972|未発見)が制作された頃とは、安保闘争以後間もない時期にあたり、相原の作品にも、当時の政治状況が反映されている。それはアニメーションに留まらない、ある種の社会的なドキュメンタリー性を備えるものだった。そして『やまかがし』(1972)の頃からは、自身の原体験に関わる内省的な方向に向かい『みつばちの季節は去って』(1972)、『うるし』(1973)、『逢仙花』(1973)、『初春狐色』(1973)などの、個人の原体験を遡及する、内省的なドキュメンタリー・アニメーションが生み出される。
 こういった試みを経て、相原は転換作である抽象的なドローイング・アニメーション作品『妄動』(1974)に至る。その表現は、作家の無意識の表出としての抽象的な形態が、まるで有機体のように蠢いてゆくというものだった。同作以降、この抽象的なアニメーションの方向は、相原にとって主題の一つとなり、『雲の糸』(1976)、『カルマ』(1977)、『水輪 カルマ2』(1980)を経て、晩年の『ZAP CAT』(2008)に至るまでの作品に引き継がれてゆく。
 そしてもう一つ、相原は『STONE No.1』(1975)を経て作られた『STONE』(1975)において、フレームの枠組みを超えてフレーム外部の現実空間を巻き込んだ、広がりのある運動性の表現にも取り組むようにもなる。こちらの主題に連なる作品としては、『光』(1978)、『アンダー・ザ・サン』(1979)、そして『映像(かげ)』(1987)を挙げることができる。
 しかし正直を言えば、このような私の安易な分類も、実は大して意味を持たない。相原のフィルモグラフィーには、実験的なドキュメンタリーと呼ぶしかない『SHELTER』(1980)および『MY SHELTER』(1981)や、古い納屋の壁や屋根に映写機からアニメーション映像を投影する『リンゴと少女』(1982)、女性のヌードと夕暮れの野原が多重露光される『とんぼ』(1988)など、異質性を持った作品が幾つも存在する。安易な分類を拒否する、狭義のアニメーション作家にとどまらないアニメーション作家、それが相原信洋なのだと思う。
 また相原は作家活動だけでなく後進の指導にも熱心に取り組み、京都造形芸術大学で教鞭をとったほか、各地で「地球クラブ」等のアニメーション・ワークショップを開催し、個人によるアニメーション制作の普及にも大きく貢献した。2011年、相原はインドネシアのバリ島を旅行中に急逝した。

上映作品

『STONE』(16mm、8分、1975年)
アニメーションの枠組みを拡張した、日本における個人アニメーションの代表作。石や家屋に描かれる形態は、周囲の自然環境の推移とともに、その姿を刻々と変えてゆく。


『カルマ』(16mm、3分、1977年8月)
水滴の描画から開始される、『妄動』の延長線上にある繊細な抽象アニメーション。


『アンダー・ザ・サン』(16mm、11分、1979年)
草原や牧場に置かれた画用紙のなかで、アニメーションが展開する。『Stone』の延長線上にあると言える作品。


『逢魔が時』(16mm、4分、1985年)
作家特有のサイケデリック・アニメーションの世界が確立されたといえる驚異的な作品。混沌と猥雑さが増殖してゆく。


『映像(かげ)』(16mm、8分、1987年)
現実の手と、その影と、描かれた手のイメージが、激しい明滅のなかで交差する。『STONE』に並ぶ代表作。


『WIND』(16mm、5分、2000年4月)
写真家である鈴鹿芳康によるピンホールカメラの写真から開始され、漆黒の空間の中を、緻密な抽象アニメーションが展開してゆく。


『LOTUS』(16mm、3分、2007年)
鮮やかな色彩のサイケデリック・アニメーション。不定形な細部が、豊穣な全体性を生み出してゆく。

第2部|風景論としてのアニメーション
 1969年8月~11月にかけて、足立正生・松田政男・佐々木守・平岡正明・相倉久人からなる批評戦線は、ピストル連続射殺事件を起こした永山則夫についての映画『略称・連続射殺魔』(1969/1975)を製作する。この作品は永山が各地を流浪しながら見てきた風景を追うものであったが、彼らはその撮影のなかで、様々な場所で風景が均質化されていることを発見する。そして、そのようなどこにでもある風景を、自分を抑圧する権力そのものとして意識したからこそ「永山則夫は、風景を切り裂くために、弾丸を発射したのに違いないのである」*1と考えた。そして松田はそれまでの「情況」に代わって「風景」という言葉を提示して一連の風景論を執筆し、1971年にそれらをまとめた第三評論集『風景の死滅』を出版する。
 この風景論争には足立正生・中平卓馬・原正孝(将人)なども加わり、論者によって異なる水準で論じられた。松田は「風景とは国家権力のテクスト」*2であると見なして、権力と資本主義が結合する現代を予見しつつ、次なる闘争の準備として風景論を展開していた。一方の足立は、そのような風景を突破するために『赤軍―PFLP 世界戦争宣言』(1971)で映画=実践という運動形態に移行し、風景論から報道論へと理論を進め、やがてパレスチナへと越境する。
 相原は当時、このような風景論争との関わりを持たなかったが、1971年に発表された『風景の死滅』(1971)は、制作時期の一致から、松田の著作を意識して名付けられていると考えるべきだろう。では、相原はどのような水準で風景を捉えていたのだろうか。『風景の死滅』における三里塚闘争の風景は、権力論としての風景論に影響を受けながらも、そこに回収できない余剰を含んでいる。特に後半のコマ撮りによる展開は権力論では掴み取れない、意味化されない事物に目を向け、それを運動させることに執着している。風景論争に加わった論者の一人である写真家の中平は、1973年に評論集『なぜ、植物図鑑か』を出版する。そのなかで中平は、1968年より始まったプロヴォークの活動を経て、「世界、事物の擬人化、世界への人間の投影を排除してゆかねばならないであろう」*3として、人間を中心に置いて世界を見ることを否定し、イメージや観念を受け付けない「植物図鑑」の思考に至ったことを記述する。図鑑とは「部分は部分にとどまり、その向こう側には何もない」*4ものであり、「輝くばかりの事物の表層をなぞるだけ」*5のものである。『風景の死滅』における廃屋や工事車両、そして自然の草花の微細な運動もまた、中平が述べるところの「図鑑」に共鳴するものとして存在しているのではないか。
 その後しばらく、相原は内省的なドキュメンタリー・アニメーションに向かう。それは、安保闘争の熱気が冷めてゆく社会に対する、ある種の諦観を反映したものであったかもしれない。このような作家の原体験を遡及する表現は極めて個人映画的、あるいは日記映画的なものであった。そして相原は、1980年代に入って『SHELTER』(1980)と『MY SHELTER』(1981)のなかで、再び風景論としてのアニメーションと呼べる試みに取り組む。この2作品における戦時下の記録音源の使用は、防空壕として使用された洞窟を被写体としながら、現在と過去という時間的な距離を画面内に二重化する。その一方で展開される、コマ撮りによる草花の微細な運動は、そのような人間の歴史性に回収できないものが、眼前の風景の中に存在していることを明示する。そこで発見されたものは、まさに「輝くばかりの事物の表層」だといえる。『リンゴと少女』(1982)における古い納屋へのアニメーション映像の投影も、同様の性質を持つものであろう。恐らく作家にそのような意図はなかっただろうが、これらの作品には、作家の意識を超える形で、現在において風景論を思考するヒントが含まれているように思えてならない。
 相原は国内外にアトリエを持ち、各地を転々としてアニメーションを制作していたことで知られる。そのことを風景論に結びつけるのであれば、それは均質化されない風景を探す旅の一形態だったのかもしれない、そんな空想を書き留めて、この文章を閉じたい。

*1 松田政男『風景の死滅 増補新版』、航思社、2013、p17 ※この引用元を含む文章「密室・風景・権力」は『薔薇と無名者』(芳賀書店、1970)に収録されたもので、『風景の死滅』(田畑書店、1971)には収録されていない。増補新版では改めて追加収録された。
*2 前掲書 p300
*3 中平卓馬『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』、筑摩書房、2007、p20
*4 前掲書p35
*5 前掲書p35

上映作品

『風景の死滅』(8mm、15分、1971年)
成田空港建設に反対する三里塚闘争の現場にて撮影されたドキュメンタリー・アニメーション。日本幻野祭の前後と思われる現場の様子が記録されているほか、接収された土地を整地する工事車両や廃屋などがコマ撮りによって展開する。


『やまかがし』(16mm、5分、1972年3月)
厚木基地の米兵と街の娼婦を、子供の視点から見つめたアニメーション。この時期の相原作品には、作家が幼少期に見てきた社会についてのドキュメンタリー的要素が含まれている。


『逢仙花』(16mm、12分、1973年4月)
作家の祖母の写真に、彼女の一生を辿るようなアニメーションが重なり合い、葬儀の遺影にて作品は終えられる。静謐なドキュメンタリー・アニメーション。


『SHELTER』(16mm、7分、1980年)
作家の実家の側にある、戦時中に防空壕として使われた洞窟。その周辺に生える木々にペイントを施し、コマ撮りを行う。鮮やかな色彩が戦争の記憶に併走しながら、微細に振動する。


『MY SHELTER』(16mm、9分、1981年10月)
前作に続き防空壕として使われた洞窟がモチーフ。草木を接写しながら高速でカットアップし、その形態を抽象化する。作中の最後では、戦時下を生きた老人らの現在の姿が映し出される。