アピチャッポン・ウィーラセタクン「フィーバー・ルーム」@KAAT 神奈川芸術劇場ホール


アピチャッポン・ウィーラセタクン『フィーバー・ルーム』
Apichatpong Weerasethakul “Fever Room”
会期:2017年2月11〜15日
会場:KAAT 神奈川芸術劇場ホール

アピチャッポン・ウィーラセタクンの『フィーバー・ルーム』は、2015年に韓国・光州のAsia Cultural Centerで初演された「映画」である。日本では2017年にTPAM(国際舞台芸術ミーティング)のプログラムの一つとして神奈川芸術劇場ホールで上演された。2019年には東京芸術劇場で再演される予定だという。ふと思い立ったので、2017年に上演を観た後、書きかけのまま置いていたレヴューをアップする。

アピチャッポンのインタビューによると、長編映画製作の資金提供を受ける条件としてパフォーミングアーツ作品を制作するように求められたことが、本作を制作するきっかけだったという。このインタビューの中で、作家は本作が映画であることを強調している。以下に引用する。

「なぜ映画かというと、『フィーバー・ルーム』には映画の哲学が全て盛り込まれているからです。私にとっての映画の哲学とは、光やスペース、スケールであり、映画のエボリューション、映画に対する尊敬なども含みます。」
(「アピチャッポン・ウィーラセタクン―『フィーバー・ルーム』から」http://jfac.jp/culture/features/f-ah-tpam-apichatpong-weerasethakul/

ここでいう「映画」とは、物理的・空間的なものにとどまらず、映画の発展史を指すものであるようだが、このことは「映画」が技法的なものを含めて、さまざまな支持体の混淆的な集合態であるという視点に立てば理解しやすいだろう。そして、歴史的にいうならば、そのような集合態としての「映画」に自己言及的に取り組んだ試みとして参照されるものは、言うまでもなく実験映画(特に構造映画やエクスパンデッド・シネマ)、あるいはビデオアートということになる。アピチャッポンは、シカゴ美術館附属美術大学に留学していた時期に、アメリカの古典的アンダーグラウンド映画に影響を受けたとされ『弾丸』(1994)、『ダイヤル0116643225059を回せ!』(1994)という実験映画を制作している。その影響は彼のフィルモグラフィーの通底音となるものであり、その後のビデオインスタレーション作品にまで繋がっているといえるだろう。アピチャッポンのビデオインスタレーション作品には、複数チャンネルの使用や展示空間を巻き込む演出、そして循環的な構造によって、存在の次元を複数化させる表現を見て取ることができるが、それは彼の長編作品における、脱中心的な複数性を備えた構造とも通底している。これについて考察した論考としては、中村紀彦の「映画という亡霊を掘り起こす」(『アピチャッポン・ウィーラセタクン 光と記憶のアーティスト』フィルムアート社、2016)がある。ここで中村は、その特性を「複数に枝分かれした物語展開の可能性と一時的な物語連鎖を編みだすように観者へと促すシステム」(p54)として明晰に説明する。

このようなアピチャッポンの特性を、観客の身体を巻き込みながら多面的に展開した作品、それが本作『フィーバー・ルーム』であったといえるだろう。以下、作品の構成を簡単に説明する。

1:夢についてのモノローグのシークエンス
まず、観客は座席が並ぶ仮設の空間に案内される。座席についてしばらくすると、観客の前方にあるスクリーンへの映像の投影が開始され、窓から見た屋外の風景、バナナの木、川沿いの公園、眠る中年女性と青年などの映像が映し出される。そこに、中年女性と青年によるモノローグが重なる。このシークエンスは1度目は中年女性の声、2度目は青年の声で、2回繰り返される。しかし、口述の細部は異なる。

2:河川上を航行するボートのシークエンス
上方からもう一つのスクリーンが降りてきて、上下2つのスクリーンによる構成になる。そこで、河川上を移動するボートの上から撮影された映像が、マルチアングルで展開する。ボートの乗客の様子、岸から反射光をボートに向ける人影など。この辺りから、リズムのあるサウンドトラックが流れ出す。

3:打ち寄せる波についてのシークエンス
正面の上下2つのスクリーンに加えて、観客の左右のスクリーンへの映像の投影が開始される。これによって4つのスクリーンによる構成になり、打ち寄せる波の映像が、観客を取り囲みながら展開する。時折、メモ帳を破り紙片を燃やす映像なども挿入される。

4:洞窟についてのシークエンス
4つのスクリーンによる構成のまま、淡々と洞窟の中で採掘を行う覆面の男性の映像が展開する。観客を取り囲む洞窟内の岩のテクスチャー。やがて、左右のスクリーンが上昇してゆき、観客の視界から完全に消え去る。

5:雨についてのシークエンス
観客正面の上下2つのスクリーンによる構成に戻り、雨が降りしきる街の風景が、フィックスの長回しで映し出される。やがて、観客正面の上下2つのスクリーンが上昇してゆき、観客の視界から完全に消え去る。完全な暗闇の中、サウンドトラックの雨の音だけが響き続ける。

6:映画の解体についてのシークエンス1
しばらくして正面の幕が上がり、観客の眼前には無人の劇場客席が現れる。自分たちのいた場所が舞台上の仮設の座席であり、劇場客席に向かい合う形で座っていたということが、初めて分かる。劇場客席には大量のスモークが焚かれており、センター付近には明滅する照明が立てられている。舞台上の座席にもスモークが流れ込んでくる。
そして、劇場客席側に設置されたプロジェクターから、舞台上にいる観客に向けて映像の投影が開始される。スモークに映像が当たるため、プロジェクターのレンズを中心点として円錐状の形態が生み出され、観客を包み込む。投影される映像は、回転する3~4重の同心円であり、円周の一部が欠けているため、舞台上にいる観客からは、回転する送風機の扇のような運動として知覚される。さらに、雨のように落下する無数の光点も合成されており、観客は、自分の視点が高速で移動するような錯覚に陥る(分かりやすい例として、『2001年宇宙の旅』のスター・ゲートのシーンを想像してほしい)。サウンドトラックは雨音が続いている。

7:映画の解体についてのシークエンス2
観客前方のスモークの塊をスクリーンとして、おぼろげな、談笑する人々の映像が投影される。これによって、観客はスクリーンの裏から映画を観ているような位置関係で、スモークに映る映像を観ることになる。サウンドトラックは、抽象化された話し声。

8:映画の解体についてのシークエンス3
緩やかに上下運動する7本の水平ラインが、観客に向けて投影される。それにより、スモークの形状が七つの層として立ち現れ、観客の空間的な認識を撹乱する。それは時として、水平線のようであり、飛行機から見た雲海のようでもある。サウンドトラックはノイジーなドローン。やがて光は収束してゆき、観客正面の幕が降ろされる。サウンドトラックもやがてフェードアウトする。そして、再び完全な暗闇がやってくる。

9:夢についてのシークエンス
観客の右側のスクリーンへの映像の投影が開始される。そして、アイリス・インで視界が開ける。そこは、「4」のシークエンスで登場した洞窟であり、覆面の男性は地面に横たわり熟睡している。ここに青年の声で「最近夢を見なくなった」というモノローグが入る。次に、中年女性の声で「私も最近夢を見なくなった」というモノローグ。そして再び青年の声で、「彼女が夢を見なくなったのは、年齢のせいではない、自分が光を奪ったからだ」とのモノローグ。その後、覆面の男性は目覚めて上半身を起こし、ぼんやりと佇む。そしてスタッフロールへ。

上記の「6」〜「8」のシークエンスにおける、スモークが焚かれた空間内での光の造形による表現は、明らかにアンソニー・マッコールのエクスパンデッド・シネマ作品を参照しているといえるだろう(anthonymccall.com)。このような本作の表現の方向は、映画を拡張しているというよりも、映画を再発明していると形容した方が適当であり、それはケン・ジェイコブスが呼称するところの「パラシネマ」の一形態だといえる。さて、私はこの映画を新鮮なものとして興味深く観た訳であるが、問題はスペクタクルとして観客に提供された触知的な経験が、従来のアピチャッポンの長編作品やビデオインスタレーション作品に見られる特性、すなわち脱中心的な複数性を備えた「システム」に、どのような形で合致しているのかということになるだろう。そこを迂回して本作を評価することはできないだろうと思う。