ホー・ツーニェン『旅館アポリア』@あいちトリエンナーレ2019


ホー・ツーニェン『旅館アポリア』(2019)
Ho Tzu Nyen – Hotel Aporia (2019)
(作品は撮影禁止のため、あいちトリエンナーレ2019公式サイトを参照のこと。http://aichitriennale.jp/artwork/T04.html

ホー・ツーニェンはシンガポール出身の作家であり、現代美術の領域にとどまらず、ロッテルダム国際映画祭を始めとする数々の映画祭にて作品が上映されている。日本国内では、2016年の森美術館+国立新美術館での「サンシャワー」展にて映像作品『2匹または3匹のトラ』(2015)が展示されたほか、2018年の国際舞台芸術ミーティング in 横浜(TPAM)では舞台作品『一頭あるいは数頭のトラ』(2017)が、2019年の同フェスティバルでは舞台作品『神秘のライ・テク』(2018)が上演されている(舞台作品はいずれも未見)。

『旅館アポリア』は、トリエンナーレ豊田市エリアにある旅館 喜楽亭を会場として、四つのパートによって構成された映像インスタレーションである。喜楽亭とは豊田市神明町にあった町家建築の料理旅館であり、廃業後しばらくして現在の場所に移築され一般公開されている(http://www.cul-toyota.or.jp/sisetuda/sanbun_kirakutei.html)。また喜楽亭は、神風特別攻撃隊である草薙隊が沖縄に向かう直前に宿泊した場所でもある。作家はこの旅館にまつわる歴史に着目し、草薙隊隊員の遺書、京都学派と戦争の関係、戦前から戦後にかけての小津安二郎の劇映画、横山隆一のアニメーション映画などの断片を縫合して、日本が帝国であった時代のアポリアを主題とするインスタレーションを提示した。個々のスクリーンにおける映像表現はファウンドフッテージの手法に倣っており、作中では小津の諸作品(特に『生まれてはみたけれど』1932、『父ありき』1942、『秋刀魚の味』1962)と、横山の『フクチャンの潜水艦』(1944)が引用される。小津作品からの引用は、笠智衆を始めとする俳優の顔面が全て消去されており、一部では背景を影で塗り潰すなどの処理も加えられていた。また『フクチャンの潜水艦』からの引用は、キャラクターそれ自体を消去する処理が加えられていた。サウンドトラックには、リサーチの過程における作家とキュレーターの間でのメールによる往復書簡が引用され、複数のナレーターによって読み上げられる。それらの声はバックグラウンドのアンビエントな電子音と一体化し、空間を満たす。さらに家屋に仕掛けられたコンプレッサーのような機械が映像の展開に応じて振動する。それは障子や床に伝わって、家屋自体を震えさせる。

全体的な批評は後回しにして、まずは各パートの概説を行いたい。斜体部分は現場でナレーションを聴きながら要点をまとめたメモであり、実際のナレーションとは一致しませんので、参考程度にとどめてください。テーマ名は筆者が便宜的に付けたものです。


一ノ間「波」(12分)
Room1: The Waves (12 min)
一階手前の八畳間にスクリーンが設置され、映像がループで投影される。ナレーションのテーマは“喜楽亭の歴史”“大島康正メモ(京都学派と海軍の会合メモ)”についてである。このメモは大橋良介『京都学派と日本海軍』(PHP研究所、2001)において翻刻されている。

・喜楽亭の歴史
「日本家屋の図面を送ります。この建物は大正時代に建てられ、料理旅館として使われた。戦前は絹産業の関係者で、戦後は自動車産業で賑わっていた。資料として喜楽亭の女将のインタビューがあった。女将によると、神風特別攻撃隊が泊まったことがある。戦後、遺族は喜楽亭に泊まって弔いをした。この部隊は草薙隊という。[以下、女将のインタビューの読み上げ]19歳で嫁入りした。先代が喜楽亭を建てて数年たった頃だった。お客さんは威勢の良い方だった。威勢の良い方も時代によって変わる。戦時中は海軍さん、戦後はトヨタさん」
・大島康正メモ(京都学派と海軍の会合メモ)
「大島は、『中央公論』(1965年8月号)に掲載された「大東亜戦争と京都学派」のなかで、初めは戦争勃発をいかにして防ぐかがテーマだったが間に合わなかった、世論に訴えようと『中央公論』(1942年1月号)に掲載する座談会「世界史的立場と日本」を行った数日後に、日米の戦争が始まったと述べている。その後、昭和19年秋までのメモは、理性的に陸軍を納得させて戦争を終結させることがテーマとなり、東條内閣を倒すことも話し合われた。昭和19年暮れ~昭和20年のメモは、敗戦が明らかになってきたので戦後問題がテーマとなった。彼らが「戦争を終わらせる」と言うとき、「戦争」はアメリカとの戦争を意味する。そして、アジア支配と大東亜共栄圏は、道徳的リーダーシップによる歴史的必然であると考えていた。彼らが陸軍を批判するのは、東條内閣とつながった陸軍がこの思想を持っていなかったから。次に小津安二郎の日記と、横山隆一による海軍のプロパガンダ映画について調べておきます」

引用される映像は、顔面を消去した小津作品の人物ショットと『フクチャンの潜水艦』の波間の魚群のシーンである。特に後者は、轟々とした波の音とコンプレッサーの振動による家屋の震えを伴いながら、映像の終盤を演出していた。


二ノ間「風」(12分×2)
Room2: The Wind (12 min × 2)
一階奥にある八畳間と六畳間を区切るようにしてスクリーンが設置され、プロジェクターによってスクリーンの表裏に2つの映像がループで投影される。映像Aのナレーションのテーマは“草薙隊”についてであり、映像Bのナレーションのテーマは“蒙古襲来と神風”“神風号”“同期の桜”についてである。

映像A
・草薙隊
「喜楽亭の女将のインタビューから、隊員が泊まったという部分の英訳を送ります。[以下、女将のインタビューの読み上げ]戦争が終わってから草薙隊の親御さんが来て、「同期の桜」を歌っておられて寂しさを感じた」
「『祖父たちの告白 太平洋戦争70年目の真実』(中日新聞社、2012年)という本から、草薙隊哀史の一部を英訳して送ります。神風特別攻撃隊草薙隊は全国から集められた。熱田神宮に祀られた三種の神器、草薙剣が由来。部隊は鹿児島を経て沖縄に向かった[以下、隊員から父母に送られた遺書が読み上げられる。省略する]」

映像B
・蒙古襲来と神風
「蒙古襲来における暴風雨。この暴風雨は神風と呼ばれた。この記述は1943年に教科書に登場する。戦後になっても神風の記述は何故か教科書に残った」
・神風号
「1937年に朝日新聞社が東京~ロンドンの連絡飛行を企画した。そこで使用されたのが神風号だった。操縦士は飯沼正明。1941年に真珠湾攻撃のニュースを知り、その直後事故死した」
・同期の桜
「[「同期の桜」の歌詞が読み上げられる。省略する]」

映像Aに引用されるのは、集合写真を始めとする草薙隊の写真と、顔面を消去した小津作品の人物ショットなどである。『父ありき』の息子が号泣するショットは目立つ形で引用されており、戦時中の若者の表象として隊員らと結び付けられる。それに加えて小津の映像表現の代名詞である無人ショットから、風に関わるショットが複数引用されていた。映像Bに引用されるのは、蒙古襲来絵詞、神風号の写真、顔面を消去した小津作品の人物ショットなどである。『父ありき』の謝恩会のシークエンスは「同期の桜」の読み上げに重ねる形で引用されていた(ただし、『父ありき』本編の当該シーンでは「同期の桜」は歌われていない)。また映像Aと同じく草薙隊に関わる写真と、風に関わるショットが複数引用されていた。二つの間は繋がっているため、それぞれのナレーションが混ざり合う。さらにバックグラウンドでは「同期の桜」の合唱もコラージュされており、混沌としたサウンドスケープが形成されていた。


三ノ間「虚無」(12分×2)
Room3: The Void (12 min × 2)
一階から二階へ上がり、暗闇の中で細い廊下を進むと、障子の貼られていない格子戸に仕切られた八畳間にたどり着く。室内に入ることはできず、四人並べば満員となるような細い廊下に腰を下ろして作品を観る形をとる。この日本間には、スクリーンではなく巨大な送風機が設置されている。この送風機の下方には板が立てられ、プロジェクターによって映像(ナレーションの字幕のみ)がループで投影される。映像A+映像Bのナレーションのテーマは“京都学派の思想”についてである。

映像A+映像B
・京都学派の思想
「あるフランスの詩人が、日本人の詩はすぐ無に飛び込むという。日本人は、主体的責任の前に無我に至ってしまう」
「無の象徴としての天皇。無による統一」
「目に見える無としての空(そら)=空(くう)」
「芭蕉における風雅。無住の実存」

観客は、送風機の発する轟々とした音と物理的な風に晒されながらナレーションを聴取することになる。送風機は、戦闘機のプロペラを容易に連想させる。また物理的な風は、身体で感じ取れるものでありながら「無」を象徴する。照明や回転数の変化は計算されたものであり、異様な空間がそこには形成されていた。


四ノ間「子どもたち」(12分×2)
Room4: The Children (12 min × 2)
二階奥の、3つの八畳間を繋げた大きな空間に透過した2枚のスクリーンが設置され、プロジェクターによって各スクリーンに2つの映像がループで投影される。映像Aのテーマは“小津安二郎と戦争”についてであり、映像Bのテーマは“横山隆一と戦争”についてである。

映像A
・小津安二郎と戦争
「映画監督の小津安二郎は戦時中シンガポールに赴き、運動家チャンドラ・ボースの映画を作ろうとした。小津はシンガポールで押収されたアメリカ映画を観た。小津の映画には戦争の傷跡がみられる」
「1932年の『生まれてはみたけれど』にも戦争の影響はみられる。この映画に出てくる小さな兄弟は父親の弱さを感じ取り、彼らは大きくなったら軍人になりたいと答える。10年後、日本は戦争に突入する」
「小津の墓に“無”という文字が刻まれている」

映像B
・横山隆一と戦争
「150名もの文化人が陸軍によるアジアでの文化政策に関わった。そのなかには京都学派の三木清がいた。三木の概念は大東亜共栄圏の思想に取って代わられる。三木はフィリピンに赴いた。戦後まもなくして三木は獄死した」
「横山は「フクチャン」で有名。横山は1942年に陸軍報道班としてインドネシアのジャワ島に赴いた。1944年には海軍のプロパガンダである『フクチャンの潜水艦』が作られた。小津のシンガポールでのことについて、もっと調べておきます」
「陸軍中佐の町田敬二が、横山隆一『ジャカルタ記』(東栄社、1944)の序文を書いている。この作品は横山隆一記念まんが館には展示されていない。[以下、桜本富雄『戦争とマンガ』(創土社、2000)における横山へのインタビューの読み上げ。戦時下の国策への協力と、その行動を肯定する発言。同一内容の発言は次のウェブサイトにて読める。http://www.sakuramo.to/kuuseki/132_7.html

映像Aに引用されるのは、やはり顔面を消去した小津作品の人物ショットなどである。特に『生まれてはみたけれど』に登場する幼い弟が、父親に将来何になりたいかと問われて「中将になりたい」と答え、画面内に一瞬だけフクチャンが合成されるシークエンスでは、映像Bとタイミングを一致させる形で、二つのスクリーンを立体的に結びつける演出が行われていた。また『秋刀魚の味』作中における、トリスバーで海軍の元艦長(笠智衆)と元乗組員(加東大介)が軍艦マーチを聴きながら語り合うシークエンスも、目立つ形で引用されていた。そして終盤では、墓地の無人ショットの引用に、小津の墓(「無」の一文字のみが刻まれている)を撮影した映像が繋ぎ合わされた。映像Bに引用されるのは、『フクチャンの潜水艦』の冒頭付近、厨房での調理、海戦のシークエンスなどである。特に海戦において敵艦を轟沈させるシーンは、横山のインタビューと重なり合いながら映像の終盤を演出していた。


冒頭で述べた通り、本作は日本が帝国であった時代のアポリアを主題とするインスタレーションであるといえるが、リサーチによって収集された歴史の断片を再構成することで、どのような歴史的イメージが表現されていたのかを考えてみたい。まずは京都学派の思想が、当時の東亜協同体論のイデオロギーを理論化する形で展開されたこと、さらに京都学派の哲学者らが海軍との秘密会合によって直接的に戦争に関係していたことが、一ノ間と三ノ間にて取り上げられていた。これらの断片が示すものは、「思想としての戦争」という文脈である。世界史的な視座から西洋と東洋(日本を指導的立場に置く東亜共同体)を対置し、主体的無の立場に基づく身体と心の否定によって西洋的近代精神を超克するという構図は、京都学派の西谷啓治・高坂正顕・高山岩男・鈴木成高よる座談会『世界史的立場と日本』(中央公論社、1943)や、西谷・鈴木のほか様々な分野の論者が参加した座談会『近代の超克』(創元社、1943)などで論じられているが、それはこの作品の通底音となっている。そしてこの文脈に、二ノ間の神風特別攻撃隊のエピソードと、四ノ間の『フクチャンの潜水艦』および横山の戦争協力のエピソードは接続される。

その一方で顔を消された小津作品の家族たちは、果たして「思想としての戦争」という文脈に接続できるのだろうか。これら家族の肖像は本作の基調を成すものであり、それは戦時下を生きた無名の家族たちの表象となっている――このように意味付けて接続してみることは可能かもしれない。しかしこのような歴史的イメージが備えている分かり易さは、小津の中国での極限的な戦争経験ではなく、果たされなかったシンガポールでの映画製作にクロースアップすることによって成立している。小津が戦後になって描き出した家族の物語に潜在する屈折は、もっと深い痛みを伴っているように思えてならない。

小津は盧溝橋事件が起こった直後の1937年9月から1939年7月まで、映画監督ではなく兵士として中国に出征して日中戦争を戦った。田中眞澄の著書(『小津安二郎周遊』文芸春秋、2003|『小津安二郎と戦争』みすず書房、2005)によると、小津が配属された部隊は上海派遣軍直属の野戦瓦斯第二中隊(甲)であったとされる。そして小津は、毒ガスを大規模に使用した作戦として知られる、1939年3月20日の修水河渡河戦に参加する。田中によると作戦で使用されたのは、くしゃみ性・嘔吐性ガスの「あか」であり、「あか筒」15000個「あか弾」3000個という膨大な物量が一連の作戦で消費された。この日の出来事の推移は、小津が戦地で付けていた日記に記されている通りである。また、小津の帰還後の発言にも、彼が戦線で見てきたものの過酷さを窺わせる箇所が多数ある(「小津安二郎戦場談」『都新聞』1939年9月4日など)。このような戦争経験は中国から帰還して以降の小津作品に少なからず影響を与えている。小津は戦争映画を作ることはなかったが、與那覇潤が著書の一覧(『帝国の残影 兵士・小津安二郎の昭和史』NTT出版、2011、pp.26-27)でまとめた通り、『戸田家の兄妹』(1941)から『秋刀魚の味』に至るまでのほぼ全ての作品に戦争や植民地への言及が認められるのである。この視点をもって1950年代中頃までの小津の家族映画を観るならば、それは無名の家族たちの平穏な日々を描いたものではなく、戦争を遠因としながら家族という共同体が解かれてゆく過程を描いたものとして読み解くことができる(その最たるものが『東京暮色』1957である)。本作が小津の日中戦争での経験をほぼ迂回し、無名の家族たちの表象として小津作品を引用しておきながら、四ノ間の片側の終盤において小津の墓に刻まれた“無”の文字に注目したこと――それは短絡であったと思う。

そのような短絡を抱えてはいるが、総体的に見るならば、歴史の断片を縫合して表現された戦時下の歴史的イメージは一つのスペクタクルとして、観客の情動に強く作用するものになっていた。このスペクタクルは、多数の映像と音声を喜楽亭の空間内に配置することで成立している。それは一つ一つの映像と音声をモジュールとして扱うものであり、物理的な風圧や振動と喜楽亭の歴史性はモジュールの基盤となっていた。特に物理的な風圧や振動は、過剰なほどに情動への作用を強化する。このスペクタクルは「情」というトリエンナーレのテーマとも強く共鳴するものであり、本作への評価は、その作用をどのような立脚点において経験するかにかかっている。内在的に作品を経験した場合と外在的に作品を経験した場合で、その評価は反転するだろう。