田中功起『抽象・家族』@あいちトリエンナーレ2019





田中功起『抽象・家族』(2019)
Tanaka Koki – Abstracted / Family (2019)

田中功起は、物と物の関係性を捉えた初期の作品を経て、2010年ごろから複数の人間の共働的な関係を捉えた作品に取り組むようになり、その方向性を共同体的なものに拡大させながら継続している作家である。近年の活動としては、2013年の第55回ヴェネチア・ビエンナーレ日本館で展示された「抽象的に話すこと 不確かなものの共有とコレクティブ・アクト」、2016年に水戸芸術館で開催された展覧会「共にいることの可能性、その試み」、2018年にミグロ現代美術館で展示された「Vulnerable Histories (A Road Movie)」などがある。

本作の展示空間は愛知県美術館のなかでも最大の面積を占めており、用いられたメディウムはキャプションによると「映像、絵画、写真、ラジオ、アーティスト・ノート、エンド・クレジット、テーブル、椅子、その他」となっている。これらが指すものは以下の通り。

・映像:3点([ビデオ1 展示室奥の区画、プロジェクターによる展示]28分|[ビデオ2 仮設壁の区画、モニターによる展示]33分|[ビデオ3 入り口左の区画、プロジェクターによる展示]47分)
・絵画(布にペイント):1点(入り口正面)、8点1組(入り口右の壁面)、1点(仮設壁に掛ける)、9点1組(展示室奥の壁面高所)、2点1組(上映ブース1の入り口)、1点(展示ケース内)
・絵画(紙にペイント?):2点1組(仮設壁に掲出)
・写真:街並み1点(入り口横)、家族の記念写真 4点1組(展示室奥の壁面)、無人のテーブルと椅子 1点(展示室奥の壁面)、地面に掘られた穴 1点(仮設壁)、抽象画の部分 2点(仮設壁および上映ブース3の壁面)、抽象画制作中のスタジオ 1点(入り口右の壁面)
・ラジオ:Soundcloudで配信されている蔵屋美香と田中による擬似ラジオ「補遺 – 社会と抽象ラジオ」http://soundcloud.com/koki-tanaka
・アーティスト・ノート:田中によるテクスト5点「アーティスト・ノート:抽象・家族」「ルーツ」「家族1」「家族2」「社会関与的抽象絵画」
・エンド・クレジット:スタッフクレジット2点1組
・テーブル、椅子、その他(映像内で使用された物品):テーブル、椅子、ビニールホース、ショベル、ボウル、刷毛、プラスチックケース

展示空間内には、これらのメディウムが中心を欠いた状態で分散的に配置される。その入り組んだ構成は、作品の構成要素が散乱したような状況にあり、観客の回遊行動に応じて作品読解のランダムアクセスを高めるものとなっていた。このような手法はこの作家の特徴といえるものであるが、愛知県美術館の広大かつ天井の高い空間は、その空間的な一体感によってミクロな観点とマクロな観点を共存させる機能を果たしており、その点では大変面白かった。

さて、本作のコンセプトは、出演者らに共同生活を送ってもらい、その擬似的な家族関係において非常に個人的な内容の対話を行ってもらう。加えて、共働作業として抽象絵画の共同制作なども行ってもらうというものである。映像に登場する4人の出演者は、両親のどちらかが日本以外にルーツを持ち、かつ日本国内で生活する人々である。

まず、本作における共働作業、そのなかでも重要な位置付けにある抽象絵画の共同制作について述べたい。水戸芸術館での『一時的なスタディ:ワークショップ#4 共にいることの可能性、その配置』(2015-2016)でも朗読・料理・陶芸といった共働作業が行われていたが、本作ではそれが抽象絵画の共同制作に置き換えられている。展示で掲出されたテクスト「社会関与的抽象絵画」には、「抽象絵画は、色と形を認識しうる視覚機能を備えた、ある意味では普遍的な人間像を観客として想定する。それは時代や地域、人種も超える。抽象絵画は、その意味では、平等という思想を前提にしている」という記述がある。このテクストを補強する役割を担うのが、蔵谷と田中による擬似ラジオで、その歴史編では、抽象絵画の歴史が社会的な観点から語られてゆく。そのなかでリー・クラズナー、ヒルマ・アフ・クリント、ゾフィー・トイバー=アルプという、抽象絵画の歴史において抑圧されてきた女性作家の存在が言及されることは、あいちトリエンナーレの出品作家の男女比に関わるアファーマティブ・アクションを意識したものだといえる。そして現代編では、エテル・アドナン、中村一美、ヴィヴィアン・ズーター、ローラ・オーウェンスが取り上げられる。この擬似ラジオの内容は美術トークとしては面白いものであり、絵画的な抽象性を共同体の概念に結びつけるというアイデアにも一定の説得力があったといえるだろう。しかし、空間の壁に吊り下げられた多数の抽象絵画を眼の前にすると、それらが結果的に、協働作業の物的な痕跡のレベルにとどまっていたという点で、若干の疑問を覚えた。

次に、本作の要となる3点の映像について述べたい。映像編集は、過去作品と比較して時系列の入り組んだものになっており、この作家が映画的な表現を明確に意図していると思える箇所も複数あった。各映像の概要は以下の通り。現場で取ったメモを元にしているので、かなり大雑把なものです。

ビデオ1:共同生活を送る民家のリビングにて、2人が記憶について語らう。抽象絵画を共同制作する。4人が舞台上のテーブルに着席して、最初の記憶のことを語らう。4人がリビングのテーブルに着席して食事をとりながら震災や家族の記憶を語らう。

ビデオ2:舞台上のテーブルに着席した4人とモデレーター(社会学者)が、席を変えながら記憶について語らう。田中も会話に介入し、それぞれの家庭のルーツについて語らう。ここに共同制作や庭作業の様子がインサートされる。

ビデオ3:リビングにて語り合う2人。次いで舞台上のテーブルに着席した4人による会話の続き。在日コリアンとしての記憶について。共同制作の様子がインサートされる。キッチンにて2人がコーヒーを飲みながら「普通」について語らう。リビングにて3人が語らう。4人でピクニックに出かけ、河原に寝そべりながら語らう。舞台上のテーブルに着席した4人+モデレーターが親について語らう。無人の舞台上のテーブル、ピクニックの様子のショット。ここでスタッフクレジットが表示される。玄関に並んだ4人の靴、廊下にあるピアノを弾くショット。リビングのテーブルに着席した4人に田中が加わって、カメラ位置の変更を指示する。それによって、画面にスタッフが映り込むポジションになる。舞台上のテーブルで3人+モデレーター+田中が、田中の記憶(吃音症)について語らう。そのままリビングでの4人と田中の会話に戻る。自分は誰かの語りを借りて語っているという発言。「近い将来、死の可能性があったらどうしますか」という主旨の田中の質問カードで、参加者の1人が答えに詰まって映像は終わる。

本作は展示で掲出されたテクストにあるように、「家族」の概念を拡張的に捉え、見知らぬ他人との共同体的な関係性の構築を、抽象化されたモデルとして示すものであったといえる。その制作背景に、震災・原発事故以降の歯車の狂った日本社会や、ヘイトスピーチや様々な差別の問題があることは自明であろう。私はかつて『一時的なスタディ:ワークショップ#4 共にいることの可能性、その配置』についてのレビューの中で、「それらは震災・原発事故を直接語ることを迂回しながらも、抽象化された社会を映像作品のなかで表わす」「社会運動の只中にある映像の交換の早さに対して、映画や現代美術における映像の交換は遅すぎる。しかし遅いが故に、映画や現代美術が、映像によって社会を抽象化されたモデルとして示すという役割を担っていることも、また可能性のひとつである」と述べた(http://artscape.jp/focus/10121137_1635.html)。そのレヴューは本作にも当てはまっていると思う。この作家の評価すべき点は、政治的・社会的なものに対して非政治的・非社会的な態度に陥ることなく、徹底した「遅さ」を示すところにこそある。

しかし、だからこそ今回のあいちトリエンナーレにおいて、田中が「表現の不自由展・その後」の展示中止に抗議して出されたステートメント「表現の自由を守る」(http://www.art-it.asia/uncategorized/202352)に名を連ね、9月3日より展示の「再設定」を実施したことは、とても意義深いことだったと思う。社会的な出来事に対するレスポンスの「早さ」と「遅さ」を一人の作家が両義的に示すことは、このような形で可能なのだ。作家が社会的な出来事に抗議してボイコットやデモを行う「早さ」は、ある作品が持つ徹底した「遅さ」と対立するものではない。その後、10月8日の「表現の不自由展・その後」の展示再開と同時に、本作の展示も再開された。