告知「風景/映画再考 Vol.5 相原信洋――風景論としてのアニメーション」

映像作家の佐々木友輔氏による企画「風景/映画再考」の第5回として、鳥取大学にて「相原信洋――風景論としてのアニメーション」の上映会を行います。今年3月に発見された、相原信洋の幻の初期8mm作品である『風景の死滅』の上映を軸として、ドキュメンタリーや風景論映画につながる、相原のもう一つの側面に光をあてるプログラムとなっています。以下、公式の告知と、当日配布予定のハンドアウトを転載しておきます。当日は、沖縄戦を主題とした『TRAILer』(2016)などの制作を通して風景論映画の再考に取り組んでいる佐々木氏と、相原作品における風景の問題についてお話ししたいと思っています。よろしくお願いします。

風景/映画再考Vol.5
相原信洋――風景論としてのアニメーション

日時|2018年11月4日(日)17:00-20:00
講師|阪本裕文(映像研究者)
場所|鳥取大学コミュニティ・デザイン・ラボ(※鳥取大学鳥取キャンパス広報センター内)
入場料|無料
企画|佐々木友輔
平成30年度 鳥取大学地域学部長経費事業
http://qspds996.com/landscapefilm/?p=177

風景/映画再考の第5弾は、映像研究者の阪本裕文氏を講師にお迎えして、日本を代表する個人アニメーション作家・相原信洋氏(1944-2011年)の上映会および講座をおこないます。

第1部では、代表作の上映を軸に相原氏のフィルモグラフィーを辿るとともに、NPO法人戦後映像芸術アーカイブによる、相原作品のデジタル復元やアーカイブ化への取り組みについて紹介していただきます。

第2部では、今年3月に発見された幻の初期作品『風景の死滅』(1971年)の上映を軸に、アニメーション制作を通じて政治や社会の問題に切り込むドキュメンタリー作家・風景論映画作家としての相原氏の側面に迫ります。


相原信洋――風景論としてのアニメーション
阪本裕文

第1部|Animated Psychedelia
 相原信洋は1944年、神奈川県生まれの個人アニメーション作家である。デザイン学校で学んだのち、スタジオゼロやオープロダクションに所属し、商業アニメのアニメーターとしての仕事に取り組んだ。その一方で、相原は1965年より個人としてのアニメーション制作も開始し、『あめ』(1965)を実質的な第一作として、数々の個人作品を制作した。1960年代後半とは草月アートセンターの活動によって日本の実験映画・個人映画・個人アニメーションが拡大していった時期にあたるが、相原の創作活動も、このような運動によって動機付けられていたといえる。
 続いての作品である『STOP』(1970)、『サクラ』(1970)、『風景の死滅』(1971)、『相模原補給廠』(1972|未発見)が制作された頃とは、安保闘争以後間もない時期にあたり、相原の作品にも、当時の政治状況が反映されている。それはアニメーションに留まらない、ある種の社会的なドキュメンタリー性を備えるものだった。そして『やまかがし』(1972)の頃からは、自身の原体験に関わる内省的な方向に向かい『みつばちの季節は去って』(1972)、『うるし』(1973)、『逢仙花』(1973)、『初春狐色』(1973)などの、個人の原体験を遡及する、内省的なドキュメンタリー・アニメーションが生み出される。
 こういった試みを経て、相原は転換作である抽象的なドローイング・アニメーション作品『妄動』(1974)に至る。その表現は、作家の無意識の表出としての抽象的な形態が、まるで有機体のように蠢いてゆくというものだった。同作以降、この抽象的なアニメーションの方向は、相原にとって主題の一つとなり、『雲の糸』(1976)、『カルマ』(1977)、『水輪 カルマ2』(1980)を経て、晩年の『ZAP CAT』(2008)に至るまでの作品に引き継がれてゆく。
 そしてもう一つ、相原は『STONE No.1』(1975)を経て作られた『STONE』(1975)において、フレームの枠組みを超えてフレーム外部の現実空間を巻き込んだ、広がりのある運動性の表現にも取り組むようにもなる。こちらの主題に連なる作品としては、『光』(1978)、『アンダー・ザ・サン』(1979)、そして『映像(かげ)』(1987)を挙げることができる。
 しかし正直を言えば、このような私の安易な分類も、実は大して意味を持たない。相原のフィルモグラフィーには、実験的なドキュメンタリーと呼ぶしかない『SHELTER』(1980)および『MY SHELTER』(1981)や、古い納屋の壁や屋根に映写機からアニメーション映像を投影する『リンゴと少女』(1982)、女性のヌードと夕暮れの野原が多重露光される『とんぼ』(1988)など、異質性を持った作品が幾つも存在する。安易な分類を拒否する、狭義のアニメーション作家にとどまらないアニメーション作家、それが相原信洋なのだと思う。
 また相原は作家活動だけでなく後進の指導にも熱心に取り組み、京都造形芸術大学で教鞭をとったほか、各地で「地球クラブ」等のアニメーション・ワークショップを開催し、個人によるアニメーション制作の普及にも大きく貢献した。2011年、相原はインドネシアのバリ島を旅行中に急逝した。

上映作品

『STONE』(16mm、8分、1975年)
アニメーションの枠組みを拡張した、日本における個人アニメーションの代表作。石や家屋に描かれる形態は、周囲の自然環境の推移とともに、その姿を刻々と変えてゆく。


『カルマ』(16mm、3分、1977年8月)
水滴の描画から開始される、『妄動』の延長線上にある繊細な抽象アニメーション。


『アンダー・ザ・サン』(16mm、11分、1979年)
草原や牧場に置かれた画用紙のなかで、アニメーションが展開する。『Stone』の延長線上にあると言える作品。


『逢魔が時』(16mm、4分、1985年)
作家特有のサイケデリック・アニメーションの世界が確立されたといえる驚異的な作品。混沌と猥雑さが増殖してゆく。


『映像(かげ)』(16mm、8分、1987年)
現実の手と、その影と、描かれた手のイメージが、激しい明滅のなかで交差する。『STONE』に並ぶ代表作。


『WIND』(16mm、5分、2000年4月)
写真家である鈴鹿芳康によるピンホールカメラの写真から開始され、漆黒の空間の中を、緻密な抽象アニメーションが展開してゆく。


『LOTUS』(16mm、3分、2007年)
鮮やかな色彩のサイケデリック・アニメーション。不定形な細部が、豊穣な全体性を生み出してゆく。

第2部|風景論としてのアニメーション
 1969年8月~11月にかけて、足立正生・松田政男・佐々木守・平岡正明・相倉久人からなる批評戦線は、ピストル連続射殺事件を起こした永山則夫についての映画『略称・連続射殺魔』(1969/1975)を製作する。この作品は永山が各地を流浪しながら見てきた風景を追うものであったが、彼らはその撮影のなかで、様々な場所で風景が均質化されていることを発見する。そして、そのようなどこにでもある風景を、自分を抑圧する権力そのものとして意識したからこそ「永山則夫は、風景を切り裂くために、弾丸を発射したのに違いないのである」*1と考えた。そして松田はそれまでの「情況」に代わって「風景」という言葉を提示して一連の風景論を執筆し、1971年にそれらをまとめた第三評論集『風景の死滅』を出版する。
 この風景論争には足立正生・中平卓馬・原正孝(将人)なども加わり、論者によって異なる水準で論じられた。松田は「風景とは国家権力のテクスト」*2であると見なして、権力と資本主義が結合する現代を予見しつつ、次なる闘争の準備として風景論を展開していた。一方の足立は、そのような風景を突破するために『赤軍―PFLP 世界戦争宣言』(1971)で映画=実践という運動形態に移行し、風景論から報道論へと理論を進め、やがてパレスチナへと越境する。
 相原は当時、このような風景論争との関わりを持たなかったが、1971年に発表された『風景の死滅』(1971)は、制作時期の一致から、松田の著作を意識して名付けられていると考えるべきだろう。では、相原はどのような水準で風景を捉えていたのだろうか。『風景の死滅』における三里塚闘争の風景は、権力論としての風景論に影響を受けながらも、そこに回収できない余剰を含んでいる。特に後半のコマ撮りによる展開は権力論では掴み取れない、意味化されない事物に目を向け、それを運動させることに執着している。風景論争に加わった論者の一人である写真家の中平は、1973年に評論集『なぜ、植物図鑑か』を出版する。そのなかで中平は、1968年より始まったプロヴォークの活動を経て、「世界、事物の擬人化、世界への人間の投影を排除してゆかねばならないであろう」*3として、人間を中心に置いて世界を見ることを否定し、イメージや観念を受け付けない「植物図鑑」の思考に至ったことを記述する。図鑑とは「部分は部分にとどまり、その向こう側には何もない」*4ものであり、「輝くばかりの事物の表層をなぞるだけ」*5のものである。『風景の死滅』における廃屋や工事車両、そして自然の草花の微細な運動もまた、中平が述べるところの「図鑑」に共鳴するものとして存在しているのではないか。
 その後しばらく、相原は内省的なドキュメンタリー・アニメーションに向かう。それは、安保闘争の熱気が冷めてゆく社会に対する、ある種の諦観を反映したものであったかもしれない。このような作家の原体験を遡及する表現は極めて個人映画的、あるいは日記映画的なものであった。そして相原は、1980年代に入って『SHELTER』(1980)と『MY SHELTER』(1981)のなかで、再び風景論としてのアニメーションと呼べる試みに取り組む。この2作品における戦時下の記録音源の使用は、防空壕として使用された洞窟を被写体としながら、現在と過去という時間的な距離を画面内に二重化する。その一方で展開される、コマ撮りによる草花の微細な運動は、そのような人間の歴史性に回収できないものが、眼前の風景の中に存在していることを明示する。そこで発見されたものは、まさに「輝くばかりの事物の表層」だといえる。『リンゴと少女』(1982)における古い納屋へのアニメーション映像の投影も、同様の性質を持つものであろう。恐らく作家にそのような意図はなかっただろうが、これらの作品には、作家の意識を超える形で、現在において風景論を思考するヒントが含まれているように思えてならない。
 相原は国内外にアトリエを持ち、各地を転々としてアニメーションを制作していたことで知られる。そのことを風景論に結びつけるのであれば、それは均質化されない風景を探す旅の一形態だったのかもしれない、そんな空想を書き留めて、この文章を閉じたい。

*1 松田政男『風景の死滅 増補新版』、航思社、2013、p17 ※この引用元を含む文章「密室・風景・権力」は『薔薇と無名者』(芳賀書店、1970)に収録されたもので、『風景の死滅』(田畑書店、1971)には収録されていない。増補新版では改めて追加収録された。
*2 前掲書 p300
*3 中平卓馬『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』、筑摩書房、2007、p20
*4 前掲書p35
*5 前掲書p35

上映作品

『風景の死滅』(8mm、15分、1971年)
成田空港建設に反対する三里塚闘争の現場にて撮影されたドキュメンタリー・アニメーション。日本幻野祭の前後と思われる現場の様子が記録されているほか、接収された土地を整地する工事車両や廃屋などがコマ撮りによって展開する。


『やまかがし』(16mm、5分、1972年3月)
厚木基地の米兵と街の娼婦を、子供の視点から見つめたアニメーション。この時期の相原作品には、作家が幼少期に見てきた社会についてのドキュメンタリー的要素が含まれている。


『逢仙花』(16mm、12分、1973年4月)
作家の祖母の写真に、彼女の一生を辿るようなアニメーションが重なり合い、葬儀の遺影にて作品は終えられる。静謐なドキュメンタリー・アニメーション。


『SHELTER』(16mm、7分、1980年)
作家の実家の側にある、戦時中に防空壕として使われた洞窟。その周辺に生える木々にペイントを施し、コマ撮りを行う。鮮やかな色彩が戦争の記憶に併走しながら、微細に振動する。


『MY SHELTER』(16mm、9分、1981年10月)
前作に続き防空壕として使われた洞窟がモチーフ。草木を接写しながら高速でカットアップし、その形態を抽象化する。作中の最後では、戦時下を生きた老人らの現在の姿が映し出される。

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第10回恵比寿映像祭「岡部道男特集 アンダーグラウンドとキャンプ」+「岡部道男特集 クレイジーラブ」@東京都写真美術館

1960年代末のアンダーグラウンド映画、すなわち実験映画・個人映画の運動を現在から振り返るならば、そこにはいくつかの運動拠点があった。大きく分けて、それは「1:『季刊フィルム』=草月アートセンター」「2:『映画評論』=フィルムメーカーズコーポ+日本アンダーグラウンドセンター」「3:『(第二次)映画批評』=鈴木清順問題共闘会議~批評戦線」の三つである。岡部道男は、金坂健二・おおえまさのりなどと共に、フィルムメーカーズコーポを拠点として活動していた個人映画作家(彼には、この呼び名が最も相応しい)であり、スーザン・ソンタグの「キャンプ」の思想を実体化したような作品を制作した。キャンプ的な表現とは同性愛的なモチーフを取ることもあるが、それだけに限らない。キャンプとはシリアスな態度から逸脱し、文化的に低級な存在として扱われてきた誇張された物や、わざとらしい紛い物を、それ自体として楽しむ態度であるが、それは文化的な階級付けにおいて貶められた物に依拠して世界を読み直すことでもあっただろう。恵比寿映像祭に先立つ「エクスパンデッド・シネマ再考」のシンポジウムにおいてブランデン・ジョセフは、1967年の『Index』出版の前後に主題を変化させて、LGBTや麻薬中毒者などの少数者を取り上げるに至ったアンディ・ウォーホルの仕事の重要性を指摘していたが、ここで取り上げる岡部の仕事もそれに相当する。
岡部のフィルモグラフイーは、『天地創造説』(1967)、『クレイジーラブ』(1968)、『貴夜夢富』(1970)、『歳時記』(1973)、『少年嗜好』(1973)、『回想録』(1980)の六作品であり、数は多くないが、いずれも同時代的な空気を映画に取り込み表現した、重要な作品ばかりである。


岡部道男『天地創造説』(1967, 16mm, 26min)
ケネス・アンガーの『スコルピオ・ライジング』(1963)に衝撃を受けた岡部が、一気にシナリオを書き上げて制作した最初の映画である。当時の岡部の言説には、映画の個人所有化・プライベート化を突き詰める考えが言明されている。岡部は最初から、商業映画の代用品ではない個人映画への自覚を持っていたというべきだろう。聖書のエピソードを下敷きにしながら、当時の風俗や大衆文化の断片、猥雑なイメージをごった煮のように取り込んでアンダーグラウンドな映画としてまとめ上げた怪作である。
この時期の草月アートセンターは、草月実験映画祭(1967年11月)にて作品の一般公募を行い、それまでの観客層が個人映画の作家に転じる流れを作ろうとしていた。本作はその流れを象徴する作品でもあり、草月実験映画祭で奨励賞を獲得した。
モノクロ。サウンドは非同録で、事後的にロックや歌謡曲などのサウンドトラックが追加されている。

作中のシークエンスは四章に分けられており、以下の順番で進行する。
1:創造前夜
・河原にて、アメリカ国旗に包まれた棺桶からよみがえる丹下左膳。十字架を背負うキリスト。疾走するバイクから男が降りて、富士山を睨み付ける
・女の後ろ姿。手相占い。シャドーボクシングを行う男
・袋を抱えた男が、路上に袋を放置する。中から男が出てくる
・袋を抱えた男が、映画館に袋を放置する。また中から男が出てきて、スクリーンの前に立つ。そして消える

2:アダムはその時ひとりだった栄光
・公園をさまよう男。公衆便所の卑猥な落書きを、マッチで火を灯して見る。自らも落書きをする
・部屋で上半身裸になる男
・男が街頭で何かを配る
・男が滝で瞑想する

3:その時君は
・海岸を歩く男が女と出逢う
・白画面に、女の喘ぎ声がボイスオーバーで重なる
・浴衣姿の男と女。一緒に入浴する
・子ども(人形)が生まれる
・アダムとイブの絵。男が楽園を追われる

4:カインは生き返った
・空手家の男。ギターを弾く男。鞭を振るう男。お面売りの男
・バイクに跨る男。『スコルピオ・ライジング』のパロディ
・公衆便所の落書きに欲情する男が、何者かに拳銃で撃たれる
・男が瀕死の状態で街をさまよう
・銀座の街頭に置かれた岡部道男本人を模した銅像に、「君が好きなんだ、いいだろう?」という声がボイスオーバーで重ねられる。歌謡曲が流れ出す


岡部道男『クレイジーラブ』(1968, 16mm, 93min)
同時代の映像作家や評論家を俳優として出演させ、壮大な紛い物としてのキャンプ的世界を構築した大長編。キャストを列記すると次の通り。

ミシエル:岡部道男
パトリシア:青山マミ
さおだけやさん:末永蒼生
その妻:兵頭桂子
おかまのたむちゃん:牟田博邦
「男性・女性」:宮井陸郎
東京ガスの人:ガリバー
ワンツウスリー:川尾俊昭
仲よしのプロレスラー:ナシ、リョウ
イザベル:ヒゲダルマ
壷坂霊験記:アリババ、ケン
やられる男:森真一
モスクワ芸術座の人たち:オーム・マキタ、ヒロミ、オオサト、フジケン、ゴミブチ、ミミ、オカベ、サイト
座長:刀根康尚
カメラマン:渡辺睦
ジュリイ:斉藤みみ
やきいも屋のおじさん:佐藤重臣
クライド:岡部道男
ポニー:五味淵純
レズビアン:児玉節子、新谷さちこ、やしや、渡辺眸
フーテン:マリオ、リョウ、ナシ、ヒゲダルマ、ヒラギ、アリババ、トムソーヤ、ジョージ、ケン
夕日のガンマン:金坂健二
ジャンゴ:岡部道男
おまわりさん:斉藤司郎
サンパの男:白鹿勝
その男オカベ:岡部道男
ゼロの男:加藤好弘、永田智、上條順次郎、松葉正男、加藤弥平治、岩田信一、小岩高義
金嬉老の近さん:斉藤司郎
マルセリーノ:布施和彦
エリオット・ネス:岡部道男
ホブスン:鎌田勝彦
警官:岡部公甫
ジャニー、ギター、出田繁幸、精松隆幸、高森マキ、石橋初子
特別出演:石井満隆、チダ、ウイ、小山哲男、麿赤児、アオメ、吉田鷹男

これは内輪のノリとは異なる、極めてキャンプなキャスティングである。岡部がこのような映画を構想した背景を考えるために、本作の制作時の岡部の言説を参照してみたい。

「そうでないものがフーテンやホモの役を演じるのではなく、そのままホモはホモとして出てくる。そうでないものはみなあこがれをむき出しにするということであまりに軽薄であり、またそれは多面の輝きが内部意識という人間固有の観念よりも優位を示している現象である。そして、そのようにしてつくられた映画はその時だけのものとして終焉するのをいとうことはない」 (『映画評論』1968年8月号)

ここで述べられていることは、ある種のリアリズムである。そこで紛い物は紛い物としての表面の輝きを発揮する(例えば、レストランの店頭にあるプラスチックの食品模型は、食品模型であることのツルツルした輝きを誇るだろう)。岡部はこの映画において、表層的な物こそが意味や観念に先行することを示している。それはこの時代に始まり、現在に至るまで続くポストモダン化した私たちの社会の本質でもある。
パートカラー。サウンドは非同録で、事後的にロックや歌謡曲などのサウンドトラックが追加されている。

『映画評論』1968年10月号にはシナリオが掲載されているが、完成版とは一部のシークエンスが異なるようである。以下のシークエンスのメモは完成版に基づくもので、カラーで撮影されたシーンには*Cの表記を置いた。

・ゼロ次元による行進パフォーマンス *C
・女装の男と若者たち、地下通路を転がる
・女装の男と男たち *C
・時代劇の舞台で、役の扮装をした男と女がいちゃつく *C
・レスリングの試合をする男たち。やがて互いを愛撫し合う
・ゼロ次元が裸でお茶を点てる
・女装する男の正面像
・裸の若者ら、ギターを持って輪になる
・テーブルについて話す若者たち(微速度で撮影)
・女装の男、交番で警官に話しかける(アフレコで架空の会話を当てる)
・ヘルメットの活動家が、警官にThe Beatlesの「 Yesterday」の歌を捧げ、手を繋いで街に繰り出す
・ダンサー姿の女装の男が野外で踊る
・ガス会社の男の来訪
・スタッフクレジット。主題歌はPaul Ankaの「Crazy Love」 *C
・金嬉老の金さんと、本物の金嬉老の写真
・ダンサー姿の女装の男が野外で踊る
・浴衣の男女
・木に登る裸の男
・ランニングするボクサー
・女装の男が公園を歩く
・背広姿のガンマンが、ゴダールの『勝手にしやがれ』のパロディを繰り広げる
・ガンマンが街で、人々を撃ち殺す
・奇妙な公園(愛知県にある五色園)にてゼロ次元のパフォーマンス
・公園にある女性の銅像に抱きつく裸の男
・夕陽のガンマンの決闘。睨み合いが続き、やがて抱き合い接吻する
・女が学生に化粧をほどこし、路上でくつろぐ
・ゼロ次元パフォーマンス
・やきいもの屋台を引く男
・ダンサー姿の女装の男が路上で踊る
・ダンサー姿の女装の男が部屋で踊り、老婆を抱きかかえる
・金魚鉢を持って練り歩く半裸のサングラス男 *C
・ガンマンが男を追いかけ、銃撃する。倒れこみ苦しむ男 *C
・マンションにて警官の踏み込み捜査。偽札を押収する
・ゼロ次元パフォーマンス


岡部道男『貴夜夢富』(1970, 16mm, 44min)
タイトルの通りキャンプ的な表現を徹底的に突き詰めた、岡部の代表作といえる作品。世間一般に承認されている美醜の感覚から遠く離れて、別の尺度で測られた審美的な世界を体現する映画であり、ジャック・スミスに通じる規範的価値を転倒させたような過剰なイメージと、ウィーン・アクショニズムに通じる自壊的な身体的行為が、息つく暇もない程の濃密さで詰め込まれている。
サウンドは非同録で、事後的にサウンドトラックが追加されている。完全なフルカラーのシーンもあるが、多くのシーンにおいて、モノクロのフィルムに単色のカラーフィルターを重ねることで色彩が表現されている。

作中のシークエンスは、以下の順番で進行する。フルカラーで撮影されたシーンには*C、赤フィルターのシーンには*R、青フィルターのシーンには*Bの表記を置いた。

・和室にて、二人のマッサージ師から施術を受ける浴衣姿の男。カエルの鳴き声が重なる *R
・和室の片隅にある、忌中と書かれたゴザの影から男が現れて、浴衣姿の男をマッサージする *B
・訪ね犬の貼り紙。和室に犬が現れ、男たちは犬の真似をする。畳を裏返す *R
・裸の男にスライドを投影する *R
・男同士で責め合い、臀部に焼きごてを押す *B
・和室に吊るされた紗幕の中で、裸の男たちがたむろする *B
・牛若丸の絵本に、弁士の語りが重なる *C
・風呂をたく三助。石井満隆が扮するドラッグクイーンが入ってきて、三助にマッサージしてもらい、二人で湯船につかる。三助がドラッグクイーンの頭を剃って坊主にする。ドラッグクイーンが踊る *C
・和室にて男たちが様々な狂騒を繰り広げる。スズムシの鳴き声が重なる *R
・ヴァイオリンを弾く男に、別の男が抱きつく *C
・テレビモニターに映し出される吸血鬼ドラキュラのドラマ。牙を付けたドラキュラに扮する警備員が登場し、一句詠んでから、オルガンを弾く男に噛みつく。和室にドラキュラ警備員が屋台を引いてきて、客に酒を出す *C *R *B
・和室にて、ドロドロになった二人の裸の男が絡み合う。弁士の語りが重なる *B
・白画面に、花の種子袋のイメージが一瞬だけカットインされる *C
・春画が映し出されたのち、和室にて、ドラッグクイーンと三人の男たちが並んで踊る *R
・ドラッグクイーンが、小舟の張りぼてに乗って和室から去ってゆく *C
・力を込めた男の臀部のアップ *R

第10回恵比寿映像祭「不可視であるなら、私が。 出光真子おんなのさくひん」@東京都写真美術館

恵比寿映像祭についてのレビューは展示についてのものが多く、上映プログラムについてはあまり言及がないように思う。しかし、この映像祭は上映プログラムこそが重要であり、そこでは美術と映像を越境した、総合テーマに深く関わる作品が集められている。今年で言えば特に重要だったのは出光真子、岡部道男の特集プログラムと、足立正生らによる『略称・連続射殺魔』の35mm上映プログラムであり、それらは社会的に不可視化されていたジェンダーの問題や、公的な世界から存在しないものとして扱われた存在を主題化する仕事であったといえる。
出光真子は、ジェンダーの問題を批判するビデオアートや執筆活動で著名な作家だが、活動の初期にあたる1965年から1973年にかけてカリフォルニアを拠点とし、そこでブルース・コナーなどに実験映画を学んだという。このようなアメリカ西海岸の実験映画を背景とした出光のフィルム作品は、後年の社会的でコンセプチュアルなビデオ作品とはまた異なった、身近な風景を被写体とした情感豊かな表現を含んでいる。フィルムにおける親密な風景の表現と、ビデオにおける社会的な表現、この二つの方向を一人の作家の仕事として見直すこと、それがこのプログラムの目的だったと思う。フィルム作品とビデオ作品を交互に配置したその構成は、大変意義深いものであった(出光の上映作品のプログラミングを担当したのは、ビデオ作家の服部かつゆきである)。


1:『Woman’s House』(1972, 16mm, 13min40sec)
カリフォルニア芸術大学のフェミニスト・アートプログラムのなかで、アーティストであるジュディ・シカゴとミリアム・シャピロは、ロサンゼルスにあった家屋を利用し、1972年の1月から2月にかけて「ウーマンハウス」を組織した。これは家屋の至る所にインスタレーションやオブジェを設置するもので、フェミニズムを主題としたパフォーマンスも行われた(公式ウェブサイトでは、詳細なドキュメンテーションが公開されている)。
本作はこの「ウーマンハウス」を無人の空間として撮影した最初の16mmフィルム作品であり、その静謐な表現は、サンタモニカや雪ヶ谷を撮影した作品に共通するものがある。
カラー。サウンドは、スチールパンとパーカッションによる楽曲で、一部で声を加工したテープコラージュも用いられる。

作中のシークエンスは、以下の順番で進行する。
・絡まった紐のオブジェ
・乳房のオブジェが敷き詰められた壁
・電球の下に並んだ料理のオブジェ
・赤い内装の部屋
・ゴミ箱に溢れるナプキンのオブジェ
・花嫁姿のマネキンのオブジェ
・ドールハウス
・棚に組み込まれたマネキンのオブジェ
・女性用の衣服
・粘土で作られた料理のオブジェが並ぶ食卓
・目玉焼きのオブジェが敷き詰められた天井
・ハイヒールの収められた靴棚

2:『おんなのさくひん』(1973, Video, 11min)
洋式便器に捨てられたタンポンから、ゆっくりと血が滲んでいる。カメラはその様子を、フィックスショットの長回しで撮影する。そこに産婦人科医師役の男性による、男子優位の家父長的な価値観に染まった内容の語りが、二か国語のボイスオーバーで重ねられる。
日本のビデオアートにおける最初期の作品であり、世界的に見ても、女性ビデオ作家であるキャロル・ルッソプロスなど並んで、早い段階で社会的な女性差別の問題を批判したビデオ作品だといえる。
モノクロ。

3:『Inner Man』(1972, 16mm, 3min40sec)
心理学でいうところの、女性の集合的無意識下にある男性像(アニムス)を表現した16mmフィルム作品であり、着物姿の東洋人女性の舞踊の映像に、女性の無意識的な男性像を表象する、ダンスを踊る裸の白人男性の映像が多重露光される。
本作でのフィルムの多重露光によるイメージの重層化は、『主婦の一日』以降のビデオ作品で展開されることになる画面内にモニターを配置するメタ的な手法の前段階に位置付けることができるだろう。
カラー。サウンドはピアノによる楽曲。

4:『主婦の一日』(1977, Video, 9min50sec)
画面内にモニターを配置するという、この作家独自の手法が用いられたビデオ作品である。作家本人が、起床・化粧・炊事・洗濯・買い物・就寝など主婦の生活を、定点観測的なビデオカメラの前で演じる。さらに、各シーンの背景セットのなかにはテレビモニターが置かれ、女性を抑圧するものの表象として眼のイメージが映し出される。この画面内モニターの手法とはコンセプチュアルな意図によるものであるといえ、その後の出光のビデオ作品でも追及されてゆく。
記号化された生活パターンを総覧的にみせる構成は、マーサ・ロスラーのビデオ作品『キッチンの記号論』(1975)を連想させる。
カラー。サウンドは同録による環境音のみ。

5:『Something within Me』(1975, 16mm, 9min30sec)
身近な風景やカタツムリなどを被写体とした16mmフィルム作品であり、本作での情感豊かな表現は特筆すべきものがある。このような映像表現は、出光のビデオ作品におけるジェンダーの問題と一見繋がらないように見えるかもしれないが、そうではなく、フィルム作品における作家の身近な風景への視線を社会化したものが、ジェンダーの問題を取り上げたビデオ作品であったとみるべきだろう。
カラー。サウンドは高橋アキによるピアノの即興演奏であり、映像をスコアとして解釈することによって演奏したもの。

作中に表れるイメージは以下の通り。
・水面の反射光
・木の葉と、カーテンに映る木の葉の影
・植物の葉や花弁のクローズアップ
・オブジェのような大量のカタツムリ

6:『英雄チャン、ママよ』(1983, Video, 27min)
ホームドラマ的演出と画面内モニターの手法を組み合わせたビデオ作品。食卓の上に置かれたテレビモニターに映し出される実家暮らしだった頃の、昔の息子の映像。それとの架空の会話を繰り返す母親が、息子の面倒を見るために遂には自分も家を出るまでのストーリーを描いている。
画面内モニターに映し出される息子の姿は、保守的な家族像の虚構性を浮かび上がらせる異物として存在し、モニター内の息子の一挙手一投足に反応する母親の姿と、それに対する父親の無関心は、この状況の空虚さを一層際立たせる。出光の後年の作品におけるホームドラマ的演出とは、テレビなどの大衆メディアで流通している保守的な家族像への疑義を含むものだといえよう。
撮影は、ビデオひろばの発足に関わったカナダ出身のビデオ作家であるマイケル・ゴールドバーグが担当している。
カラー。サウンドは同録によるセリフと環境音のみ。

7:『At Santa Monica 3』(1975, 16mm, 15min30sec)
身近な街の風景を、作家の個人的な視点によって撮影した16mmフィルム作品であり、カリフォルニアの眩しい陽光と、それに照らされた建物や自然物の様子が、ハイコントラストフィルムを使用することで見事に表現されている。ちなみに、今回の映像祭の展示セクションでは、同じくハイコントラストフィルムで東京の雪ヶ谷の庭園を撮影した、『At Yukigaya Two』(1974)も上映されていたのだが、サンタモニカと雪ヶ谷という場所性の違いが表れていて興味深い。前者は眩しく乾燥しており、後者は薄暗いが瑞々しい。
モノクロ。サウンドは、恐らくジョン・ケージによる「String Quartet」(1950)であると思われる。同作品は、以下のレコードに収録されている。
Walter Piston / John Cage – Modern American Music Series

作中のシークエンスは、大まかに以下の順番で進行する。
・サンタモニカの住宅の窓に反射する太陽
・板張りの床に反射する太陽
・木漏れ日
・水面に揺らめく反射光
・風に揺れる木々
・猫
・微速度撮影された雲の流れ
・遠距離からズームショットで捉えられた住宅街
・雨の降りしきる水面と、そこに浮かぶゴミ類
・水面のランダムな反射光(極端にハイキーな撮影によって、半ば抽象化している)
・猫
・植物と、葉の間にちらつく太陽光
・甘いフォーカスで撮影された水面のランダムな反射
・微速度撮影された雲の流れと太陽(レンズの絞りを操作して、徐々に真っ白な画面になるまで飛ばす)
・住宅街の道路
・水面に揺らめく反射光
・針葉樹
・噴水から吹き出す水
・木漏れ日
・微速度撮影された雲の流れと太陽

第10回恵比寿映像祭「エクスパンデッド・シネマ・パフォーマンス:Beyond the Frame」@東京都写真美術館

恵比寿映像祭では毎年ライブイベントが組まれてきた。本年は二つのイベントが行われたが、私はそのひとつである「エクスパンデッド・シネマ・パフォーマンス:Beyond the Frame」と題されたイベントを観に行った。このイベントは、ポール・シャリッツの『Dream Displacement』(1976)を上映し、サウンドアーティストである大城真の『ストリングス』(2014)のパフォーマンスを挟んで、宮井陸郎の『時代精神の現象学』(1967)と『シャドウ』(1968)を上演するというプログラムである。去年同館で開催された「エクスパンデッド・シネマ再考」で、宮井の作品が紹介されなかったのは腑に落ちなかったが、今思えばこのイベントのために取っておいたということなのだろう。サウンド作品のパフォーマンスや、ダンスパフォーマンスの併演は、若干盛り込み過ぎという感じがしないでもないが、それでもエクスパンデッドシネマの重要作品をまとめて観ることができる貴重な機会であったことは間違いない。以下、それぞれの作品について述べる。



『Dream Displacement』(1976, 16mm×2, 25min)
本作は『Shutter Interface』(1975)と同じく、シャリッツの代表的なエクスパンデッドシネマ作品である。タイトルにはフロイトの精神分析が参照されている。オリジナルは1976年にオルブライト・ノックス美術館において、16mm映写機4台による「ロケーショナル・フィルム」としてループ上映されたはずだが、ニューヨークのフィルムメーカーズ・コーポラティヴのレンタルリストを見ると、映写機2台のバージョンでも貸し出されているようである。今回の上映もこれに準じて、映写機2台での上映であった。このようなバージョン違いのあるらしい本作だが、映写機4台と映写機2台の上映では、外観が異なってくる。まず、いずれの映写機のフィルムも、そこに焼き付けられた像はフィルム(自作『SPECIMEN II』が素材になったとされる)を再撮影することによって得られた、カラーフィールド(赤・黄・緑)の不規則な往復運動であることに違いはない。この運動が、バージョンによって水平方向、あるいは垂直方向に変化することになる。簡潔に書くとこうなる。

1:映写機4台の上映では、ミラーの反射を用いることにより、フィルムは90度横倒しになった縦長のフレームとして投影され、この画面が4面水平に連結される
2:映写機2台の上映では、フィルムは正位置として投影され、この画面が2面水平に連結される

なおフィルム上には、再撮影の際にスプロケットホール(フィルムの両端にある掻き落としの穴)まで焼きこまれているので、映写機4台の上映では、まるで巨大なフィルムが壁面に出現したような外観になる。
いずれにせよ、上記どちらのバージョンであっても、連結されたフレームが、不規則な往復運動を内包した一つの総体として立ち上がる瞬間(言い換えると、全体的な必然性があるかのように感じられる瞬間)が、次々と生産されることに違いはない。『Shutter Interface』がフレームの重なり合いを一つの総体に転じさせるものだったとすれば、本作は、往復運動を一つの総体に転じさせるものだと言えよう。映写機2台よりも映写機4台の方が、運動の不規則性が最大化されており、コンセプトが明確化される気もするが、それでも充分に知覚を撹乱する不規則な運動を体験することはできた。
サウンドは間欠的なガラスの破砕音で、2本のフィルムのサウンドトラックに、それぞれオプチカルで収録されている。


『時代精神の現象学』(1967, 16mm×2, 40min)
宮井陸郎は1960年代末のサイケデリックカルチャーの只中で、自らの存在もひとつの現象に過ぎないと考え、自らの全存在をかけてそれを表現した作家であり、同時代的な精神を最も端的に表現した実験映画、特にエクスパンデッドシネマを多数制作したことで知られる。北村皆雄と2人で結成した独立プロダクションである「ユニット・プロ」は、当時のフーテン達の拠点の一つとなった。映画制作の他にも、銀座に開店したディスコ「キラー・ジョーズ」の構成演出を担当するなどした。このようなサイケデリックカルチャーに端を発する精神的な領域への関心は、やがて宮井をインドに向かわせることになり、その後、彼は映画制作からは離れてゆくことになる。
作品としては『時代精神の現象学』(1967)、『積分現象学』(1968)、『横尾忠則ちゃんだーいすき』(1968)、『続時代精神の現象学』(1968)、『レス・レス・レス』(1968)、『シャドウ』(1968)、『シンジュク・シンジュク・シンジュク』(1968)、『微分現象学』(1968)、『テレビとマンガ』(1969)、『パーティ』(1970)、『微分積分現象学』(1971)があるが、聞くところによると、現存するのは『時代精神の現象学』と『シャドウ』のみらしい。この2作品は、2012年に同館で開催された「映像をめぐる冒険 vol.5 記録は可能か。」でも上映された。今回の上映は、作家自身によるパフォーマンスを組み込んだ2018年バージョンの上演となる。

『時代精神の現象学』は2台の16mm映写機によるエクスパンデッドシネマであるが、本作の最大の特徴は、映写機に掛けられる2本の同一内容のモノクロフィルムを、数秒間のズレを持たせて、一つのスクリーンに重ね合わせてプロジェクションする所にある(今回のズレは約2秒だった)。これによって生じる瞬間の多重化、あるいは時間の分裂の効果は凄まじく、観客の知覚の安定性は常に危険に晒されることになる。さらに、それぞれの映写機のレンズの前では、それぞれの映写技師によって赤・青・緑といった原色のセルロイドフィルターが翳される。このフィルターはそれぞれの映写機の光に対して、部分的に素早く重ねられるので、スクリーン上ではモノクロ映像でありながら、部分的に色彩が発生するという混沌とした事態が生じる。まるでスクリーン上で時間が激しく沸騰しているかのようである。松本俊夫、飯村隆彦、おおえまさのりのエクスパンデッドシネマがスクリーンの外部に拡張するものであったことと比較すると、スクリーンの内部に映画を拡張する本作の特異性は際立っている。
サウンドは、当時の著名なサイケデリックロックのメドレーだったが、このサウンドトラックに関しては、恐らく2012年に再制作されたものだろうと思う。ちなみに、当時の資料によると、本来はオーディオテープから別出しでサウンドトラックを再生する形態だったらしい。
作品の内容は以下の通り。

・スタジオ(ユニット・プロ)にたむろする仲間たちの様子を捉えた主観ショットから映画は始まる。撮影は手持ちカメラによるもので、このスタイルは映画の最後まで持続する
・スタジオの扉を開け、アパートの外に出る。時間帯は昼間。仲間たちが撮影者にカメラを向ける
・路上を歩き、車の助手席に乗って移動。斜めになったカメラ位置のまま風景が流れる
・新宿の街頭に到着、ゼロ次元による担架に女性を乗せて運ぶというパフォーマンスを、仲間たちと共に追う
・一瞬だけ建物の中に入り、またすぐに街頭に出て、ゼロ次元のパフォーマンスを追う
・再び百貨店の中に入り、またすぐに街頭に出て、仲間と共に撮影し合いながら歩く。警官と議論するヘルメット姿の活動家も見られる
・地下道に下りて、仲間と共に撮影し合いながら歩く
・地上に上がって、再びゼロ次元のパフォーマンスを追う。クリスマスの広告があるので冬頃の撮影と推測される
・女性が担架から降り、ガスマスクの男が担架に乗る。ゼロ次元らしい身振りの行進
・ゼロ次元が地下道へ下り、万歳三唱を行う。ゼロ次元のメンバーは、幼い息子の手を引いて歩き続ける
・一旦映像が途切れて、時間帯が夜に飛ぶ。ゼロ次元のパフォーマンスは続き、片手を上げて全裸での行進が行われる
・新宿紀伊國屋前に到着したゼロ次元は、タクシーに乗り込んで手際よく立ち去る。カメラは野次馬の群衆を撮影し続ける
・再び地下道に下りて、柱に据えけられた美容院の広告をしばらく撮る
・地下道の電光表示の時計を定点撮影する。このフィックスショットは8:59から開始され、9:03になると同時に終了する

当時の猥雑な新宿の風景と、ゼロ次元のパフォーマンスを被写体とすることで時代の空気を映画に取り込み、時間を分裂させることによって、観客が本作を見ている瞬間それ自体を唯一無二の現象として生じさせる。本当に凄い作品であると思う。
今回のバージョンでは宮井を含む3人のダンサーのパフォーマンスと、パーカッション奏者による演奏と、ニューエイジ的なBGMが加えられていた(ダンスの間だけ、作品本来のサウンドトラックからBGMにフェードイン~フェードアウトする)。


『シャドウ』(1968, 16mm×2, 30min)
『シャドウ』も2台の16mm映写機によるエクスパンデッドシネマであるが、こちらは二つのプロジェクションを横に並べた形態をとる。映写機に掛けられる2本のモノクロフィルムの内容は、基本的に同一だが、像のみが反転しており、左スクリーンにはポジ像が、右スクリーンにはネガ像が映し出される(今回は、序盤では左スクリーンが2秒遅く映写され、中盤以降は右スクリーンが10秒以上遅く映写されていた)。
作品の内容は、街を歩きながら、手持ちカメラを用いて路上や壁面に落ちた自分自身(宮井本人)の影を撮影し続けるというものである。撮影者は、ひたすら自分の影をファインダーに収めながら歩き続けるのだが、映画の最後で立ち止まり、壁に落ちる自分の影を、正面像としてフィックスショットで撮影する。そこにはある種の自己客体化と、それにともなう空虚感が滲んでいる。
サウンドは、2012年の「映像をめぐる冒険 vol.5 記録は可能か。」で観たときにはサイレントだったように記憶している。当時の資料によるとサイレントの上映の場合もあるし、オーディオテープから別出しでサウンドトラックを再生していた場合もあるようだ。
今回のバージョンでは、客席前方に巨大な布を張ってそれをスクリーンとして、リア側から2台のHDプロジェクターでデジタル素材を投影していた。スクリーンとプロジェクターの間では、宮井を含むダンサーがパフォーマンスを行い、その影がスクリーンに落ちるという演出も加えられた。さらに、パーカッション奏者の演奏に、大城の小型アンプを使用したパフォーマンスも加えられた。

第10回恵比寿映像祭「インヴィジブル Mapping the Invisible」会場展示@東京都写真美術館

本年の恵比寿映像祭は、「インヴィジブル」という総合テーマによって不可視なものを可視化する、そのような映像が集められていた。このエントリーでは展示セクションにある作品について述べたい。
まず、イタコの老女の語りに戦後日本史を仮託する、ナターシャ・ニジック&基丸謙による三面スクリーンのインスタレーション作品『恐山』(2018)や、ポーランドのスポーツ施設に集う男性たちをモチーフとした、ガブリエラ・エレーラ・トレスによるシングルチャンネル作品『適切な運動による神への近寄り方』(2016)などの作品では、抽象化な物語による映像のなかに、社会的なものの反映を発見することが可能であった。しかしこの方向では、どこまで行っても不可視なものの分かりやすい翻訳、あるいは比喩としての可視化にとどまるだろう。この二作品は本来良い作品であり、他の展示作品よりも抜きん出ていると思うのだが、この総合テーマの元では、どうしても安直なものに見えてしまった。
他方、メディアに馴致される黒人のイメージを渉猟する、マルティーヌ・シムズの映像インスタレーション作品『レッスンズI-LXXV』(2014)や、ISILの攻撃を生き延びた聴覚障害の少年の身振りによって凄惨な出来事を可視化させる、エルカン・オズケンのシングルチャンネル作品『ワンダーランド』(2016)などの幾つかの作品は、事実そのものを撮影した映像ではないが、間接的な映像を操作することによって翻訳や比喩であることから逃れていた。そこには不可視なものが二重化された形で残存しているといえる。この方向にある作品は興味深いものであり評価したい。



『Shutter Interface』(1975, 16mm×4, Endless)
しかしながら、展示作品のどれとも異なる形で、総合テーマを基底面から批評する作品だと思えたのは、ポール・シャリッツの『Shutter Interface』(1975)だった。言うまでもなくシャリッツは、トニー・コンラッドやマイケル・スノウ、ジョージ・ランドウ、アニー・ゲールなどと並びアメリカ・カナダの構造映画を代表する作家である。シャリッツといえば、世間では『T,O,U,C,H,I,N,G』(1968)などの作品におけるカラーフリッカーが有名だが、それは光の明滅による眼への刺激にとどまらず、ある単一色のカラーフレームが、その前後に配置されたカラーフレームと干渉し合うことで「別の色彩」を生成するという特性を備えている。その「別の色彩」とは、もちろん物質としてのフィルム上に存在するものではなく人間の知覚過程において生じるものであるが、シャリッツの映画には、このような整然としたモダニズム的構築を超える自壊の契機が、常に内包されている。そして、これは総合テーマである不可視性の問題にも関わってくる。
具体的な作品の構造を説明したい。本作は、水平に並べられた4台の映写機によって、4本のカラーフリッカーのループフィルムをエンドレス上映するものだが、それらは隣接する画面の三分の一を相互に重ね合わせる形で壁面にプロジェクションされる。シャリッツの作品では、あるカラーフレームが前後のフレームと干渉し合うことによって、「別の色彩」として生成されることは先に述べた通りだが、本作ではそれに加えて、隣接する画面が相互に重なり合うことによって、スクリーン上でも加法混色が行われることになるのだ(外見上は水平方向に7つの色彩が並ぶことになる)。それによって、不均質な集合態として構成された、恐ろしくいびつな映画が立ち上がるのである。電子音のパルスによるサウンドトラックは、4本のフィルム全てにオプチカルで収録されており、各映写機につき1chの小型スピーカーで再生される。それによって電子音のパルスは、プロジェクションされる映画と同じくクラスター状の塊となる。
本作では、いかなる形においても社会的な事象はスクリーン上に現れない。しかし本作は、映画における知覚の臨界、すなわち可視/不可視の境界を指し示すことによって、私たちの知覚する外部の世界が、容易に認識できる断片的な刺激や情報によって、半ば自動的に構成された仮設的なものに過ぎず、その足元には不可視の領域が広がっていることを明らかにする。エクスパンデッドシネマとは単純な意味での上映空間の拡張などではなく、整然とした知覚過程や意味付けを自壊させることで、観客の意識のなかに仮設されている世界(ここで言う「世界」には、当然ながら社会的なものも含意される)のイメージを転倒させる、そのような経験の試みなのである。

David Grubbs, ホンタテドリ@Hand Saw Press


David Grubbs, ホンタテドリ
日時:2018年4月5日
会場:Hand Saw Press

アメリカ実験音楽が、ルーツを持たないヨーロッパからの移住者たちによる新しい民族音楽であったという視点は、柿沼敏江の『アメリカ実験音楽は民族音楽だった』に詳しい。そこで挙げられた音楽家は、ヘンリー・カウエルのように民族音楽から着想を得ていた作曲家から、一見すると民族音楽に関わりを持たなそうに見えるジョン・ケージのような作曲家に至るまで幅広い。柿沼が提起する民族音楽という視点は、非西洋音楽としての民族音楽にとどまらず、移住者による新しい伝統の創出という文化論的な問題を含んでいるのだ。

何故デヴィッド・グラッブスのコンサートのレヴューを書くにあたってこのような事から書き始めているかといえば、それは、グラッブスのコンサートの直前に、アルヴィン・ルシエのコンサートを二日間通して聴きに行ったことと関係している。アメリカ実験音楽の代表的な作曲家であるルシエと、Gastr Del Solとしての活動以来、カントリーブルースを参照した実験的ポピュラー音楽に取り組んでいるグラッブス。両者の経歴や表現の形式に共通点はないが、両者の存在は、いずれも柿沼が提起した意味での新しい伝統としての「民族音楽」の範疇に収まるだろう。思い返せば、『Happy Days』において、トニー・コンラッド(実験音楽、この場合はミニマルミュージック)とジョン・フェイヒー(カントリーブルース)という二つのキャラクターに仮託して、二つの音楽の相対化を試みたのがジム・オルークであり、それをある種のメタ音楽として展開したのが、オルークとグラッブスのGastr Del Solであった。Gastr Del Solの音楽は、楽曲が複数のレイヤーを持ちながら進行し、複数の聴取を可能とする音楽であったが、この複数の聴取とは、出会わなかった二つの音楽の歴史的な文脈を聴き取るということに等しく、そのコンセプトは、グラッブスの現在の活動にも大きな影響を及ぼしている。グラッブスは、いまも実験的解釈によるカントリーブルースを演奏しているが、それはアメリカ音楽史に対する批評行為なのだといえる(ちなみに前にも書いたが、グラッブスのスタンスに最も近いのは、アカデミック音楽を批判しながらヒルビリー音楽に貢献しようとした作曲家、ヘンリー・フリントだろう)。

このような前提を確認した上で、このエントリーはコンサートの細部に入ってゆく。今回のコンサートは急遽決まったという事で、『湖畔通りの竪琴工房』ならぬ不動前の印刷工房であるHand Saw Pressにて開催された。ちなみに、今回のグラッブスのコンサートは二日間開催されたのだが、グラッブスのコンサート初日は、ルシエのコンサート二日目と重なっており、私はルシエを優先させたので、グラッブスの初日を観られなかった。SNSをチェックする限り、初日の内容はグラッブスと宇波拓とのコラボレーションだったようだ。そして私が観に行った二日目は、1:グラッブスのソロ演奏、2:宇波・佳村萠・秋山徹次をメンバーとするホンタテドリの演奏、3:グラッブスとホンタテドリのコラボレーションという順番で進められた。

まず、グラッブスのソロであるが、Hand Saw Pressは印刷工房なのでライブハウスのようなPAはなく、ギターアンプから直接音が出されていた。音楽を聴くのに適した空間かというと厳しいのだが、演奏者と観客の近さがあるという意味では良かった。私は最前列で演奏を聴いたのだが、フレットを押さえる指の動きがはっきり見える近さだった。その演奏は、2016年の代々木上原ムジカーザでのコンサートと同じく、複数の曲を繋げるようにして緩やかに進行してゆく。当日のメモと、後日グラッブスのツイッターにメンションを送って戻ってきたメッセージを元にセットリストの分析を試みておくと、以下の通りである。

デヴィッド・グラッブス ソロ演奏
1:Creep Mission(Creep Mission)
2:Skylight(Creep Mission)
3:How To Hear What’s Less Than Meets The Ear(Prismrose)
4:The Bonapartes Of Baltimore(Creep Mission)
5:A View Of The Mesa(The Plain Where The Palace Stood)
6:Abracadabrant(The Plain Where The Palace Stood)
7:Charm Offensive(Dust & Mirrors)
8:Out With The Tide(Ken Vandermark and David Grubbs)
9:The Bonsai Waterfall(Prismrose)

まず、1~4は近年リリースされた『Creep Mission』(2017)、『Prismrose』(2016)から構成されていた。その楽曲群は、Gastr Del Solと同じくカントリーブルース的なギター演奏の内部に異なる文脈のレイヤーを聴取させようとする、極めて豊穣なものであった。
次いで短いブレークを取り、『The Plain Where The Palace Stood』(2013)からセレクトされた5~6が演奏される。これらはドローンアンビエントのような響きを持つ楽曲であり、ブレークを取って1~4の楽曲群と切り離したことは納得がいく。
そして、再び短いブレークを取って7~9が演奏される。特にBelfi/Grubbs/Pilia名義での楽曲である「Charm Offensive」は、テープコラージュのように風景が切り替わってゆく作品なのだが、ここから明るいヴォーカル楽曲である「Out With The Tide」に繋いだのは面白かった。まるで「Out With The Tide」が風景の一部として前の楽曲に取り込まれたようでもあった(ヴォーカル無しのインストゥメンタルとして演奏)。
そしてホンタテドリの演奏を挟んで、グラッブスとホンタテドリのコラボレーションが展開される。

デヴィッド・グラッブス+ホンタテドリ
1:Photographed Laughing(Ken Vandermark and David Grubbs)
2:The Forest Dictation(Failed Celestial Creatures)
3:Learned Astronomer(Prismrose)
4:Cool Side Of The Pillow(Dust & Mirrors)
5:A Boy(これのみホンタテドリの楽曲)

このコラボレーションの持つ意味は、Gastr Del Solに衝撃を受けて、その後のオルークとグラッブスの仕事を追っている方なら想像が付くはずだ。1~4の楽曲は全てヴォーカル曲であるが、今回はそれらが秋山と宇波の即興演奏を伴うことによって解体的に演奏されるのである(佳村はヴォーカルを薄く重ねる役割に回る)。
言うまでもなく、ここで行われていることはGastr Del Solの再演に近い。一つの対象の内部に複数のレイヤーを聴取すること、別の言い方をすれば解体の過程においてレイヤーを露呈させること。それこそがGastr Del Solの核心であったとするならば、この日、ここで行われたことは、そのヴァリエーションであったと言うべきだろう。そして、それはやはりグラッブス一人では完遂できないものなのだ。複数であることは、個人では成し得ない。しかし、秋山と宇波の即興演奏によって、この日の演奏はその地点に到達することができた。このコラボレーションは、Gastr Del Solの核心がなんであったかを確認することができる、全くもって得難いものであったと思う。

付記:上記楽曲のうち「The Forest Dictation」は、このコンサートの時点では未発表であったが、同曲が収録された宇波との共作『Failed Celestial Creatures』は、香港のEmpty Galleryから先日リリースされた。Empty Galleryは、過去に牧野貴や松本俊夫の展覧会を開催している現代美術のコマーシャルギャラリーであるが、即興音楽にも関心を持っており、Empty Editionsという音楽レーベルも運営している。Bandcampでも試聴することができる。

Alvin Lucier & Ever Present Orchestra@Super Deluxe

Alvin Lucier & Ever Present Orchestra
日時:2018年4月3〜4日
会場:六本木Super Deluxe

アルヴィン・ルシエが、自身の作品を演奏するエヴァー・プレゼント・オーケストラと共に四月上旬に来日して、京都・東京にてコンサートを行った。ルシエはアメリカ実験音楽の中心的な作曲家であり、デヴィッド・バーマン、ロバート・アシュリー、ゴードン・ムンマとのソニック・アーツ・ユニオンの活動などを通して電子音楽の歴史に大きな足跡を残してきた。ルシエの作品には音に関する現象を観測するという、マテリアリスト的な傾向があり、それはインスタレーション作品を含めて、この作家の個性になっている。それは現象として立ち現れるため、ある意味分かり易いものであり、現代音楽という括りを超えて幅広い聴衆に共有され得るものだと思う。私は、六本木Super Deluxeでのコンサートを両日観に行ったのだが、今回の招聘元はいわゆるアカデミックな現代音楽の関係ではないようで、京都では西部講堂でコンサートが行われたらしい。良い広がり方だと思う。ちなみに、高齢のため今回が最後の来日となるそうだ。



Day1(4月3日)
1:Ricochet Lady(2016)
会場である地下空間の壁際の角にグロッケンシュピールが置かれており、演奏家は観客に背を向けて、機械のように正確な演奏を繰り広げる。楽曲自体はクロマティック・パターンを反復するという単純なものだが、連打される金属音が空間のなかで強烈な反響を発生させる。

2:Braid(2012)
4人のギター奏者がテーブルにエレキギターを置き、E-bow(電気振動により持続音を発生させる、エレキギター用の道具)を使用することによって、持続音を発生させる。ここに3名の管楽器奏者による、引き伸ばされたストロークの持続音が加わる。それによって周波数の干渉が至る所で発生する。今回の公演で演奏されたルシエの近年の作品は、基本的にこのような周波数の干渉によるうねりを聴き取るものであった。ちなみに、一昨年同じ会場で聴いたジェームス・テニーの作品もまた、周波数の干渉をテーマとするものだった。この両者を比べると、テニー作品の演奏はかなり厳格で、全ての楽器奏者がチューナーを見ながら周波数を制御していたのに対して、ルシエ作品の演奏はギター奏者のみがチューナーを使用して周波数を制御しており、管弦楽器に関しては、人為的な揺らぎを許容しているようにみえた。ピアノ奏者も演奏していたが、微音でよく分からず。

3:Two Circles(2012)
4人のギター奏者がテーブルにエレキギターを置き、E-bowを使用することによって、持続音を発生させる。これに、1本のサックスと2本のヴァイオリンという編成の、ふたつのグループが加わる。このふたつのグループの演奏家たちは、それぞれが違う長さ(10分30秒、7分31秒)で音程を循環させる。それによって、ダイナミックな周波数のうねりが生まれる。ピアノ奏者も演奏していたが、微音でよく分からず。

4:Semicircle(2017)
グロッケンシュピール以外の全演奏者(ヴァイオリン4本、管楽器3本、E-bow&エレキギター4本、ピアノ)が登場し、秒刻みで打たれるピアノの単音によって誘導されながら、緩やかな持続音を重ね合わせる。18分に及ぶ楽曲の中で、豊かな周波数の干渉が生み出される。

5:Bird and Person Dyning(1975)
近作で構成された前半に対して、休憩を挟んでの後半は、ルシエの代表的な電子音楽作品の再演である。この日の演目である『Bird and Person Dyning』は、イタリアの個性派レーベルであるCramps Recordsの現代音楽シリーズnova musichaからリリースされた作品であり、ノイズ/インダストリアルの先駆的作品だといえる。ノイズの文脈では、フィードバックノイズとアジテーションの混成によるスタイルはパワーエレクトロニクスと呼ばれるのだが、そのなかでも、単調な電子音に金切り声を混ぜ合わせたWhitehouseの表現形式などは、本作から相当影響を受けているだろうと想像する。
さて本作の構造だが、まず鳥の声によく似た電子音が、会場中央に立てられたマイクスタンド上の小さなスピーカー(上記写真の金色の球体)から流される。そして、バイノーラルヘッドホンマイクを身につけたルシエ本人が会場を移動して、会場のメインスピーカーからフィードバックノイズを発生させる。バイノーラルヘッドホンマイクとは、両耳の部分にマイクを取り付けた機材で、臨場感ある録音を可能とする(イヤホンも内蔵されており、着用者は録音しているサウンドのモニターもできるようだ)。このマイクには指向性があるので、メインスピーカーのフィードバックは、デリケートかつダイナミックな変化を持つものとなる。そして、この強烈なフィードバックノイズが鳥の声との間でヘテロダインを引き起こして、幽霊のような鳥の声を発生させる。ルシエは高齢のため杖をついていたのだが、会場後方から前方までの数メートルの距離をゆっくりと歩いて、幽霊のような鳥の声が発現する場所を探していた。強烈に刺激的で、非日常的な体験だった。



Day2(4月4日)
1:Criss-Cross(2013)
向かい合ったギター奏者2人(うち一人はオレン・アンバーチ)が、E-bowを使用することによって、テーブルに置かれたエレキギターから持続音を発生させる。2人は演奏をするというよりも、周波数を制御することに徹しており、チューナーを注視しながら、時折ペグを回して微調整を行う。そして二つの持続音は干渉を引き起こしながらもつれ合う。もともとは、オレン・アンバーチとステファン・オマリーのために作曲された作品らしい。

2:Hanover(2015)
4人のギター奏者が、E-bowを使用することによって、テーブルに置かれたエレキギターから上昇/下降する持続音を発生させる。そして、ピアノ奏者が点描のように音を置いてゆくなか、ヴァイオリン3本と管楽器2本、弓弾きによるグロッケンシュピールが緩やかな持続音を奏で、周波数の干渉を引き起こす。

3:Tilted Arc(2018)
全演奏者(ヴァイオリン5本、管楽器2本、E-bow&エレキギター4本、ピアノ、弓弾きによるグロッケンシュピール)による大編成の作品。まずグロッケンシュピールの弓弾きと、ヴァイオリンによる持続音が奏でられる。そして各楽器奏者がこれに加わり、緊張感のある空間のなかで周波数の干渉が現れては消えてゆく。音数が多いので、この方向の集大成といった感じで圧巻だった。

4:I Am Sitting in a Room(1969)
この日も後半は、ルシエの代表的な電子音楽作品の再演である。この日の演目である『I Am Sitting in a Room』は、空間の音響特性を取り込んだコンセプチュアルな作品である。まず、椅子に腰掛けてマイクに向かったルシエは、自らの著書『Chambers』の一節を読み上げる。この音声は、その場で繰り返し録音され、繰り返し再生されてゆく。この再録音のプロセスの中で、オリジナルの音声は空間の影響を受けながら、最終的に滑らかな波形を持った持続音に還元される。よく知られた作品であるが、実際に演奏を聴いてみると、音声の平滑化が3回目の再録音のあたりで顕著に表れていたのが意外だった(それが、この会場の特性なのかどうかは分からないが)。また、途中でルシエが咳払いをしてしまい、それも包括しながら波形が平滑化されてゆくというアクシデントもあった。この作品によく似合う出来事だったといえるだろう。

追記:今回のコンサートは、ルシエの集大成となる4LP+CDボックス『Illuminated by the Moon』のリリースに合わせたものでもある。ボックスは下記にて購入可能。なお購入者は、シリアルナンバーをレーベルに伝えることで、4LPのオーディオファイルをダウンロードすることができる。
http://www.zhdk.ch/en/lucier