第10回恵比寿映像祭「エクスパンデッド・シネマ・パフォーマンス:Beyond the Frame」@東京都写真美術館

恵比寿映像祭では毎年ライブイベントが組まれてきた。本年は二つのイベントが行われたが、私はそのひとつである「エクスパンデッド・シネマ・パフォーマンス:Beyond the Frame」と題されたイベントを観に行った。このイベントは、ポール・シャリッツの『Dream Displacement』(1976)を上映し、サウンドアーティストである大城真の『ストリングス』(2014)のパフォーマンスを挟んで、宮井陸郎の『時代精神の現象学』(1967)と『シャドウ』(1968)を上演するというプログラムである。去年同館で開催された「エクスパンデッド・シネマ再考」で、宮井の作品が紹介されなかったのは腑に落ちなかったが、今思えばこのイベントのために取っておいたということなのだろう。サウンド作品のパフォーマンスや、ダンスパフォーマンスの併演は、若干盛り込み過ぎという感じがしないでもないが、それでもエクスパンデッドシネマの重要作品をまとめて観ることができる貴重な機会であったことは間違いない。以下、それぞれの作品について述べる。



『Dream Displacement』(1976, 16mm×2, 25min)
本作は『Shutter Interface』(1975)と同じく、シャリッツの代表的なエクスパンデッドシネマ作品である。タイトルにはフロイトの精神分析が参照されている。オリジナルは1976年にオルブライト・ノックス美術館において、16mm映写機4台による「ロケーショナル・フィルム」としてループ上映されたはずだが、ニューヨークのフィルムメーカーズ・コーポラティヴのレンタルリストを見ると、映写機2台のバージョンでも貸し出されているようである。今回の上映もこれに準じて、映写機2台での上映であった。このようなバージョン違いのあるらしい本作だが、映写機4台と映写機2台の上映では、外観が異なってくる。まず、いずれの映写機のフィルムも、そこに焼き付けられた像はフィルム(自作『SPECIMEN II』が素材になったとされる)を再撮影することによって得られた、カラーフィールド(赤・黄・緑)の不規則な往復運動であることに違いはない。この運動が、バージョンによって水平方向、あるいは垂直方向に変化することになる。簡潔に書くとこうなる。

1:映写機4台の上映では、ミラーの反射を用いることにより、フィルムは90度横倒しになった縦長のフレームとして投影され、この画面が4面水平に連結される
2:映写機2台の上映では、フィルムは正位置として投影され、この画面が2面水平に連結される

なおフィルム上には、再撮影の際にスプロケットホール(フィルムの両端にある掻き落としの穴)まで焼きこまれているので、映写機4台の上映では、まるで巨大なフィルムが壁面に出現したような外観になる。
いずれにせよ、上記どちらのバージョンであっても、連結されたフレームが、不規則な往復運動を内包した一つの総体として立ち上がる瞬間(言い換えると、全体的な必然性があるかのように感じられる瞬間)が、次々と生産されることに違いはない。『Shutter Interface』がフレームの重なり合いを一つの総体に転じさせるものだったとすれば、本作は、往復運動を一つの総体に転じさせるものだと言えよう。映写機2台よりも映写機4台の方が、運動の不規則性が最大化されており、コンセプトが明確化される気もするが、それでも充分に知覚を撹乱する不規則な運動を体験することはできた。
サウンドは間欠的なガラスの破砕音で、2本のフィルムのサウンドトラックに、それぞれオプチカルで収録されている。


『時代精神の現象学』(1967, 16mm×2, 40min)
宮井陸郎は1960年代末のサイケデリックカルチャーの只中で、自らの存在もひとつの現象に過ぎないと考え、自らの全存在をかけてそれを表現した作家であり、同時代的な精神を最も端的に表現した実験映画、特にエクスパンデッドシネマを多数制作したことで知られる。北村皆雄と2人で結成した独立プロダクションである「ユニット・プロ」は、当時のフーテン達の拠点の一つとなった。映画制作の他にも、銀座に開店したディスコ「キラー・ジョーズ」の構成演出を担当するなどした。このようなサイケデリックカルチャーに端を発する精神的な領域への関心は、やがて宮井をインドに向かわせることになり、その後、彼は映画制作からは離れてゆくことになる。
作品としては『時代精神の現象学』(1967)、『積分現象学』(1968)、『横尾忠則ちゃんだーいすき』(1968)、『続時代精神の現象学』(1968)、『レス・レス・レス』(1968)、『シャドウ』(1968)、『シンジュク・シンジュク・シンジュク』(1968)、『微分現象学』(1968)、『テレビとマンガ』(1969)、『パーティ』(1970)、『微分積分現象学』(1971)があるが、聞くところによると、現存するのは『時代精神の現象学』と『シャドウ』のみらしい。この2作品は、2012年に同館で開催された「映像をめぐる冒険 vol.5 記録は可能か。」でも上映された。今回の上映は、作家自身によるパフォーマンスを組み込んだ2018年バージョンの上演となる。

『時代精神の現象学』は2台の16mm映写機によるエクスパンデッドシネマであるが、本作の最大の特徴は、映写機に掛けられる2本の同一内容のモノクロフィルムを、数秒間のズレを持たせて、一つのスクリーンに重ね合わせてプロジェクションする所にある(今回のズレは約2秒だった)。これによって生じる瞬間の多重化、あるいは時間の分裂の効果は凄まじく、観客の知覚の安定性は常に危険に晒されることになる。さらに、それぞれの映写機のレンズの前では、それぞれの映写技師によって赤・青・緑といった原色のセルロイドフィルターが翳される。このフィルターはそれぞれの映写機の光に対して、部分的に素早く重ねられるので、スクリーン上ではモノクロ映像でありながら、部分的に色彩が発生するという混沌とした事態が生じる。まるでスクリーン上で時間が激しく沸騰しているかのようである。松本俊夫、飯村隆彦、おおえまさのりのエクスパンデッドシネマがスクリーンの外部に拡張するものであったことと比較すると、スクリーンの内部に映画を拡張する本作の特異性は際立っている。
サウンドは、当時の著名なサイケデリックロックのメドレーだったが、このサウンドトラックに関しては、恐らく2012年に再制作されたものだろうと思う。ちなみに、当時の資料によると、本来はオーディオテープから別出しでサウンドトラックを再生する形態だったらしい。
作品の内容は以下の通り。

・スタジオ(ユニット・プロ)にたむろする仲間たちの様子を捉えた主観ショットから映画は始まる。撮影は手持ちカメラによるもので、このスタイルは映画の最後まで持続する
・スタジオの扉を開け、アパートの外に出る。時間帯は昼間。仲間たちが撮影者にカメラを向ける
・路上を歩き、車の助手席に乗って移動。斜めになったカメラ位置のまま風景が流れる
・新宿の街頭に到着、ゼロ次元による担架に女性を乗せて運ぶというパフォーマンスを、仲間たちと共に追う
・一瞬だけ建物の中に入り、またすぐに街頭に出て、ゼロ次元のパフォーマンスを追う
・再び百貨店の中に入り、またすぐに街頭に出て、仲間と共に撮影し合いながら歩く。警官と議論するヘルメット姿の活動家も見られる
・地下道に下りて、仲間と共に撮影し合いながら歩く
・地上に上がって、再びゼロ次元のパフォーマンスを追う。クリスマスの広告があるので冬頃の撮影と推測される
・女性が担架から降り、ガスマスクの男が担架に乗る。ゼロ次元らしい身振りの行進
・ゼロ次元が地下道へ下り、万歳三唱を行う。ゼロ次元のメンバーは、幼い息子の手を引いて歩き続ける
・一旦映像が途切れて、時間帯が夜に飛ぶ。ゼロ次元のパフォーマンスは続き、片手を上げて全裸での行進が行われる
・新宿紀伊國屋前に到着したゼロ次元は、タクシーに乗り込んで手際よく立ち去る。カメラは野次馬の群衆を撮影し続ける
・再び地下道に下りて、柱に据えけられた美容院の広告をしばらく撮る
・地下道の電光表示の時計を定点撮影する。このフィックスショットは8:59から開始され、9:03になると同時に終了する

当時の猥雑な新宿の風景と、ゼロ次元のパフォーマンスを被写体とすることで時代の空気を映画に取り込み、時間を分裂させることによって、観客が本作を見ている瞬間それ自体を唯一無二の現象として生じさせる。本当に凄い作品であると思う。
今回のバージョンでは宮井を含む3人のダンサーのパフォーマンスと、パーカッション奏者による演奏と、ニューエイジ的なBGMが加えられていた(ダンスの間だけ、作品本来のサウンドトラックからBGMにフェードイン~フェードアウトする)。


『シャドウ』(1968, 16mm×2, 30min)
『シャドウ』も2台の16mm映写機によるエクスパンデッドシネマであるが、こちらは二つのプロジェクションを横に並べた形態をとる。映写機に掛けられる2本のモノクロフィルムの内容は、基本的に同一だが、像のみが反転しており、左スクリーンにはポジ像が、右スクリーンにはネガ像が映し出される(今回は、序盤では左スクリーンが2秒遅く映写され、中盤以降は右スクリーンが10秒以上遅く映写されていた)。
作品の内容は、街を歩きながら、手持ちカメラを用いて路上や壁面に落ちた自分自身(宮井本人)の影を撮影し続けるというものである。撮影者は、ひたすら自分の影をファインダーに収めながら歩き続けるのだが、映画の最後で立ち止まり、壁に落ちる自分の影を、正面像としてフィックスショットで撮影する。そこにはある種の自己客体化と、それにともなう空虚感が滲んでいる。
サウンドは、2012年の「映像をめぐる冒険 vol.5 記録は可能か。」で観たときにはサイレントだったように記憶している。当時の資料によるとサイレントの上映の場合もあるし、オーディオテープから別出しでサウンドトラックを再生していた場合もあるようだ。
今回のバージョンでは、客席前方に巨大な布を張ってそれをスクリーンとして、リア側から2台のHDプロジェクターでデジタル素材を投影していた。スクリーンとプロジェクターの間では、宮井を含むダンサーがパフォーマンスを行い、その影がスクリーンに落ちるという演出も加えられた。さらに、パーカッション奏者の演奏に、大城の小型アンプを使用したパフォーマンスも加えられた。

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第10回恵比寿映像祭「インヴィジブル Mapping the Invisible」会場展示@東京都写真美術館

本年の恵比寿映像祭は、「インヴィジブル」という総合テーマによって不可視なものを可視化する、そのような映像が集められていた。このエントリーでは展示セクションにある作品について述べたい。
まず、イタコの老女の語りに戦後日本史を仮託する、ナターシャ・ニジック&基丸謙による三面スクリーンのインスタレーション作品『恐山』(2018)や、ポーランドのスポーツ施設に集う男性たちをモチーフとした、ガブリエラ・エレーラ・トレスによるシングルチャンネル作品『適切な運動による神への近寄り方』(2016)などの作品では、抽象化な物語による映像のなかに、社会的なものの反映を発見することが可能であった。しかしこの方向では、どこまで行っても不可視なものの分かりやすい翻訳、あるいは比喩としての可視化にとどまるだろう。この二作品は本来良い作品であり、他の展示作品よりも抜きん出ていると思うのだが、この総合テーマの元では、どうしても安直なものに見えてしまった。
他方、メディアに馴致される黒人のイメージを渉猟する、マルティーヌ・シムズの映像インスタレーション作品『レッスンズI-LXXV』(2014)や、ISILの攻撃を生き延びた聴覚障害の少年の身振りによって凄惨な出来事を可視化させる、エルカン・オズケンのシングルチャンネル作品『ワンダーランド』(2016)などの幾つかの作品は、事実そのものを撮影した映像ではないが、間接的な映像を操作することによって翻訳や比喩であることから逃れていた。そこには不可視なものが二重化された形で残存しているといえる。この方向にある作品は興味深いものであり評価したい。



『Shutter Interface』(1975, 16mm×4, Endless)
しかしながら、展示作品のどれとも異なる形で、総合テーマを基底面から批評する作品だと思えたのは、ポール・シャリッツの『Shutter Interface』(1975)だった。言うまでもなくシャリッツは、トニー・コンラッドやマイケル・スノウ、ジョージ・ランドウ、アニー・ゲールなどと並びアメリカ・カナダの構造映画を代表する作家である。シャリッツといえば、世間では『T,O,U,C,H,I,N,G』(1968)などの作品におけるカラーフリッカーが有名だが、それは光の明滅による眼への刺激にとどまらず、ある単一色のカラーフレームが、その前後に配置されたカラーフレームと干渉し合うことで「別の色彩」を生成するという特性を備えている。その「別の色彩」とは、もちろん物質としてのフィルム上に存在するものではなく人間の知覚過程において生じるものであるが、シャリッツの映画には、このような整然としたモダニズム的構築を超える自壊の契機が、常に内包されている。そして、これは総合テーマである不可視性の問題にも関わってくる。
具体的な作品の構造を説明したい。本作は、水平に並べられた4台の映写機によって、4本のカラーフリッカーのループフィルムをエンドレス上映するものだが、それらは隣接する画面の三分の一を相互に重ね合わせる形で壁面にプロジェクションされる。シャリッツの作品では、あるカラーフレームが前後のフレームと干渉し合うことによって、「別の色彩」として生成されることは先に述べた通りだが、本作ではそれに加えて、隣接する画面が相互に重なり合うことによって、スクリーン上でも加法混色が行われることになるのだ(外見上は水平方向に7つの色彩が並ぶことになる)。それによって、不均質な集合態として構成された、恐ろしくいびつな映画が立ち上がるのである。電子音のパルスによるサウンドトラックは、4本のフィルム全てにオプチカルで収録されており、各映写機につき1chの小型スピーカーで再生される。それによって電子音のパルスは、プロジェクションされる映画と同じくクラスター状の塊となる。
本作では、いかなる形においても社会的な事象はスクリーン上に現れない。しかし本作は、映画における知覚の臨界、すなわち可視/不可視の境界を指し示すことによって、私たちの知覚する外部の世界が、容易に認識できる断片的な刺激や情報によって、半ば自動的に構成された仮設的なものに過ぎず、その足元には不可視の領域が広がっていることを明らかにする。エクスパンデッドシネマとは単純な意味での上映空間の拡張などではなく、整然とした知覚過程や意味付けを自壊させることで、観客の意識のなかに仮設されている世界(ここで言う「世界」には、当然ながら社会的なものも含意される)のイメージを転倒させる、そのような経験の試みなのである。

第10回恵比寿映像祭「インヴィジブル Mapping the Invisible」@東京都写真美術館


第10回恵比寿映像祭「インヴィジブル Mapping the Invisible」
会場:東京都写真美術館、日仏会館、ザ・ガーデンルーム ほか
会期:2018年2月9日〜2月25日
https://www.yebizo.com/jp

本年で10年目となる恵比寿映像祭は「インヴィジブル」というテーマにて開催された。数年前に始まったような感覚にとらわれて、もうそんなになるのかと驚く。第1回の恵比寿映像祭が開始された2000年代後半は、日本国内の実験映画をめぐる状況はとにかく閉塞的で、牧野貴が[+]上映会を開始するなどして、新しい風を吹き込もうと奮闘していた時期にあたる。第1回開催後の打ち上げで、初代ディレクターの岡村恵子、牧野貴、そして何故かそこにいたGURUGURUのマニ・ノイマイヤーなどと恵比寿で飲んだ時は、実験映画専門の映像祭ではないが、これで実験映画をめぐる状況も少しは風通し良くなりそうだという予感をおぼえたものだった。その予感は期待通りに運んだ部分もあるが、なかなか難しい部分も残されたままだ。少なくとも、まだ劇映画と実験映画を区分している障壁は完全には消えていない。

話はそれるが、ここでいう障壁とは「1:上映場所のプログラミングの傾向」「2:評論家・研究者の言説」「3:観客の動員数」に表れる。そのうち、この10年間で変わったものといえば「3:観客の動員数」だろう。この2月は上映イベントが集中していたので、私は、恵比寿映像祭の上映イベントや、自分が関わったアップリンクでの「再:生成 相原信洋」、VACANTでの「聴覚と視覚のはざまで 恩田晃の実験室 恩田晃+牧野貴」、アテネ・フランセ文化センターでの「ストローブ=ユイレの軌跡 1962-2016」の観客数を、なんとなく毎回目算していた(何をやっているんだと思いながら)。すると、確証を得たことがあった。それは、実験映画寄りのイベントが、シネフィル趣味のイベントの動員に迫るサイズ感になっていたという事実である。アップリンクでいえば、私は行けなかったが七里圭が続けている「映画以内、映画以後、映画辺境」のシンポジウムが、アップリンク1階(60席程度)がほぼ埋まるくらいだったらしいし、同じ場所で2016年に開催した松本俊夫のイベントや、今回の相原信洋のイベントも、同一プログラムの複数回の動員数を合わせたらそれと同程度である。VACANTでの恩田晃+牧野貴も60名くらいなら余裕で入っていたし、今回の恵比寿映像祭での「Beyond the Frame」に至っては100名以上入っていたと思う。対して、アテネの「ストローブ=ユイレの軌跡 1962-2016」については、最終日のトーク付きプログラムで100名以上(120名くらい?)は入っていたと思う。実験的な映画も、作家の身内に向けてのものではなく対外的な準備を整えれば、ある程度の動きを作り出せるようになってきている気がするし、単発の大きなイベントなら、観客動員のサイズ感としては、シネフィル趣味のイベントと大差ないといえる。しかし、「1:上映場所のプログラミングの傾向」「2:評論家・研究者の言説」となると10年前と殆ど変化はなく、実験映画をちゃんと観ている評論家・研究者なんて、相変わらず片手で数えられる状態だ。ここから分かることは、観客は変化に柔軟である一方で、プログラマーや評論家・研究者は、長期的に積み上げてきた自分の専門性を簡単に変化させる訳にもいかず、今まで通りのスタイルで続けているということなのだろう。そして若い評論家・研究者は、師匠や先生の教えを守ってシネフィル的教養を育み、実験映画をそもそも観ないという言説的サイクルが循環することになる。(この点は自分の課題でもあるので、今後の仕事として考えたい)。

話を戻すと、そのような国内状況のなかで、二代目ディレクターに田坂博子が就いて恵比寿映像祭は新たな段階に入ったといえる。今回のテーマが、昨年、同館で開催された「エクスパンデッド・シネマ再考」の延長線上にあることは、映画研究者の平沢剛とジュリアン・ロスの協力したプログラムがあることからも自明だろう。私が観たのは、展示の他に関連イベントの「岡部道男特集―アンダーグラウンドとキャンプ」「岡部道男特集―上映+スペシャルトーク」「略称・連続射殺魔 35mmフィルム上映」「不可視であるなら、私が。 出光真子おんなのさくひん」「エクスパンデッド・シネマ・パフォーマンス―Beyond the Frame」「透かしみる1―ピクセルの裏側」「透かしみる2―舞台裏」であった。

続くエントリーにて、これらを個別にレヴューして行きたいと思う。

「小杉武久 音楽のピクニック」@芦屋市立美術博物館

「小杉武久 音楽のピクニック」
会場:芦屋市立美術博物館
会期:2017年12月9日 ~2018年2月12日
http://ashiya-museum.jp/exhibition/exhibition_new/11161.html

芦屋市立美術博物館にて、音楽家・小杉武久の展覧会「小杉武久 音楽のピクニック」が開催されている。芦屋市立美術博物館は「小杉武久 音の世界『新しい夏』」を1996年に開催した、小杉とは所縁のある美術博物館であり、他にも「刀根康尚 パフォーマンス&トーク」(2001年)や「美術と音楽の一日『rooms』」(2016年)など、稀にではあるが実験的な音楽に関わるイベントを開催していることでも知られる。

さて、小杉は作曲家であると同時に、即興演奏やサウンドアートに取り組み、音楽の概念(あるいは音を聴くことの枠組み)を拡張してきた、戦後日本音楽における重要人物である。しかしながら、小杉は、その音楽に対する独特な態度によって、これまで現代音楽や即興音楽、そして現代美術のシーンからも微妙に距離を取って批評されてきたと思う。よって、長年の創作活動が全体的に提示されるのは、今回が初であると言い切ってしまっていいだろう。本展覧会は、会場を5つの章によって区切ることで構成されている。各章の年代とタイトルは以下の通り。

第1章 グループ・音楽から反音楽へ(1957~1965年)
第2章 フルクサスからインターメディアへ(1965年~1969年)
第3章 タージ・マハル旅行団(1969~1977年)
第4章 マース・カニングハム舞踊団(1977年~)
第5章 サウンド・インスタレーション

これらの展示は小杉の活動歴を、アーカイブ資料を中心として極めてクリアに浮かび上がらせる。ここで興味深いのは、本展の展示方法のなかに(この手の展覧会にありがちな)音楽をヘッドホンで聴かせるような仕掛けが一切なく、これまで出版されてきた小杉のレコード・カセット・CDの紹介すらも極一部にとどめられていたことであろう。小杉は作曲の名において音を固定し、資産化することに反対してきたが、そのような厳しい態度はここでも一貫している。

ともあれ、私は第1章から第4章までのアーカイブ資料の展示を通して見ることで、小杉の活動の全体像を、初めて包括的に考えることができた。第1章では、東京藝術大学在学中にジャズではなく現代音楽の文脈上で、それを乗り越えるべく結成された即興演奏グループである「グループ・音楽」の活動に始まり、ネオダダやハイレッド・センター、VAN映画科学研究所などに集った、反芸術を標榜する作家たちとの活動の数々が紹介される。第2章では、1965年にフルクサスのジョージ・マチューナスの招聘を受けて渡米し、1967年に帰国するまでの期間に展開された、ナムジュン・パイクを初めとするニューヨークの前衛たちとの活動が紹介される。実験映画の文脈から見れば、エクスパンデッド・シネマの重要な催しであった「New Cinema Festival」において、小杉が『Film & Film #4』を上演していたことは見落とすべきではないだろう。第3章では、1969年から1977年にかけて活動した、様々な場所で長時間の即興演奏を行なうグループである「タージ・マハル旅行団」が紹介される。第4章では、1977年より始まるマース・カニングハム舞踊団の専属音楽家としての仕事を軸に、サウンド・インスタレーション(オーディオ・ヴィジュアル作品)を含む、今日に至るまでの活動が紹介される。そして第5章では、小杉のオーディオ・ヴィジュアル作品の実物が、館内のホールや通路階段に、計10点展示される。これらの作品は、光や風などの周辺環境の変化を音に変換して可聴化する作品であり、小杉の即興演奏に通底するコンセプトを備えている。

次に感想として、二つのことを述べたい。

1:まず、こうして小杉の活動歴を振り返ったとき、私はこれまで気にならなかった「タージ・マハル旅行団」の活動に、若干の違和感を覚えた。これは、1960年代の反芸術・反音楽の渦中にいた時期の小杉の仕事と、渡米後のフルクサス周辺での仕事と、再渡米後のカニングハム舞踊団での仕事には、一貫したコンセプトあるように思えるが、「タージ・マハル旅行団」だけが、小杉の活動歴のなかで異質なものに見えたということである。ただし、この言い方ではまだ正確さを欠く。川崎弘二氏との個人的な雑談の中で指摘されたことをヒントとして、より正確に言うならばこうだ。「タージ・マハル旅行団」は時期によって演奏が変化するので、「タージ・マハル旅行団」が世界各国での旅を終えて帰国してから、解散に至るまでの後期が異質なものに見えた、ということである。初期の「タージ・マハル旅行団」の演奏からは、偶然生まれた微細な音が寄り集まり、長い時間をかけて変化していくような印象を受ける(『Live In Stockholm 1971』)。それに対して後期の「タージ・マハル旅行団」の演奏からは、ジャーマンロック的というか、民族音楽的なサイケデリック音楽の方向に自らを縛っているような印象を受ける(『July 15, 1972』『August 1974』)。このような「タージ・マハル旅行団」の変化は、時代精神の反映だったのかもしれないが、音の自発性を追求する小杉本来の思想とは、乖離していったのではないかと思う。そこで小杉は、この状況を打破すべく、カニングハム舞踊団の専属音楽家に就任することを選択したのだろう。カニングハム舞踊団での小杉の演奏は、それ以前よりも、より厳格に音の自発性を追求する方向に進んだように思える。私が小杉の仕事に触れたのは1990年代中頃だったが、その時点の私にとって小杉は、極めて厳格な音への態度によって、ポピュラー音楽からも主流の現代音楽からも隔絶した孤高の存在として映った。

2:唐突だが、私は昔から、即興演奏よりもテープ音楽に強く惹かれてしまう。これは要するに、編集によって作られたものに強い関心を示しているということである。自分が映画・映像を専門としていることも関係しているのだろう。私は、編集とは時間と空間を再編成することによって、聴取者の知覚に作用し、意識における単線的な時間のあり方や認識を、不確定な方向へ向かわせるものだと考える。そして、またしても川崎氏との個人的な雑談の中で指摘されたことをヒントとして、話を小杉に結びつけるならこうだ。小杉にとっての即興演奏とは、著書『音楽のピクニック』に所収の、ジョン・ハダックや高橋悠治との対談などで語られているように、単線的な時間の流れを無効化して、不定形な空間のなかで音の自発性を生起させるものであったが、単線的な時間や空間のあり方に対立するという意味において、即興も編集も最終的には一致するのかもしれない。取り留めのない感想だが、そのようなことをふと思った。そうであれば、私が小杉の仕事に惹かれ続けてきたことも説明が付くだろう。(そのような編集による音楽に取り組んでいる音楽家として、かつて小杉ともカニングハム舞踊団で協働したジム・オルークの名前を挙げておきたい。)

このように、「小杉武久 音楽のピクニック」は小杉の活動を全体的に回顧し、新たな思考を準備する、素晴らしい展覧会だった。なお展覧会に合わせて、川崎氏のengine booksからは、『音楽のピクニック新装版』『Instruction Works』『小杉武久の映像と音楽』という三冊の本が出版されているので、資料価値の高い展覧会カタログと共に、可能であれば全部入手していただきたいと思う。詳細は下記を参照のこと。
http://kojiks.sakura.ne.jp/kosugi.html

最後になるが、今回の展覧会では小杉作品のコンサートなどは開催されない。さすがにご高齢ということもあるのだろう、2016年のあいちトリエンナーレで催されたコンサート「MUSIC EXPANDED #1」「MUSIC EXPANDED #2」が現在のところ最後の機会となっている(こちらのレヴューを参照のこと)。ファンの個人的な意見としては、小杉の作品は本人の身体性と結びついたものであると思うので、他の演奏家によるリアライズは不本意なのかもしれないが、それでもなお、小杉の作品を未来の聴衆に届ける方法を考えていただければと思う。


付記:今回の展覧会では、小杉作品のコンサートが開催されない代わりに、「小杉武久演奏記録」とカニングハム舞踊団の映像が上映される。さらに、小杉が音楽を担当した映画・映像作品も「現代美術とのかかわり」「PR映画・記録映画・科学映画」として上映される。私も先述の『小杉武久の映像と音楽』に解説を寄稿したが、松川八洲雄・北村皆雄・康浩郎の作品などは、これまで見落とされてきた作品なので、この機会に是非観ていただきたいと思う。いずれも作家性が強く、演出もアヴァンギャルドで、松本俊夫が言うところの前衛記録映画と形容するほかない作品です。詳細は下記を参照のこと。
芦屋市立美術博物館 特別展「小杉武久 音楽のピクニック」 上映会(PDF)

2018年1月27日(土)
プログラム1「小杉武久演奏記録」
「朝日ニュース これが音楽だ!」(1961)
「Spectra(video version)」(1992)
「音の世界 新しい夏 芦屋市立美術博物館」(1996)
「二つのコンサート 国立国際美術館」(2009)

2018年1月28日(日)
プログラム2「現代美術とのかかわり」
城之内元晴「ハイレッド・センター シェルター・プラン」(1964)
城之内元晴「Wols」(1964/70s)
中谷芙二子「卵を立てる」(1974)※抜粋
池田龍雄「梵天」(1974)
島袋道浩「小杉武久さんと能登の桶滝に行く」(2013)
島袋道浩「小杉武久さんと能登の見附島に行く」(2013)

2018年2月10日(土)
プログラム3「PR映画・記録映画・科学映画」
松川八洲雄「ある建築空間」(1964)
北村皆雄「神屋原の馬」(1969)
康浩郎「オープン・スペースを求めて」(1970)
杉山正美「脳と潰瘍」(1971)
杉山正美「スキンカラー」(1974)

2018年2月11日(日)
プログラム4「マース・カニングハム舞踊団」
「スクエアゲーム・ビデオ」(1976)
「ローカル」(1980)
「チェンジング・ステップス」(1989)
「パーク・アベニュー・アーモリー・イベント」(2011)

告知「再:生成 相原信洋 Re:GENERATION Nobuhiro Aihara」


「再:生成 相原信洋 Re:GENERATION Nobuhiro Aihara」
期間:2月10日(土)~2月16日(金)
会場:渋谷UPLINK
料金:1回券1,500円/会員1,000円
http://www.uplink.co.jp/movie/2018/50105

2月10日(土)【Aプログラム】17:30~18:50【Bプログラム】19:30~20:41
トーク:ひらのりょう(アニメーション作家)
    土居伸彰(ニューディアー代表/新千歳空港国際アニメーション映画祭)

2月11日(日)【Cプログラム】17:30~18:50【Dプログラム】19:30~20:39
トーク:木下小夜子(広島国際アニメーションフェスティバル)
    阪本裕文(NPO法人戦後映像芸術アーカイブ/稚内北星学園大学教授)

2月12日(月)【Aプログラム】17:30~18:50【Eプログラム】19:30~20:36
トーク:牧野惇(P.I.C.S./映像ディレクター)
    阪本裕文

2月13日(火)【Cプログラム】21:00~22:20

2月14日(水)【Bプログラム】19:30~20:41
トーク:石田尚志(美術家・映像作家)
    西村智弘(美術・映画評論家)

2月15日(木)【Dプログラム】21:00~22:19

2月16日(金)【Eプログラム】21:00~22:16

精緻なドローイングとサイケデリックな色彩によって混沌とした世界を描き出した、日本を代表する個人アニメーション作家・相原信洋[1944〜2011]。2011年に滞在中のバリでの急逝より、今年で早くも8年となる。アニメーションの世界にとどまらず、実験映画にも通じるアヴァンギャルドな映像世界に影響を受けたアーティストは数多い。70本に及ぶその膨大な作品群は、2016年よりフィルム整理とデジタル化が進められていたが、このたび全ての作業が完了した。今回の上映では高精細なデジタルで蘇った相原の作品を、年代ごと5プログラムに分けて一挙上映する。

Aプロ「記録するアニメーション[1969-1973]」では、当時の政治的な空気を感じさせる『Stop』や、作家の幼少期の記憶とアニメーションが混ざり合った『やまかがし』『みつばちの季節は去って』などが上映される。
Bプロ「拡張するアニメーション[1974-1981]」では、アニメーションの枠組みを超えて外の世界に拡張してゆく『Stone』に連なる作品と、精神の内奥をドローイング・アニメーションによって探求する『妄動』に連なる作品が上映される。
Cプロ「Animated Psychedelia Ⅰ[1974-1981]」では、『逢魔が時』『映像(かげ)』によって確立される、相原信洋ならではの、ドローイング・アニメーションによるサイケデリアが炸裂する。その強度はDプロ「Animated Psychedelia Ⅱ[1982-1991]」において増大してゆき、『ZAP CAT』で極点に到達する。
Eプロ1「Small Animation[2009-2010]」は、晩年にアーティスト・イン・レジデンスで制作された、小さな工芸品のようなアニメーション群を上映するほか、Eプロ2「未編集+レア映像」では、エクスパンデッドシネマ的なパフォーマンスのための『LIGHT』や、『Stone』の未使用素材、完全なかたちで現存しない作品の残存部分などを上映する。

主催:UPLINK・NPO法人戦後映像芸術アーカイブ・阪本裕文・五十嵐健司
協力:大島治、大西宏志、Lumen Gallery
※上映素材のデジタル化作業は、JSPS科研費15K02184の助成を受けたものです。


上記の通り、2016年より開始された相原信洋作品のデジタル化作業が完了したので、その全成果を渋谷アップリンクにて一挙上映します。2017年4月に京都ルーメンギャラリーで開催された「相原信洋七回忌追悼映像展」と、2017年8月に札幌第2マルバ会館で開催された「LOTUS 相原信洋作品上映会」の東京編となります。上映される作品は、個人作品のみで全部で70本にも及びます。2016年の春に京都造形大にお伺いして、保管されていたフィルム缶の山を見た時には、これはかなりの難作業になりそうだなと思いましたが、本当にそうなりました。その後、フィルム整理を開始したのですが、画ネガが未編集だったり、そもそも音ネガがなかったり、上映用プリントにバージョン違いがあったりして、デジタル化の作業は結局2017年の夏の終わりまでかかりました。細かい注文に対応してくれたイマジカや、フィルム整理に協力してくれたフィルムセンターの方には感謝です。ちなみに、デジタル化作業の完了した相原作品のネガや上映用プリントは、全てフィルムセンターに寄贈されました。これで一安心なので、あとはデジタル化した上映素材を観てもらう機会を幅広く作ってゆくだけです。

トークゲストについても少し書いておきます。10日はWIREDでの連載「ワールドアニメの生態学」で新鮮な対談を繰り広げたひらのさんと土居さんに、相原さんをテーマに自由にトークしてもらいます。11日は相原さんの永年の理解者であった広島国際アニメーションフェスティバルの木下さんに、相原さんとのかかわりや思い出話をお聞きします。そして、12日はメジャーなミュージシャンのMVを手がけたりしているP.I.C.S.の牧野さんに、相原さんのワークショップで学んだ思い出をお聞きし、教育者としての相原さんの側面に光を当てます。14日は相原さんに匹敵するアニメーションの異端といえる美術家・映像作家の石田さんと、実験映画に詳しい西村さんにアナーキーなトークをキメてもらいます。それぞれ異なる視点からのトークが聞けると思うので、よろしくお願いします。

「グリーンランド」 中谷芙二子+宇吉郎展@銀座メゾンエルメス フォーラム

「グリーンランド」 中谷芙二子+宇吉郎展
会場:銀座メゾンエルメス フォーラム
会期:2017年12月22日~2018年3月4日
http://www.maisonhermes.jp/ginza/le-forum/archives/405275



現在、銀座のメゾンエルメス フォーラムにて中谷芙二子+宇吉郎による展覧会「グリーンランド」が開催されている。中谷芙二子は、「ビデオひろば」に参加して最初期のビデオによる表現を開拓した先駆的なビデオアーティストであり、E.A.T(Experiments in Art and Technology)との協働による日本万国博覧会ペプシ館(1970)に始まる霧の彫刻でも知られる芸術家である。そして雪の結晶の研究で著名な科学者であり、岩波映画製作所の設立にも深く関わった中谷宇吉郎は、芙二子の父親である。この展覧会は、科学と芸術という異なる専門に取り組んできた親子の仕事を併置して、両者に通じ合うものを浮かび上がらせるものとなっている。

エレベーターを降りて展示フロアに足を踏み入れると、そこには芙二子がアメリカ留学中に描いた抽象的な油彩画が二点掛けられているが、テクノロジーと深く関わった中谷の原点が、伝統的な絵画にあるというのは興味深い。そして、右の展示室に進むと、そこには1957年から1960年にかけて行われた、宇吉郎のグリーンランド調査に関わる写真や資料が展示されているほか、芙二子が1994年にグリーンランドを訪れた際のビデオ映像がプロジェクションされている。

そして、この展示室の奥の開けた空間には金属製の機材が設置されている。これが今回の展示の中心となる『Glacial Fogfall』(2017)のための噴霧器である。この噴霧器からは定期的に大量の霧が噴出し、メゾンエルメスの内部空間を濃霧で満たす。メゾンエルメス外壁のガラスブロックは氷を思わせる質感を持っているが、そこから芙二子は今回の展覧会のタイトルである「グリーンランド」を着想したらしい。観客は非日常的な濃霧のなかで、この環境と、自分の身体との関係性を探ることになる。



このような観客の身体を内包した環境への関心は、芙二子のビデオアートのコンセプトとも共鳴している。左の展示室では、宇吉郎の用いた器具と研究成果である写真やファイルと共に、芙二子が1970年代に用いていたポータパック(ビデオカメラとレコーダーが分離した、初期の携帯型ビデオ機器)と、ビデオ作品『モナリザのしっぽ』(1974)と『風にのって一本の線を引こう』(1973)が展示されている。前者は、当時大きなブームとなった東京国立博物館での名画『モナリザ』の展示を観るため、長い行列に並んでいる人々にインタビューして周り、その様子を捉えた作品である。これは、『水俣病を告発する会―テント村ビデオ日記』(1971~1972)に始まる、ビデオによって社会的なコミュニケーションを媒介するというコンセプトに連なる作品だといえる。後者は、1973年に京都で開催された「映像表現’73」に出品されたビデオインスタレーションための映像であり、蜘蛛が巣を張る様子が長回しで撮影されている。この二作品は、共に観察対象となる環境をビデオによって媒介する(=可視化する)という性質を持っているが、それは芙二子の他のビデオ作品にも共通するものだといえる。その他、展示室の奥のモニターでは、過去に行われた霧の彫刻の記録映像が上映されており、芙二子の創作活動を全体的に捉えた、バランスの良い展示になっていた。

科学者と芸術家という異なる専門に進んだ親子であるが、その環境への関心と観察眼は深く通じ合っていたことがよく伝わる、素晴らしい展覧会だったと思う。ガラスブロックを透過した外光との調和が見事なので、可能であれば晴れた日の昼間に観に行くことをお勧めしたい。

DVD/Blu-ray 2017

もう年が明けてしばらく経ってしまったが、2017年に発売もしくは再発(発掘)されたDVD/Blu-rayで、重要なものを以下に挙げておきたい。



・Alan Schneider, Samuel Beckett – Film(Milestone Films|Blu-ray)
サミュエル・ベケットの脚本、バスター・キートンの主演によるコンセプチュアルな前衛映画『フィルム』(1965)。古典的な作品だが、Blu-rayで観られるようになったことの意味は大きい。作品コンセプトについては、菊池慶子「ベケット『フィルム』試論」(http://www.waseda.jp/bun-france/vol27.htm)に詳しい。



・Fernando Birri – Org(Filmgalerie 451|DVD)
年末に亡くなったフェルナンド・ビリは、ラテンアメリカにおける映画運動の重要人物であるが、政治的理由で1960年代半ばから1980年代半ばにかけてイタリアに亡命していた。面白いのは、その期間に10年以上もかけて、3時間にも及ぶ長大な実験映画『ORG』(1967-1978)を制作していたことだろう。



・Peter Tscherkassky – Exquisite Corpus(Index|DVD)
言わずと知れたオーストリアの実験映画作家ペーター・チェルカススキーのスーパー8による初期作品4本(1981〜1989)と、35mmによる近作『The Exquisite Corpus』(2015)を収録したDVD。アプローチはそれぞれの作品で異なるが、この作家に一貫する支持体としての映画フィルムへの執着を確認することができる。



・Jean Rouch – Eight Films by Jean Rouch(Icarus Films|DVD)
・Jean Rouch – Le cinéma Léger(Editions Montparnasse|DVD)
生誕100年ということで国内でも特集上映が行われた、民族誌映画の代表的作家ジャン・ルーシュの作品集がまとめてリリースされた。前者はDVD4枚に8本、後者はDVD10枚に28本収録(後者は年末にリリースされたので、まだ手元に届いてないが)。その物量にも驚くが、それでもフィルモグラフィーは網羅できない。



・Abel Gance – J’Accuse édition numérotée(Gaumont|Blu-ray, DVD)
アベル・ガンスの『戦争と平和』(1919)は幾つものバージョンがあることで知られるが、この巨大なボックスセットの目玉は、1938年のリメイク版を素材として、1956年に三面ポリヴィジョンで上映された『マジラマ/戦争と平和』の復元版の収録であろう。中央スクリーンに対してシンメトリーに配置される左右スクリーンは、オカルトめいた終盤の展開と相まって強烈なトラウマを観客に与える。資料的価値は高い。



・クリス・マルケル – ラ・ジュテ(角川書店|Blu-ray)
静止画像で構成されたSF短編映画としてあまりに有名な、クリス・マルケルの『ラ・ジュテ』(1962)が、遂にBlu-rayになった(しかも日本盤)。このBlu-rayの、元々の写真の網点がはっきりと見える精細なスキャンのクオリティは特筆ものである。モノクロの網点の上で映画フィルムの粒子は粟立ち、それによって観客は「これは写真を再撮影した映画なのだ」ということを明確に自覚する。そして、この明確化の意味が最も発揮されるのは、この映画の中で唯一、時間が動き出すあのシーンであることは言うまでもない。このBlu-rayを観て、私は、初めてこの映画を観た時に匹敵する衝撃を受けた。



・Toshio Matsumoto – Funeral Parade Of Roses & Avant-Garde Short Films(Cinelicious Pics|Blu-ray)
2014年より松本俊夫監督が取り組んできた劇映画『薔薇の葬列』(1969)4Kデジタル修復は、フィルムセンター所蔵の35mmオリジナルネガを使用して、イマジカで高解像度スキャンを行い、松本監督の監修を受けながら北米でデジタル修復が進められた。この最新のデジタル素材が、松本俊夫作品の映画史的な重要性を更に広めてくれることは間違いないだろう。
また、このセットには松本監督のセレクトによって『薔薇』の前後に制作された8本の記録映画・実験映画が、4Kもしくは2Kデジタル修復のうえ収録されている。このような劇映画と記録映画・実験映画を組み合わせた構成で作品集がリリースされるのは初めてのことであり、これによって松本監督の持っている越境性が広く知られるようになれば、それは素晴らしいことだと思う。