Toshio Matsumoto: Everything Visible Is Empty@香港Empty Gallery

Toshio Matsumoto: Everything Visible Is Empty
会場:香港Empty Gallery
会期:2017年9月9日〜11月18日
http://www.theemptygallery.com

NPO法人戦後映像芸術アーカイブから香港のEmpty Galleryに、2Kレストアされた松本俊夫作品のデジタルデータが貸し出され、2ヶ月間に渡って「Toshio Matsumoto: Everything Visible Is Empty」展が開催された。Empty Galleryが凄いという話は、ギャラリーとの話を繋いでくれた牧野貴さんから聞いていたので、会期終了までに観に行きたいなと思っていていた。そして、スケジュールがうまく合ってクロージング間際に観に行けることになった次第である。

Empty Galleryは香港の新しいコマーシャルギャラリーであり、ロケーションは高層ビルが立ち並ぶセントラルから離れた、香港島南部の香港仔の工業ビル街にある。このギャラリーはオーナーの方針によって、実験的なアーティストや即興音楽の紹介に主眼を置いているようで、いわゆるコマーシャルギャラリーとは異なる雰囲気を纏っており、高品質なインディペンデント・スペースといった趣きがある。直近では映画作家の牧野貴による『Takashi Makino: Cinéma Concret』(2016年12月13日~2017年2月17日)や、アメリカの現代美術家タケシ・ムラタによる『Takeshi Murata: Infinite Doors』(2017年3月22日~5月27日)を開催している。香港には現在のところ、大手のコマーシャルギャラリーやインディペンデント・スペースはあれど、現代美術を専門的に取り扱う公的美術館が存在しない。2019年には西九龍文化区に、大規模な公的美術館としてM+(エムプラス)が開館する予定であるが、そのような状況のなかで、このギャラリーは香港のアートコミュニティにおいて独自の存在感を放っている。

ギャラリーは、ビル高層階の2フロアに入っている。今回は壁を新たに作り直して、内壁を黒で統一するというコンセプチュアルな展示によって、まるで暗闇の迷路のような空間が生み出されていた。まずエレベーターの扉が開くと、密室のようなエントランスで『ホワイトホール』(1979)がプロジェクションされている。そして、エントランスの自動ドアを抜けて、暗闇の通路を手探りで進んでゆくと、香港的な調度品のあるレセプションルームにたどり着く。ここで解説書と配置図を受け取り、二つある通路のうち片方へ進むと『色即是空』(1975)がプロジェクションされている空間にたどり着く。この空間の内壁には微かな反射が生じており、眩暈を覚えるような秘教的な空間になっていた。

次にレセプションルームに引き返してもう一つの通路を進むと、細長い空間にたどり着く。ここでは一方の壁面に『ファントム=幻妄』(1975)が、もう一方の壁面に『石の詩』(1963)がプロジェクションされていた。

この空間の壁面中央には40cm程の隙間が空いており、その隙間をすり抜けると、透過型のスクリーンが吊るされた真っ暗で大きな空間に出る。そこでは、リア側から3台のプロジェクターによって『つぶれかかった右眼のために』(1968)がプロジェクションされており、観客は自由な位置から作品を眺めることができる。


本作は、フィルム上映の場合は3台の16mm映写機によって分割投影されるが、デジタル上映の場合はひとつに合成したバージョンを1台のプロジェクターによって投影することが多い。しかし、作家は本作に関しては3台のビデオプロジェクターによる分割投影も認めていたので、それに基づき今回の展示では高品質な2Kプロジェクターを揃えることによって、16mm映写機と遜色ない精細なプロジェクションが実現されていた。3台の2Kプロジェクターの間ではコンピュータ制御によって完全な同期が取られており、作家の意図に忠実なシンクロを保ちながら進行する。しかも、初演時に仕込まれたラストのストロボ発光まで再現されており、その上演形態は可能な限りオリジナルに近付けられていた(このストロボもコンピュータ制御による)。やはり本作は、分割投影によって上映されることで、中央のイメージの存在感が強烈に際立つ。私自身、分割投影で本作を見るのは久しぶりだったので、新鮮な発見が多数あった。

次は『ファントム=幻妄』と『石の詩』の空間に引き返して、その先にある吹き抜けの階段をおりて、下のフロアに向かう。この吹き抜けの空間では、4Kプロジェクターによって高めの位置に『エクスパンション=拡張』(1972)がプロジェクションされている。空間を撹乱するような作品配置は、作品がもたらす眩暈の感覚を強化していた。

階下に降りた空間では『西陣』(1961)がプロジェクションされており、翳りのあるモノクロ映像が暗闇に溶け出すような、静謐で緊張感のある場が生まれていた。

そして、通路の先に開けた隣室では『アートマン』(1975)がプロジェクションされており、強烈なイメージを通路のこちら側にまで届けていた。漆黒の内壁が映画館並みの徹底した暗闇を実現しており、ギャラリーの展示でここまで出来るのかと驚愕した。

この『アートマン』の空間の左隣の空間では、『エクスタシス=恍惚』(1969)がプロジェクションされている。この空間は狭く、スクリーンは観客を部屋の角に追い込むような形で配置される。作品のイメージと相まって異様な圧迫感が生じていた。

最後に『アートマン』の空間の右隣の空間につながる自動ドアを抜けると、打ちっ放しのコンクリートの空間に出る。そこではエピローグ的に『ブラックホール』(1977)が静かにプロジェクションされていた。

海外の美術館やギャラリーで、松本俊夫が単独展示されるのは初のこと。国内では2012年に久万美術館で「白昼夢 松本俊夫の世界」展があったが、それとはまた違ったコンセプトで、大変丁寧に映画を展示してくれたEmpty Galleryに敬意を表したい。今回の展示では、松本作品に存在する観客の身体に直接的に作用する眩暈の効果が、最大限に引き出されていたといえる。作家本人にも見てもらいたかった。最終日のクロージングイベントでは、即興演奏のコンサートで使用するスペースで、北米版Blu-rayがリリースされたばかりの作家監修による4Kレストア版『薔薇の葬列』(1969)の上映と、上映後のディスカッションが開催された。香港の観客たちは、自分たちが直面した2014年の香港の民主化デモと、『薔薇の葬列』の後景にある1960年代末の日本の社会状況を重ね合わせながら、熱心に作品を読み解いているようだった。

日本国内では東京写真美術館やイメージフォーラム、京都ルーメンギャラリーで、海外では北米・ヨーロッパでの4Kレストア版『薔薇の葬列』や、2Kレストア版の実験映画の上映が進められている。いずれも素晴らしいことだと思う。松本先生が語られていたように、これからも松本作品を観たいと思う人が、作品に容易にアクセスできるような環境が維持されることを願ってやみません。

Advertisements

エクスパンデッド・シネマ再考@東京都写真美術館

エクスパンデッド・シネマ再考
会場:東京都写真美術館
会期:2017年8月15日~10月15日
http://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-2845.html

東京写真美術館で、1960年代前半から1970年の日本万国博覧会までを射程にとらえた、エクスパンデッド・シネマについての企画展「エクスパンデッド・シネマ再考」が開催された。

エクスパンデッド・シネマ(拡張映画)とは、通常の映画館のような一台の映写機と一つのスクリーンという上映形態をとらず、映写機とスクリーンの関係を拡張して捉えなおした映画を指す。その始まりに位置するのは、1965年11月から12月にかけてニューヨークのフィルムメーカーズ・シネマテークで開催された「New Cinema Festival」であり、複数の表現領域が交差するイベントとして大きな意味を持つ。今日、エクスパンデッド・シネマは実験映画のサブカテゴリーとして認知されるきらいがあるが、カタログにて本展担当学芸員の田坂博子が述べる通り、それはフルクサスやハプニング、インターメディアなどの前衛芸術運動の実験を素地として展開したものだったといえる。そして、今回の展覧会の画期的なところは、映画という概念の境界線上にて試みられてきたエクスパンデッド・シネマの遺産をさらに拡張し、上映空間のみならず、社会的な空間へと押し広げて再考しているところにある(この点は、東京国立近代美術館にて2015年に開催された「Re: play 1972/2015」展が、実験映画との影響関係や同時代の社会的条件を敢えて捨象して、メディウムの問題に専念していた事とは対照的である)。このことは、60年代の建築インテリアとも深く結びついたディスコのデザインや、空気を使用した環境芸術(エアアート)の研究を行なっている映画研究者のジュリアン・ロスと、日大映研~VAN映画科学研究所を中心として60年代の社会運動と映画の交錯点を研究する平沢剛が企画に関わっていることからも明白である。日本のエクスパンデッド・シネマが、どのようにして当時の社会状況に拡張していったのかを、豊富な周辺資料とともに検証すること、それがこの展覧会の画期的な核心であったといえるだろう。

このエントリーでは、まず出品作品ごとにレヴューし、次に関連イベントであるシンポジウムについて概要を述べたい。出品されていた作品は、順番に次の通り。なお、本展の最後のセクションでは、ジャド・ヤルカットによるモントリオール万博の記録映像『EXPO67』(1967)も併映されていた。


・松本俊夫『つぶれかかった右眼のために』(1968、16mm x3、13min)
左右に並べられた二台の映写機から映像を投影し、さらにその上にもう一台の映写機からの映像を重ね合わせた、日本におけるエクスパンデッド・シネマの代表作。金嬉老事件、王子野戦病院に関わる警官とデモ隊の衝突、身支度をするゲイボーイ、ディスコで踊り狂うヒッピーなど、当時の社会的なドキュメントが元々の意味付けを解体され、断片化し、映像のフレームを超えて衝突する。松本のフィルモグラフィーにおいて、前衛記録映画から実験映画への転換点にあたる重要な作品であり、『安保条約』『西陣』『石の詩』のなかで取り組まれてきた、外部世界の対象を手がかりとして意識の内部を探り、それによって意識の惰性的な認識を突き崩そうとする数々の試みの延長線上におかれる。音楽は実験工房の秋山邦晴によるテープコラージュで、映像と同様にさまざまな音楽の断片が入り混じってゆく。草月アートセンターで開催されたシンポジウム「なにかいってくれ、いまさがす」での初演の際には、スクリーン脇に設置されたマグネシウムライトが、上映の終了とともに一斉に閃光を放つというハプニングをともなった。モノクロ/カラー。サウンド。本展ではデジタル版を上映。

・シュウゾウ・アヅチ・ガリバー『ウォッチ』(1966-1967、16mm、20min?)
新宿の有名なフーテンであり、コンセプチュアルな美術家であるガリバーは、60年代後半には積極的に映像に取り組んでいた。その系統はケン・ジェイコブスがパラシネマと呼ぶような、映画の形態をとどめないようなエクスパンデッド・シネマと、フルクサス・フィルムのようなコンセプチュアルな映画に大別することができる。本作は後者の系統にあたり、午後4時7分から約20分間の時計の秒針の動きが、固定ショットで映し出される。そして、この映画は現実の時間と一体化して、午後4時7分から一日に一度だけ上映される。モノクロ。サイレント。本展ではデジタル版を上映。

・飯村隆彦『デッド・ムーヴィー』(1964、16mm、NA)
飯村隆彦はフィルムとビデオの両方を手がける映像作家であり、映像と言語の関係を解体するコンセプチュアルなビデオ作品で知られるが、フィルム・インスタレーションやフィルム・パフォーマンスにも積極的に取り組んできた。飯村の作品には常に硬質なコンセプトが存在しており、それはイメージを破棄することも厭わないが、本作ではその傾向が特に強く表れている。スクリーンを背にして黒味のループフィルムを映写する映写機を設置し、そこに、フィルムを掛けていないもう一台の映写機からのランプ光を照射する。それによって、スクリーンには映写機の影が投影される。この影を単なる影ではなく、スクリーン上のイメージとして両義化することにより、「映画の死」はスクリーン上に象徴として表現される。モノクロ。サイレント。

・飯村隆彦『リリパット王国舞踏会』(1964/1966、16mm x2、12min)
『リリパット王国舞踏会』は、ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズの風倉匠を被写体として、様々なパフォーマンスの断片が展開される作品である。元々は1964年に制作されたシングルのフィルム作品であったが、本展では1966年に制作されたダブル・プロジェクション版が上映された。このダブル・プロジェクション版は1964年の『リリパット王国舞踏会』(No.1)を右に、1966年に作り足した『リリパット王国舞踏会』(No.2)を左に配置する形をとる。No.2は、No.1と同じ撮影素材を使用しているが、全体の構成は全く異なり、フィルムの表面にはナイフによるスクラッチが加えられている。このダブル・プロジェクション版は、飯村が現像所に発注した焼き増しプリントにミスがあったが、これを廃棄するのではなく活用しようという動機によって発案・制作されたらしい。モノクロ。サウンドは部分的にラジオ体操などのコラージュ。
この形態ではなかなか観られないので、以下に各パートの構成表を記しておく。この複雑な対比には、飯村のビデオ作品における、記号的な同一性を分解する試みが先取りされているといえる。No2を左に、No1を右にして表記した。

No2|No1
クレジット(文字を消すようなスクラッチ)|黒画面
A(風倉の三面図)|クレジット
A(風倉の三面図)|A(風倉の三面図)
E(小便する男の足元)|A(風倉の三面図)
C(口を開ける)|A(風倉の三面図)
C(口を開ける)|I(通行人を殴る)
I(通行人を殴る)|I(通行人を殴る)
I(通行人を殴る)|E(小便する男の足元)
K(横たわる女)|E(小便する男の足元)
K(横たわる女)|C(口を開ける) 
K(横たわる女)|H(商店街、駅)
G(新聞に消しゴム)|H(商店街、駅)
G(新聞に消しゴム)|K(横たわる女)
D(口腔)|K(横たわる女)
H(商店街、駅)|G(新聞に消しゴム)
F(男の体と肌のアップ)|G(新聞に消しゴム)
F(男の体と肌のアップ)|D(口腔)
F(男の体と肌のアップ)|J(タバコを踏む)
L(物干しパフォーマンス)|J(タバコを踏む)
L(物干しパフォーマンス)|F(男の体と肌のアップ)
M(団地の階段)|F(男の体と肌のアップ)
M(団地の階段)|L(物干しパフォーマンス)
M(団地の階段)|M(団地の階段)
J(タバコを踏む)|M(団地の階段)
B(口を開ける)|M(団地の階段)
B(口を開ける)|B(口を開ける)
風倉の写真|B(口を開ける)


・シュウゾウ・アヅチ・ガリバー『シネマティック・イリュミネーション』(1968-1969、Slide x18、NA)
本展の目玉といえる大掛かりなエクスパンデッド・シネマであり、円周状に張られた巨大な360度スクリーンに、18台のスライド映写機による静止画像が、緻密に調整されたタイミングで連続投影される(この18台という数は、いうまでもなく映画における18fpsのフレームレートから発案されたと想像できる)。銀座のディスコ「キラージョーズ」で上演されたが、今回の再演にあたっては改めてシーケンスを組みなおしたらしい。投影されるスライドは16mmカメラによって撮影された様々なイメージを素材としており、部分的に動画として展開する。具体的なイメージは、雑誌などからの引用と、ある男性のポートレート、足場を移動する男性のシルエットなど。また、これらのイメージは部分的にカラーフィルターで着色されている。作品としてのサウンドは元々存在していなかったと思われるが、今回の再演にあたっては、60年代のサイケやプログレがBGMとして流されていた。
モダニズム的な理解で考えると、「映画」とはフィルム・映写機などの物質的な支持体と、技法・演出などの技術的な支持体の集合であるといえるが、本作の真価は、このような「映画」を形成する支持体を解体し、再編成・再発明したところにあるといえる。さらに、本作が「キラージョーズ」で上演されたことは、このような映画の再編成・再発明(すなわち映画の革命)への衝動が、作家の中で、当時のサイケデリックカルチャーにおける意識変革と結び付けられていたことを示すものでもあり、そこは見落とすことができない。モノクロ/カラー。サウンド。

・おおえまさのり『ループ式 No.1/No.2/No.3』(1966、16mm、NA)
おおえまさのりは、金坂健二とともにジャパン・フィルムメーカーズ・コーポラティブや、ニューズリール・ジャパンの活動を担い、ベトナム反戦運動に関する記録映画や、サイケデリックカルチャーの思想性を表したフィルムを制作していた映像作家である。おおえの作品の面白いところは、サイケデリックなイメージを図像的に表現するだけではなく、サイケデリックな体験を観客に直接与えるところにある。本作は、黒画面に一本の白いラインが入った16mmフィルムをループ投影する作品であり、ラインが入る間隔の長短によって、3つのバリエーションが上映される。この説明だと何がサイケデリックなのか分からないと思うが、今回の上映空間である独立した暗闇の中で本作を観れば、誰もがその強烈な体験に打ちのめされるだろう。不意を突いて現れる白いラインは観客の網膜を切り裂き、視界に白い残像を残す。このような体験は日常生活においては存在しないものであり、人間の知覚の脆さや限界を正面から観客に突きつけ、これを拡張する作用を引き起こす。ある意味において大変怖い作品である。モノクロ。サウンドはラインの出現と同期した低い電子音。

・真鍋博『マリーン・スノウ』(1960、16mm、22min)
海底に棲む生物たちを主題とした、寓話的な切り絵アニメーション。1960年の草月ホールでの初演の際には、木島始による放送詩の朗読に加えて、観世栄夫のパフォーマンスが行われたとされる。確かに作中の黒画面のパートが長いので、その箇所でパフォーマンスを行ったのだろう。モノクロ。サウンドは詩の朗読とミュージック・コンクレート。
クレジットはメモを取ることが出来た範囲で、以下の通り。
真鍋博作品、作:木島始、音楽:林光、テープ制作:NHK、演出:遠藤利夫、観世栄夫、出演:観世栄夫、岸田今日子、小沢昭一、照明:今井直次、編集:守隨房子、制作:草月アートセンター、アニメーション三人の会

・金坂健二『ホップ・スコッチ』(1966、16mm、10min)
金坂健二は、ジャパン・フィルムメーカーズ・コーポラティブや、ニューズリール・ジャパンの活動の中心人物であり、アメリカのアンダーグラウンド映画が本格的に日本国内で紹介される契機をつくった映像作家・写真家である。その金坂による、ストーリーのある短編映画が本作。本作の音楽は刀根康尚によるものであり、1967年1月に草月ホールにて、音入れハプニングとして即興で録音を行うイベントが開催された。モノクロ。サウンド。
大まかな流れは次の通り。
雑踏で倒れた男が運ばれる。白人警官が廃墟を見て回り、花を踏みつける。中年女が路上にチョークで図形を描く。黒人の男と白人の女が抱擁し、その後階段を昇って消える。白人警官がやってきて、路上に描かれた図形の上でステップを踏む。少女が階段の上から警官を銃撃し、卵を投げる。警官が消え、彼の上着だけが残る。デモと警官の記録映像がコラージュ的に挿入される。

・城之内元晴『ドキュメント6・15』(1961、16mm、18min)
1961年6月15日の樺美智子追悼集会において上映された記録映画であり、1960年の安保闘争を振り返るという政治的プログラムに沿った作品を期待していた学生運動家たちの間に、紛糾を呼び起こした挑発的作品である。VAN映画科学研究所のメンバーたちが参加し、城之内が全体の構成を担当した。上演の際にはフィルム上映だけでなく、このために録音された「悪魔の歌」を流しながら、スライドの投影やハプニングをともなって展開された。このような挑発的表現は、当然ながら新左翼の政治主義への批判を動機とするものであると同時に、映画を現実の空間(追悼集会という政治的空間)に拡張するという点において、エクスパンデッド・シネマの先駆に位置付けることができる。音声とスライドが失われているために再演は不能だが、映像のデジタル版が展示されていた。モノクロ。
その内容は次の通り。恐らく2と3が、城之内らによって撮影されたパートであろう。
1:60年安保におけるデモ隊と警官の衝突を撮影した記録映像と、政治家の閣議などのテレビニュースなどの引用映像
2:警官の暴力行為についての再現ドラマ(警官役と学生役の俳優による演技)
3:雨の中で撮影された国会議事堂の風景

・城之内元晴『新宿ステーション』(1974、16mm、16min)
1968年に起こった新宿駅騒乱を記録したフィルムの上映と、城之内自身による詩の朗読によって展開されていた一連のパフォーマンスを、1974年に一本の映画として再構成した作品。モノクロ。サウンド。
大まかな流れは以下の通り。
1:人もまばらな朝方の新宿駅の風景(字幕「ステーション」「チカニオリル」「シンジュクステーション」)
2:スクリーンの前で詩の朗読をする城之内の映像が少しだけ映る。以後、詩の朗読が続く(「地下へ降りるぜシンジュクステーション、ステーション、ステーション、ステーション…」)
3:荒々しい手持ちカメラによる深夜の新宿駅騒乱の記録映像
4:荒野を走りながら撮影した、手持ちカメラの映像(朗読が終わり、声や楽器演奏を電子変調したドローンが流れる)

・佐々木美智子『何時か死ぬのね』(1974、16mm、30min)
日大全共闘の写真を撮り続けた佐々木による自伝的作品であり、闘争の写真や、仲間たちとの日常を撮影した映像によって構成されている。エクスパンデッド・シネマと呼べる要素はないが、本展においては時代の空気を伝える目的で組み込まれたのだろう。モノクロ。サウンド。
大まかな流れは以下の通り。やや感傷的な傾向はあるが、6における闘争の写真から日常の映像にシフトしてゆく流れは良い。
1:空港での若松孝二・足立正生の見送り。飛び立つ航空機(ナレーション「さよなら」)
2:夢の島のゴミ処理場(ナレーション「夢の島、早く目を覚まして」)
3:新宿御苑、コーヒーを淹れる様子(歌謡曲)
4:妊娠した女性が裸で砂浜を歩く
5:大学構内に貼られたビラ(ベース演奏とサイレン音、銃撃音のコラージュ)
6:日大全共闘の写真、街の風景や仲間との日常、花園神社の蚤の市、海水浴など(ナレーション「喉が渇いた」「眠い」「死なないで」「暖かい肌」「お腹が空いた」「夢が見たい」。その後『黒の舟歌』のカヴァーから、サイレン音・銃撃音によるサウンドコラージュへと移り、最後に至るまでピンク・フロイドの『エコーズ』が流れる)
7:布団から起き上がる裸の女性がカメラを見つめる
8:「さい、なら」の字幕

・松本俊夫『スペース・プロジェクション・アコ(記録版)』(1970、16mm、15min)
本作は、日本万国博覧会(1970年3月14日~9月13日)の企業パヴィリオンのひとつである、日本繊維館協力会せんい館のための作品である。松本はせんい館の総合ディレクターとして、自らが起用した各ディレクターの仕事を統括し、横尾忠則のデザインによる奇抜なパヴィリオンの館内で、大規模なマルチ・プロジェクションとして本作を上演した。作品の構成は、ひとりの若い女性「アコ」の彫像が組み込まれた館内の内壁に対して、ロール式のパンチカードで同期した35mm映写機10台とスライド投影機8台、そして多数の照明によって映像と光をプロジェクションし、混沌とした環境を出現させるというものだった。この上映形態について松本は、「いかにして万博会場のトータルな環境性に異和的な拮抗状態を投入できるか」という言葉で、そのコンセプトを説明している。音楽は、本作のために作曲された、湯浅譲二による電子音楽『スペースプロジェクションのための音楽』(1969)であり、40チャンネルのスピーカーによって立体的な音響空間が形成された。カラー。サウンド。本展ではデジタル版を上映。(以上、過去に書いた論文から手直しして抜粋)
ディレクターの分担は次の通り。
製作:協和広告
総合プロデューサー:工藤充、総合ディレクター:松本俊夫、映像ディレクター:鈴木達夫、音響ディレクター:秋山邦晴、作曲:湯浅譲二、音響技術:塩谷宏、スライド:遠藤正、照明ディレクター:今井直之、造形ディレクター:横尾忠則、展示ディレクター:福田繁雄・植松国臣・吉村益信・四谷シモン


さて、10月9日には2018年の恵比寿映像祭のテーマである「インヴィジブル」につなげて、担当学芸員である田坂博子、ブランデン・W・ジョセフ、ジュリアン・ロス、平沢剛によるシンポジウム「第10回恵比寿映像祭プレ・イヴェント 国際シンポジウム インヴィジブル、インターメディア、エクスパンデッド ─ 映像の可能性」が開催された。以下、田坂のテーマ説明と、各人のパネル発表のなかで気になった部分を簡単にメモした。聞き間違いや誤解もあると思うので、参考程度に読んでください。

田坂博子:
・本展では、万博の祝祭の一方で忘れられていた、アンダーグラウンドの領域での不可視のイベントを可視化することが意図されていたとの説明

ブランデン・W・ジョセフ:
・アンディ・ウォーホルの『Index Book』(1967)の分析。周辺人物のポートレートや、Exploding Plastic Inevitableなどの写真によって構成されているが、殆ど顧みられていない。
・これは、ウォーホルの活動が変化してゆく時期の仕事。キャンプ、同性愛、ドラッグなどが取り上げられている
・『ASPEN Fab』(1966)の紹介
・ミシェル・セールのパラサイトの概念を参照しながら、Velvet Undergroundを分析。VUの音楽におけるノイズ、メッセージへの介入・寄生など
・VU『White Light/White Heat』(1968)の紹介。このレコードは『Index Book』と補い合う関係にある
・コミュニケーションのパラダイム変化。ホワイトノイズとしてのウォーホル。その政治性について

ジュリアン・ロス:
・空気を用いた環境芸術といえるエアアートと、日本のエクスパンデッド・シネマについて。エアアートの国内紹介がどのように行われたかについて。具体美術協会の金山明のバルーンや、『美術手帖』におけるウォーホルの『Silver Clouds』(1966)の紹介。当時、エアアートはE.A.Tと同じくアート・アンド・テクノロジーの文脈で捉えられていた
・風倉匠のバルーンについて。ルナミ画廊でのイベントである「インターメディア」(1967)における、上映空間へのバルーンによる介入など
・磯辺行久のバルーンについて。ジャド・ヤルカットとの共作『Dream Reel』(1969)など
・大西清自のバルーンについて。品川スケートリンクでの宮井陸郎との共作、ガリバーの『フライング・フォーカス』(1969)における共作、飯村隆彦との共作など。映画作家の仕事にバルーン製作で関わった
・「クロストーク/インターメディア」での、飯村隆彦や松本俊夫によるバルーンを使用したインターメディア作品から、万博に収束するアート・アンド・テクノロジーの文脈との関わりについて
・東野芳明が指摘するようにペーター・クーベルカの『Arnulf Rainer』(1960)はインターメディア作品である。スクリーンや観客の関係を前景化させる。これはエアアートにつながる(意識されない空気を可視化させる)
・宮井陸郎と田名網敬一による「キラージョーズ」の構成演出(1968)について。ここでガリバーの『シネマティック・イリュミネーション』が上演された

平沢剛:
・映画の拡張から風景へ。日大映研とVAN映画科学研究所が、日本のエクスパンデッド・シネマの前史におかれる
・『ドキュメント6・15』(1961)について。樺美智子追悼集会での『ドキュメント6・15』において、一回性の上映を試みる。エクスパンデッド・シネマの隆盛以前に、日常や政治への拡張が起こっていたことは特筆すべき。既存の映画形式のみならず、映画の前衛主義からの拡張であった
・『鎖陰』(1963)について。京都での「鎖陰の儀」における混乱やハプニングと、犯罪者同盟によるフィルム盗難。映画という枠組みからの解放。作家主体ではコントロールできない状況と一回性の革命の契機。その後、ハプニングなしで上映されるようになる
・『ゲバルトピア予告編』(1969)について。学生運動の断片の積み重ね。1960年代前半にみられた前衛主義的な記録ではない。可視的な闘争ではなく、空間のなかでの不可視の闘争性をフィルムにとらえる
・『略称・連続射殺魔』(1969/1975)について。日常における権力としての風景を可視化する。不可視の存在であった地方労働者の少年としての永山則夫


このように、パネルは各人が取り組んでいる課題を「インヴィジブル」というキーワードに結びつけて論じるものだったといえ、大変興味深いものであった。その後のディスカッションは、パネルの補足的なコメントや、将来的なエクスパンデッド・シネマの再現についての話が主だったと記憶する。

さて、三者のパネルを通して聴いて私が気になったのは、「インヴィジブル」というキーワードによる思考の方向が、芸術の政治的・社会的な空間への拡張や、既にそこにある不可視な存在の可視化に、明白に向けられていることだった。冒頭でも述べた通り、そもそも本展の面白さは、エクスパンデッド・シネマの遺産を、上映空間のみならず社会的な空間へと押し広げて再考することにあったので、それは望ましいことである。しかし、この方向を拡大すると、政治性が顕著な作品や、サイケデリックカルチャーの影響が明白な作品、あるいは現実の生活空間に展開された作品からは豊穣な不可視性を取り出しながら、一見して政治性・社会性を持たない作品を、不可視性に関わらない作品群として見落としてしまうことにもなりかねない。要するに前衛主義、あるいはモダニズムやフォーマリズムという言葉によって、『リリパット王国舞踏会』や『スペース・プロジェクション・アコ』のような仕事を矮小化することにもなりかねないということだ。もっとも、この点は田坂自身も当然気付いているはずだ(それらを出品作品として選んでいるのだから)。恐らく次の課題として考えられるのは、思考の方向を反転させて、『リリパット王国舞踏会』や『スペース・プロジェクション・アコ』に限らず、それに連なる1970年代以降の実験映画を過剰に政治的・社会的に読み直し、誰も見出し得なかったような不可視性を明らかにすることではないだろうか。

トークセッション「ビデオひろばが今日に残したもの」

明日、森美術館で藤井光さん、瀧健太郎さん、近藤健一さんとトークです。よろしくお願いします。

MAMリサーチ004:ビデオひろば――1970年代の実験的映像グループ再考
http://www.mori.art.museum/contents/mamproject/mamresearch/index.html

トークセッション「ビデオひろばが今日に残したもの」 ※日本語のみ
本展の調査協力に携わった実験映像研究者の阪本裕文氏と、映像作家の藤井光氏、瀧健太郎氏を迎え、「ビデオひろば」の活動や思想が今日の現代美術、実験映像にどのように継承されているか、考察します。

出演:阪本裕文(稚内北星学園大学准教授)、藤井 光(アーティスト)、瀧 健太郎(アーティスト)
モデレーター:近藤健一(森美術館キュレーター)
日時:2016年12月6日(火)19:00-21:00(受付開始:18:30)
会場:森美術館オーディトリアム
定員:80名(要予約)
料金:無料
お申し込み:こちら

※プログラム開始前(18:30-19:00)およびプログラム終了後(21:00-22:00)、本プログラムにお申し込みいただいた方のみ「MAMリサーチ004」をご鑑賞いただけます。なお森美術館の他の展示はご覧いただけません。

Harry Smith「PAPER AIRPLANES & STRING FIGURES」@Postalco Shop Shibuya & Kyobashi

渋谷と京橋に店舗を構える、ポスタルコという文具や雑貨を扱うショップが、アメリカの実験映画作家であるハリー・スミスの展示会を開催している。スミスは、アメリカのアンダーグラウンド映画の先駆的な世代に属し、錬金術のような怪しさを持った切り絵によるアニメーションや抽象映画で知られる。その一方でスミスは、アメリカのルーツミュージックを収集したレコード『Anthology Of American Folk Music』(1952)の編者としても知られる。このコンピレーションは、1920年代から1930年代にかけてのルーツミュージックを掘り起こし、1960年代のフォークリバイバルに決定的な影響を与えたとされる(このコンピレーションについては、大和田俊之が面白そうな学会発表を行なっている)。そんなスミスの仕事のうち、今回ポスタルコでは、マンハッタンで紙飛行機を拾い集めた「PAPER AIRPLANES」と、世界のあやとりを蒐集した「STRING FIGURES」について、渋谷店と京橋店で、それぞれ写真を展示している(いずれも、カタログがAnthology Film Archivesから出版されている)。このようなスミスの蒐集行為は、シュルレアリスムとエスノグラフィーの関係に通底しているように思える。

img_6717
img_6878

20年以上もかけてニューヨークの路上からあつめた紙ヒコーキは、ハリー・スミスの奇妙なコレクションのほんの一部です。彼のフォークミュージックの録音は、1950-1960年代のフォークミュージックのリバイバルの基礎となりました。また、彼は実験映画の作り手でもありました。ポスタルコ渋谷店では、スミスの紙ヒコーキの写真を展示します。新しい京橋店では、スミスの実験映画を上映します。スミスのことをもっと知るために、どうぞお立ち寄りください。
http://postalco.net/new/index.html

PAPER AIRPLANES at Postalco Shop Shibuya
2016年10月26日(水)- 2017年1月16日(月)
150-0043 東京都渋谷区道玄坂1-6-3 山路ビル3階
T 03 6455 0531

STRING FIGURES at Postalco Shop Kyobashi
2016年11月19日(土)- 2017年1月31日(火)
104-0031 東京都中央区京橋2-2-1 京橋エドグラン1階
T 03 6262 6338

小杉武久「Music Expanded」@あいちトリエンナーレ2016 愛知県芸術劇場 小ホール

10月22日・23日に名古屋を久しぶりに訪れ、あいちトリエンナーレを見て回った。もちろん目当ては小杉武久の公演「Music Expanded」を観るためである。会場は愛知県芸術劇場地下の小ホールで、両日ともに観客はほとんど満員という盛況だった。また今回のトリエンナーレの展示には、小杉のサウンドインスタレーションも四点出品されていて、まるで小杉武久の回顧展のようであった。以下、その内容をレヴューしておきたい。


Music Expanded #1(10月22日)
1:Micro 1(1961)
マイクを大きな紙で包んで、紙の動く小さな音を聴取するというフルクサス的な楽曲。プログラムの始まりにふさわしい、お馴染みの作品である。2014年東京公演(「フルクサス・イン・ジャパン2014」東京都現代美術館、2014年4月13日〜20日)のレヴューでも概説しているので詳細は省くが、演奏者も2014年公演と同じく浜崎健であり、内容に大きな違いはなかった。

2: South e. v. #2(1962/2014)
「South」という英単語をそのまま発音したり、イントネーションを変えたり、発音記号ごとに細かく分節するなどして、さまざまな方法で発声する作品である。2014年東京公演と同じく『South e. v. #2』として、声をエフェクター、サンプラー、オープンリール・テープレコーダーといった電子機器によって変形する。演奏者も2014年東京公演と同じく、小杉と和泉希洋志である。ただし、今回公演では担当に若干異なる部分があり、2014年東京公演は小杉しか発声行為を行わなかったのに対して、今回は小杉・和泉の両名が発声行為を行なっていた。機材について述べておくと、小杉はBOSSの小型サンプラー(Dr.Sample)を、和泉はモジュラーシンセを用いて、それぞれ自分の声を操作していた。途中から二人によって、声を録音したオープンリールのテープを再生ヘッドに擦り付け、音を歪めるというアクションも行われた。
日常的な言葉から離れて抽象化された音響が、即物的に空間に投げ出されてゆく演奏が続くが、和泉の方がモジュラーシンセによって声を抽象的な電子音に変化させたり、テープによる変形作業を繰り返すなど、エレクトロニクスによる素材加工に集中していたのに対し、小杉の方は発声方法のバリエーションを探ることに集中していたように見える。

3:Organic Music(1962)
人間の呼吸器官を楽器として扱い、任意の時間内で任意の回数の呼吸を行うという楽曲。呼吸器官に準ずる楽器での演奏も可能である。2014年東京公演とは異なり、今回は小杉・浜崎・和泉による同時演奏であり、小杉はアコーディオン、浜崎はラムネ菓子の口笛、和泉はビーチボールを使用する。
引き伸ばされた呼吸が別の呼吸と重なりながら、時間の余白のなかに配置されてゆく。演奏者が増えることで、作品のコンセプチュアルな性格よりも、音響的な複雑さが強調されていたように思う。
以下はGettyがオフィシャルで公開している同作の演奏記録。この日の演奏とは使用楽器も何もかも違うが、参考まで。

4:Violin Improvisation
小杉による、電気ヴァイオリンの即興演奏。エフェクターも使用されたようだが、派手に原音を加工するような使い方はしない。短いアタック音によって静寂の中に音を刻んでゆくような即興演奏が、張り詰めた緊張感のなかで行われた。ここでは、自分自身の直前の演奏がエンバイラメント的なものとして聴き取られているといえるだろう。
小杉の即興演奏は、フリージャズを出自とする演奏者とのセッションを含めて幾つもレコードになっているが、どうしてもタージ・マハル旅行団のイメージが強いためか、小杉の即興演奏それ自体についての批評が充分行われてきたとは思えない。フリージャズと現代音楽の共通性を考察する言説は、もはや過去のものとなって久しいが、小杉によるチャーリー・パーカー論をはじめとするテクストなどを参照しながら、小杉の即興演奏の取り組みを再論する必要は絶対にあるだろう。

5:Op. Music(2001)
客席からは機材が確認できないので、音を生成する構造がはっきりと分からないが、解説によると光に反応する電子音の発振器と、その音信号を光(ライトの電圧ボリューム?)に変換する回路を組み合わせた、フィードバック・システムを持つ作品のようだ。2012年東京公演(「回路」東京国立近代美術館、2014年9月1日)でも小杉・和泉によって演奏されたが、今回の演奏者は和泉とGuilty Cの二人である。二人はライトを手に持ちながら、エレクトロニクスを操作する。Guilty Cことギルティ・コネクターは、ノイズミュージック界隈では昔から知られた作家であるが、2015年神戸でのデヴィッド・チュードア作品上演(「レインフォレストI コンサート」横尾忠則現代美術館、2015年5月23日)で、小杉・和泉と一緒にチュードアの『Rainforest』を演奏して以降、小杉のコンサートをサポートする関係にあるようだ。
演奏自体は勢いのあるハーシュノイズが展開されており、他の小杉作品に見られる電子音の物質性とは違った方向性が出ていた。以下はGettyがオフィシャルで公開している同作の演奏記録。参考まで。

6:Film&Film #4(1965)
16mm映写機のランプ光によって紙製のスクリーンを照らし出し、このスクリーンを鋏によって切り開いてゆくという、音楽の要素がない、拡張映画的な作品。演奏者はもちろん小杉である。2014年東京公演のレヴューでも概説しているので詳細は省くが、その時と今回で違いがあるとすれば、紙製のスクリーンが上手く切れず、途中から手でスクリーンを破っていた事だろう。おそらく作家にとっても想定外の出来事だったと思うが、ひとつのハプニングとして興味深く観た。
また今回、個人的に気がついた点としては、飯村隆彦のフィルム・パフォーマンスとの類似性がある。制作年からいって、飯村による1963年の『Screen Play』との影響関係が知りたいところである。


Music Expanded #2(10月23日)
1:Walking(1982)
束ねた竹の棒にコンタクトマイクを取り付け、これを床や壁などに接触させ、その際に発生した物音を大音量で増幅させる作品。2012年東京公演でも同シリーズの作品が、小杉・和泉と高橋悠治によって演奏された。今回は、小杉による演奏である。
小杉がステージに登場する以前の、舞台袖の段階から演奏は開始されており、ガリガリとした接触音が大音量で会場に響く。やがて会場に現れた小杉は、床を竹の棒で触れながら歩き、次に客席前方の壁にも触れて、発生する音の性質を探ってゆく。しかし途中でハプニングがあり、竹の棒からマイクが外れてしまうという出来事が起こった。しかし、小杉はその後もコンタクトマイクを引きずりながら歩き続け、時折身を回転させてコンタクトマイクを宙に浮かび上がらせたりするという、臨機応変なパフォーマンスを見せた。

2:Anima 7(1964)
日常的な動作を6分間に引き伸ばすというフルクサス的な作品で、音楽の要素は皆無。演奏者は小杉・浜崎・和泉・Guilty Cであるが、小杉はパフォーマンスを行わず、時計を手にして、1分ごとに時間をカウントするのみである。
浜崎はジャケットの襟を開き、和泉は椅子に座って冊子を読み、Guilty Cは雨具のズボンを履くという行為を、極めてゆっくりと行った。

3:Anima 2 / Chamber Music(1962)
複数の穴がある大きな布袋に演奏者が入り、その中から身体の一部分を外に出す。さらに、袋の中に楽器を持って入り、演奏を行うことも可能という作品。2012年東京公演でも高橋によって演奏されているが、今回の演奏者は小杉であった。
小杉は、コンビニのビニール袋とカップ麺のようなレトルト食品を持って袋に入っており、袋から手を出したりしながら、それを振って演奏していた。高橋の演奏と比較すると、ビニール袋の鳴る音が音楽的ですらあった。

4:Mano-Dharma, electronic(1967-)
小杉の代表作であるが、2014年東京公演の際には同じ内容の作品が「Catch Wave」として、小杉・和泉によって演奏されていたはずである。そもそも「Catch Wave」とは「Mano-Dharma」から発展した作品を指すものなので、あまりタイトルを厳密に区別する必要もないのだろう。基本的に「Mano-Dharma」を含めた「Catch Wave」シリーズのコンセプトとは、電波発振器とラジオ受信機の間で起こる周波数干渉作用の距離による変化を聴き取るものであり、今回の演奏では発振器はターンテーブルの上に置かれたり、竹竿に結んだ糸の先に付けられたり、自転車の車輪に取り付けられたりする。今回の演奏者は和泉・浜崎・Guilty Cである。
Guilty Cはターンテーブルを、和泉は主に竹竿を担当して、混沌とした電子音を発生させる。そして、しばらくすると2014年東京公演と同じく、浜崎が自転車で会場に突入してくる。彼が漕ぐ自転車の運動と結びついた偶発的な電子音は、和泉・Guilty Cの電子音に絡まりながら空間を疾走していった。

5:Music for Nearly Ninety, part A(2009)
2009年4月に初演された、マース・カニングハム舞踊団の作品「Nearly Ninety」のための作品の一部である。2012年東京公演でも、小杉によって演奏された。解説によると、7つのLEDによる明滅を光センサーで受けて、その信号を発振器に送ることで電子音を生成しているらしい。さらに、この作品でも音信号を光に変換する回路を組み合わせることで、フィードバック・システムが組まれているようだ。演奏者は2012年東京公演と同じく小杉であり、小箱の蓋に触れながら、エレクトロニクスを操作する(小箱の暗闇の中に置かれたLEDの光量を変化させているのだろう)。客席からは確認できなかったが、2012年の機材と同じだとすれば、センサー類の他に、BOSSのピッチシフター/ディレイやイコライザー等のエフェクターが用いられていたはずである。
LEDの明滅に反応した激しいパルスのダイナミックな変化の連続は、チュードアの『Rainforest』と同じく、プリミティヴな電子音の物質性を感じさせる。個人的に、今回のプログラムで最も感銘を受けたのがこの演奏であった。

6:Catch-Wave(1967-)
「Mano-Dharma」および「Catch Wave」シリーズについては、『Catch Wave』(CBS/Sony、1975)のジャケット裏面の解説、『Catch Wave’97』(Super Fuji Discs、2007)の川崎弘二によるライナーノート、ジャズ批評17号に掲載された小杉本人のテクストが参考になる。特にジャズ批評17号では、今回の「Mano-Dharma」の演奏で用いられていた干渉作用を利用する手法に加えて、任意の楽器演奏(およびそこに付与されるエコー)の音信号に低周波の電圧をかけて、倍音をコントロールして音色を変化させる手法(すなわちVCF)についても細かに説明されている。今回の演奏の基本的な手順もこれに沿っているようで、電気ヴァイオリンや声の音信号に低周波をかけて、音色にゆっくりとした上昇と下降を生み出していたようだ。もちろん今回の演奏者は小杉である。
小杉は、波の映像を背後のスクリーンにプロジェクションしながら、電気ヴァイオリンを弾き、声を発する。それらの音はエコーで引き伸ばされ、上昇と下降を繰り返すなかで、ひとつの波となり空間を満たしていた。演奏の印象としては比較的アンビエントだったので、『Catch Wave’97』に収録された演奏(水戸芸術館現代美術センター、1997年9月20日)に近かったように思う。複数の波が影響し合うことで生成された音の奔流に、演奏者が即興的に反応してゆく過程は、まさに小杉の音楽の真髄であるといえるだろう。


加えて、名古屋市美術館に展示されていた、四点のサウンドインスタレーションについても、簡単にレヴューしておきたい。インスタレーションでは、光と音を同じ波とみなして、ささやかなエレクトロニクスでこれを交換するという小杉の音楽的なコンセプトが、演奏者の存在を欠いた状態で実現されることになる(「イルミネイティッド・サマー」「ライト・ミュージックII」)。これは、人間によって演奏される楽曲と比較して、インスタレーション作品が、欠如を抱えた不完全で余技的なものであることを意味しない。むしろ、小杉の音楽においては、演奏者も、環境化されたフィードバック・システムの一要素にすぎないのである。小杉のインスタレーション作品に注目することによって、私たちは小杉の音楽における演奏家の存在理由を確認することができるのだ。

イルミネイティッド・サマー(1996/2016)
音光変換器、ハンドメイド発振器、アンプ、スピーカー、CDSセンサー、電球、他
・階段の踊り場の上部に、ひっそりと設置されたインスタレーション。赤と青の電球が明滅しており、その光を4つのセンサーで受けて、発振器から明滅に応じたチープな電子音を鳴らす。

点在(1980/2016)
ハンドメイドクリック音発振器、ピエゾ発音体、9V乾電池
・白い空間の壁に、5つのユニットに分かれた計26個の発音体・基板・電池が貼られている。発振による断続的な信号は、羽虫のように壁に点在する発音体から、虫の鳴き声のようなクリック音を間欠的に鳴らす。

75文字と即興(1987/2016)
スピーカー、アンプ、CDプレーヤー
・「点在」の設置された部屋の中央に、天井から小さなむき出しのスピーカーが吊るされている。そこから微小な音量で、音声詩のような、電子変調された声が鳴らされる。無音の時間が多く、注意しないと音に気がつきにくい。

ライト・ミュージックII(2015)
ハンドメイドサウンド発振器、ピエゾ発音体、スピーカー、太陽電池、9V乾電池、他
・天窓から陽光が差し込む空間。机の上に20個程度のユニットが、コップや缶とともに置かれている。その上からは半透明のビニールが掛けられている。ユニットのうち、小型スピーカーに繋がっているのは2〜3個程度で、その他はピエゾ発音体に繋がっている。スピーカーおよび幾つかのピエゾ発音体からは太陽光をセンサーで拾うことで発振した持続する電子音が、残りのピエゾ発音体からは「点在」と同じクリック音が鳴らされる。この2種類の音が、コップや缶といった構造体の影響を受けながら、ひとつの音楽を生成する。

10+1 web site 「均質化される視線」

10+1 web siteに、「均質化される視線」と題した文章を書きました。吉見俊哉氏の『視覚都市の地政学―まなざしとしての近代』の刊行に合わせた、「都市・映像・まなざしの地政学」という特集の一部となります。よろしくお願いします。

「均質化される視線」
http://10plus1.jp/monthly/2016/09/issue-03.php

展覧会予告「MAMリサーチ004:ビデオひろば――1970年代の実験的映像グループ再考」

MAMリサーチ004:ビデオひろば――1970年代の実験的映像グループ再考
会期:2016年7月30日(土)-2017年1月9日(月・祝)
主催:森美術館
企画:近藤健一(森美術館キュレーター)
協力:中谷芙二子、阪本裕文(稚内北星学園大学准教授)
会場:森美術館
開館時間:10:00-22:00(火曜日のみ、17:00まで)
http://www.mori.art.museum/contents/mamproject/mamresearch/index.html

「ビデオひろば」は1972年に結成された日本の実験的映像グループです。中谷芙二子、山口勝弘、かわなかのぶひろ、小林はくどう、松本俊夫、萩原朔美、和田守弘ら、多数のアーティストやクリエーターが参加しました。当時最新のメディアであったビデオをコミュニケーションのツールとし、メンバーが協働して社会運動に介入したり、ビデオを介して一般市民の議論を促進するなどその活動は、既存のマスメディアに対するオルタナティヴなメディアの創造を目指した、ユニークなものでした。また、会報誌を発行し言説形成や活動報告を行い、ビデオカメラ等の機材を安価で貸し出すなど、実験的な試みも行いました。グループ解散後も、メンバーの多くは作家活動を継続し現代美術に大きな影響を与えました。
本展は、「ビデオひろば」の主要メンバーの映像作品に加え、写真、テキスト、書籍、資料等も多数展示し、その活動を今日の視点で再検証する試みです。


思えばここ数年で、写真美術館が恵比寿映像祭の枠内で「ビデオひろば」の作家たちや「ビデオアース東京(中島興)」を取り上げ、文化庁メディア芸術祭で飯村隆彦が功労賞を受け、東京国立近代美術館がリプレイ展で造形作家の映像作品(フィルムおよびビデオ)を取り上げ、国内のビデオアートをめぐる歴史的な掘り起こし作業も進んできた感がありますが、ようやくビデオアートの様々な要素を集約していたといえる代表的なグループ「ビデオひろば」の特集が、MAMリサーチの第4回として、森美術館で開催されます。
私は今回、資料提供その他で協力しました。ちょうど2006年に名古屋で開催した「初期ビデオアート再考」展から10年目ということもあり、今回の展示に関わって一区切りついたような気がしています。展覧会の会期も長いので、何かのついでによろしくお願いします。

「ビデオひろば」の簡単な解説は下記を参照のこと。
「ビデオひろば」Artwords(アートワード)