アピチャッポン・ウィーラセタクン「フィーバー・ルーム」@KAAT 神奈川芸術劇場ホール


アピチャッポン・ウィーラセタクン『フィーバー・ルーム』
Apichatpong Weerasethakul “Fever Room”
会期:2017年2月11〜15日
会場:KAAT 神奈川芸術劇場ホール

アピチャッポン・ウィーラセタクンの『フィーバー・ルーム』は、2015年に韓国・光州のAsia Cultural Centerで初演された「映画」である。日本では2017年にTPAM(国際舞台芸術ミーティング)のプログラムの一つとして神奈川芸術劇場ホールで上演された。2019年には東京芸術劇場で再演される予定だという。ふと思い立ったので、2017年に上演を観た後、書きかけのまま置いていたレヴューをアップする。

アピチャッポンのインタビューによると、長編映画製作の資金提供を受ける条件としてパフォーミングアーツ作品を制作するように求められたことが、本作を制作するきっかけだったという。このインタビューの中で、作家は本作が映画であることを強調している。以下に引用する。

「なぜ映画かというと、『フィーバー・ルーム』には映画の哲学が全て盛り込まれているからです。私にとっての映画の哲学とは、光やスペース、スケールであり、映画のエボリューション、映画に対する尊敬なども含みます。」
(「アピチャッポン・ウィーラセタクン―『フィーバー・ルーム』から」http://jfac.jp/culture/features/f-ah-tpam-apichatpong-weerasethakul/

ここでいう「映画」とは、物理的・空間的なものにとどまらず、映画の発展史を指すものであるようだが、このことは「映画」が技法的なものを含めて、さまざまな支持体の混淆的な集合態であるという視点に立てば理解しやすいだろう。そして、歴史的にいうならば、そのような集合態としての「映画」に自己言及的に取り組んだ試みとして参照されるものは、言うまでもなく実験映画(特に構造映画やエクスパンデッド・シネマ)、あるいはビデオアートということになる。アピチャッポンは、シカゴ美術館附属美術大学に留学していた時期に、アメリカの古典的アンダーグラウンド映画に影響を受けたとされ『弾丸』(1994)、『ダイヤル0116643225059を回せ!』(1994)という実験映画を制作している。その影響は彼のフィルモグラフィーの通底音となるものであり、その後のビデオインスタレーション作品にまで繋がっているといえるだろう。アピチャッポンのビデオインスタレーション作品には、複数チャンネルの使用や展示空間を巻き込む演出、そして循環的な構造によって、存在の次元を複数化させる表現を見て取ることができるが、それは彼の長編作品における、脱中心的な複数性を備えた構造とも通底している。これについて考察した論考としては、中村紀彦の「映画という亡霊を掘り起こす」(『アピチャッポン・ウィーラセタクン 光と記憶のアーティスト』フィルムアート社、2016)がある。ここで中村は、その特性を「複数に枝分かれした物語展開の可能性と一時的な物語連鎖を編みだすように観者へと促すシステム」(p54)として明晰に説明する。

このようなアピチャッポンの特性を、観客の身体を巻き込みながら多面的に展開した作品、それが本作『フィーバー・ルーム』であったといえるだろう。以下、作品の構成を簡単に説明する。

1:夢についてのモノローグのシークエンス
まず、観客は座席が並ぶ仮設の空間に案内される。座席についてしばらくすると、観客の前方にあるスクリーンへの映像の投影が開始され、窓から見た屋外の風景、バナナの木、川沿いの公園、眠る中年女性と青年などの映像が映し出される。そこに、中年女性と青年によるモノローグが重なる。このシークエンスは1度目は中年女性の声、2度目は青年の声で、2回繰り返される。しかし、口述の細部は異なる。

2:河川上を航行するボートのシークエンス
上方からもう一つのスクリーンが降りてきて、上下2つのスクリーンによる構成になる。そこで、河川上を移動するボートの上から撮影された映像が、マルチアングルで展開する。ボートの乗客の様子、岸から反射光をボートに向ける人影など。この辺りから、リズムのあるサウンドトラックが流れ出す。

3:打ち寄せる波についてのシークエンス
正面の上下2つのスクリーンに加えて、観客の左右のスクリーンへの映像の投影が開始される。これによって4つのスクリーンによる構成になり、打ち寄せる波の映像が、観客を取り囲みながら展開する。時折、メモ帳を破り紙片を燃やす映像なども挿入される。

4:洞窟についてのシークエンス
4つのスクリーンによる構成のまま、淡々と洞窟の中で採掘を行う覆面の男性の映像が展開する。観客を取り囲む洞窟内の岩のテクスチャー。やがて、左右のスクリーンが上昇してゆき、観客の視界から完全に消え去る。

5:雨についてのシークエンス
観客正面の上下2つのスクリーンによる構成に戻り、雨が降りしきる街の風景が、フィックスの長回しで映し出される。やがて、観客正面の上下2つのスクリーンが上昇してゆき、観客の視界から完全に消え去る。完全な暗闇の中、サウンドトラックの雨の音だけが響き続ける。

6:映画の解体についてのシークエンス1
しばらくして正面の幕が上がり、観客の眼前には無人の劇場客席が現れる。自分たちのいた場所が舞台上の仮設の座席であり、劇場客席に向かい合う形で座っていたということが、初めて分かる。劇場客席には大量のスモークが焚かれており、センター付近には明滅する照明が立てられている。舞台上の座席にもスモークが流れ込んでくる。
そして、劇場客席側に設置されたプロジェクターから、舞台上にいる観客に向けて映像の投影が開始される。スモークに映像が当たるため、プロジェクターのレンズを中心点として円錐状の形態が生み出され、観客を包み込む。投影される映像は、回転する3~4重の同心円であり、円周の一部が欠けているため、舞台上にいる観客からは、回転する送風機の扇のような運動として知覚される。さらに、雨のように落下する無数の光点も合成されており、観客は、自分の視点が高速で移動するような錯覚に陥る(分かりやすい例として、『2001年宇宙の旅』のスター・ゲートのシーンを想像してほしい)。サウンドトラックは雨音が続いている。

7:映画の解体についてのシークエンス2
観客前方のスモークの塊をスクリーンとして、おぼろげな、談笑する人々の映像が投影される。これによって、観客はスクリーンの裏から映画を観ているような位置関係で、スモークに映る映像を観ることになる。サウンドトラックは、抽象化された話し声。

8:映画の解体についてのシークエンス3
緩やかに上下運動する7本の水平ラインが、観客に向けて投影される。それにより、スモークの形状が七つの層として立ち現れ、観客の空間的な認識を撹乱する。それは時として、水平線のようであり、飛行機から見た雲海のようでもある。サウンドトラックはノイジーなドローン。やがて光は収束してゆき、観客正面の幕が降ろされる。サウンドトラックもやがてフェードアウトする。そして、再び完全な暗闇がやってくる。

9:夢についてのシークエンス
観客の右側のスクリーンへの映像の投影が開始される。そして、アイリス・インで視界が開ける。そこは、「4」のシークエンスで登場した洞窟であり、覆面の男性は地面に横たわり熟睡している。ここに青年の声で「最近夢を見なくなった」というモノローグが入る。次に、中年女性の声で「私も最近夢を見なくなった」というモノローグ。そして再び青年の声で、「彼女が夢を見なくなったのは、年齢のせいではない、自分が光を奪ったからだ」とのモノローグ。その後、覆面の男性は目覚めて上半身を起こし、ぼんやりと佇む。そしてスタッフロールへ。

上記の「6」〜「8」のシークエンスにおける、スモークが焚かれた空間内での光の造形による表現は、明らかにアンソニー・マッコールのエクスパンデッド・シネマ作品を参照しているといえるだろう(anthonymccall.com)。このような本作の表現の方向は、映画を拡張しているというよりも、映画を再発明していると形容した方が適当であり、それはケン・ジェイコブスが呼称するところの「パラシネマ」の一形態だといえる。さて、私はこの映画を新鮮なものとして興味深く観た訳であるが、問題はスペクタクルとして観客に提供された触知的な経験が、従来のアピチャッポンの長編作品やビデオインスタレーション作品に見られる特性、すなわち脱中心的な複数性を備えた「システム」に、どのような形で合致しているのかということになるだろう。そこを迂回して本作を評価することはできないだろうと思う。

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「1968年 激動の時代の芸術」@千葉市美術館


「1968年 激動の時代の芸術」
会場:千葉市美術館
会期:2018年9月19日~11月11日
http://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2018/0919/0919.html
※北九州市立美術館分館(2018年12月1日~2019年1月27日)、静岡県立美術館(2019年2月10日~3月24日)に巡回

昨年観た展覧会で最も印象深かったものといえば、間違いなく千葉市美術館で開催された「1968年 激動の時代の芸術」となる。本展には若干関わったこともあり、そういった思い入れも込みになってしまうが、以下この展覧会の意義を書き留めておきたい。

本展はタイトルの通り、社会全体が激動の渦中にあった1968年に焦点を合わせて、この時代の広範な芸術を回顧するものである。いままでにも、1950年代に焦点を合わせた「「美術にぶるっ! ベストセレクション日本近代美術の100年 第2部 実験場1950s」(東京国立近代美術館|2012)や「日本の70年代 1968-1982」(埼玉県立近代美術館|2012)など、戦後美術を詳細に再検証する回顧展は行われてきたが、1968年から50年ということもあり、いよいよこの時期が主題化されたということだろう。本展は現代美術を中心とするものではあるが、文化全体が混ざり合いながら強い政治性を持っていた時代ゆえに、取り上げられる対象は、演劇・舞踏・映画・建築・グラフィックデザイン・漫画など多岐にわたっていた。本展の構成は以下の通り。

A1:1968年の社会と文化
A2:美術界の1968
B1:1968年の現代美術
B2:環境芸術とインターメディア
B3:日本万国博覧会
B4:反博の動きと万博破壊共闘派
B5:トリックス・アンド・ヴィジョン
C1:アンダーグランドの隆盛―演劇・舞踏・実験映画
C2:イラストレーションの氾濫
C3:漫画と芸術
C4:サイケデリックの季節
D1:プロヴォークの登場
D2:もの派の台頭
D3:概念芸術の萌芽

まず、Aのセクションは導入部にあたる。「A1:1968年の社会と文化」では、様々な写真家の作品や、城之内元晴の『新宿ステーション』などによって、1968年の雰囲気を観客に実感させる。そして、「A2:美術界の1968」では美共闘・日宣美粉砕・フィルムアートフェスティバル中止事件などの造反行動を、ビラなどの文書資料によって明らかにする。
Bのセクションは本展の核心部分にあたる。「B1:1968年の現代美術」では、「前衛の終焉」を象徴する出来事の一つであった赤瀬川原平の千円札裁判が取り上げられる。続く「B2:環境芸術とインターメディア」と「B3:日本万国博覧会」では、「なにかいってくれ いま さがす」(草月会館|1968)や「クロス・トーク/インターメディア」(国立代々木競技場体育館|1968)といった当時のインターメディア的なイベントから、前衛芸術の万博参加に至るまでの過程が取り上げられる(その中心となるのは、松本俊夫の『つぶれかかった右眼のために』と、せんい館における『スペース・プロジェクション・アコ』である)。その一方で、「B4:反博の動きと万博破壊共闘派」においては、前衛芸術の万博参加とパラレルに進んだパフォーマティヴな反博運動が、ゼロ次元を中心に取り上げられる。また、「B5:トリックス・アンド・ヴィジョン」では、視覚的な認識の制度を解体する作品が選定された「トリックス・アンド・ヴィジョン 盗まれた眼」(東京画廊・村松画廊|1968)が取り上げられる。
Cのセクションは、現代美術と越境し合った1968年の文化を捉えるものである。「C1:アンダーグランドの隆盛―演劇・舞踏・実験映画」では、天井桟敷と状況劇場といったアングラ演劇、『季刊フィルム』『(第二次)映画批評』『シネマ69』などの先鋭的な映画雑誌、足立正生、宮井陸郎、シュウゾウ・アヅチ・ガリバーの実験映画など、演劇・舞踏・実験映画におけるアンダーグラウンド文化が取り上げられる。そして、「C2:イラストレーションの氾濫」と「C3:漫画と芸術」では、グラフィックデザイン・イラスト・漫画といった当時の視覚文化が取り上げられる。極め付けが当時のアンダーグラウンドなディスコ「MUGEN」の再現を試みた「C4:サイケデリックの季節」であり、そこではエクスパンデッド・シネマやハプニングとも密接な関係を持っていたディスコや、風俗としてのサイケデリックカルチャーを取り上げられる。
Dのセクションは1968年以降につながる動向を捉えるものである。「D1:プロヴォークの登場」では、意味化される以前の世界に立ち会う試みであったプロヴォークの活動が取り上げられる。そして「D2:もの派の台頭」および「D3:概念芸術の萌芽」では、「もの派」と概念芸術(特に、コミューンへの指向性をもった松澤宥)が取り上げられ、「第10回日本国際美術展 人間と物質」(東京都美術館|1970)が万博に対置される。

膨大な物量の作品および資料が、1968年の混沌を冷静に読み直すべく整然と展示された印象であるが、その狙いは目的を果たしていたように思う。この展覧会は、1968年の芸術を現在と切り離して「あの時代は熱かった」と感傷的に懐かしむものではない。それは、戦後日本の前衛芸術が終わり、芸術という枠組みについての反転が生じた瞬間を1968年に見出し、これまで大雑把に一般化されてきたその歴史を再考しようとするものである。この問題意識は、本展を企画した学芸員の一人である水沼啓和のディレクションによるところが大きいと思われるが、このことは展覧会カタログに掲載された水沼のテクスト「1968 現代美術の転換点」からも読み取ることができる。以下、そのテクストの第4節を簡単に要約してみたい。

水沼はテクストの中で、千円札裁判の有罪判決と、前衛芸術家の万博への動員という二つの出来事によって前衛が終焉したとする一般化された見方に対して、次のように反論する。まず千円札裁判については、裁判によって犯罪と結論付けられたことによって「終焉」があったのではなく、結局のところ「芸術であるから無罪」という弁護方針によって、前衛が自らの「匿名性」や「得体の知れなさ」を捨てるものだったところに問題をみる。それは石子順造が指摘した通り「安全に国家体制内に温存された芸術の近代」に自ら収まるものだったといえ、前衛芸術が政治性を失うことに等しかった。前衛の万博参加と反博運動については、国策イベントとしての万博に前衛芸術が参加したことだけでなく、反博運動も当時の左翼的な政治言説の範疇にとどまり、有効な戦略を取ることができなかったため、結局のところ万博と反博が同じ祭りの中に飲み込まれてしまったことを指摘する。これは芸術の問題として万博(これを「近代」と言い換えることも可能だろう)を捉えることができなかったことを意味している。そして、万博参加と反博運動の対立の一方で、政治とは離れた場所で、観念的に現代美術を追求する「もの派」などの動向が出現することで、「前衛の終焉」は決定的なものになったという訳である。

本展のなかでこの論理が説得力を持って成立していたのは、「A2」と「B4」で美共闘・日宣美粉砕・フィルムアートフェスティバル中止事件、そして万博破壊共闘派が、1968年の芸術における造反行動として展示されていたためである。これまで椹木野衣や黒ダライ児によって言及される機会のあった万博破壊共闘派やゼロ次元はまだしも、美共闘・日宣美粉砕・フィルムアートフェスティバル中止事件を、共通する社会的背景を持った造反行動として取り上げた展覧会は皆無だった。これらの展示によって、万博参加と反博運動が表裏一体のものであった*1こと、すなわち戦後日本における前衛の限界が露呈しているのである。この限界は、制度に対する造反行動が、結局のところ制度に依拠することで造反足り得ているという事実を示しており、それは言うまでもなく千円札裁判における「芸術であるから無罪」という、ある制度を前提とした主張とも通底している。

本展は1968年の芸術・文化を現代美術を中心として考察し、「前衛の終焉」*2と、戦後日本におけるねじれた近代の問題を展覧会を通して明らかにした、極めて重要な展覧会であったと思う。水沼氏の最後の仕事に敬服しながら、氏のご冥福をお祈りする。

*1:ただし私は、万博における松本俊夫・横尾忠則らのせんい館については、例外的な価値を認める立場をとる(水沼のテクストの中でも、せんい館については、そこにポストモダンを先取りする戦略があったことが指摘されている)。松本は万博以降、個人の内的な変革を目指して、個人の意識を規定してしまう「言語」や「物語」の問題に取り組んでいったが、それは石子が指摘するような「場所の制度性」を問題とする立場を踏み越えている。博論の結論でも簡単に触れたが、このすれ違いについては同時期の松本と石子の論争を参照のこと。

*2:水沼は1968年における「前衛の終焉」を、テクストと展示の中で論証した訳であるが、ここに私は、映画の文脈から補助線を引いておきたい。映画における前衛のその後は、現代美術のそれよりも複雑であったといえる。足立正生は風景論を経てパレスチナに越境して日本赤軍に合流し、野田真吉・城之内元晴は民俗学的な撮影対象に向かい、小川紳介・土本典昭は局地的な社会問題の内部に向かった。映画における前衛は、現代美術とは異なり、その後も持続性を持ってある程度は展開したのである。むしろ、映画における「前衛の終焉」が決定的なものになったのは、蓮實重彦が政治性を括弧に括る表層批評を1970年代に展開したためである。

第10回恵比寿映像祭「岡部道男特集 アンダーグラウンドとキャンプ」+「岡部道男特集 クレイジーラブ」@東京都写真美術館

1960年代末のアンダーグラウンド映画、すなわち実験映画・個人映画の運動を現在から振り返るならば、そこにはいくつかの運動拠点があった。大きく分けて、それは「1:『季刊フィルム』=草月アートセンター」「2:『映画評論』=フィルムメーカーズコーポ+日本アンダーグラウンドセンター」「3:『(第二次)映画批評』=鈴木清順問題共闘会議~批評戦線」の三つである。岡部道男は、金坂健二・おおえまさのりなどと共に、フィルムメーカーズコーポを拠点として活動していた個人映画作家(彼には、この呼び名が最も相応しい)であり、スーザン・ソンタグの「キャンプ」の思想を実体化したような作品を制作した。キャンプ的な表現とは同性愛的なモチーフを取ることもあるが、それだけに限らない。キャンプとはシリアスな態度から逸脱し、文化的に低級な存在として扱われてきた誇張された物や、わざとらしい紛い物を、それ自体として楽しむ態度であるが、それは文化的な階級付けにおいて貶められた物に依拠して世界を読み直すことでもあっただろう。恵比寿映像祭に先立つ「エクスパンデッド・シネマ再考」のシンポジウムにおいてブランデン・ジョセフは、1967年の『Index』出版の前後に主題を変化させて、LGBTや麻薬中毒者などの少数者を取り上げるに至ったアンディ・ウォーホルの仕事の重要性を指摘していたが、ここで取り上げる岡部の仕事もそれに相当する。
岡部のフィルモグラフイーは、『天地創造説』(1967)、『クレイジーラブ』(1968)、『貴夜夢富』(1970)、『歳時記』(1973)、『少年嗜好』(1973)、『回想録』(1980)の六作品であり、数は多くないが、いずれも同時代的な空気を映画に取り込み表現した、重要な作品ばかりである。


岡部道男『天地創造説』(1967, 16mm, 26min)
ケネス・アンガーの『スコルピオ・ライジング』(1963)に衝撃を受けた岡部が、一気にシナリオを書き上げて制作した最初の映画である。当時の岡部の言説には、映画の個人所有化・プライベート化を突き詰める考えが言明されている。岡部は最初から、商業映画の代用品ではない個人映画への自覚を持っていたというべきだろう。聖書のエピソードを下敷きにしながら、当時の風俗や大衆文化の断片、猥雑なイメージをごった煮のように取り込んでアンダーグラウンドな映画としてまとめ上げた怪作である。
この時期の草月アートセンターは、草月実験映画祭(1967年11月)にて作品の一般公募を行い、それまでの観客層が個人映画の作家に転じる流れを作ろうとしていた。本作はその流れを象徴する作品でもあり、草月実験映画祭で奨励賞を獲得した。
モノクロ。サウンドは非同録で、事後的にロックや歌謡曲などのサウンドトラックが追加されている。

作中のシークエンスは四章に分けられており、以下の順番で進行する。
1:創造前夜
・河原にて、アメリカ国旗に包まれた棺桶からよみがえる丹下左膳。十字架を背負うキリスト。疾走するバイクから男が降りて、富士山を睨み付ける
・女の後ろ姿。手相占い。シャドーボクシングを行う男
・袋を抱えた男が、路上に袋を放置する。中から男が出てくる
・袋を抱えた男が、映画館に袋を放置する。また中から男が出てきて、スクリーンの前に立つ。そして消える

2:アダムはその時ひとりだった栄光
・公園をさまよう男。公衆便所の卑猥な落書きを、マッチで火を灯して見る。自らも落書きをする
・部屋で上半身裸になる男
・男が街頭で何かを配る
・男が滝で瞑想する

3:その時君は
・海岸を歩く男が女と出逢う
・白画面に、女の喘ぎ声がボイスオーバーで重なる
・浴衣姿の男と女。一緒に入浴する
・子ども(人形)が生まれる
・アダムとイブの絵。男が楽園を追われる

4:カインは生き返った
・空手家の男。ギターを弾く男。鞭を振るう男。お面売りの男
・バイクに跨る男。『スコルピオ・ライジング』のパロディ
・公衆便所の落書きに欲情する男が、何者かに拳銃で撃たれる
・男が瀕死の状態で街をさまよう
・銀座の街頭に置かれた岡部道男本人を模した銅像に、「君が好きなんだ、いいだろう?」という声がボイスオーバーで重ねられる。歌謡曲が流れ出す


岡部道男『クレイジーラブ』(1968, 16mm, 93min)
同時代の映像作家や評論家を俳優として出演させ、壮大な紛い物としてのキャンプ的世界を構築した大長編。キャストを列記すると次の通り。

ミシエル:岡部道男
パトリシア:青山マミ
さおだけやさん:末永蒼生
その妻:兵頭桂子
おかまのたむちゃん:牟田博邦
「男性・女性」:宮井陸郎
東京ガスの人:ガリバー
ワンツウスリー:川尾俊昭
仲よしのプロレスラー:ナシ、リョウ
イザベル:ヒゲダルマ
壷坂霊験記:アリババ、ケン
やられる男:森真一
モスクワ芸術座の人たち:オーム・マキタ、ヒロミ、オオサト、フジケン、ゴミブチ、ミミ、オカベ、サイト
座長:刀根康尚
カメラマン:渡辺睦
ジュリイ:斉藤みみ
やきいも屋のおじさん:佐藤重臣
クライド:岡部道男
ポニー:五味淵純
レズビアン:児玉節子、新谷さちこ、やしや、渡辺眸
フーテン:マリオ、リョウ、ナシ、ヒゲダルマ、ヒラギ、アリババ、トムソーヤ、ジョージ、ケン
夕日のガンマン:金坂健二
ジャンゴ:岡部道男
おまわりさん:斉藤司郎
サンパの男:白鹿勝
その男オカベ:岡部道男
ゼロの男:加藤好弘、永田智、上條順次郎、松葉正男、加藤弥平治、岩田信一、小岩高義
金嬉老の近さん:斉藤司郎
マルセリーノ:布施和彦
エリオット・ネス:岡部道男
ホブスン:鎌田勝彦
警官:岡部公甫
ジャニー、ギター、出田繁幸、精松隆幸、高森マキ、石橋初子
特別出演:石井満隆、チダ、ウイ、小山哲男、麿赤児、アオメ、吉田鷹男

これは内輪のノリとは異なる、極めてキャンプなキャスティングである。岡部がこのような映画を構想した背景を考えるために、本作の制作時の岡部の言説を参照してみたい。

「そうでないものがフーテンやホモの役を演じるのではなく、そのままホモはホモとして出てくる。そうでないものはみなあこがれをむき出しにするということであまりに軽薄であり、またそれは多面の輝きが内部意識という人間固有の観念よりも優位を示している現象である。そして、そのようにしてつくられた映画はその時だけのものとして終焉するのをいとうことはない」 (『映画評論』1968年8月号)

ここで述べられていることは、ある種のリアリズムである。そこで紛い物は紛い物としての表面の輝きを発揮する(例えば、レストランの店頭にあるプラスチックの食品模型は、食品模型であることのツルツルした輝きを誇るだろう)。岡部はこの映画において、表層的な物こそが意味や観念に先行することを示している。それはこの時代に始まり、現在に至るまで続くポストモダン化した私たちの社会の本質でもある。
パートカラー。サウンドは非同録で、事後的にロックや歌謡曲などのサウンドトラックが追加されている。

『映画評論』1968年10月号にはシナリオが掲載されているが、完成版とは一部のシークエンスが異なるようである。以下のシークエンスのメモは完成版に基づくもので、カラーで撮影されたシーンには*Cの表記を置いた。

・ゼロ次元による行進パフォーマンス *C
・女装の男と若者たち、地下通路を転がる
・女装の男と男たち *C
・時代劇の舞台で、役の扮装をした男と女がいちゃつく *C
・レスリングの試合をする男たち。やがて互いを愛撫し合う
・ゼロ次元が裸でお茶を点てる
・女装する男の正面像
・裸の若者ら、ギターを持って輪になる
・テーブルについて話す若者たち(微速度で撮影)
・女装の男、交番で警官に話しかける(アフレコで架空の会話を当てる)
・ヘルメットの活動家が、警官にThe Beatlesの「 Yesterday」の歌を捧げ、手を繋いで街に繰り出す
・ダンサー姿の女装の男が野外で踊る
・ガス会社の男の来訪
・スタッフクレジット。主題歌はPaul Ankaの「Crazy Love」 *C
・金嬉老の金さんと、本物の金嬉老の写真
・ダンサー姿の女装の男が野外で踊る
・浴衣の男女
・木に登る裸の男
・ランニングするボクサー
・女装の男が公園を歩く
・背広姿のガンマンが、ゴダールの『勝手にしやがれ』のパロディを繰り広げる
・ガンマンが街で、人々を撃ち殺す
・奇妙な公園(愛知県にある五色園)にてゼロ次元のパフォーマンス
・公園にある女性の銅像に抱きつく裸の男
・夕陽のガンマンの決闘。睨み合いが続き、やがて抱き合い接吻する
・女が学生に化粧をほどこし、路上でくつろぐ
・ゼロ次元パフォーマンス
・やきいもの屋台を引く男
・ダンサー姿の女装の男が路上で踊る
・ダンサー姿の女装の男が部屋で踊り、老婆を抱きかかえる
・金魚鉢を持って練り歩く半裸のサングラス男 *C
・ガンマンが男を追いかけ、銃撃する。倒れこみ苦しむ男 *C
・マンションにて警官の踏み込み捜査。偽札を押収する
・ゼロ次元パフォーマンス


岡部道男『貴夜夢富』(1970, 16mm, 44min)
タイトルの通りキャンプ的な表現を徹底的に突き詰めた、岡部の代表作といえる作品。世間一般に承認されている美醜の感覚から遠く離れて、別の尺度で測られた審美的な世界を体現する映画であり、ジャック・スミスに通じる規範的価値を転倒させたような過剰なイメージと、ウィーン・アクショニズムに通じる自壊的な身体的行為が、息つく暇もない程の濃密さで詰め込まれている。
サウンドは非同録で、事後的にサウンドトラックが追加されている。完全なフルカラーのシーンもあるが、多くのシーンにおいて、モノクロのフィルムに単色のカラーフィルターを重ねることで色彩が表現されている。

作中のシークエンスは、以下の順番で進行する。フルカラーで撮影されたシーンには*C、赤フィルターのシーンには*R、青フィルターのシーンには*Bの表記を置いた。

・和室にて、二人のマッサージ師から施術を受ける浴衣姿の男。カエルの鳴き声が重なる *R
・和室の片隅にある、忌中と書かれたゴザの影から男が現れて、浴衣姿の男をマッサージする *B
・訪ね犬の貼り紙。和室に犬が現れ、男たちは犬の真似をする。畳を裏返す *R
・裸の男にスライドを投影する *R
・男同士で責め合い、臀部に焼きごてを押す *B
・和室に吊るされた紗幕の中で、裸の男たちがたむろする *B
・牛若丸の絵本に、弁士の語りが重なる *C
・風呂をたく三助。石井満隆が扮するドラッグクイーンが入ってきて、三助にマッサージしてもらい、二人で湯船につかる。三助がドラッグクイーンの頭を剃って坊主にする。ドラッグクイーンが踊る *C
・和室にて男たちが様々な狂騒を繰り広げる。スズムシの鳴き声が重なる *R
・ヴァイオリンを弾く男に、別の男が抱きつく *C
・テレビモニターに映し出される吸血鬼ドラキュラのドラマ。牙を付けたドラキュラに扮する警備員が登場し、一句詠んでから、オルガンを弾く男に噛みつく。和室にドラキュラ警備員が屋台を引いてきて、客に酒を出す *C *R *B
・和室にて、ドロドロになった二人の裸の男が絡み合う。弁士の語りが重なる *B
・白画面に、花の種子袋のイメージが一瞬だけカットインされる *C
・春画が映し出されたのち、和室にて、ドラッグクイーンと三人の男たちが並んで踊る *R
・ドラッグクイーンが、小舟の張りぼてに乗って和室から去ってゆく *C
・力を込めた男の臀部のアップ *R

第10回恵比寿映像祭「不可視であるなら、私が。 出光真子おんなのさくひん」@東京都写真美術館

恵比寿映像祭についてのレビューは展示についてのものが多く、上映プログラムについてはあまり言及がないように思う。しかし、この映像祭は上映プログラムこそが重要であり、そこでは美術と映像を越境した、総合テーマに深く関わる作品が集められている。今年で言えば特に重要だったのは出光真子、岡部道男の特集プログラムと、足立正生らによる『略称・連続射殺魔』の35mm上映プログラムであり、それらは社会的に不可視化されていたジェンダーの問題や、公的な世界から存在しないものとして扱われた存在を主題化する仕事であったといえる。
出光真子は、ジェンダーの問題を批判するビデオアートや執筆活動で著名な作家だが、活動の初期にあたる1965年から1973年にかけてカリフォルニアを拠点とし、そこでブルース・コナーなどに実験映画を学んだという。このようなアメリカ西海岸の実験映画を背景とした出光のフィルム作品は、後年の社会的でコンセプチュアルなビデオ作品とはまた異なった、身近な風景を被写体とした情感豊かな表現を含んでいる。フィルムにおける親密な風景の表現と、ビデオにおける社会的な表現、この二つの方向を一人の作家の仕事として見直すこと、それがこのプログラムの目的だったと思う。フィルム作品とビデオ作品を交互に配置したその構成は、大変意義深いものであった(出光の上映作品のプログラミングを担当したのは、ビデオ作家の服部かつゆきである)。


1:『Woman’s House』(1972, 16mm, 13min40sec)
カリフォルニア芸術大学のフェミニスト・アートプログラムのなかで、アーティストであるジュディ・シカゴとミリアム・シャピロは、ロサンゼルスにあった家屋を利用し、1972年の1月から2月にかけて「ウーマンハウス」を組織した。これは家屋の至る所にインスタレーションやオブジェを設置するもので、フェミニズムを主題としたパフォーマンスも行われた(公式ウェブサイトでは、詳細なドキュメンテーションが公開されている)。
本作はこの「ウーマンハウス」を無人の空間として撮影した最初の16mmフィルム作品であり、その静謐な表現は、サンタモニカや雪ヶ谷を撮影した作品に共通するものがある。
カラー。サウンドは、スチールパンとパーカッションによる楽曲で、一部で声を加工したテープコラージュも用いられる。

作中のシークエンスは、以下の順番で進行する。
・絡まった紐のオブジェ
・乳房のオブジェが敷き詰められた壁
・電球の下に並んだ料理のオブジェ
・赤い内装の部屋
・ゴミ箱に溢れるナプキンのオブジェ
・花嫁姿のマネキンのオブジェ
・ドールハウス
・棚に組み込まれたマネキンのオブジェ
・女性用の衣服
・粘土で作られた料理のオブジェが並ぶ食卓
・目玉焼きのオブジェが敷き詰められた天井
・ハイヒールの収められた靴棚

2:『おんなのさくひん』(1973, Video, 11min)
洋式便器に捨てられたタンポンから、ゆっくりと血が滲んでいる。カメラはその様子を、フィックスショットの長回しで撮影する。そこに産婦人科医師役の男性による、男子優位の家父長的な価値観に染まった内容の語りが、二か国語のボイスオーバーで重ねられる。
日本のビデオアートにおける最初期の作品であり、世界的に見ても、女性ビデオ作家であるキャロル・ルッソプロスなど並んで、早い段階で社会的な女性差別の問題を批判したビデオ作品だといえる。
モノクロ。

3:『Inner Man』(1972, 16mm, 3min40sec)
心理学でいうところの、女性の集合的無意識下にある男性像(アニムス)を表現した16mmフィルム作品であり、着物姿の東洋人女性の舞踊の映像に、女性の無意識的な男性像を表象する、ダンスを踊る裸の白人男性の映像が多重露光される。
本作でのフィルムの多重露光によるイメージの重層化は、『主婦の一日』以降のビデオ作品で展開されることになる画面内にモニターを配置するメタ的な手法の前段階に位置付けることができるだろう。
カラー。サウンドはピアノによる楽曲。

4:『主婦の一日』(1977, Video, 9min50sec)
画面内にモニターを配置するという、この作家独自の手法が用いられたビデオ作品である。作家本人が、起床・化粧・炊事・洗濯・買い物・就寝など主婦の生活を、定点観測的なビデオカメラの前で演じる。さらに、各シーンの背景セットのなかにはテレビモニターが置かれ、女性を抑圧するものの表象として眼のイメージが映し出される。この画面内モニターの手法とはコンセプチュアルな意図によるものであるといえ、その後の出光のビデオ作品でも追及されてゆく。
記号化された生活パターンを総覧的にみせる構成は、マーサ・ロスラーのビデオ作品『キッチンの記号論』(1975)を連想させる。
カラー。サウンドは同録による環境音のみ。

5:『Something within Me』(1975, 16mm, 9min30sec)
身近な風景やカタツムリなどを被写体とした16mmフィルム作品であり、本作での情感豊かな表現は特筆すべきものがある。このような映像表現は、出光のビデオ作品におけるジェンダーの問題と一見繋がらないように見えるかもしれないが、そうではなく、フィルム作品における作家の身近な風景への視線を社会化したものが、ジェンダーの問題を取り上げたビデオ作品であったとみるべきだろう。
カラー。サウンドは高橋アキによるピアノの即興演奏であり、映像をスコアとして解釈することによって演奏したもの。

作中に表れるイメージは以下の通り。
・水面の反射光
・木の葉と、カーテンに映る木の葉の影
・植物の葉や花弁のクローズアップ
・オブジェのような大量のカタツムリ

6:『英雄チャン、ママよ』(1983, Video, 27min)
ホームドラマ的演出と画面内モニターの手法を組み合わせたビデオ作品。食卓の上に置かれたテレビモニターに映し出される実家暮らしだった頃の、昔の息子の映像。それとの架空の会話を繰り返す母親が、息子の面倒を見るために遂には自分も家を出るまでのストーリーを描いている。
画面内モニターに映し出される息子の姿は、保守的な家族像の虚構性を浮かび上がらせる異物として存在し、モニター内の息子の一挙手一投足に反応する母親の姿と、それに対する父親の無関心は、この状況の空虚さを一層際立たせる。出光の後年の作品におけるホームドラマ的演出とは、テレビなどの大衆メディアで流通している保守的な家族像への疑義を含むものだといえよう。
撮影は、ビデオひろばの発足に関わったカナダ出身のビデオ作家であるマイケル・ゴールドバーグが担当している。
カラー。サウンドは同録によるセリフと環境音のみ。

7:『At Santa Monica 3』(1975, 16mm, 15min30sec)
身近な街の風景を、作家の個人的な視点によって撮影した16mmフィルム作品であり、カリフォルニアの眩しい陽光と、それに照らされた建物や自然物の様子が、ハイコントラストフィルムを使用することで見事に表現されている。ちなみに、今回の映像祭の展示セクションでは、同じくハイコントラストフィルムで東京の雪ヶ谷の庭園を撮影した、『At Yukigaya Two』(1974)も上映されていたのだが、サンタモニカと雪ヶ谷という場所性の違いが表れていて興味深い。前者は眩しく乾燥しており、後者は薄暗いが瑞々しい。
モノクロ。サウンドは、恐らくジョン・ケージによる「String Quartet」(1950)であると思われる。同作品は、以下のレコードに収録されている。
Walter Piston / John Cage – Modern American Music Series

作中のシークエンスは、大まかに以下の順番で進行する。
・サンタモニカの住宅の窓に反射する太陽
・板張りの床に反射する太陽
・木漏れ日
・水面に揺らめく反射光
・風に揺れる木々
・猫
・微速度撮影された雲の流れ
・遠距離からズームショットで捉えられた住宅街
・雨の降りしきる水面と、そこに浮かぶゴミ類
・水面のランダムな反射光(極端にハイキーな撮影によって、半ば抽象化している)
・猫
・植物と、葉の間にちらつく太陽光
・甘いフォーカスで撮影された水面のランダムな反射
・微速度撮影された雲の流れと太陽(レンズの絞りを操作して、徐々に真っ白な画面になるまで飛ばす)
・住宅街の道路
・水面に揺らめく反射光
・針葉樹
・噴水から吹き出す水
・木漏れ日
・微速度撮影された雲の流れと太陽

第10回恵比寿映像祭「エクスパンデッド・シネマ・パフォーマンス:Beyond the Frame」@東京都写真美術館

恵比寿映像祭では毎年ライブイベントが組まれてきた。本年は二つのイベントが行われたが、私はそのひとつである「エクスパンデッド・シネマ・パフォーマンス:Beyond the Frame」と題されたイベントを観に行った。このイベントは、ポール・シャリッツの『Dream Displacement』(1976)を上映し、サウンドアーティストである大城真の『ストリングス』(2014)のパフォーマンスを挟んで、宮井陸郎の『時代精神の現象学』(1967)と『シャドウ』(1968)を上演するというプログラムである。去年同館で開催された「エクスパンデッド・シネマ再考」で、宮井の作品が紹介されなかったのは腑に落ちなかったが、今思えばこのイベントのために取っておいたということなのだろう。サウンド作品のパフォーマンスや、ダンスパフォーマンスの併演は、若干盛り込み過ぎという感じがしないでもないが、それでもエクスパンデッドシネマの重要作品をまとめて観ることができる貴重な機会であったことは間違いない。以下、それぞれの作品について述べる。



『Dream Displacement』(1976, 16mm×2, 25min)
本作は『Shutter Interface』(1975)と同じく、シャリッツの代表的なエクスパンデッドシネマ作品である。タイトルにはフロイトの精神分析が参照されている。オリジナルは1976年にオルブライト・ノックス美術館において、16mm映写機4台による「ロケーショナル・フィルム」としてループ上映されたはずだが、ニューヨークのフィルムメーカーズ・コーポラティヴのレンタルリストを見ると、映写機2台のバージョンでも貸し出されているようである。今回の上映もこれに準じて、映写機2台での上映であった。このようなバージョン違いのあるらしい本作だが、映写機4台と映写機2台の上映では、外観が異なってくる。まず、いずれの映写機のフィルムも、そこに焼き付けられた像はフィルム(自作『SPECIMEN II』が素材になったとされる)を再撮影することによって得られた、カラーフィールド(赤・黄・緑)の不規則な往復運動であることに違いはない。この運動が、バージョンによって水平方向、あるいは垂直方向に変化することになる。簡潔に書くとこうなる。

1:映写機4台の上映では、ミラーの反射を用いることにより、フィルムは90度横倒しになった縦長のフレームとして投影され、この画面が4面水平に連結される
2:映写機2台の上映では、フィルムは正位置として投影され、この画面が2面水平に連結される

なおフィルム上には、再撮影の際にスプロケットホール(フィルムの両端にある掻き落としの穴)まで焼きこまれているので、映写機4台の上映では、まるで巨大なフィルムが壁面に出現したような外観になる。
いずれにせよ、上記どちらのバージョンであっても、連結されたフレームが、不規則な往復運動を内包した一つの総体として立ち上がる瞬間(言い換えると、全体的な必然性があるかのように感じられる瞬間)が、次々と生産されることに違いはない。『Shutter Interface』がフレームの重なり合いを一つの総体に転じさせるものだったとすれば、本作は、往復運動を一つの総体に転じさせるものだと言えよう。映写機2台よりも映写機4台の方が、運動の不規則性が最大化されており、コンセプトが明確化される気もするが、それでも充分に知覚を撹乱する不規則な運動を体験することはできた。
サウンドは間欠的なガラスの破砕音で、2本のフィルムのサウンドトラックに、それぞれオプチカルで収録されている。


『時代精神の現象学』(1967, 16mm×2, 40min)
宮井陸郎は1960年代末のサイケデリックカルチャーの只中で、自らの存在もひとつの現象に過ぎないと考え、自らの全存在をかけてそれを表現した作家であり、同時代的な精神を最も端的に表現した実験映画、特にエクスパンデッドシネマを多数制作したことで知られる。北村皆雄と2人で結成した独立プロダクションである「ユニット・プロ」は、当時のフーテン達の拠点の一つとなった。映画制作の他にも、銀座に開店したディスコ「キラー・ジョーズ」の構成演出を担当するなどした。このようなサイケデリックカルチャーに端を発する精神的な領域への関心は、やがて宮井をインドに向かわせることになり、その後、彼は映画制作からは離れてゆくことになる。
作品としては『時代精神の現象学』(1967)、『積分現象学』(1968)、『横尾忠則ちゃんだーいすき』(1968)、『続時代精神の現象学』(1968)、『レス・レス・レス』(1968)、『シャドウ』(1968)、『シンジュク・シンジュク・シンジュク』(1968)、『微分現象学』(1968)、『テレビとマンガ』(1969)、『パーティ』(1970)、『微分積分現象学』(1971)があるが、聞くところによると、現存するのは『時代精神の現象学』と『シャドウ』のみらしい。この2作品は、2012年に同館で開催された「映像をめぐる冒険 vol.5 記録は可能か。」でも上映された。今回の上映は、作家自身によるパフォーマンスを組み込んだ2018年バージョンの上演となる。

『時代精神の現象学』は2台の16mm映写機によるエクスパンデッドシネマであるが、本作の最大の特徴は、映写機に掛けられる2本の同一内容のモノクロフィルムを、数秒間のズレを持たせて、一つのスクリーンに重ね合わせてプロジェクションする所にある(今回のズレは約2秒だった)。これによって生じる瞬間の多重化、あるいは時間の分裂の効果は凄まじく、観客の知覚の安定性は常に危険に晒されることになる。さらに、それぞれの映写機のレンズの前では、それぞれの映写技師によって赤・青・緑といった原色のセルロイドフィルターが翳される。このフィルターはそれぞれの映写機の光に対して、部分的に素早く重ねられるので、スクリーン上ではモノクロ映像でありながら、部分的に色彩が発生するという混沌とした事態が生じる。まるでスクリーン上で時間が激しく沸騰しているかのようである。松本俊夫、飯村隆彦、おおえまさのりのエクスパンデッドシネマがスクリーンの外部に拡張するものであったことと比較すると、スクリーンの内部に映画を拡張する本作の特異性は際立っている。
サウンドは、当時の著名なサイケデリックロックのメドレーだったが、このサウンドトラックに関しては、恐らく2012年に再制作されたものだろうと思う。ちなみに、当時の資料によると、本来はオーディオテープから別出しでサウンドトラックを再生する形態だったらしい。
作品の内容は以下の通り。

・スタジオ(ユニット・プロ)にたむろする仲間たちの様子を捉えた主観ショットから映画は始まる。撮影は手持ちカメラによるもので、このスタイルは映画の最後まで持続する
・スタジオの扉を開け、アパートの外に出る。時間帯は昼間。仲間たちが撮影者にカメラを向ける
・路上を歩き、車の助手席に乗って移動。斜めになったカメラ位置のまま風景が流れる
・新宿の街頭に到着、ゼロ次元による担架に女性を乗せて運ぶというパフォーマンスを、仲間たちと共に追う
・一瞬だけ建物の中に入り、またすぐに街頭に出て、ゼロ次元のパフォーマンスを追う
・再び百貨店の中に入り、またすぐに街頭に出て、仲間と共に撮影し合いながら歩く。警官と議論するヘルメット姿の活動家も見られる
・地下道に下りて、仲間と共に撮影し合いながら歩く
・地上に上がって、再びゼロ次元のパフォーマンスを追う。クリスマスの広告があるので冬頃の撮影と推測される
・女性が担架から降り、ガスマスクの男が担架に乗る。ゼロ次元らしい身振りの行進
・ゼロ次元が地下道へ下り、万歳三唱を行う。ゼロ次元のメンバーは、幼い息子の手を引いて歩き続ける
・一旦映像が途切れて、時間帯が夜に飛ぶ。ゼロ次元のパフォーマンスは続き、片手を上げて全裸での行進が行われる
・新宿紀伊國屋前に到着したゼロ次元は、タクシーに乗り込んで手際よく立ち去る。カメラは野次馬の群衆を撮影し続ける
・再び地下道に下りて、柱に据えけられた美容院の広告をしばらく撮る
・地下道の電光表示の時計を定点撮影する。このフィックスショットは8:59から開始され、9:03になると同時に終了する

当時の猥雑な新宿の風景と、ゼロ次元のパフォーマンスを被写体とすることで時代の空気を映画に取り込み、時間を分裂させることによって、観客が本作を見ている瞬間それ自体を唯一無二の現象として生じさせる。本当に凄い作品であると思う。
今回のバージョンでは宮井を含む3人のダンサーのパフォーマンスと、パーカッション奏者による演奏と、ニューエイジ的なBGMが加えられていた(ダンスの間だけ、作品本来のサウンドトラックからBGMにフェードイン~フェードアウトする)。


『シャドウ』(1968, 16mm×2, 30min)
『シャドウ』も2台の16mm映写機によるエクスパンデッドシネマであるが、こちらは二つのプロジェクションを横に並べた形態をとる。映写機に掛けられる2本のモノクロフィルムの内容は、基本的に同一だが、像のみが反転しており、左スクリーンにはポジ像が、右スクリーンにはネガ像が映し出される(今回は、序盤では左スクリーンが2秒遅く映写され、中盤以降は右スクリーンが10秒以上遅く映写されていた)。
作品の内容は、街を歩きながら、手持ちカメラを用いて路上や壁面に落ちた自分自身(宮井本人)の影を撮影し続けるというものである。撮影者は、ひたすら自分の影をファインダーに収めながら歩き続けるのだが、映画の最後で立ち止まり、壁に落ちる自分の影を、正面像としてフィックスショットで撮影する。そこにはある種の自己客体化と、それにともなう空虚感が滲んでいる。
サウンドは、2012年の「映像をめぐる冒険 vol.5 記録は可能か。」で観たときにはサイレントだったように記憶している。当時の資料によるとサイレントの上映の場合もあるし、オーディオテープから別出しでサウンドトラックを再生していた場合もあるようだ。
今回のバージョンでは、客席前方に巨大な布を張ってそれをスクリーンとして、リア側から2台のHDプロジェクターでデジタル素材を投影していた。スクリーンとプロジェクターの間では、宮井を含むダンサーがパフォーマンスを行い、その影がスクリーンに落ちるという演出も加えられた。さらに、パーカッション奏者の演奏に、大城の小型アンプを使用したパフォーマンスも加えられた。

第10回恵比寿映像祭「インヴィジブル Mapping the Invisible」会場展示@東京都写真美術館

本年の恵比寿映像祭は、「インヴィジブル」という総合テーマによって不可視なものを可視化する、そのような映像が集められていた。このエントリーでは展示セクションにある作品について述べたい。
まず、イタコの老女の語りに戦後日本史を仮託する、ナターシャ・ニジック&基丸謙による三面スクリーンのインスタレーション作品『恐山』(2018)や、ポーランドのスポーツ施設に集う男性たちをモチーフとした、ガブリエラ・エレーラ・トレスによるシングルチャンネル作品『適切な運動による神への近寄り方』(2016)などの作品では、抽象化な物語による映像のなかに、社会的なものの反映を発見することが可能であった。しかしこの方向では、どこまで行っても不可視なものの分かりやすい翻訳、あるいは比喩としての可視化にとどまるだろう。この二作品は本来良い作品であり、他の展示作品よりも抜きん出ていると思うのだが、この総合テーマの元では、どうしても安直なものに見えてしまった。
他方、メディアに馴致される黒人のイメージを渉猟する、マルティーヌ・シムズの映像インスタレーション作品『レッスンズI-LXXV』(2014)や、ISILの攻撃を生き延びた聴覚障害の少年の身振りによって凄惨な出来事を可視化させる、エルカン・オズケンのシングルチャンネル作品『ワンダーランド』(2016)などの幾つかの作品は、事実そのものを撮影した映像ではないが、間接的な映像を操作することによって翻訳や比喩であることから逃れていた。そこには不可視なものが二重化された形で残存しているといえる。この方向にある作品は興味深いものであり評価したい。



『Shutter Interface』(1975, 16mm×4, Endless)
しかしながら、展示作品のどれとも異なる形で、総合テーマを基底面から批評する作品だと思えたのは、ポール・シャリッツの『Shutter Interface』(1975)だった。言うまでもなくシャリッツは、トニー・コンラッドやマイケル・スノウ、ジョージ・ランドウ、アニー・ゲールなどと並びアメリカ・カナダの構造映画を代表する作家である。シャリッツといえば、世間では『T,O,U,C,H,I,N,G』(1968)などの作品におけるカラーフリッカーが有名だが、それは光の明滅による眼への刺激にとどまらず、ある単一色のカラーフレームが、その前後に配置されたカラーフレームと干渉し合うことで「別の色彩」を生成するという特性を備えている。その「別の色彩」とは、もちろん物質としてのフィルム上に存在するものではなく人間の知覚過程において生じるものであるが、シャリッツの映画には、このような整然としたモダニズム的構築を超える自壊の契機が、常に内包されている。そして、これは総合テーマである不可視性の問題にも関わってくる。
具体的な作品の構造を説明したい。本作は、水平に並べられた4台の映写機によって、4本のカラーフリッカーのループフィルムをエンドレス上映するものだが、それらは隣接する画面の三分の一を相互に重ね合わせる形で壁面にプロジェクションされる。シャリッツの作品では、あるカラーフレームが前後のフレームと干渉し合うことによって、「別の色彩」として生成されることは先に述べた通りだが、本作ではそれに加えて、隣接する画面が相互に重なり合うことによって、スクリーン上でも加法混色が行われることになるのだ(外見上は水平方向に7つの色彩が並ぶことになる)。それによって、不均質な集合態として構成された、恐ろしくいびつな映画が立ち上がるのである。電子音のパルスによるサウンドトラックは、4本のフィルム全てにオプチカルで収録されており、各映写機につき1chの小型スピーカーで再生される。それによって電子音のパルスは、プロジェクションされる映画と同じくクラスター状の塊となる。
本作では、いかなる形においても社会的な事象はスクリーン上に現れない。しかし本作は、映画における知覚の臨界、すなわち可視/不可視の境界を指し示すことによって、私たちの知覚する外部の世界が、容易に認識できる断片的な刺激や情報によって、半ば自動的に構成された仮設的なものに過ぎず、その足元には不可視の領域が広がっていることを明らかにする。エクスパンデッドシネマとは単純な意味での上映空間の拡張などではなく、整然とした知覚過程や意味付けを自壊させることで、観客の意識のなかに仮設されている世界(ここで言う「世界」には、当然ながら社会的なものも含意される)のイメージを転倒させる、そのような経験の試みなのである。

第10回恵比寿映像祭「インヴィジブル Mapping the Invisible」@東京都写真美術館


第10回恵比寿映像祭「インヴィジブル Mapping the Invisible」
会場:東京都写真美術館、日仏会館、ザ・ガーデンルーム ほか
会期:2018年2月9日〜2月25日
https://www.yebizo.com/jp

本年で10年目となる恵比寿映像祭は「インヴィジブル」というテーマにて開催された。数年前に始まったような感覚にとらわれて、もうそんなになるのかと驚く。第1回の恵比寿映像祭が開始された2000年代後半は、日本国内の実験映画をめぐる状況はとにかく閉塞的で、牧野貴が[+]上映会を開始するなどして、新しい風を吹き込もうと奮闘していた時期にあたる。第1回開催後の打ち上げで、初代ディレクターの岡村恵子、牧野貴、そして何故かそこにいたGURUGURUのマニ・ノイマイヤーなどと恵比寿で飲んだ時は、実験映画専門の映像祭ではないが、これで実験映画をめぐる状況も少しは風通し良くなりそうだという予感をおぼえたものだった。その予感は期待通りに運んだ部分もあるが、なかなか難しい部分も残されたままだ。少なくとも、まだ劇映画と実験映画を区分している障壁は完全には消えていない。

話はそれるが、ここでいう障壁とは「1:上映場所のプログラミングの傾向」「2:評論家・研究者の言説」「3:観客の動員数」に表れる。そのうち、この10年間で変わったものといえば「3:観客の動員数」だろう。この2月は上映イベントが集中していたので、私は、恵比寿映像祭の上映イベントや、自分が関わったアップリンクでの「再:生成 相原信洋」、VACANTでの「聴覚と視覚のはざまで 恩田晃の実験室 恩田晃+牧野貴」、アテネ・フランセ文化センターでの「ストローブ=ユイレの軌跡 1962-2016」の観客数を、なんとなく毎回目算していた(何をやっているんだと思いながら)。すると、確証を得たことがあった。それは、実験映画寄りのイベントが、シネフィル趣味のイベントの動員に迫るサイズ感になっていたという事実である。アップリンクでいえば、私は行けなかったが七里圭が続けている「映画以内、映画以後、映画辺境」のシンポジウムが、アップリンク1階(60席程度)がほぼ埋まるくらいだったらしいし、同じ場所で2016年に開催した松本俊夫のイベントや、今回の相原信洋のイベントも、同一プログラムの複数回の動員数を合わせたらそれと同程度である。VACANTでの恩田晃+牧野貴も60名くらいなら余裕で入っていたし、今回の恵比寿映像祭での「Beyond the Frame」に至っては100名以上入っていたと思う。対して、アテネの「ストローブ=ユイレの軌跡 1962-2016」については、最終日のトーク付きプログラムで100名以上(120名くらい?)は入っていたと思う。実験的な映画も、作家の身内に向けてのものではなく対外的な準備を整えれば、ある程度の動きを作り出せるようになってきている気がするし、単発の大きなイベントなら、観客動員のサイズ感としては、シネフィル趣味のイベントと大差ないといえる。しかし、「1:上映場所のプログラミングの傾向」「2:評論家・研究者の言説」となると10年前と殆ど変化はなく、実験映画をちゃんと観ている評論家・研究者なんて、相変わらず片手で数えられる状態だ。ここから分かることは、観客は変化に柔軟である一方で、プログラマーや評論家・研究者は、長期的に積み上げてきた自分の専門性を簡単に変化させる訳にもいかず、今まで通りのスタイルで続けているということなのだろう。そして若い評論家・研究者は、師匠や先生の教えを守ってシネフィル的教養を育み、実験映画をそもそも観ないという言説的サイクルが循環することになる。(この点は自分の課題でもあるので、今後の仕事として考えたい)。

話を戻すと、そのような国内状況のなかで、二代目ディレクターに田坂博子が就いて恵比寿映像祭は新たな段階に入ったといえる。今回のテーマが、昨年、同館で開催された「エクスパンデッド・シネマ再考」の延長線上にあることは、映画研究者の平沢剛とジュリアン・ロスの協力したプログラムがあることからも自明だろう。私が観たのは、展示の他に関連イベントの「岡部道男特集―アンダーグラウンドとキャンプ」「岡部道男特集―上映+スペシャルトーク」「略称・連続射殺魔 35mmフィルム上映」「不可視であるなら、私が。 出光真子おんなのさくひん」「エクスパンデッド・シネマ・パフォーマンス―Beyond the Frame」「透かしみる1―ピクセルの裏側」「透かしみる2―舞台裏」であった。

続くエントリーにて、これらを個別にレヴューして行きたいと思う。