Trap/HipHop MV 2018

2018年にリリースされたMVでよく聴いた、あるいは印象に残った日本語のトラップ/ピップホップを10点ピックアップ(楽曲のみアップされたものも含んでますが)。全体としては、去年と変わらずエモさとハードコアさが同居したものが好みだった模様。

KID FRESINO – Retarded (Official Music Video)

KID FRESINO – Coincidence (Official Music Video)

KID FRESINO – Arcades ft.NENE (Official Music Video)

Febb as Young Mason – SLAY (Prod. Chaki Zulu)

ゆるふわギャング “Psychedeligood”

kZm – Dream Chaser feat. BIM (Prod. Chaki Zulu)

kZm – EMOTION (Chaki Zulu Remix)

Jin Dogg – 彼岸花 (cluster amaryllis) ft. Young Coco (Official Music Video)

YDIZZY – not (dead) (Prod. Chaki Zulu)

Jin Dogg & YDIZZY – set (Official Music Video)

Febb亡き後にリリースされたKid Fresinoの『ài qíng』は、ヒップホップ云々ではなく個人の痛みのようなものが普遍化された表現として印象的で、今年の秋から冬にかけて飽きもせず繰り返し聴いた(Fla$hBackSの諸作品と交互に)。音楽的にもユニークで、トラップとは違うやり方でヒップホップの典型からの逸脱を果たしており、ある音楽のスタイルが再編される過程で生じる面白さが、いたるところに表出していた。これもラッパーがトラックメーカーを兼ねているからこそ可能となったアプローチなのだろう。
ゆるふわギャングの空虚さや喪失感を内包したアンビエントな楽曲も、夏頃によく聴いた。ゆるふわにはKid Fresinoの現在の方向と一致するものがあり、この二者が接近するのは必然だったと思える。
今年のYENTOWNを引っ張ったのは間違いなくkZmの『Dimension』だった訳だが、この作品も、トラップ以降の何でもありになったヒップホップを象徴する作品としてよく聴いた。しかし、最も印象的だったのは、アルバムに収録された楽曲よりも、後日ひっそりとリリースされた「EMOTION (Chaki Zulu Remix)」だったりする。hnrkによる憂鬱なトラックが、Chaki Zuluによって、90年代のグランジのようなギターサンプルを中心に作り変えられており、初めて聴いた時にはそのギャップに衝撃を受けた。このような、トラップから一昔前のオルタナティヴロックへの跳躍が新しいものとして映るのはLil Peep以降の現象であるといえるが、それは逆説的にこの二つの音楽が根差しているものの共通性を示しているのかもしれない。トラップは、いまあるポピュラー音楽のなかでも、最も実存の問題を突き詰めた音楽だと思っているが、それは空虚さや喪失感を内包しながら、その空白を「いま・ここ」の享楽性に反転させることで成立しているのだろう。
一方、トラップをハードコアパンクのテンションにまで高めるJin Doggと、一時活動を休止していたYdizzyは両者ともに好調だったが、この両者が共演した「set」は、予想の斜め上をいくテックハウスのようなトラップで面白かった。短かったので続編を期待。

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告知「イメージの廃墟 黒澤潤・実験映画作品集」

都内のインダストリアルスペースにて、長編実験映画『猫耳』(1994)の監督として知られる映像作家・黒澤潤の代表的な8本の作品を上映いたします。彼の事物(それはオブジェとしての身体も意味する)に対する独自のまなざしと実験精神が織り成すクールな世界観による作品群は、90年代に国内外の映画祭等で高い評価を獲得しながらも、その後、ソフト化された一部の作品を除き、長い間見ることが出来ませんでした。今回は当レーベルの調査によって新たに発見され、フルHDスキャニングによってデジタル化された、貴重なフィルム作品+αをお披露目いたします。本イベントは2部構成となっており、後半に上映する3作品ではミュージシャンである古舘徹夫氏、クリストフ・シャルル氏によるライブ上映を実施するほか、上映後には黒澤潤監督ご本人をお招きしての短いトークも行います。また当日、KRAUT FILM配給ソフト第一弾として、同氏のBlu-ray作品集を販売する予定です。最先端のデジタル化技術によって蘇った、伝説の実験映画作家のフィルム作品をぜひ、ご高覧下さい。

黒澤潤 / Kurosawa Jun
1964年生、多摩美術大学美術学部芸術学科卒。大学時代、同期と結成したインディーズ・バンドで数年に渡る活動をした後、萩原朔美に師事し、映画制作を始める。初期においては「光や物体(あるいはフィルムそのもの)をフレーム単位の編集によって操作する構造的なスタイル」の作品を多数制作、やがて作品は物語性を取り入れ始め、「肉体的エロス」や「タナトス」、そして「幼児性」といった要素を通じて、より自身の内面的世界の分析へと移行して行く。大学卒業後は福嶋輝彦・秋田敬明らによるアートプロデュースユニット<T.T.PARTY>との協働によって、現代美術の方面にも携わりつつ、1994年に恵比寿のイーストギャラリーで行った『猫耳』(1994)のプレミア上映では記録的な動員を達成。また、国内のノイズシーンとの関わりも深く、自身がノイズミュージシャンとして活動する傍ら、メルツバウを追ったドキュメンタリー『ビヨンド・ウルトラ・ヴァイオレンス』(イワン・ケルコフ、1998)ではコーディネイトを担当する。その他にも、パフォーマンスユニットとのコラボレーションや、映像オペラ『サテュリコン』(2004)を手掛けるなど、常に越境した映像表現を探求する。

桜台pool(東京都練馬区桜台1-7-7)
12月15日(土)
OPEN/18:00 START/18:30
入場料:2000円
主催:KRAUT FILM


まるでノイズレーベルのような匿名的な活動をみせるKRAUT FILMは、今年の夏、実験映画作家ピエール・リュック・ヴァイヤンクールを国内紹介する上映会を開催したが、その一方で、以前より黒澤潤のフィルムのデジタル化に取り組んでいたらしい。黒澤はノイズミュージックを始めとした1990年代のサブカルチャーとも通じる退廃的な表象の実験映画で知られるが、90年代半ばより作家が寡作となったために、その作品にアクセスすることが困難な期間が長く続いていた(このような過去の実験映画へのアクセスの困難さは黒澤作品に限ったことではないが)。
このような状況に一石を投じるべく、KRAUT FILMは、デジタル化が完了した黒澤作品を収録したBlu-ray作品集をリリースし、それに併せてライブ上映会を開催するらしい。上映会場は映画館ではなく、インダストリアル/ノイズのリスナーにはお馴染みの桜台poolであるが、いまの都内のスポットで、ここほど黒澤作品に適した場所もないだろう。プログラムは「Chapter 1:Selected works 1988 – 2003」と、古舘徹夫とクリストフ・シャルルがライブを行う「Chapter 2: 3 Experimental Short Films + Tetsuo Furudate & Christophe Charles Live Performance」によって構成される。古舘とシャルルは、90年代サブカルチャー的なノイズの要素を備えながらも、コンテンポラリーな電子音楽とも繋がる実験性を持った数少ない作家であり、ベストな人選だという他ない。
それにしても、ヴァイヤンクール、黒澤、古舘、シャルルを繋ぎ合わせるKRAUT FILMのオーナーの審美眼は、実にはっきりしている。それはインターネット普及以前のアンダーグラウンドな文化空間につながる回路を、このSNSが偏在化した現在においてこじ開けようとする、ある種の反時代的な身振りでもあるだろう。

David Grubbs, ホンタテドリ@Hand Saw Press


David Grubbs, ホンタテドリ
日時:2018年4月5日
会場:Hand Saw Press

アメリカ実験音楽が、ルーツを持たないヨーロッパからの移住者たちによる新しい民族音楽であったという視点は、柿沼敏江の『アメリカ実験音楽は民族音楽だった』に詳しい。そこで挙げられた音楽家は、ヘンリー・カウエルのように民族音楽から着想を得ていた作曲家から、一見すると民族音楽に関わりを持たなそうに見えるジョン・ケージのような作曲家に至るまで幅広い。柿沼が提起する民族音楽という視点は、非西洋音楽としての民族音楽にとどまらず、移住者による新しい伝統の創出という文化論的な問題を含んでいるのだ。

何故デヴィッド・グラッブスのコンサートのレヴューを書くにあたってこのような事から書き始めているかといえば、それは、グラッブスのコンサートの直前に、アルヴィン・ルシエのコンサートを二日間通して聴きに行ったことと関係している。アメリカ実験音楽の代表的な作曲家であるルシエと、Gastr Del Solとしての活動以来、カントリーブルースを参照した実験的ポピュラー音楽に取り組んでいるグラッブス。両者の経歴や表現の形式に共通点はないが、両者の存在は、いずれも柿沼が提起した意味での新しい伝統としての「民族音楽」の範疇に収まるだろう。思い返せば、『Happy Days』において、トニー・コンラッド(実験音楽、この場合はミニマルミュージック)とジョン・フェイヒー(カントリーブルース)という二つのキャラクターに仮託して、二つの音楽の相対化を試みたのがジム・オルークであり、それをある種のメタ音楽として展開したのが、オルークとグラッブスのGastr Del Solであった。Gastr Del Solの音楽は、楽曲が複数のレイヤーを持ちながら進行し、複数の聴取を可能とする音楽であったが、この複数の聴取とは、出会わなかった二つの音楽の歴史的な文脈を聴き取るということに等しく、そのコンセプトは、グラッブスの現在の活動にも大きな影響を及ぼしている。グラッブスは、いまも実験的解釈によるカントリーブルースを演奏しているが、それはアメリカ音楽史に対する批評行為なのだといえる(ちなみに前にも書いたが、グラッブスのスタンスに最も近いのは、アカデミック音楽を批判しながらヒルビリー音楽に貢献しようとした作曲家、ヘンリー・フリントだろう)。

このような前提を確認した上で、このエントリーはコンサートの細部に入ってゆく。今回のコンサートは急遽決まったという事で、『湖畔通りの竪琴工房』ならぬ不動前の印刷工房であるHand Saw Pressにて開催された。ちなみに、今回のグラッブスのコンサートは二日間開催されたのだが、グラッブスのコンサート初日は、ルシエのコンサート二日目と重なっており、私はルシエを優先させたので、グラッブスの初日を観られなかった。SNSをチェックする限り、初日の内容はグラッブスと宇波拓とのコラボレーションだったようだ。そして私が観に行った二日目は、1:グラッブスのソロ演奏、2:宇波・佳村萠・秋山徹次をメンバーとするホンタテドリの演奏、3:グラッブスとホンタテドリのコラボレーションという順番で進められた。

まず、グラッブスのソロであるが、Hand Saw Pressは印刷工房なのでライブハウスのようなPAはなく、ギターアンプから直接音が出されていた。音楽を聴くのに適した空間かというと厳しいのだが、演奏者と観客の近さがあるという意味では良かった。私は最前列で演奏を聴いたのだが、フレットを押さえる指の動きがはっきり見える近さだった。その演奏は、2016年の代々木上原ムジカーザでのコンサートと同じく、複数の曲を繋げるようにして緩やかに進行してゆく。当日のメモと、後日グラッブスのツイッターにメンションを送って戻ってきたメッセージを元にセットリストの分析を試みておくと、以下の通りである。

デヴィッド・グラッブス ソロ演奏
1:Creep Mission(Creep Mission)
2:Skylight(Creep Mission)
3:How To Hear What’s Less Than Meets The Ear(Prismrose)
4:The Bonapartes Of Baltimore(Creep Mission)
5:A View Of The Mesa(The Plain Where The Palace Stood)
6:Abracadabrant(The Plain Where The Palace Stood)
7:Charm Offensive(Dust & Mirrors)
8:Out With The Tide(Ken Vandermark and David Grubbs)
9:The Bonsai Waterfall(Prismrose)

まず、1~4は近年リリースされた『Creep Mission』(2017)、『Prismrose』(2016)から構成されていた。その楽曲群は、Gastr Del Solと同じくカントリーブルース的なギター演奏の内部に異なる文脈のレイヤーを聴取させようとする、極めて豊穣なものであった。
次いで短いブレークを取り、『The Plain Where The Palace Stood』(2013)からセレクトされた5~6が演奏される。これらはドローンアンビエントのような響きを持つ楽曲であり、ブレークを取って1~4の楽曲群と切り離したことは納得がいく。
そして、再び短いブレークを取って7~9が演奏される。特にBelfi/Grubbs/Pilia名義での楽曲である「Charm Offensive」は、テープコラージュのように風景が切り替わってゆく作品なのだが、ここから明るいヴォーカル楽曲である「Out With The Tide」に繋いだのは面白かった。まるで「Out With The Tide」が風景の一部として前の楽曲に取り込まれたようでもあった(ヴォーカル無しのインストゥメンタルとして演奏)。
そしてホンタテドリの演奏を挟んで、グラッブスとホンタテドリのコラボレーションが展開される。

デヴィッド・グラッブス+ホンタテドリ
1:Photographed Laughing(Ken Vandermark and David Grubbs)
2:The Forest Dictation(Failed Celestial Creatures)
3:Learned Astronomer(Prismrose)
4:Cool Side Of The Pillow(Dust & Mirrors)
5:A Boy(これのみホンタテドリの楽曲)

このコラボレーションの持つ意味は、Gastr Del Solに衝撃を受けて、その後のオルークとグラッブスの仕事を追っている方なら想像が付くはずだ。1~4の楽曲は全てヴォーカル曲であるが、今回はそれらが秋山と宇波の即興演奏を伴うことによって解体的に演奏されるのである(佳村はヴォーカルを薄く重ねる役割に回る)。
言うまでもなく、ここで行われていることはGastr Del Solの再演に近い。一つの対象の内部に複数のレイヤーを聴取すること、別の言い方をすれば解体の過程においてレイヤーを露呈させること。それこそがGastr Del Solの核心であったとするならば、この日、ここで行われたことは、そのヴァリエーションであったと言うべきだろう。そして、それはやはりグラッブス一人では完遂できないものなのだ。複数であることは、個人では成し得ない。しかし、秋山と宇波の即興演奏によって、この日の演奏はその地点に到達することができた。このコラボレーションは、Gastr Del Solの核心がなんであったかを確認することができる、全くもって得難いものであったと思う。

付記:上記楽曲のうち「The Forest Dictation」は、このコンサートの時点では未発表であったが、同曲が収録された宇波との共作『Failed Celestial Creatures』は、香港のEmpty Galleryから先日リリースされた。Empty Galleryは、過去に牧野貴や松本俊夫の展覧会を開催している現代美術のコマーシャルギャラリーであるが、即興音楽にも関心を持っており、Empty Editionsという音楽レーベルも運営している。Bandcampでも試聴することができる。

Alvin Lucier & Ever Present Orchestra@Super Deluxe

Alvin Lucier & Ever Present Orchestra
日時:2018年4月3〜4日
会場:六本木Super Deluxe

アルヴィン・ルシエが、自身の作品を演奏するエヴァー・プレゼント・オーケストラと共に四月上旬に来日して、京都・東京にてコンサートを行った。ルシエはアメリカ実験音楽の中心的な作曲家であり、デヴィッド・バーマン、ロバート・アシュリー、ゴードン・ムンマとのソニック・アーツ・ユニオンの活動などを通して電子音楽の歴史に大きな足跡を残してきた。ルシエの作品には音に関する現象を観測するという、マテリアリスト的な傾向があり、それはインスタレーション作品を含めて、この作家の個性になっている。それは現象として立ち現れるため、ある意味分かり易いものであり、現代音楽という括りを超えて幅広い聴衆に共有され得るものだと思う。私は、六本木Super Deluxeでのコンサートを両日観に行ったのだが、今回の招聘元はいわゆるアカデミックな現代音楽の関係ではないようで、京都では西部講堂でコンサートが行われたらしい。良い広がり方だと思う。ちなみに、高齢のため今回が最後の来日となるそうだ。



Day1(4月3日)
1:Ricochet Lady(2016)
会場である地下空間の壁際の角にグロッケンシュピールが置かれており、演奏家は観客に背を向けて、機械のように正確な演奏を繰り広げる。楽曲自体はクロマティック・パターンを反復するという単純なものだが、連打される金属音が空間のなかで強烈な反響を発生させる。

2:Braid(2012)
4人のギター奏者がテーブルにエレキギターを置き、E-bow(電気振動により持続音を発生させる、エレキギター用の道具)を使用することによって、持続音を発生させる。ここに3名の管楽器奏者による、引き伸ばされたストロークの持続音が加わる。それによって周波数の干渉が至る所で発生する。今回の公演で演奏されたルシエの近年の作品は、基本的にこのような周波数の干渉によるうねりを聴き取るものであった。ちなみに、一昨年同じ会場で聴いたジェームス・テニーの作品もまた、周波数の干渉をテーマとするものだった。この両者を比べると、テニー作品の演奏はかなり厳格で、全ての楽器奏者がチューナーを見ながら周波数を制御していたのに対して、ルシエ作品の演奏はギター奏者のみがチューナーを使用して周波数を制御しており、管弦楽器に関しては、人為的な揺らぎを許容しているようにみえた。ピアノ奏者も演奏していたが、微音でよく分からず。

3:Two Circles(2012)
4人のギター奏者がテーブルにエレキギターを置き、E-bowを使用することによって、持続音を発生させる。これに、1本のサックスと2本のヴァイオリンという編成の、ふたつのグループが加わる。このふたつのグループの演奏家たちは、それぞれが違う長さ(10分30秒、7分31秒)で音程を循環させる。それによって、ダイナミックな周波数のうねりが生まれる。ピアノ奏者も演奏していたが、微音でよく分からず。

4:Semicircle(2017)
グロッケンシュピール以外の全演奏者(ヴァイオリン4本、管楽器3本、E-bow&エレキギター4本、ピアノ)が登場し、秒刻みで打たれるピアノの単音によって誘導されながら、緩やかな持続音を重ね合わせる。18分に及ぶ楽曲の中で、豊かな周波数の干渉が生み出される。

5:Bird and Person Dyning(1975)
近作で構成された前半に対して、休憩を挟んでの後半は、ルシエの代表的な電子音楽作品の再演である。この日の演目である『Bird and Person Dyning』は、イタリアの個性派レーベルであるCramps Recordsの現代音楽シリーズnova musichaからリリースされた作品であり、ノイズ/インダストリアルの先駆的作品だといえる。ノイズの文脈では、フィードバックノイズとアジテーションの混成によるスタイルはパワーエレクトロニクスと呼ばれるのだが、そのなかでも、単調な電子音に金切り声を混ぜ合わせたWhitehouseの表現形式などは、本作から相当影響を受けているだろうと想像する。
さて本作の構造だが、まず鳥の声によく似た電子音が、会場中央に立てられたマイクスタンド上の小さなスピーカー(上記写真の金色の球体)から流される。そして、バイノーラルヘッドホンマイクを身につけたルシエ本人が会場を移動して、会場のメインスピーカーからフィードバックノイズを発生させる。バイノーラルヘッドホンマイクとは、両耳の部分にマイクを取り付けた機材で、臨場感ある録音を可能とする(イヤホンも内蔵されており、着用者は録音しているサウンドのモニターもできるようだ)。このマイクには指向性があるので、メインスピーカーのフィードバックは、デリケートかつダイナミックな変化を持つものとなる。そして、この強烈なフィードバックノイズが鳥の声との間でヘテロダインを引き起こして、幽霊のような鳥の声を発生させる。ルシエは高齢のため杖をついていたのだが、会場後方から前方までの数メートルの距離をゆっくりと歩いて、幽霊のような鳥の声が発現する場所を探していた。強烈に刺激的で、非日常的な体験だった。



Day2(4月4日)
1:Criss-Cross(2013)
向かい合ったギター奏者2人(うち一人はオレン・アンバーチ)が、E-bowを使用することによって、テーブルに置かれたエレキギターから持続音を発生させる。2人は演奏をするというよりも、周波数を制御することに徹しており、チューナーを注視しながら、時折ペグを回して微調整を行う。そして二つの持続音は干渉を引き起こしながらもつれ合う。もともとは、オレン・アンバーチとステファン・オマリーのために作曲された作品らしい。

2:Hanover(2015)
4人のギター奏者が、E-bowを使用することによって、テーブルに置かれたエレキギターから上昇/下降する持続音を発生させる。そして、ピアノ奏者が点描のように音を置いてゆくなか、ヴァイオリン3本と管楽器2本、弓弾きによるグロッケンシュピールが緩やかな持続音を奏で、周波数の干渉を引き起こす。

3:Tilted Arc(2018)
全演奏者(ヴァイオリン5本、管楽器2本、E-bow&エレキギター4本、ピアノ、弓弾きによるグロッケンシュピール)による大編成の作品。まずグロッケンシュピールの弓弾きと、ヴァイオリンによる持続音が奏でられる。そして各楽器奏者がこれに加わり、緊張感のある空間のなかで周波数の干渉が現れては消えてゆく。音数が多いので、この方向の集大成といった感じで圧巻だった。

4:I Am Sitting in a Room(1969)
この日も後半は、ルシエの代表的な電子音楽作品の再演である。この日の演目である『I Am Sitting in a Room』は、空間の音響特性を取り込んだコンセプチュアルな作品である。まず、椅子に腰掛けてマイクに向かったルシエは、自らの著書『Chambers』の一節を読み上げる。この音声は、その場で繰り返し録音され、繰り返し再生されてゆく。この再録音のプロセスの中で、オリジナルの音声は空間の影響を受けながら、最終的に滑らかな波形を持った持続音に還元される。よく知られた作品であるが、実際に演奏を聴いてみると、音声の平滑化が3回目の再録音のあたりで顕著に表れていたのが意外だった(それが、この会場の特性なのかどうかは分からないが)。また、途中でルシエが咳払いをしてしまい、それも包括しながら波形が平滑化されてゆくというアクシデントもあった。この作品によく似合う出来事だったといえるだろう。

追記:今回のコンサートは、ルシエの集大成となる4LP+CDボックス『Illuminated by the Moon』のリリースに合わせたものでもある。ボックスは下記にて購入可能。なお購入者は、シリアルナンバーをレーベルに伝えることで、4LPのオーディオファイルをダウンロードすることができる。
http://www.zhdk.ch/en/lucier

「小杉武久 音楽のピクニック」@芦屋市立美術博物館

「小杉武久 音楽のピクニック」
会場:芦屋市立美術博物館
会期:2017年12月9日 ~2018年2月12日
http://ashiya-museum.jp/exhibition/exhibition_new/11161.html

芦屋市立美術博物館にて、音楽家・小杉武久の展覧会「小杉武久 音楽のピクニック」が開催されている。芦屋市立美術博物館は「小杉武久 音の世界『新しい夏』」を1996年に開催した、小杉とは所縁のある美術博物館であり、他にも「刀根康尚 パフォーマンス&トーク」(2001年)や「美術と音楽の一日『rooms』」(2016年)など、稀にではあるが実験的な音楽に関わるイベントを開催していることでも知られる。

さて、小杉は作曲家であると同時に、即興演奏やサウンドアートに取り組み、音楽の概念(あるいは音を聴くことの枠組み)を拡張してきた、戦後日本音楽における重要人物である。しかしながら、小杉は、その音楽に対する独特な態度によって、これまで現代音楽や即興音楽、そして現代美術のシーンからも微妙に距離を取って批評されてきたと思う。よって、長年の創作活動が全体的に提示されるのは、今回が初であると言い切ってしまっていいだろう。本展覧会は、会場を5つの章によって区切ることで構成されている。各章の年代とタイトルは以下の通り。

第1章 グループ・音楽から反音楽へ(1957~1965年)
第2章 フルクサスからインターメディアへ(1965年~1969年)
第3章 タージ・マハル旅行団(1969~1977年)
第4章 マース・カニングハム舞踊団(1977年~)
第5章 サウンド・インスタレーション

これらの展示は小杉の活動歴を、アーカイブ資料を中心として極めてクリアに浮かび上がらせる。ここで興味深いのは、本展の展示方法のなかに(この手の展覧会にありがちな)音楽をヘッドホンで聴かせるような仕掛けが一切なく、これまで出版されてきた小杉のレコード・カセット・CDの紹介すらも極一部にとどめられていたことであろう。小杉は作曲の名において音を固定し、資産化することに反対してきたが、そのような厳しい態度はここでも一貫している。

ともあれ、私は第1章から第4章までのアーカイブ資料の展示を通して見ることで、小杉の活動の全体像を、初めて包括的に考えることができた。第1章では、東京藝術大学在学中にジャズではなく現代音楽の文脈上で、それを乗り越えるべく結成された即興演奏グループである「グループ・音楽」の活動に始まり、ネオダダやハイレッド・センター、VAN映画科学研究所などに集った、反芸術を標榜する作家たちとの活動の数々が紹介される。第2章では、1965年にフルクサスのジョージ・マチューナスの招聘を受けて渡米し、1967年に帰国するまでの期間に展開された、ナムジュン・パイクを初めとするニューヨークの前衛たちとの活動が紹介される。実験映画の文脈から見れば、エクスパンデッド・シネマの重要な催しであった「New Cinema Festival」において、小杉が『Film & Film #4』を上演していたことは見落とすべきではないだろう。第3章では、1969年から1977年にかけて活動した、様々な場所で長時間の即興演奏を行なうグループである「タージ・マハル旅行団」が紹介される。第4章では、1977年より始まるマース・カニングハム舞踊団の専属音楽家としての仕事を軸に、サウンド・インスタレーション(オーディオ・ヴィジュアル作品)を含む、今日に至るまでの活動が紹介される。そして第5章では、小杉のオーディオ・ヴィジュアル作品の実物が、館内のホールや通路階段に、計10点展示される。これらの作品は、光や風などの周辺環境の変化を音に変換して可聴化する作品であり、小杉の即興演奏に通底するコンセプトを備えている。

次に感想として、二つのことを述べたい。

1:まず、こうして小杉の活動歴を振り返ったとき、私はこれまで気にならなかった「タージ・マハル旅行団」の活動に、若干の違和感を覚えた。これは、1960年代の反芸術・反音楽の渦中にいた時期の小杉の仕事と、渡米後のフルクサス周辺での仕事と、再渡米後のカニングハム舞踊団での仕事には、一貫したコンセプトあるように思えるが、「タージ・マハル旅行団」だけが、小杉の活動歴のなかで異質なものに見えたということである。ただし、この言い方ではまだ正確さを欠く。川崎弘二氏との個人的な雑談の中で指摘されたことをヒントとして、より正確に言うならばこうだ。「タージ・マハル旅行団」は時期によって演奏が変化するので、「タージ・マハル旅行団」が世界各国での旅を終えて帰国してから、解散に至るまでの後期が異質なものに見えた、ということである。初期の「タージ・マハル旅行団」の演奏からは、偶然生まれた微細な音が寄り集まり、長い時間をかけて変化していくような印象を受ける(『Live In Stockholm 1971』)。それに対して後期の「タージ・マハル旅行団」の演奏からは、ジャーマンロック的というか、民族音楽的なサイケデリック音楽の方向に自らを縛っているような印象を受ける(『July 15, 1972』『August 1974』)。このような「タージ・マハル旅行団」の変化は、時代精神の反映だったのかもしれないが、音の自発性を追求する小杉本来の思想とは、乖離していったのではないかと思う。そこで小杉は、この状況を打破すべく、カニングハム舞踊団の専属音楽家に就任することを選択したのだろう。カニングハム舞踊団での小杉の演奏は、それ以前よりも、より厳格に音の自発性を追求する方向に進んだように思える。私が小杉の仕事に触れたのは1990年代中頃だったが、その時点の私にとって小杉は、極めて厳格な音への態度によって、ポピュラー音楽からも主流の現代音楽からも隔絶した孤高の存在として映った。

2:唐突だが、私は昔から、即興演奏よりもテープ音楽に強く惹かれてしまう。これは要するに、編集によって作られたものに強い関心を示しているということである。自分が映画・映像を専門としていることも関係しているのだろう。私は、編集とは時間と空間を再編成することによって、聴取者の知覚に作用し、意識における単線的な時間のあり方や認識を、不確定な方向へ向かわせるものだと考える。そして、またしても川崎氏との個人的な雑談の中で指摘されたことをヒントとして、話を小杉に結びつけるならこうだ。小杉にとっての即興演奏とは、著書『音楽のピクニック』に所収の、ジョン・ハダックや高橋悠治との対談などで語られているように、単線的な時間の流れを無効化して、不定形な空間のなかで音の自発性を生起させるものであったが、単線的な時間や空間のあり方に対立するという意味において、即興も編集も最終的には一致するのかもしれない。取り留めのない感想だが、そのようなことをふと思った。そうであれば、私が小杉の仕事に惹かれ続けてきたことも説明が付くだろう。(そのような編集による音楽に取り組んでいる音楽家として、かつて小杉ともカニングハム舞踊団で協働したジム・オルークの名前を挙げておきたい。)

このように、「小杉武久 音楽のピクニック」は小杉の活動を全体的に回顧し、新たな思考を準備する、素晴らしい展覧会だった。なお展覧会に合わせて、川崎氏のengine booksからは、『音楽のピクニック新装版』『Instruction Works』『小杉武久の映像と音楽』という三冊の本が出版されているので、資料価値の高い展覧会カタログと共に、可能であれば全部入手していただきたいと思う。詳細は下記を参照のこと。
http://kojiks.sakura.ne.jp/kosugi.html

最後になるが、今回の展覧会では小杉作品のコンサートなどは開催されない。さすがにご高齢ということもあるのだろう、2016年のあいちトリエンナーレで催されたコンサート「MUSIC EXPANDED #1」「MUSIC EXPANDED #2」が現在のところ最後の機会となっている(こちらのレヴューを参照のこと)。ファンの個人的な意見としては、小杉の作品は本人の身体性と結びついたものであると思うので、他の演奏家によるリアライズは不本意なのかもしれないが、それでもなお、小杉の作品を未来の聴衆に届ける方法を考えていただければと思う。


付記:今回の展覧会では、小杉作品のコンサートが開催されない代わりに、「小杉武久演奏記録」とカニングハム舞踊団の映像が上映される。さらに、小杉が音楽を担当した映画・映像作品も「現代美術とのかかわり」「PR映画・記録映画・科学映画」として上映される。私も先述の『小杉武久の映像と音楽』に解説を寄稿したが、松川八洲雄・北村皆雄・康浩郎の作品などは、これまで見落とされてきた作品なので、この機会に是非観ていただきたいと思う。いずれも作家性が強く、演出もアヴァンギャルドで、松本俊夫が言うところの前衛記録映画と形容するほかない作品です。詳細は下記を参照のこと。
芦屋市立美術博物館 特別展「小杉武久 音楽のピクニック」 上映会(PDF)

2018年1月27日(土)
プログラム1「小杉武久演奏記録」
「朝日ニュース これが音楽だ!」(1961)
「Spectra(video version)」(1992)
「音の世界 新しい夏 芦屋市立美術博物館」(1996)
「二つのコンサート 国立国際美術館」(2009)

2018年1月28日(日)
プログラム2「現代美術とのかかわり」
城之内元晴「ハイレッド・センター シェルター・プラン」(1964)
城之内元晴「Wols」(1964/70s)
中谷芙二子「卵を立てる」(1974)※抜粋
池田龍雄「梵天」(1974)
島袋道浩「小杉武久さんと能登の桶滝に行く」(2013)
島袋道浩「小杉武久さんと能登の見附島に行く」(2013)

2018年2月10日(土)
プログラム3「PR映画・記録映画・科学映画」
松川八洲雄「ある建築空間」(1964)
北村皆雄「神屋原の馬」(1969)
康浩郎「オープン・スペースを求めて」(1970)
杉山正美「脳と潰瘍」(1971)
杉山正美「スキンカラー」(1974)

2018年2月11日(日)
プログラム4「マース・カニングハム舞踊団」
「スクエアゲーム・ビデオ」(1976)
「ローカル」(1980)
「チェンジング・ステップス」(1989)
「パーク・アベニュー・アーモリー・イベント」(2011)

Trap/HipHop MV 2017

今年は趣向を変えて、2017年にリリースされたトラップ/ピップホップで、よく聴いたもの、印象に残ったものを10点ピックアップ。ヒップホップに関しては、ここ2〜3年の典型的な文脈から逸脱したようなスタイルの流行に関心を持っていて、前にも増して聴くようになった。勿論、ノイズや現代音楽も相変わらず聴いているが、絶対量は減った。恐らく、自分の意識の中で、音楽の位置付けが少し変わったということもあるのだろう(それは消費するという感覚に近い)。以下の並びを見れば、自分の嗜好が、パンクの要素が若干入ったようなエモーショナルなトラップにあることは一目瞭然かと。

kiLLa – SHINE (Prod. No Flower)

YDIZZY – Dream Rain (Prod. KM)

YDIZZY – OMW (Prod. Chaki Zulu)

MONYPETZJNKMN – WHOUARE feat. Awich (Prod. Chaki Zulu)

MONYPETZJNKMN – UP IN SMOKE (Prod. Chaki Zulu)

kZm – Midnight Suicide feat. Awich (Prod. Mitch Mitchelson & Chaki Zulu)

kZm – Emotion (Prod. hnrk)

Gab3 – True Religion (Prod. Tripi Hendrix)

Gab3 – Hollywood Dreaming ft Lil Peep

Lil Peep & Lil Tracy – WitchBlades

簡単に概説しておくと、kiLLaは元々YENTOWNに属していた20歳前後の若いクルーで、昨年の秋にYENTOWNから集団で離脱した。ラッパーは現在のところ、YDIZZY、KEPHA、ARJUNA、BLAISEの4人。パンクスのようなファッションや、観客にモッシュを要求するパフォーマンスなど、トラップ以降に表れた典型的な文脈から逸脱する動きを、国内において体現しているクルーだといえる。面白いのは、メンバーのソロではエモーショナルな要素が前面に出てくるところで、例えばYDIZZYのソロやミックステープでそれは顕著だろう。
MONYPETZJNKMNは、YENTOWNに属するラッパー3人によるユニットで、MonyHorse、PETZ、JNKMNから成る。彼らは比較的固い韻を踏むのだが、リラックスしたフロウに、一歩引いて力を抜くというルーツレゲエ的な姿勢を感じさせる所があり面白い。ちょっと違うがフィッシュマンズや、シンガーがいた頃のDRY&HEAVYを思い出したりもする(過去に観たライブのイントロでは、Bob Marleyの『Concrete Jungle』を流していた)。YENTOWNは、この3人に加えてkZmや、今年から合流した沖縄出身の女性ラッパーAwich、そしてChaki Zuluをはじめとした複数のビートメイカーやDJを擁するクルーである。kZmは、kiLLaのメンバーだったがYENTOWNに残ったラッパーで、トラップのビートに乗せて、不穏で内省的なラップを聴かせる。海外でいえばBonesなどに近いといえ、既存のフォームからの距離感が絶妙だと思う。ちなみにYENTOWNとkiLLaは袂を分かったとはいえ、Chaki Zuluが双方をプロデュースしたり、kiLLaのリリースパーティーにPETZとkZmがゲスト参加したりと、完全に切れた訳ではないようだ。
Gab3(Uzi)は、西海岸のラッパーで、ここまで来るとエモーショナルなオルタナティヴロックといった趣だが、これをヒップホップにおける内部的な異化として捉えると、途端に、凄く批評的なラッパーなのではないかと思えてくる。ちなみにGab3は、MONYPETZJNKMNの『Zutto』のリミックスもやっているほか、2016年にはYENTOWNの面々とMVも作っている。
Gab3 – Know Me

そのGab3と一緒に曲もやっており、エモーショナルなトラップの代表格であった、GOTHBOICLIQUEに属するLil Peepは、つい先日、薬物摂取で亡くなったことが報じられた。

この一年の牧野貴の活動について

本日より、関西での上映ツアーが始まるとのことで、この一年の牧野貴の主な活動について私の知る限りで記しておきたい。

3月10日〜11日には、東京都庭園美術館にて「IGNITTION BOX 2016/2017」として『ENDLESS CINEMA』のパフォーマンス上映が行われた。これは私も両日観に行った。両日ともに、インスタレーション版の『ENDLESS CINEMA』(2017)を半日にわたってループ上映し、次に近作である『On Generation and Corruption』(2016)と『Picture From Darkness』(2017)の上映を挟んで、パフォーマンス版の『ENDLESS CINEMA』を牧野貴本人(10日)とジム・オルーク(11日)のライブ演奏によって上演するというものだった。

・『On Generation and Corruption』(Digital, 26min, 2016|音楽:ジム・オルーク)
液体の中を流動する塵を主なモチーフとした作品。牧野作品らしい、イメージを生成する抽象性を備えながらも、部分的に物質性がそのまま残されている(原形となる物質の形象が保たれている)ところが面白い。ジム・オルークによる電子音の点描によるサウンドトラックも、これまでの彼の音楽にはあまりなかったアプローチである。



・『Picture From Darkness』(Digital, 37min, 2017|音楽:サイモン・フィッシャー・ターナー)
サイモン・フィッシャー・ターナーがサウンドトラックを担当した、デレク・ジャーマンの『BLUE』(1993)の後に上映することを前提とした作品らしい。『BLUE』は青一色のフレームによるフィルム作品であるが、ターナーのサウンドトラックに触発されて、観客は意識のなかで青一色のフレームを映画として形成する。そして本作もまた、その意識の運動を引き継ぐことになる。



・『ENDLESS CINEMA』(2017|音楽:ジム・オルーク)
本作は、3台のプロジェクターを使用した映像インスタレーションであり、各プロジェクションの持続時間が異なることにより、ランダムなイメージの重なり合いが常態的に生み出される映画である。左・中央・右スクリーンのイメージは、牧野の過去作品である『World』『No is E』『Still in Cosmos』に、それぞれが類似している。パフォーマンス版の上映では、牧野あるいはジムによるライブ演奏に合わせて3つのプロジェクションが合体し、3つのレイヤーを内包した単一のスクリーンとなる。私はこのパフォーマンス版を観て、マイケル・スノウの『←→』(1969)のエピローグパートを連想した。観客は各レイヤーの重なり合いにおいて、頭の中にある単体のプロジェクションの記憶を呼び起こしながら、眼前の重層化したレイヤーに向き合うことになるのだ。この分裂性は極めてスリリングなものだった。

ちなみに、これら3作品は全てサウンドトラックが単独リリースされており、『Picture From Darkness』についてはLP版もリリースされている。





続いて、サンフランシスコにて10月11日〜15日の期間で開催された「RECOMBINANT festival 2017」では、会場の壁全面に、映像を360度で投影する『Memento Stella Cinechmber』(2017)が上映された。この試みは、一見すると、これまでの映画史のなかで試みられてきたエクスパンデッドシネマの範疇に収まるものにみえなくもないが、実際に観たうえで『ENDLESS CINEMA』からの展開において検討する必要があるだろう。これまでの牧野作品におけるスクリーンの単一性と、その内部でレイヤーとして折り重ねられた複数性が、マルチプロジェクションによる複数性と同一視できるものなのか。それとも異なるものなのかという点において。

そして、これらの活動が、大阪シネ・ヌーヴォ(11月5日〜10日)とクローバーホール(11月7日)での「EXP」と、原美術館での「+ Peter Burr」(11月11日)につながる訳です。お時間のある方は是非。