Zeitkratzer × James Tenney @サウンド・ライブ・トーキョー2016 Super Deluxe

今年のサウンド・ライブ・トーキョーは、マイケル・スノウ、ケン・ジェイコブスと続いた実験映画をテーマとしたプログラムから離れ、多彩な音楽プログラムを組んでいた。そのなかでも現代音楽と実験的ポピュラー音楽を行き来する活動で知られるドイツの演奏家集団ツァイトクラッツァー(Zeitkratzer)の三夜に渡る公演は、目玉プログラムの一つであったといえるだろう。ツァイトクラッツァーは、今回の公演でカールハインツ・シュトックハウゼン(9月27日、灰野敬二との共演)、ジェームズ・テニー(9月29日)、テーリ・テムリッツ(9月30日)の作品を演奏したが、そのなかでも私が気になって足を運んだのが、ジェームズ・テニー作品の公演であった。ここでは、その様子をレヴューしておきたい(ただし基本的な楽理を学んでいない自分では、このような作品を前にした場合、感想文レベルの文章しか書けないが)。

また、テニーに関する公演としては、4チャンネルの電子音楽とパーカッションのための作品である『ピカ=ドン』(1991)などの公演(9月11日)もあったのだが、そちらは都合がつかず見送った。その他にも、今年のサウンド・ライブ・トーキョーではアイシャ・オラズバエヴァによるフィリップ・テレマン作品と、ルイジ・ノーノの『夢みながら歩かなければならない』(1989)、『未来のノスタルジー的ユートピア的遠方』(1988)の公演(10月1日)にも行ったが、これも大変興味深いものだった。

ツァイトクラッツァーは昔から越境的に活動しているが、最近では、ルー・リードの長大なノイズ作品『Metal Machine Music』を譜面に起こして管弦楽器で演奏した『Lou Reed: Metal Machine Music』(2014)、ノイズ・インダストリアルの代表的なユニットであるWhitehouseの作品を管弦楽器で演奏し直し、さらにウィリアム・ベネット本人を招いてボイスパフォーマンスで参加させた『Whitehouse』(2014)、灰野との共演でシュトックハウゼンの「Aus Den Sieben Tagen」を演奏した『Stockhausen: Aus Den Sieben Tagen』(2016)などで知られている。テニーの作品に関しては、『Old School: James Tenney』(2010)を、過去にリリースしている。今回のツァイトクラッツァーの楽器編成は、ピアノ、クラリネット、ホルン、トロンボーン、パーカッション、ヴァイオリン、第一チェロ、第二チェロ、コントラバスの総勢9名であり、ここに音響担当と照明担当が加わる。ちなみに、ピアノ奏者のラインホルト・フリードルが創設者でありグループの芸術監督を務めている。


Zeitkratzer × James Tenney(9月29日)
1:James Tenney – Having Never Written a Note for Percussion(1971)
ジェームズ・テニー『パーカッションのために一音も書いたことがなく』
パーカッションのための作品であり、パンフレットの解説によるとクレッシェンド(次第に強く)とデクレッシェンド(次第に弱く)を長く行うことが指示されている。今回は巨大な銅鑼を用いて演奏された。銅鑼の前に座ったパーカッション奏者は、スティックを細かく連打しながら力加減をコントロールすることで、静寂から轟音、そして再び静寂に至るまでを表現した。特に音量がピークに達するあたりでは、楽器の音とは思えないような銅鑼の混濁した音響が会場内を満たしていた。最前列で聴いていたこともあって、非日常的な聴覚体験を得た。この楽器選択は正解だったと思う。

2:James Tenney – Swell Piece No.3(1971)
ジェームズ・テニー『スウェル・ピース第3番』
サックス、ホルン、トロンボーン、パーカッション(打楽器の弓引き?)、ヴァイオリン、第一チェロ、第二チェロ、コントラバスによる演奏。パンフレットの解説によると、各楽器によって鳴らされる五度離れた音が、それぞれのタイミングで現れては消えてゆくという作品である。一聴すると束状のドローンに聴こえるが、微細な音響の変化が、音の内部で次々と発生している。今回演奏されたテニーの器楽曲は、引き伸ばされた音のなかに微細な変化を聴き取る作品が多く、実際に演奏を聴いてみることによって、私のなかでの作曲家の印象が大きく変わった。

3:James Tenney – Critical Band(1988/2000)
ジェームズ・テニー『臨界帯域』
サックス、ホルン、トロンボーン、ヴァイオリン、第一チェロ、第二チェロ、コントラバスによる演奏。こちらも『スウェル・ピース第3番』に似ているのだが、周波数の取り扱いは、さらに精緻なものとなっている。あまり楽理には詳しくないのだが、パンフレットの解説を要約しておこう。それによると、基準音Aに重ねて、非常に近い高さの音を、高音・低音の両方で鳴らしてゆく。最初の段階では周波数の帯域が近すぎるために、それは唸りにしか聞こえないが、徐々に音程を展開してゆくことで、アンサンブルが、唸りのない純正な和音に到達するというコンセプトらしい。演奏者は、デジタルカウンターで周波数を見ながら厳密に演奏していたようであり、確かに、引き伸ばされた音の重なりの中で、唸りが徐々に消失してゆく過程が明確に表現されていた。

4:James Tenney – Harmonium No.1(1976)
ジェームズ・テニー『ハルモニウム第1番』
ピアノ、サックス、ホルン、トロンボーン、パーカッション(シロフォン)、ヴァイオリン、第一チェロ、第二チェロ、コントラバスによる演奏。パンフレットの解説によると、純粋なハーモニーを別の周波数で不純化するサイクルを5回繰り返すものらしい。この夜演奏された『スウェル・ピース第3番』『臨界帯域』、そして本作は、いずれも全体の印象としては引き伸ばされた持続音ばかりだが、楽曲の目的は各々異なり、観客にそれぞれ違う経験を与えてくれた。周波数の変化をコンセプトにするようになると、器楽曲も電子音楽も、ほとんど違いがないのだなと実感した。

5:James Tenney – For Percussion Perhaps, Or… (night)(1971)
ジェームズ・テニー『たぶんパーカッションのための、あるいは…(夜)』
45分間にも及ぶ、演奏者の解釈に任された即興演奏で、メンバー全員が参加。パンフレットの解説によると演奏者への指示は「非常に静かに、非常に長く、ほとんど白く」というものらしい。その指示の通り、微細なブレスや楽器の摩擦音などが、静寂の中で蠢くという展開になった。先ほどまでの精緻なコンセプトに基づく楽曲に対して、このような解釈の余地の大きい楽曲を対置するのは面白い。テニーの作風の広さを感じさせるセレクトだったといえるだろう。

小杉武久「Music Expanded」@あいちトリエンナーレ2016 愛知県芸術劇場 小ホール

10月22日・23日に名古屋を久しぶりに訪れ、あいちトリエンナーレを見て回った。もちろん目当ては小杉武久の公演「Music Expanded」を観るためである。会場は愛知県芸術劇場地下の小ホールで、両日ともに観客はほとんど満員という盛況だった。また今回のトリエンナーレの展示には、小杉のサウンドインスタレーションも四点出品されていて、まるで小杉武久の回顧展のようであった。以下、その内容をレヴューしておきたい。


Music Expanded #1(10月22日)
1:Micro 1(1961)
マイクを大きな紙で包んで、紙の動く小さな音を聴取するというフルクサス的な楽曲。プログラムの始まりにふさわしい、お馴染みの作品である。2014年東京公演(「フルクサス・イン・ジャパン2014」東京都現代美術館、2014年4月13日〜20日)のレヴューでも概説しているので詳細は省くが、演奏者も2014年公演と同じく浜崎健であり、内容に大きな違いはなかった。

2: South e. v. #2(1962/2014)
「South」という英単語をそのまま発音したり、イントネーションを変えたり、発音記号ごとに細かく分節するなどして、さまざまな方法で発声する作品である。2014年東京公演と同じく『South e. v. #2』として、声をエフェクター、サンプラー、オープンリール・テープレコーダーといった電子機器によって変形する。演奏者も2014年東京公演と同じく、小杉と和泉希洋志である。ただし、今回公演では担当に若干異なる部分があり、2014年東京公演は小杉しか発声行為を行わなかったのに対して、今回は小杉・和泉の両名が発声行為を行なっていた。機材について述べておくと、小杉はBOSSの小型サンプラー(Dr.Sample)を、和泉はモジュラーシンセを用いて、それぞれ自分の声を操作していた。途中から二人によって、声を録音したオープンリールのテープを再生ヘッドに擦り付け、音を歪めるというアクションも行われた。
日常的な言葉から離れて抽象化された音響が、即物的に空間に投げ出されてゆく演奏が続くが、和泉の方がモジュラーシンセによって声を抽象的な電子音に変化させたり、テープによる変形作業を繰り返すなど、エレクトロニクスによる素材加工に集中していたのに対し、小杉の方は発声方法のバリエーションを探ることに集中していたように見える。

3:Organic Music(1962)
人間の呼吸器官を楽器として扱い、任意の時間内で任意の回数の呼吸を行うという楽曲。呼吸器官に準ずる楽器での演奏も可能である。2014年東京公演とは異なり、今回は小杉・浜崎・和泉による同時演奏であり、小杉はアコーディオン、浜崎はラムネ菓子の口笛、和泉はビーチボールを使用する。
引き伸ばされた呼吸が別の呼吸と重なりながら、時間の余白のなかに配置されてゆく。演奏者が増えることで、作品のコンセプチュアルな性格よりも、音響的な複雑さが強調されていたように思う。
以下はGettyがオフィシャルで公開している同作の演奏記録。この日の演奏とは使用楽器も何もかも違うが、参考まで。

4:Violin Improvisation
小杉による、電気ヴァイオリンの即興演奏。エフェクターも使用されたようだが、派手に原音を加工するような使い方はしない。短いアタック音によって静寂の中に音を刻んでゆくような即興演奏が、張り詰めた緊張感のなかで行われた。ここでは、自分自身の直前の演奏がエンバイラメント的なものとして聴き取られているといえるだろう。
小杉の即興演奏は、フリージャズを出自とする演奏者とのセッションを含めて幾つもレコードになっているが、どうしてもタージ・マハル旅行団のイメージが強いためか、小杉の即興演奏それ自体についての批評が充分行われてきたとは思えない。フリージャズと現代音楽の共通性を考察する言説は、もはや過去のものとなって久しいが、小杉によるチャーリー・パーカー論をはじめとするテクストなどを参照しながら、小杉の即興演奏の取り組みを再論する必要は絶対にあるだろう。

5:Op. Music(2001)
客席からは機材が確認できないので、音を生成する構造がはっきりと分からないが、解説によると光に反応する電子音の発振器と、その音信号を光(ライトの電圧ボリューム?)に変換する回路を組み合わせた、フィードバック・システムを持つ作品のようだ。2012年東京公演(「回路」東京国立近代美術館、2014年9月1日)でも小杉・和泉によって演奏されたが、今回の演奏者は和泉とGuilty Cの二人である。二人はライトを手に持ちながら、エレクトロニクスを操作する。Guilty Cことギルティ・コネクターは、ノイズミュージック界隈では昔から知られた作家であるが、2015年神戸でのデヴィッド・チュードア作品上演(「レインフォレストI コンサート」横尾忠則現代美術館、2015年5月23日)で、小杉・和泉と一緒にチュードアの『Rainforest』を演奏して以降、小杉のコンサートをサポートする関係にあるようだ。
演奏自体は勢いのあるハーシュノイズが展開されており、他の小杉作品に見られる電子音の物質性とは違った方向性が出ていた。以下はGettyがオフィシャルで公開している同作の演奏記録。参考まで。

6:Film&Film #4(1965)
16mm映写機のランプ光によって紙製のスクリーンを照らし出し、このスクリーンを鋏によって切り開いてゆくという、音楽の要素がない、拡張映画的な作品。演奏者はもちろん小杉である。2014年東京公演のレヴューでも概説しているので詳細は省くが、その時と今回で違いがあるとすれば、紙製のスクリーンが上手く切れず、途中から手でスクリーンを破っていた事だろう。おそらく作家にとっても想定外の出来事だったと思うが、ひとつのハプニングとして興味深く観た。
また今回、個人的に気がついた点としては、飯村隆彦のフィルム・パフォーマンスとの類似性がある。制作年からいって、飯村による1963年の『Screen Play』との影響関係が知りたいところである。


Music Expanded #2(10月23日)
1:Walking(1982)
束ねた竹の棒にコンタクトマイクを取り付け、これを床や壁などに接触させ、その際に発生した物音を大音量で増幅させる作品。2012年東京公演でも同シリーズの作品が、小杉・和泉と高橋悠治によって演奏された。今回は、小杉による演奏である。
小杉がステージに登場する以前の、舞台袖の段階から演奏は開始されており、ガリガリとした接触音が大音量で会場に響く。やがて会場に現れた小杉は、床を竹の棒で触れながら歩き、次に客席前方の壁にも触れて、発生する音の性質を探ってゆく。しかし途中でハプニングがあり、竹の棒からマイクが外れてしまうという出来事が起こった。しかし、小杉はその後もコンタクトマイクを引きずりながら歩き続け、時折身を回転させてコンタクトマイクを宙に浮かび上がらせたりするという、臨機応変なパフォーマンスを見せた。

2:Anima 7(1964)
日常的な動作を6分間に引き伸ばすというフルクサス的な作品で、音楽の要素は皆無。演奏者は小杉・浜崎・和泉・Guilty Cであるが、小杉はパフォーマンスを行わず、時計を手にして、1分ごとに時間をカウントするのみである。
浜崎はジャケットの襟を開き、和泉は椅子に座って冊子を読み、Guilty Cは雨具のズボンを履くという行為を、極めてゆっくりと行った。

3:Anima 2 / Chamber Music(1962)
複数の穴がある大きな布袋に演奏者が入り、その中から身体の一部分を外に出す。さらに、袋の中に楽器を持って入り、演奏を行うことも可能という作品。2012年東京公演でも高橋によって演奏されているが、今回の演奏者は小杉であった。
小杉は、コンビニのビニール袋とカップ麺のようなレトルト食品を持って袋に入っており、袋から手を出したりしながら、それを振って演奏していた。高橋の演奏と比較すると、ビニール袋の鳴る音が音楽的ですらあった。

4:Mano-Dharma, electronic(1967-)
小杉の代表作であるが、2014年東京公演の際には同じ内容の作品が「Catch Wave」として、小杉・和泉によって演奏されていたはずである。そもそも「Catch Wave」とは「Mano-Dharma」から発展した作品を指すものなので、あまりタイトルを厳密に区別する必要もないのだろう。基本的に「Mano-Dharma」を含めた「Catch Wave」シリーズのコンセプトとは、電波発振器とラジオ受信機の間で起こる周波数干渉作用の距離による変化を聴き取るものであり、今回の演奏では発振器はターンテーブルの上に置かれたり、竹竿に結んだ糸の先に付けられたり、自転車の車輪に取り付けられたりする。今回の演奏者は和泉・浜崎・Guilty Cである。
Guilty Cはターンテーブルを、和泉は主に竹竿を担当して、混沌とした電子音を発生させる。そして、しばらくすると2014年東京公演と同じく、浜崎が自転車で会場に突入してくる。彼が漕ぐ自転車の運動と結びついた偶発的な電子音は、和泉・Guilty Cの電子音に絡まりながら空間を疾走していった。

5:Music for Nearly Ninety, part A(2009)
2009年4月に初演された、マース・カニングハム舞踊団の作品「Nearly Ninety」のための作品の一部である。2012年東京公演でも、小杉によって演奏された。解説によると、7つのLEDによる明滅を光センサーで受けて、その信号を発振器に送ることで電子音を生成しているらしい。さらに、この作品でも音信号を光に変換する回路を組み合わせることで、フィードバック・システムが組まれているようだ。演奏者は2012年東京公演と同じく小杉であり、小箱の蓋に触れながら、エレクトロニクスを操作する(小箱の暗闇の中に置かれたLEDの光量を変化させているのだろう)。客席からは確認できなかったが、2012年の機材と同じだとすれば、センサー類の他に、BOSSのピッチシフター/ディレイやイコライザー等のエフェクターが用いられていたはずである。
LEDの明滅に反応した激しいパルスのダイナミックな変化の連続は、チュードアの『Rainforest』と同じく、プリミティヴな電子音の物質性を感じさせる。個人的に、今回のプログラムで最も感銘を受けたのがこの演奏であった。

6:Catch-Wave(1967-)
「Mano-Dharma」および「Catch Wave」シリーズについては、『Catch Wave』(CBS/Sony、1975)のジャケット裏面の解説、『Catch Wave’97』(Super Fuji Discs、2007)の川崎弘二によるライナーノート、ジャズ批評17号に掲載された小杉本人のテクストが参考になる。特にジャズ批評17号では、今回の「Mano-Dharma」の演奏で用いられていた干渉作用を利用する手法に加えて、任意の楽器演奏(およびそこに付与されるエコー)の音信号に低周波の電圧をかけて、倍音をコントロールして音色を変化させる手法(すなわちVCF)についても細かに説明されている。今回の演奏の基本的な手順もこれに沿っているようで、電気ヴァイオリンや声の音信号に低周波をかけて、音色にゆっくりとした上昇と下降を生み出していたようだ。もちろん今回の演奏者は小杉である。
小杉は、波の映像を背後のスクリーンにプロジェクションしながら、電気ヴァイオリンを弾き、声を発する。それらの音はエコーで引き伸ばされ、上昇と下降を繰り返すなかで、ひとつの波となり空間を満たしていた。演奏の印象としては比較的アンビエントだったので、『Catch Wave’97』に収録された演奏(水戸芸術館現代美術センター、1997年9月20日)に近かったように思う。複数の波が影響し合うことで生成された音の奔流に、演奏者が即興的に反応してゆく過程は、まさに小杉の音楽の真髄であるといえるだろう。


加えて、名古屋市美術館に展示されていた、四点のサウンドインスタレーションについても、簡単にレヴューしておきたい。インスタレーションでは、光と音を同じ波とみなして、ささやかなエレクトロニクスでこれを交換するという小杉の音楽的なコンセプトが、演奏者の存在を欠いた状態で実現されることになる(「イルミネイティッド・サマー」「ライト・ミュージックII」)。これは、人間によって演奏される楽曲と比較して、インスタレーション作品が、欠如を抱えた不完全で余技的なものであることを意味しない。むしろ、小杉の音楽においては、演奏者も、環境化されたフィードバック・システムの一要素にすぎないのである。小杉のインスタレーション作品に注目することによって、私たちは小杉の音楽における演奏家の存在理由を確認することができるのだ。

イルミネイティッド・サマー(1996/2016)
音光変換器、ハンドメイド発振器、アンプ、スピーカー、CDSセンサー、電球、他
・階段の踊り場の上部に、ひっそりと設置されたインスタレーション。赤と青の電球が明滅しており、その光を4つのセンサーで受けて、発振器から明滅に応じたチープな電子音を鳴らす。

点在(1980/2016)
ハンドメイドクリック音発振器、ピエゾ発音体、9V乾電池
・白い空間の壁に、5つのユニットに分かれた計26個の発音体・基板・電池が貼られている。発振による断続的な信号は、羽虫のように壁に点在する発音体から、虫の鳴き声のようなクリック音を間欠的に鳴らす。

75文字と即興(1987/2016)
スピーカー、アンプ、CDプレーヤー
・「点在」の設置された部屋の中央に、天井から小さなむき出しのスピーカーが吊るされている。そこから微小な音量で、音声詩のような、電子変調された声が鳴らされる。無音の時間が多く、注意しないと音に気がつきにくい。

ライト・ミュージックII(2015)
ハンドメイドサウンド発振器、ピエゾ発音体、スピーカー、太陽電池、9V乾電池、他
・天窓から陽光が差し込む空間。机の上に20個程度のユニットが、コップや缶とともに置かれている。その上からは半透明のビニールが掛けられている。ユニットのうち、小型スピーカーに繋がっているのは2〜3個程度で、その他はピエゾ発音体に繋がっている。スピーカーおよび幾つかのピエゾ発音体からは太陽光をセンサーで拾うことで発振した持続する電子音が、残りのピエゾ発音体からは「点在」と同じクリック音が鳴らされる。この2種類の音が、コップや缶といった構造体の影響を受けながら、ひとつの音楽を生成する。

書評

『松本俊夫著作集成』の書評と、表象文化論学会ニューズレターに自分で書いた『松本俊夫著作集成』『記録映画(復刻版)』の紹介文のまとめです。

・学習院大学教授・中条省平が読む『松本俊夫著作集成I 一九五三-一九六五』(産経新聞 2016年6月19日)
http://www.sankei.com/life/news/160619/lif1606190027-n1.html

・松本俊夫著作集成刊行に寄せて 越後谷卓司(朝日新聞地方版 2016年6月22日)
http://www.asahi.com/area/aichi/articles/MTW20160622241310002.html

・『松本俊夫著作集成』(全四巻)刊行開始に寄せて 西村智弘(週刊読書人 2016年9月9日)

・『「記録映画」復刻版』不二出版(表象文化論学会ニューズレター REPRE27)
http://repre.org/repre/vol27/books/02/05.php

・『松本俊夫著作集成I 一九五三─一九六五』森話社(表象文化論学会ニューズレター REPRE28)
http://repre.org/repre/vol28/books/02/05.php

10+1 web site 「均質化される視線」

10+1 web siteに、「均質化される視線」と題した文章を書きました。吉見俊哉氏の『視覚都市の地政学―まなざしとしての近代』の刊行に合わせた、「都市・映像・まなざしの地政学」という特集の一部となります。よろしくお願いします。

「均質化される視線」
http://10plus1.jp/monthly/2016/09/issue-03.php

図書新聞「鼎談 阪本裕文×江口浩×佐藤洋『松本俊夫著作集成』をめぐって」

tosyoshinbun

『図書新聞』8月13日号と8月27日号に、前後編に分けて「鼎談 阪本裕文×江口浩×佐藤洋『松本俊夫著作集成』をめぐって」と題された、江口さん・佐藤さんと私の鼎談が掲載されました。5月28日から6月3日にかけて渋谷アップリンクで開催された「混沌が意味するもの 松本俊夫アヴァンギャルド映像特集上映」のなかで組まれたトークイベントのひとつ、「松本俊夫と前衛記録映画」(5月28日)を抜粋して採録したものです。松本俊夫の記録映画や実験映画を読み解くキーワードとして、松本が子どもの頃に親しんだ「忍術映画」や「切手収集」を取り上げた前編、そして50年代の「政治的な正しさ」に60年代の「個人的な楽しさ」を対置させ、実験映画(すなわち、自分のための映画)に向かった松本の意識の変化を論じる後編という、ちょっと今までにない内容の鼎談になっています。結構面白いと思いますので、よろしくお願いします。

東京現音計画 #07 クリティックズ・セレクション1:沼野雄司@北とぴあ つつじホール

日時:2016年7月14日
会場:北とぴあ つつじホール
プログラム監修:沼野雄司
出演:東京現音計画 有馬純寿(エレクトロニクス)、大石将紀(サクソフォン)、神田佳子(打楽器)、黒田亜樹(ピアノ)、橋本晋哉(チューバ)
客演:宮村和宏(オーボエ)、大田智美(アコーディオン)

五年前の震災・原発事故を経て、この国は徐々に変化しつつある。それは単純に交代後の政権によって右傾化した政治方針が推進されているということだけでなく、それを「まあ、それくらいなら」と何となく受け入れてしまえるほどに、人々のなかに権力の内面化、あるいは消極的受容が進行しているということによる。このような日常生活レベルで、権力の消極的受容が進行する状況下では、日常生活を撹乱するかたちで現れる政治主張は、ノイズとして煩がられるか、時として反射的な攻撃の対象とされる。最近、フジロック・フェスティバルのトークイベントにSEALDsのメンバーが招聘された際に、「音楽に政治を持ち込むな」という反応が一部のネットユーザーのあいだから立ち現れたことなどは、その分りやすい一例といえるだろう。言うまでもないが「音楽に政治を持ち込むな」、すなわち「芸術に政治を持ち込むな」という発言は、それ自体が「ある空間において政治的なものの存在を許容しない」という政治的な発言になっている。あらゆる文化は、社会的なレイヤーが重なり合うことで生み出された、政治的な織物である。そのようなレイヤーは明確に目に見える場合もあれば、表面的には見えてこない場合もある。いずれにせよ社会の内部に存在する限り、政治的に漂白された純粋芸術などはあり得ないのだ。

何故こんな話からコンサートのレヴューを始めたかといえば、それは今回の「東京現音計画#07」のテーマが、そのものずばり「新たな抵抗へ向けて」と題されていたからである。今回のクリティック・セレクションと題されたプログラムは、外部から監修者として音楽研究者の沼野雄司を招いて組まれている。ウェブと当日のプログラム冊子ではステートメントの内容が異なるのだが、ここではウェブ版(新たな抵抗へ向けて Toward Another Resistance)を参照しながら話を進めたい。このステートメントにおいて「抵抗」という言葉は、直接的な政治主題に限定されるものではなく、社会との摩擦や衝突を恐れない、音楽という営為そのものへの根本的問いかけとして位置付けられている。すなわち、作曲や演奏といった「音楽の生産行為」において、障害や抑圧として立ち現れる音楽的な諸制度に抵抗すること。時として、ここに直接的な政治主題が絡んでくる場合もあるだろうが(実際、そのような作品は過去において数多く書かれたが)、それも広義の「抵抗」のひとつの表れに過ぎない。重層的な、社会的レイヤーの内部においては、障害や抑圧は様々なかたちで姿を表すのである。このように「抵抗」を、音楽の生産行為一般にまで拡張して捉え直すことは、日常生活レベルで権力の消極的受容が進行する状況下においては、有効な突破口になるかもしれない。

この日、上演された作品は以下のとおり。東京現音計画は特異な編成のグループであるため、幾つかの楽曲では、作曲家の承諾を得て、使用楽器を変更することによって対応していた。いずれも、比較的わかりやすい仕掛けによって、さまざまな制度に対する抵抗のあり方を示す作品であり、沼野によるセレクトのコンセプトは明快である。

1:Steve Reich『Pendulum Music for 3 or 4 microphones, amplifiers and loudspeakers』(1968)
スティーヴ・ライヒ『振り子の音楽』
ステージ上には、四台のスピーカーが上向きに置かれ、それぞれのスピーカー上には、四本のマイクが吊るされている。そして演奏家が登場し、この吊るされたマイクを振り子のように揺らすことで、周期的なハウリングを発生させる。四つの周期のズレがミニマルミュージック的な複雑性を生成しはじめると、演奏家はすぐに退場し、マイクの揺れが自然に収まるまで作品演奏は続けられる。初期のライヒの作品には人為性を排除しながら、機械的な方法によって構造を前景化させるコンセプチュアルな方向性が存在しているが、それを最もよく示した作品だと思う。

2:Paolo Castaldi『Elisa Per Pianoforte』(1967)
パオロ・カスタルディ『エリーザ』
イタリアのレーベルCRAMPSの「nova musicha」シリーズの5番にも作品を残している、カスタルディのピアノ曲。沼野の解説によると『エリーゼのために』をモチーフとしながらも、それを脱臼させた複雑な記譜となっているらしい。聴衆からしてみれば、表面的には素人のピアニストによる危なっかしい演奏に聴こえるのが面白い。最後にピアニストが声を上げながら鍵盤を叩いて終了。

3:Chaya Czernowin『Die Kreuzung for Accordion, alto saxophone, and Tuba』(1995)
ハヤ・チェルノヴィン『雑種』
初めて名前を聞く作曲家、ハヤ・チェルノヴィンによる、アコーディオンとサクソフォンとコントラバスのための作品だが、今回はコントラバスがチューバに変更されている。それぞれの楽器が別々に動き、時として奇妙なまとまりを見せながら進行する。カフカから取られたタイトルの通り、不条理な音の駆け引きが楽しめた。

4:Christian Wolff『Exercise 5 for 2 or more players』(1973〜74)
クリスチャン・ウォルフ『エクササイズ5』
二人以上の演奏家のための作品で、今回はサクソフォン、チューバ、パーカッション、ピアノによる編成である。沼野の解説によると、解釈を演奏家に任せた上で、複数人にひとつの旋律を演奏させるというコンセプトらしい。今回の演奏では、まるでゲームのように各人が自由な駆け引きを展開しており、先の『雑種』にも共通する不条理さが存在していた。また、この演奏家の駆け引きに協働的な社会性を見出すならば、近年の現代美術における、小グループ内での協働モデルを提示するタイプの作品との間に、共通性を指摘できるかもしれないと思えた。

5:Horaţiu Rădulescu『The Origin for one pecussionist with two bass drums』(1997)
ホラチウ・ラドゥレスク『オリジン』
ラドゥレスクというと、スペクトル学派の作曲家ということ程度しか知らない私だが、これは二台のバスドラムによる、一人のパーカッション奏者のための作品であり、とても興味深かった。一聴するとスローなパーカッションの連打であるが、倍音の響きに奇妙な違和感が残る。沼野の解説によると、パーカッションを一つの音響の塊としてみなしたような、相当複雑な拍子の構成が試みられているようだ。

6:Svetlana Lavrova『Gravity for oboe, saxophone and electronics』(2013)
スヴェトラーナ・ラヴロヴァ『重力』
初めて名前を聞く作曲家、スヴェトラーナ・ラヴロヴァによる、オーボエ、サクソフォン、エレクトロニクスという編成による作品。あまり期待はしていなかったのだが、引き伸ばされた管楽器の微細な響きにノイジーな電子音が絡まるという内容で、なかなか楽しめた。

7:Joakim Sandgren『Objets saisis pour saxophone et ordinateur』(2011〜12)
ヨアキム・サンドグレン『押収品』
こちらも初めて名前を聞く作曲家、ヨアキム・サンドグレンによる、バスクラリネットとエレクトロニクスのための作品だが、今回はバスクラリネットがテナーサクソフォンに変更されている。4チャンネルの間欠的な電子音に、サクソフォンによって発生する奇怪な音響が絡まる。管楽器でこのような音を出すことが可能なのかと驚いた。明らかにノイズリスナー向けの作品であり、大変興味深い。

8:Louis Andriessen『Workers Union for any loud-sounding group of instruments』(1975)
ルイ・アンドリーセン『ワーカーズ・ユニオン』
この日の「新しい抵抗」のあり方を示すプログラムの締めくくりは、直接的に政治的題材を取り扱う作品として、アンドリーセンの『労働組合』がセレクトされていた。この作品は「大音量の楽器グループのための」と指定されているように、とにかく大音量で演奏することが求められている(この日の編成は、オーボエ、サクソフォン、チューバ、パーカッション、アコーディオン、ピアノ)。楽曲は、まるでフランスのプログレバンド、マグマを思わせるようなテンションで、全楽器のユニゾンにより進行してゆく。演奏という労働行為を政治的に捉え直した、極めてラディカルな作品だと思えた。それは政治的な音楽としては、数多の労働歌よりも直接的なものだろう。

展覧会予告「MAMリサーチ004:ビデオひろば――1970年代の実験的映像グループ再考」

MAMリサーチ004:ビデオひろば――1970年代の実験的映像グループ再考
会期:2016年7月30日(土)-2017年1月9日(月・祝)
主催:森美術館
企画:近藤健一(森美術館キュレーター)
協力:中谷芙二子、阪本裕文(稚内北星学園大学准教授)
会場:森美術館
開館時間:10:00-22:00(火曜日のみ、17:00まで)
http://www.mori.art.museum/contents/mamproject/mamresearch/index.html

「ビデオひろば」は1972年に結成された日本の実験的映像グループです。中谷芙二子、山口勝弘、かわなかのぶひろ、小林はくどう、松本俊夫、萩原朔美、和田守弘ら、多数のアーティストやクリエーターが参加しました。当時最新のメディアであったビデオをコミュニケーションのツールとし、メンバーが協働して社会運動に介入したり、ビデオを介して一般市民の議論を促進するなどその活動は、既存のマスメディアに対するオルタナティヴなメディアの創造を目指した、ユニークなものでした。また、会報誌を発行し言説形成や活動報告を行い、ビデオカメラ等の機材を安価で貸し出すなど、実験的な試みも行いました。グループ解散後も、メンバーの多くは作家活動を継続し現代美術に大きな影響を与えました。
本展は、「ビデオひろば」の主要メンバーの映像作品に加え、写真、テキスト、書籍、資料等も多数展示し、その活動を今日の視点で再検証する試みです。


思えばここ数年で、写真美術館が恵比寿映像祭の枠内で「ビデオひろば」の作家たちや「ビデオアース東京(中島興)」を取り上げ、文化庁メディア芸術祭で飯村隆彦が功労賞を受け、東京国立近代美術館がリプレイ展で造形作家の映像作品(フィルムおよびビデオ)を取り上げ、国内のビデオアートをめぐる歴史的な掘り起こし作業も進んできた感がありますが、ようやくビデオアートの様々な要素を集約していたといえる代表的なグループ「ビデオひろば」の特集が、MAMリサーチの第4回として、森美術館で開催されます。
私は今回、資料提供その他で協力しました。ちょうど2006年に名古屋で開催した「初期ビデオアート再考」展から10年目ということもあり、今回の展示に関わって一区切りついたような気がしています。展覧会の会期も長いので、何かのついでによろしくお願いします。

「ビデオひろば」の簡単な解説は下記を参照のこと。
「ビデオひろば」Artwords(アートワード)