Harry Smith「PAPER AIRPLANES & STRING FIGURES」@Postalco Shop Shibuya & Kyobashi

渋谷と京橋に店舗を構える、ポスタルコという文具や雑貨を扱うショップが、アメリカの実験映画作家であるハリー・スミスの展示会を開催している。スミスは、アメリカのアンダーグラウンド映画の先駆的な世代に属し、錬金術のような怪しさを持った切り絵によるアニメーションや抽象映画で知られる。その一方でスミスは、アメリカのルーツミュージックを収集したレコード『Anthology Of American Folk Music』(1952)の編者としても知られる。このコンピレーションは、1920年代から1930年代にかけてのルーツミュージックを掘り起こし、1960年代のフォークリバイバルに決定的な影響を与えたとされる(このコンピレーションについては、大和田俊之が面白そうな学会発表を行なっている)。そんなスミスの仕事のうち、今回ポスタルコでは、マンハッタンで紙飛行機を拾い集めた「PAPER AIRPLANES」と、世界のあやとりを蒐集した「STRING FIGURES」について、渋谷店と京橋店で、それぞれ写真を展示している(いずれも、カタログがAnthology Film Archivesから出版されている)。このようなスミスの蒐集行為は、シュルレアリスムとエスノグラフィーの関係に通底しているように思える。

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20年以上もかけてニューヨークの路上からあつめた紙ヒコーキは、ハリー・スミスの奇妙なコレクションのほんの一部です。彼のフォークミュージックの録音は、1950-1960年代のフォークミュージックのリバイバルの基礎となりました。また、彼は実験映画の作り手でもありました。ポスタルコ渋谷店では、スミスの紙ヒコーキの写真を展示します。新しい京橋店では、スミスの実験映画を上映します。スミスのことをもっと知るために、どうぞお立ち寄りください。
http://postalco.net/new/index.html

PAPER AIRPLANES at Postalco Shop Shibuya
2016年10月26日(水)- 2017年1月16日(月)
150-0043 東京都渋谷区道玄坂1-6-3 山路ビル3階
T 03 6455 0531

STRING FIGURES at Postalco Shop Kyobashi
2016年11月19日(土)- 2017年1月31日(火)
104-0031 東京都中央区京橋2-2-1 京橋エドグラン1階
T 03 6262 6338

UCLA映画テレビアーカイブ 復元映画コレクション『ザ・コネクション』@フィルムセンター

connectionフィルムセンターで開催されたUCLA映画テレビアーカイブ復元映画コレクションのプログラム枠内で、シャーリー・クラーク(Shirley Clarke)の『ザ・コネクション(The Connection)』(1961)が上映された。クラークは、1960年にジョナス・メカス(Jonas Mekas)の呼びかけにより発足したニュー・アメリカン・シネマ・グループのメンバーでもあり、初期には実験映画を制作していたが、その後、ドキュメンタリーや劇映画を制作するようになる女性作家である。そのクラークによる初の劇映画が本作であり、ストーリーは「ドキュメンタリー映画の撮影」というメタフィクションのなかで展開する。本作の原作はリヴィング・シアターによる同名の演劇であり、演劇版と映画版いずれもジャック・ゲルバー(Jack Gelber)が脚本を担当した。また、リヴィング・シアターの公演におけるキャストは、一部の配役は異なるが殆どそのまま映画のなかでも起用されている。さらに、映画では室内劇としてすべてのプロットを構成しており、その枠組みは極めて演劇的である。このことから本作を考えるにあたって比較対象となるものは、メカスによる『営倉(Brig)』(1964)であることはいうまでもない。メカスの『営倉』もまた、軍隊の営倉における非人権的な抑圧を描いたリヴィング・シアターの演劇を、セットを組んで撮影した映画である。『ザ・コネクション』と『営倉』、これらの作品のコンセプトは極めて近い。これらの作品が目論んだものとは、演劇とドキュメンタリーの越境であったというべきだろう。

次に、ストーリーを説明する。最初にメタフィクションへの導入として、字幕で「この映画は監督が放棄したフィルムを編集して完成されたものである」という旨が示される。そして、ジャンキー達が薄汚いアパートの一室にたむろしている様子が映し出される。その顔ぶれは、この部屋の持ち主である白人A、雑誌を読みふける白人B、黒人C、楽器を質屋に流した白人D、ピアノ奏者の黒人フレディ・レッド(Freddie Redd)、サックス奏者の黒人ジャッキー・マクリーン(Jackie McLean)、ベース奏者の黒人マイケル・マトス(Michael Mattos)、ドラム奏者の黒人ラリー・リッチー(Larry Richie)である(ジャズの演奏家4名は本物の演奏家であり、4名ともにリヴィング・シアターの演劇版にも出演している)。彼らはジャズと麻薬を題材とするドキュメンタリー映画撮影のために集められた。そして、彼らを撮影するのが、映画監督の白人と、カメラマンの黒人である。会話の内容から、映画監督は撮影のための彼らの麻薬代を負担したことがわかる。そして、彼らはドラッグディーラーである黒人の到着を今や遅しと待ちわびている。ジャンキー達のだらだらした無駄話の合間に、演奏家達はセッションを繰り返す。中盤になり、待ちわびていたドラッグディーラーがやってくる。なぜか彼の横には救世軍のシスターの老婆が同行している。皆は老婆の話を聞き流しながら、トイレで順番にドラッグディーラーから麻薬を打ってもらい、その快感に浸る。しかし、最後の白人Aにだけは麻薬の効果が現れず、彼は自分だけ量を少なくされたとドラッグディーラーを疑う。やがて、救世軍のシスターが部屋を去る。映画監督はドラッグディーラーに何か話をしろと注文をつける。彼は苛立ちながら、自らのリスキーな生活を吐露し、これで満足かと怒鳴る。そして、逆に映画監督に対して「ドラッグ映画を撮りたいのなら自分も麻薬を試すべきだ」と迫る。映画監督はこの要求を受け入れ、自らの身体で麻薬を試すが、その後作品の終わりに至るまで酩酊状態になってしまう。その一方、白人Aはしつこくドラッグディーラーに麻薬をもっとよこせと迫り、セッションのサウンドが鳴り響く中で、遂に大量の麻薬を自らの腕に打つ。それによって白人Aは意識を失い、皆で彼を介抱するはめになる。ここで「ドキュメンタリー映画の撮影」はお開きとなり、演奏家達は楽器を抱えて帰ってゆく。うなされている白人Aを取り囲んだ男達は、重苦しい空気の中に取り残される。映画監督は映画の製作を放棄し、カメラマンにフィルムを託すと述べる。最後に、レコードプレーヤーを抱えた奇妙な男が室内に入ってきて、ジャズのレコードをかけて映画は終わる。

以上がこの映画のストーリーであり、雑然とした会話を積み上げることで、ジャンキー達の袋小路のような生活と閉塞感を表現しているあたりは見事である。しかし、メタフィクションという仕掛けについては味付け程度で、設定上のカメラの位置関係を無視したショットも多々あり、全体的に作り物感が強い。しかし、このアンチ・リアリズム的な感覚こそが本作の醍醐味だろう。この作り物感は舞台上での演劇に通じるものがあり、やはりこの作品は、劇映画というよりも、演劇のドキュメントに近い。また、映画の進行に唐突に割り込んでくるフレディ・レッド・カルテットによる演奏も、音楽ドキュメンタリーのように、長いシークエンスをとって撮影される。演劇と音楽という異なる領域の表現を、メタフィクションという仕掛けを足がかりに、いびつなかたちで映画内で束ねた実験的な作品――本作は、そのように形容することが適当であるように思う。

ちなみに、作中のフレディ・レッド・カルテットは「Freddie Redd Quartet with Jackie Mclean」の名義でサウンドトラック『The Music from The Connection』を録音している(http://www.discogs.com/ja/Freddie-Redd-Quartet-With-Jackie-McLean-The-Music-From-The-Connection/release/2421541)。

Zeitkratzer × James Tenney @サウンド・ライブ・トーキョー2016 Super Deluxe

今年のサウンド・ライブ・トーキョーは、マイケル・スノウ、ケン・ジェイコブスと続いた実験映画をテーマとしたプログラムから離れ、多彩な音楽プログラムを組んでいた。そのなかでも現代音楽と実験的ポピュラー音楽を行き来する活動で知られるドイツの演奏家集団ツァイトクラッツァー(Zeitkratzer)の三夜に渡る公演は、目玉プログラムの一つであったといえるだろう。ツァイトクラッツァーは、今回の公演でカールハインツ・シュトックハウゼン(9月27日、灰野敬二との共演)、ジェームズ・テニー(9月29日)、テーリ・テムリッツ(9月30日)の作品を演奏したが、そのなかでも私が気になって足を運んだのが、ジェームズ・テニー作品の公演であった。ここでは、その様子をレヴューしておきたい(ただし基本的な楽理を学んでいない自分では、このような作品を前にした場合、感想文レベルの文章しか書けないが)。

また、テニーに関する公演としては、4チャンネルの電子音楽とパーカッションのための作品である『ピカ=ドン』(1991)などの公演(9月11日)もあったのだが、そちらは都合がつかず見送った。その他にも、今年のサウンド・ライブ・トーキョーではアイシャ・オラズバエヴァによるフィリップ・テレマン作品と、ルイジ・ノーノの『夢みながら歩かなければならない』(1989)、『未来のノスタルジー的ユートピア的遠方』(1988)の公演(10月1日)にも行ったが、これも大変興味深いものだった。

ツァイトクラッツァーは昔から越境的に活動しているが、最近では、ルー・リードの長大なノイズ作品『Metal Machine Music』を譜面に起こして管弦楽器で演奏した『Lou Reed: Metal Machine Music』(2014)、ノイズ・インダストリアルの代表的なユニットであるWhitehouseの作品を管弦楽器で演奏し直し、さらにウィリアム・ベネット本人を招いてボイスパフォーマンスで参加させた『Whitehouse』(2014)、灰野との共演でシュトックハウゼンの「Aus Den Sieben Tagen」を演奏した『Stockhausen: Aus Den Sieben Tagen』(2016)などで知られている。テニーの作品に関しては、『Old School: James Tenney』(2010)を、過去にリリースしている。今回のツァイトクラッツァーの楽器編成は、ピアノ、クラリネット、ホルン、トロンボーン、パーカッション、ヴァイオリン、第一チェロ、第二チェロ、コントラバスの総勢9名であり、ここに音響担当と照明担当が加わる。ちなみに、ピアノ奏者のラインホルト・フリードルが創設者でありグループの芸術監督を務めている。


Zeitkratzer × James Tenney(9月29日)
1:James Tenney – Having Never Written a Note for Percussion(1971)
ジェームズ・テニー『パーカッションのために一音も書いたことがなく』
パーカッションのための作品であり、パンフレットの解説によるとクレッシェンド(次第に強く)とデクレッシェンド(次第に弱く)を長く行うことが指示されている。今回は巨大な銅鑼を用いて演奏された。銅鑼の前に座ったパーカッション奏者は、スティックを細かく連打しながら力加減をコントロールすることで、静寂から轟音、そして再び静寂に至るまでを表現した。特に音量がピークに達するあたりでは、楽器の音とは思えないような銅鑼の混濁した音響が会場内を満たしていた。最前列で聴いていたこともあって、非日常的な聴覚体験を得た。この楽器選択は正解だったと思う。

2:James Tenney – Swell Piece No.3(1971)
ジェームズ・テニー『スウェル・ピース第3番』
サックス、ホルン、トロンボーン、パーカッション(打楽器の弓引き?)、ヴァイオリン、第一チェロ、第二チェロ、コントラバスによる演奏。パンフレットの解説によると、各楽器によって鳴らされる五度離れた音が、それぞれのタイミングで現れては消えてゆくという作品である。一聴すると束状のドローンに聴こえるが、微細な音響の変化が、音の内部で次々と発生している。今回演奏されたテニーの器楽曲は、引き伸ばされた音のなかに微細な変化を聴き取る作品が多く、実際に演奏を聴いてみることによって、私のなかでの作曲家の印象が大きく変わった。

3:James Tenney – Critical Band(1988/2000)
ジェームズ・テニー『臨界帯域』
サックス、ホルン、トロンボーン、ヴァイオリン、第一チェロ、第二チェロ、コントラバスによる演奏。こちらも『スウェル・ピース第3番』に似ているのだが、周波数の取り扱いは、さらに精緻なものとなっている。あまり楽理には詳しくないのだが、パンフレットの解説を要約しておこう。それによると、基準音Aに重ねて、非常に近い高さの音を、高音・低音の両方で鳴らしてゆく。最初の段階では周波数の帯域が近すぎるために、それは唸りにしか聞こえないが、徐々に音程を展開してゆくことで、アンサンブルが、唸りのない純正な和音に到達するというコンセプトらしい。演奏者は、デジタルカウンターで周波数を見ながら厳密に演奏していたようであり、確かに、引き伸ばされた音の重なりの中で、唸りが徐々に消失してゆく過程が明確に表現されていた。

4:James Tenney – Harmonium No.1(1976)
ジェームズ・テニー『ハルモニウム第1番』
ピアノ、サックス、ホルン、トロンボーン、パーカッション(シロフォン)、ヴァイオリン、第一チェロ、第二チェロ、コントラバスによる演奏。パンフレットの解説によると、純粋なハーモニーを別の周波数で不純化するサイクルを5回繰り返すものらしい。この夜演奏された『スウェル・ピース第3番』『臨界帯域』、そして本作は、いずれも全体の印象としては引き伸ばされた持続音ばかりだが、楽曲の目的は各々異なり、観客にそれぞれ違う経験を与えてくれた。周波数の変化をコンセプトにするようになると、器楽曲も電子音楽も、ほとんど違いがないのだなと実感した。

5:James Tenney – For Percussion Perhaps, Or… (night)(1971)
ジェームズ・テニー『たぶんパーカッションのための、あるいは…(夜)』
45分間にも及ぶ、演奏者の解釈に任された即興演奏で、メンバー全員が参加。パンフレットの解説によると演奏者への指示は「非常に静かに、非常に長く、ほとんど白く」というものらしい。その指示の通り、微細なブレスや楽器の摩擦音などが、静寂の中で蠢くという展開になった。先ほどまでの精緻なコンセプトに基づく楽曲に対して、このような解釈の余地の大きい楽曲を対置するのは面白い。テニーの作風の広さを感じさせるセレクトだったといえるだろう。

小杉武久「Music Expanded」@あいちトリエンナーレ2016 愛知県芸術劇場 小ホール

10月22日・23日に名古屋を久しぶりに訪れ、あいちトリエンナーレを見て回った。もちろん目当ては小杉武久の公演「Music Expanded」を観るためである。会場は愛知県芸術劇場地下の小ホールで、両日ともに観客はほとんど満員という盛況だった。また今回のトリエンナーレの展示には、小杉のサウンドインスタレーションも四点出品されていて、まるで小杉武久の回顧展のようであった。以下、その内容をレヴューしておきたい。


Music Expanded #1(10月22日)
1:Micro 1(1961)
マイクを大きな紙で包んで、紙の動く小さな音を聴取するというフルクサス的な楽曲。プログラムの始まりにふさわしい、お馴染みの作品である。2014年東京公演(「フルクサス・イン・ジャパン2014」東京都現代美術館、2014年4月13日〜20日)のレヴューでも概説しているので詳細は省くが、演奏者も2014年公演と同じく浜崎健であり、内容に大きな違いはなかった。

2: South e. v. #2(1962/2014)
「South」という英単語をそのまま発音したり、イントネーションを変えたり、発音記号ごとに細かく分節するなどして、さまざまな方法で発声する作品である。2014年東京公演と同じく『South e. v. #2』として、声をエフェクター、サンプラー、オープンリール・テープレコーダーといった電子機器によって変形する。演奏者も2014年東京公演と同じく、小杉と和泉希洋志である。ただし、今回公演では担当に若干異なる部分があり、2014年東京公演は小杉しか発声行為を行わなかったのに対して、今回は小杉・和泉の両名が発声行為を行なっていた。機材について述べておくと、小杉はBOSSの小型サンプラー(Dr.Sample)を、和泉はモジュラーシンセを用いて、それぞれ自分の声を操作していた。途中から二人によって、声を録音したオープンリールのテープを再生ヘッドに擦り付け、音を歪めるというアクションも行われた。
日常的な言葉から離れて抽象化された音響が、即物的に空間に投げ出されてゆく演奏が続くが、和泉の方がモジュラーシンセによって声を抽象的な電子音に変化させたり、テープによる変形作業を繰り返すなど、エレクトロニクスによる素材加工に集中していたのに対し、小杉の方は発声方法のバリエーションを探ることに集中していたように見える。

3:Organic Music(1962)
人間の呼吸器官を楽器として扱い、任意の時間内で任意の回数の呼吸を行うという楽曲。呼吸器官に準ずる楽器での演奏も可能である。2014年東京公演とは異なり、今回は小杉・浜崎・和泉による同時演奏であり、小杉はアコーディオン、浜崎はラムネ菓子の口笛、和泉はビーチボールを使用する。
引き伸ばされた呼吸が別の呼吸と重なりながら、時間の余白のなかに配置されてゆく。演奏者が増えることで、作品のコンセプチュアルな性格よりも、音響的な複雑さが強調されていたように思う。
以下はGettyがオフィシャルで公開している同作の演奏記録。この日の演奏とは使用楽器も何もかも違うが、参考まで。

4:Violin Improvisation
小杉による、電気ヴァイオリンの即興演奏。エフェクターも使用されたようだが、派手に原音を加工するような使い方はしない。短いアタック音によって静寂の中に音を刻んでゆくような即興演奏が、張り詰めた緊張感のなかで行われた。ここでは、自分自身の直前の演奏がエンバイラメント的なものとして聴き取られているといえるだろう。
小杉の即興演奏は、フリージャズを出自とする演奏者とのセッションを含めて幾つもレコードになっているが、どうしてもタージ・マハル旅行団のイメージが強いためか、小杉の即興演奏それ自体についての批評が充分行われてきたとは思えない。フリージャズと現代音楽の共通性を考察する言説は、もはや過去のものとなって久しいが、小杉によるチャーリー・パーカー論をはじめとするテクストなどを参照しながら、小杉の即興演奏の取り組みを再論する必要は絶対にあるだろう。

5:Op. Music(2001)
客席からは機材が確認できないので、音を生成する構造がはっきりと分からないが、解説によると光に反応する電子音の発振器と、その音信号を光(ライトの電圧ボリューム?)に変換する回路を組み合わせた、フィードバック・システムを持つ作品のようだ。2012年東京公演(「回路」東京国立近代美術館、2014年9月1日)でも小杉・和泉によって演奏されたが、今回の演奏者は和泉とGuilty Cの二人である。二人はライトを手に持ちながら、エレクトロニクスを操作する。Guilty Cことギルティ・コネクターは、ノイズミュージック界隈では昔から知られた作家であるが、2015年神戸でのデヴィッド・チュードア作品上演(「レインフォレストI コンサート」横尾忠則現代美術館、2015年5月23日)で、小杉・和泉と一緒にチュードアの『Rainforest』を演奏して以降、小杉のコンサートをサポートする関係にあるようだ。
演奏自体は勢いのあるハーシュノイズが展開されており、他の小杉作品に見られる電子音の物質性とは違った方向性が出ていた。以下はGettyがオフィシャルで公開している同作の演奏記録。参考まで。

6:Film&Film #4(1965)
16mm映写機のランプ光によって紙製のスクリーンを照らし出し、このスクリーンを鋏によって切り開いてゆくという、音楽の要素がない、拡張映画的な作品。演奏者はもちろん小杉である。2014年東京公演のレヴューでも概説しているので詳細は省くが、その時と今回で違いがあるとすれば、紙製のスクリーンが上手く切れず、途中から手でスクリーンを破っていた事だろう。おそらく作家にとっても想定外の出来事だったと思うが、ひとつのハプニングとして興味深く観た。
また今回、個人的に気がついた点としては、飯村隆彦のフィルム・パフォーマンスとの類似性がある。制作年からいって、飯村による1963年の『Screen Play』との影響関係が知りたいところである。


Music Expanded #2(10月23日)
1:Walking(1982)
束ねた竹の棒にコンタクトマイクを取り付け、これを床や壁などに接触させ、その際に発生した物音を大音量で増幅させる作品。2012年東京公演でも同シリーズの作品が、小杉・和泉と高橋悠治によって演奏された。今回は、小杉による演奏である。
小杉がステージに登場する以前の、舞台袖の段階から演奏は開始されており、ガリガリとした接触音が大音量で会場に響く。やがて会場に現れた小杉は、床を竹の棒で触れながら歩き、次に客席前方の壁にも触れて、発生する音の性質を探ってゆく。しかし途中でハプニングがあり、竹の棒からマイクが外れてしまうという出来事が起こった。しかし、小杉はその後もコンタクトマイクを引きずりながら歩き続け、時折身を回転させてコンタクトマイクを宙に浮かび上がらせたりするという、臨機応変なパフォーマンスを見せた。

2:Anima 7(1964)
日常的な動作を6分間に引き伸ばすというフルクサス的な作品で、音楽の要素は皆無。演奏者は小杉・浜崎・和泉・Guilty Cであるが、小杉はパフォーマンスを行わず、時計を手にして、1分ごとに時間をカウントするのみである。
浜崎はジャケットの襟を開き、和泉は椅子に座って冊子を読み、Guilty Cは雨具のズボンを履くという行為を、極めてゆっくりと行った。

3:Anima 2 / Chamber Music(1962)
複数の穴がある大きな布袋に演奏者が入り、その中から身体の一部分を外に出す。さらに、袋の中に楽器を持って入り、演奏を行うことも可能という作品。2012年東京公演でも高橋によって演奏されているが、今回の演奏者は小杉であった。
小杉は、コンビニのビニール袋とカップ麺のようなレトルト食品を持って袋に入っており、袋から手を出したりしながら、それを振って演奏していた。高橋の演奏と比較すると、ビニール袋の鳴る音が音楽的ですらあった。

4:Mano-Dharma, electronic(1967-)
小杉の代表作であるが、2014年東京公演の際には同じ内容の作品が「Catch Wave」として、小杉・和泉によって演奏されていたはずである。そもそも「Catch Wave」とは「Mano-Dharma」から発展した作品を指すものなので、あまりタイトルを厳密に区別する必要もないのだろう。基本的に「Mano-Dharma」を含めた「Catch Wave」シリーズのコンセプトとは、電波発振器とラジオ受信機の間で起こる周波数干渉作用の距離による変化を聴き取るものであり、今回の演奏では発振器はターンテーブルの上に置かれたり、竹竿に結んだ糸の先に付けられたり、自転車の車輪に取り付けられたりする。今回の演奏者は和泉・浜崎・Guilty Cである。
Guilty Cはターンテーブルを、和泉は主に竹竿を担当して、混沌とした電子音を発生させる。そして、しばらくすると2014年東京公演と同じく、浜崎が自転車で会場に突入してくる。彼が漕ぐ自転車の運動と結びついた偶発的な電子音は、和泉・Guilty Cの電子音に絡まりながら空間を疾走していった。

5:Music for Nearly Ninety, part A(2009)
2009年4月に初演された、マース・カニングハム舞踊団の作品「Nearly Ninety」のための作品の一部である。2012年東京公演でも、小杉によって演奏された。解説によると、7つのLEDによる明滅を光センサーで受けて、その信号を発振器に送ることで電子音を生成しているらしい。さらに、この作品でも音信号を光に変換する回路を組み合わせることで、フィードバック・システムが組まれているようだ。演奏者は2012年東京公演と同じく小杉であり、小箱の蓋に触れながら、エレクトロニクスを操作する(小箱の暗闇の中に置かれたLEDの光量を変化させているのだろう)。客席からは確認できなかったが、2012年の機材と同じだとすれば、センサー類の他に、BOSSのピッチシフター/ディレイやイコライザー等のエフェクターが用いられていたはずである。
LEDの明滅に反応した激しいパルスのダイナミックな変化の連続は、チュードアの『Rainforest』と同じく、プリミティヴな電子音の物質性を感じさせる。個人的に、今回のプログラムで最も感銘を受けたのがこの演奏であった。

6:Catch-Wave(1967-)
「Mano-Dharma」および「Catch Wave」シリーズについては、『Catch Wave』(CBS/Sony、1975)のジャケット裏面の解説、『Catch Wave’97』(Super Fuji Discs、2007)の川崎弘二によるライナーノート、ジャズ批評17号に掲載された小杉本人のテクストが参考になる。特にジャズ批評17号では、今回の「Mano-Dharma」の演奏で用いられていた干渉作用を利用する手法に加えて、任意の楽器演奏(およびそこに付与されるエコー)の音信号に低周波の電圧をかけて、倍音をコントロールして音色を変化させる手法(すなわちVCF)についても細かに説明されている。今回の演奏の基本的な手順もこれに沿っているようで、電気ヴァイオリンや声の音信号に低周波をかけて、音色にゆっくりとした上昇と下降を生み出していたようだ。もちろん今回の演奏者は小杉である。
小杉は、波の映像を背後のスクリーンにプロジェクションしながら、電気ヴァイオリンを弾き、声を発する。それらの音はエコーで引き伸ばされ、上昇と下降を繰り返すなかで、ひとつの波となり空間を満たしていた。演奏の印象としては比較的アンビエントだったので、『Catch Wave’97』に収録された演奏(水戸芸術館現代美術センター、1997年9月20日)に近かったように思う。複数の波が影響し合うことで生成された音の奔流に、演奏者が即興的に反応してゆく過程は、まさに小杉の音楽の真髄であるといえるだろう。


加えて、名古屋市美術館に展示されていた、四点のサウンドインスタレーションについても、簡単にレヴューしておきたい。インスタレーションでは、光と音を同じ波とみなして、ささやかなエレクトロニクスでこれを交換するという小杉の音楽的なコンセプトが、演奏者の存在を欠いた状態で実現されることになる(「イルミネイティッド・サマー」「ライト・ミュージックII」)。これは、人間によって演奏される楽曲と比較して、インスタレーション作品が、欠如を抱えた不完全で余技的なものであることを意味しない。むしろ、小杉の音楽においては、演奏者も、環境化されたフィードバック・システムの一要素にすぎないのである。小杉のインスタレーション作品に注目することによって、私たちは小杉の音楽における演奏家の存在理由を確認することができるのだ。

イルミネイティッド・サマー(1996/2016)
音光変換器、ハンドメイド発振器、アンプ、スピーカー、CDSセンサー、電球、他
・階段の踊り場の上部に、ひっそりと設置されたインスタレーション。赤と青の電球が明滅しており、その光を4つのセンサーで受けて、発振器から明滅に応じたチープな電子音を鳴らす。

点在(1980/2016)
ハンドメイドクリック音発振器、ピエゾ発音体、9V乾電池
・白い空間の壁に、5つのユニットに分かれた計26個の発音体・基板・電池が貼られている。発振による断続的な信号は、羽虫のように壁に点在する発音体から、虫の鳴き声のようなクリック音を間欠的に鳴らす。

75文字と即興(1987/2016)
スピーカー、アンプ、CDプレーヤー
・「点在」の設置された部屋の中央に、天井から小さなむき出しのスピーカーが吊るされている。そこから微小な音量で、音声詩のような、電子変調された声が鳴らされる。無音の時間が多く、注意しないと音に気がつきにくい。

ライト・ミュージックII(2015)
ハンドメイドサウンド発振器、ピエゾ発音体、スピーカー、太陽電池、9V乾電池、他
・天窓から陽光が差し込む空間。机の上に20個程度のユニットが、コップや缶とともに置かれている。その上からは半透明のビニールが掛けられている。ユニットのうち、小型スピーカーに繋がっているのは2〜3個程度で、その他はピエゾ発音体に繋がっている。スピーカーおよび幾つかのピエゾ発音体からは太陽光をセンサーで拾うことで発振した持続する電子音が、残りのピエゾ発音体からは「点在」と同じクリック音が鳴らされる。この2種類の音が、コップや缶といった構造体の影響を受けながら、ひとつの音楽を生成する。

書評

『松本俊夫著作集成』の書評と、表象文化論学会ニューズレターに自分で書いた『松本俊夫著作集成』『記録映画(復刻版)』の紹介文のまとめです。

・学習院大学教授・中条省平が読む『松本俊夫著作集成I 一九五三-一九六五』(産経新聞 2016年6月19日)
http://www.sankei.com/life/news/160619/lif1606190027-n1.html

・松本俊夫著作集成刊行に寄せて 越後谷卓司(朝日新聞地方版 2016年6月22日)
http://www.asahi.com/area/aichi/articles/MTW20160622241310002.html

・『松本俊夫著作集成』(全四巻)刊行開始に寄せて 西村智弘(週刊読書人 2016年9月9日)

・『「記録映画」復刻版』不二出版(表象文化論学会ニューズレター REPRE27)
http://repre.org/repre/vol27/books/02/05.php

・『松本俊夫著作集成I 一九五三─一九六五』森話社(表象文化論学会ニューズレター REPRE28)
http://repre.org/repre/vol28/books/02/05.php

10+1 web site 「均質化される視線」

10+1 web siteに、「均質化される視線」と題した文章を書きました。吉見俊哉氏の『視覚都市の地政学―まなざしとしての近代』の刊行に合わせた、「都市・映像・まなざしの地政学」という特集の一部となります。よろしくお願いします。

「均質化される視線」
http://10plus1.jp/monthly/2016/09/issue-03.php

図書新聞「鼎談 阪本裕文×江口浩×佐藤洋『松本俊夫著作集成』をめぐって」

tosyoshinbun

『図書新聞』8月13日号と8月27日号に、前後編に分けて「鼎談 阪本裕文×江口浩×佐藤洋『松本俊夫著作集成』をめぐって」と題された、江口さん・佐藤さんと私の鼎談が掲載されました。5月28日から6月3日にかけて渋谷アップリンクで開催された「混沌が意味するもの 松本俊夫アヴァンギャルド映像特集上映」のなかで組まれたトークイベントのひとつ、「松本俊夫と前衛記録映画」(5月28日)を抜粋して採録したものです。松本俊夫の記録映画や実験映画を読み解くキーワードとして、松本が子どもの頃に親しんだ「忍術映画」や「切手収集」を取り上げた前編、そして50年代の「政治的な正しさ」に60年代の「個人的な楽しさ」を対置させ、実験映画(すなわち、自分のための映画)に向かった松本の意識の変化を論じる後編という、ちょっと今までにない内容の鼎談になっています。結構面白いと思いますので、よろしくお願いします。